曽我逸郎

…現時点の私の仏教理解の総括…

2005年10月8日(第3回総括)


【 始めに 】
 発言したことには責任を持つべきだと思い、これまでは一旦掲出したものは消さずに、考えが変わった時は、新しい考えを書き加えるようにしてきました。
 その結果、新旧矛盾する考えが混ざり、また、その時々ばらばらに個別のテーマを扱っているために、全体的に把握していただくことが大変難しくなっています。
 そこで、現時点の私の考えを総括的に要約するページをつくりました。ここでは、考えが変わったら、書き加えるのではなく、書き改めることにします。HP全体の入口・案内所とお考え下さい。
 テーマを個別に扱ったページへのリンクを張っておきますので、ご意見や疑問を持たれた方は、そちらも見ていただけると助かります。
2004年11月17日

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◆1、涅槃

 釈尊は、涅槃というあり方で生きる方法を教えて下さった。涅槃とは、落ち着いており、安らかで、満足し、リラックスして、軽安なあり方である。

◆2、苦=涅槃でない状態

 一時的ではない涅槃は、釈尊の教えに沿って正しく努力を重ねなければ実現できない。自然なありのままの状態では、我々は執着のままに反応を繰り返し、競い合い駆けずり回り、涅槃のあり方にはない。それが、苦(dukkha)である。
 我々(凡夫)は、いつも満足せず、何か不満を持ち、これが必要だ、あれが欲しい、と騒ぎまわる。思いのままじゃない、気持ちに適わない、と言いつのる。時として欲望を達成してはしゃぐことがあっても、すぐに「もっと」と要求し、あるいは退屈し始める。一時の興奮をまじえながらも、総体として、一貫して不満をもち、怒り、苛立ち、妬み、悲しみ、絶望し、激しく揺れ動いているあり方、それが苦である。

 私自身を例に挙げよう。学生の頃、私は、豊かではなかったが、生きるために格別の不足はない状態だった。また、人に何かを強制されることもなく自由に使える時間がたくさんあった。しかし、その時間をどう使うべきか分からなかった。ただ生きていることに満足できず、なにか価値あることを成し遂げて、自分に価値を与えたかった。しかし、それができない。そのような価値を見つけ出せないこと、そのような価値のないことに苛立ち、周囲の人々が価値もなくただあくせく生きているだけであることを蔑み、自分もまたそうであることに腹を立てていた。
 凡夫は、物理的・経済的・時間的に不満のない状況においてさえ、安らぐことは出来ず、苦にもだえるのである。

 苦は、いつも自覚されるとは限らない。人は、かえって苦を喜び、苦に執着する場合さえ多い。しばしば人は、何かに執着し、欲求不満を募らせ、稀にそれを解消して快哉を叫び、それによってその執着をさらに深める。この反応は、ネジのように、巡りながらどんどん深まっていく。抜け出すのは容易ではない。こうなると、周囲から見ればその苦は明白であるのに、本人はそれを自覚できない。薬物やギャンブルへの依存症が極端な例だ。世界各地で終わらない報復合戦の連鎖も、同じメカニズムの「報復依存症」だと思う。我々も、日常生活において同様な「執着への依存症」に陥っており、そのことに気付いていないケースがとても多いのではないだろうか。

 成道直後の釈尊が、「私が見出したこの道理は、凡夫には理解できない」と思い、説法を諦めかけられた時、このように考えておられた。
 「この人人は執着によって楽しみ、執着において楽しみ、執着においてよく喜んでいる。」パーリ中部26 聖求経 (片山一良訳 大蔵出版より)
◆3、苦の原因-A、執着

 苦の原因は、執着である。
 執着とはどういうことか? なにかを一貫して価値をもって存在し続けるべきものとして捉え、自分のものにしておこうとすることである。
 最大の執着の対象は何か? 自分自身である。自分自身を対象として捉え、永遠にゆるぎなく存在し続けるべきものと考え、それを守り、育て、拡大しようとする。それが我執だ。
 我執された「我」を守り育て拡大することに役立つと考えられたものが、執着される。例えば、富、権力、地位、名声、などなど。逆に「我」を損なうと考えられるものには、マイナスの執着が働く。その時の反応は、嫌悪、敵視、憎悪、軽蔑、恐怖、などである。

 自分が永遠の存在でないことは、誰しも頭では理解している。しかし、執着は、生物であることそのものに根ざす自動的反応であり、合理的判断よりもはるかに根深い。「人は皆死ぬ」と理解していても、自分の死は想像できない。年老いてなお、人は権力や富にしがみつき、永遠の自己拡大を目指す。

 「我」の利害に関わる縁に出会った時、執着は、自動的に発動し、合理的判断なしに自動的反応を引き起こす。「我」に有利だと判別されれば、自分の管理下に置こうとし、不利なものなら、排除しようとする。怒り、苛立ち、不満、妬み、へつらい、悲しみ、絶望、一瞬の濁った快哉など、様々な反応を引き起こす。繰り返された反応は、ますます簡単に起動するようになる。こうして執着は成長し、苦の生産を拡大する。

◆4、苦の原因-B、無明

 苦の原因を、別の角度から見ることも出来る。無明である。無明とは、自分自身のあり方を正しく理解していない事だ。ひとつには、上に述べた、「苦しんでいながら苦を自覚できていない事」が無明だ。また、「我」を筆頭とする執着の対象が、無常にして無我なる縁起の現象であって、執着する事自体が馬鹿げていること(後述)を理解できていないことも無明だと言える。

 さらに突き詰めて考えると、生命であることそれ自体が自分という反応を維持し拡大しようとする反応であり、我々の苦、執着、無明は元々そこに由来している。であるなら、生命であることそれ自体が、根本無明であり、原我執であるということもできる。
 つまり、先鋭化して言うなら、釈尊の教えは、生命であること自体を革新し、新しい生命のあり方を提案するものではないかとさえ思う。
◆5、苦の滅

 自分のあり方を正しく理解すれば、無明は消失し、執着の反応は停止し、苦の生産は止まる。
 すなわち、釈尊の教えは、すぐれて理性的なものだと思う。“不合理なれど信ずる”とか、“不合理故に信ずる”というようなものでは、けしてない。
 しかし、勿論、ただ合理的理性を突き詰めるだけで理解できるものでもない。それはちょうど、万人の死が一般的事実としていかに明白でも、今自分が現に死につつあること(*注)をくっきりと実感することが難しいのと同じである。合理的理解に加えて、無常=無我=縁起を自分の事として腹に落ちて納得する。そこまでの深みのある理解によってはじめて、無明は破られ、執着の反応は停止し、苦の生産は止まり、涅槃に生きることが可能になる。
 *注:生物は受精の瞬間に死に始める。死の完成に向けて、刻々と時は刻まれている。

◆6、苦の大半は人が作っている。

 釈尊の教えは、どこかから降りかかってくる苦を避ける方法を説く現世利益の教えではない。苦の生産を停止するための教えである。
 苦には、二種類がある。経典では「第一の矢・第二の矢」という比喩で説明している。誰であれ(釈尊でさえ)、第一の矢は受ける。それは、我々が縁による現象である以上避けられない苦だ。しかし、凡夫は、その苦を縁にして、さらに怒りや恨みなど、執着に基づくさまざまな反応を起こし、無用の新たな苦(第二の矢)を作って、みずからそれを受ける。
 卑近な例をあげよう。虫歯が疼いて集中できない時でも、なにかとてもおもしろいことに出くわせば、気にならなくなる。虫歯そのものの痛み(第一の矢)はそれほどのものではなく、それに対する苛立ち(第二の矢)が、集中を妨げていたのだ。座禅をしていてたまらなく足が痛くなっても、何かのきっかけで定が深まるか、妄想が別のところへ走り出すと、忘れてしまう。第一の矢自体は、さほどのものではないことが多い。

 あるいは、第一の矢がなくても、第二の矢を作ることがある。例えば、誰かの話し方に敬語の度合いが低いと感じると、尊重されるべき「我」が侵害されたという執着の反応がたちまち発動し、むっとして腹を立てる。それが態度に現れ、相手にも同様の反応を引き起こし、関係がぎすぎすして、お互いにいつまでも根に持ち続ける。

 また、第二の矢が第一の矢を人に撃つこともある。怒りや憎しみによる暴力。執着する何か(富、名声、権力、、、)を手に入れるため、誰かを犠牲にすることを厭わない。「我々の利権を守るためには、異国の見ず知らずの子供たちが多少犠牲になっても、やむを得ない。」「なにがどうであれ、“自由と民主主義”を普及する我々は、感謝され、尊敬されるべきだ。」「国益のためには、他国民に爆弾を落とすことも躊躇しない。他国民が餓えようが、たいしたことではない。」
 (国益とは、言いかえれば国家単位の集団的我執である。しかし、本当にそれが国民全体の利益を意図しているのか、あるいは、表向きの隠れ蓑に過ぎず実は一部の人間だけの執着を体現しているのか、注意深く検証する必要がある。)

 見まわしてみれば明らかだ。現に今、人々を苦しめている苦のほとんどすべては、人が生み出した苦(第二の矢)である。

 自分の中の執着の仕組みが人と自分に苦を作り与えている。そのことを、見つめ分析し見極め、人と自分に苦を与えることを停止することが、釈尊の教えだと思う。

◆7、苦を滅する道:無常=無我=縁起を納得する。

 どうすれば、自分と人に苦を与えることを止められるのか・・? 執着をなくすことである。
 どうすれば、執着をなくせるのか・・? 執着の対象、中でも第一に自分自身が、無常にして無我なる縁起の現象であることを見極めて、執着不能であることを腹に落ちて納得することである。
 「俺は、執着しても仕方のないものに執着して苦しんでいた、なんと愚かであったことか。」―このように真底から気付くことが、苦の生産を停止し、涅槃を実現する。

◆8、無常=無我=縁起

 我々凡夫は、「我」をはじめとする執着の対象が、自体として変わらぬ価値を持ち、一貫して存在すると思っている。
 しかし、「モノ」は変わらぬ価値を持って存在している訳ではなく、様々な縁が集まって、今そのような姿で現象しており、他との関わりにおいて、一定の価値があると想定されているにすぎない。縁が変われば、現象は変化し、終わる。それ自体として自立的に存在しているわけでもなく、変わらぬ自性があるわけでもない。
 我々もまたしかり。様々なモノの縁があり、また経験してきたことも縁となって、我々は、今このように現象している。「わたし」は、実体なく常なく時々の縁によってそのつど起こる時間の中の脈絡のない現象である。

 食べたもの、飲んだものが、血になり、肉になり、骨になり、様々な汁になり、皮膚になった部分がそれらを包んでいる。日々新しい材料と燃料を口に入れ、使い終えたものは次々と外に廃棄されており、その流れは、徐々に滞って、よどみ、やがて止まる。これが色身だ。
 その色身という場において、そのつど出会う縁に対して起こる、自分を維持し安定させ拡大しようとするそのつどの執着の反応、それが我々凡夫である。執着の反応が、執着することを持続し拡大しようと執着しているのである。

 執着の反応は、同じカテゴリーの縁に出会うと同じ反応を繰り返す。それこそが執着である。しばしば繰り返される反応のひとつが、自分を対象化して捉え、実体視し、「我」を妄想する反応だ。我々は、そのつどの反応であるのに、自分を対象化する時、そのつどそこに「我」を立てる。その結果、一貫性がある永続的「我」が存在しているかのように思い込む。
 この「我」は、シンボルとして作用し、守り育てるべき対象として、執着の反応を収斂させ、効率化し、強力にする。実体のない国家が、国旗などのシンボル操作によって実体視され、法律等の制度や「非国民」などの言葉で実効的影響力を発揮するのと同様の仕組みである。独立自存の主宰者たる「我」は、時々の執着の反応によってそのつど繰り返し仮想されるシンボルであって、妄想にすぎず、実体ではない。

◆9 無常=無我=縁起を納得する方法

 「我」(独立自存の永続的主宰者、アートマン)を妄想することは、生命であること自体に根ざし、40憶年積み重ねた進化の末に編み出された反応である。簡単に抜き去ることはできない。そのためには、あらゆる努力を総動員せねばならない。
 仏教の伝統では、八正道や三学(戒・定・慧)などの形でまとめられてきた。しかし、ここでは、伝統に添うのではなく、これまでホームページでご意見を下さった方々とのやりとりで感じた、現代の日本で釈尊に学ぼうとする我々が特に意識すべきだと思うことを、まとめておきたい。

◎1、学習・思考
 八正道の筆頭は、正見である。正見の「見」は、「見ること」ではない。邪見、常見、断見などと同様、パーリ語"diTThi"の訳であり、その意味は「見解」である。すなわち、八正道は、「第一にまず正しい見解を持て」と教えているのである。

 パーリ中部 第43大有明経にこうある。

友よ、正見が起こるためには二の縁があります。すなわち、他からの声、および正しい思惟です。(片山一良訳『パーリ仏典中部』大蔵出版)
 正しい見解を持つための条件を、ふたつ挙げている。ひとつは、縁を受けて人から釈尊の教えを聞くこと。これは、当然だ。仏教のブの字にも触れられなかった人は、釈尊の極めてユニークな発見を知ることはない。(仏教に縁を得られたことは、なんと幸運なことか!)もうひとつは、聞いた教えを自分で考えることである。
 重要な点は、両方とも言葉によるという点である。言葉で学んで、言葉で考える。言いたいことをはっきりさせるために敢えて挑発的な表現をするなら、戯論のレベルで釈尊の教えを正しく理解しておくことがまず必要なのだ。
 正見を教えずに、「何も考えるな、ただ無念無想で、思考(はからい)を停止せよ」というような指導は、正しい仏教ではない。こういった考えの背後には、梵我一如型の思想が潜んでいると思う。(後述)

 では、正しい見解とは何か? 上記の◆1から8がそれであると、私は考えている。

 このホームページ全体の意図も、正見の追及である。「月を差す指はどれか?」というホームページタイトルは、この意味である。インターネットという媒体において、正見の先に横たわる「より高度な」テーマ、仏教の実践的な面は、どうすれば扱えるのか、まだ方法が見つからない。

◎2、苦の自覚
 この「苦の自覚」は、上の「正見を持つこと」とどちらが先なのだろうか。こちらが先の場合もあるし、逆の場合もあるだろう。
 ともあれ、自分の生になんの苦も感じていなければ、釈尊の教えは他人事であり、無常=無我=縁起を「自分の事として」腹に落ちて納得することはできない。正見があっても、戯論のレベルに留まる。

 しかし、釈尊が「一切皆苦」とおっしゃったように、人間は根本的矛盾に投げ込まれている。時間の中の無常にして無我なる縁起の現象であるのに、執着して永遠を欲しているのだ。まったく苦を感じずに生きるという事はあり得ない。生を楽しんでいると言う人にも実は苦はあり、ただそれをごまかしているのだと思う。執着によって執着による苦をごまかしている。苦に気づかないのは執着依存症の症状だ。しかし、いつかごまかしは破綻し、苦に直面せざるを得なくなる。苦に直面せざるを得ない状況に追い込まれるか、あるいは自分で苦に向き合おうとするのか、いずれにせよ、自分の苦をごまかさずにはっきりと自覚することがなければ、釈尊の教えを自分の事として納得し、苦を滅することはできない。

◎3、慈悲
 慈悲は、仏教において特別に重要な教えだ。にもかかわらず、私は、慈悲は、仏教によって生み出される反応ではないのではないかと思っている。執着と同様に、人に元々備わっている反応ではないだろうか。慈悲は、執着と対抗する反応である。しかし、執着のほうが圧倒的に強力だ。ありのままでは、執着心に抵触しない範囲でしか、慈悲は働かない。
 執着を弱めるために、修行者には、慈悲を意識的に強化し、育てることが必要だ。

 今私の述べたことは、慈悲を手段として考えている。目的としてではなく、手段として慈悲を考えることは、修行実践の上では、手段としての慈悲の効果さえ台無しにしてしまうのかもしれない。
 しかし、パーリ経典を少し読んだかぎりでは、修行者に対しては、慈悲は、執着を弱めるための手段として説かれているように感じる。一方修行完成者においては、慈悲は唯一の行動指針として働く。しかし、それも目的として掲げられているのではなく、執着が滅した結果生じる自動的な反応だと思う。(後述。私は、仏教には一切、価値・目的はないと思っている。)

 いや、やはり、方便としては、慈悲は目的として説かれるべきか? 目的として説きながら、慈悲が執着に取り込まれて「攻撃的善意」に変質しないように、「捨」を合わせて説くべきか? 釈尊がそうなされたように。いろいろと考えると、釈尊の説法は実によく考え抜かれていると、改めて感じる。

 ともあれ、仏弟子は、慈悲心を育み、執着を少しでも弱めるように務めるべきである。

◎4、戒 自分という反応を整えること
 自然のまま、ありのままでは、執着に振りまわされ、欲望や怒りや絶望に激しく揺さぶられる。修行どころではない。強風の中の劫火のようなものだ。風のないところで静かに燃えるろうそくの炎のように、まず自分という反応をコントロールして整え、落ち着かせることが必要だ。自分という反応によい癖をつけて整えていく。それが戒だと思う。

 また、戒を守ることで、対症療法的であれ、苦の生産を止められる。まだ抜本的解決ではない。しかし、苦を作る行いが完成される直前に、そのつどその行いを中止できれば、自分と人に苦を与えることはない。

 さらに、戒を守るためには、常に自分に気をつけていなければならない。これは、次の段階の自己観察の訓練、自分が無常にして無我なる縁起の現象であり、常にそのつど執着の反応を繰り返していることを見つめるための準備練習になる。

◎5、定における自己観察
 釈尊の教えを戯論としては学ぶことができた。この苦の状態をなんとかしたいという切実な思いもある。慈悲を育て、戒を守ることによって、執着を一定の範囲内にコントロールすることも学んだ。
 では、その次は、無常=無我=縁起を(戯論としてではなく)自分の事として腹に落ちて納得することだ。それが実現できれば、無明は破られ、執着とはなんと馬鹿げた反応であったかと目を覚ますことができる。

 自分の事として知る方法が、定における自己観察だと思う。普段はあちらへこちらへとめまぐるしく飛び跳ねている意識の指向性を、散乱させないようにして静謐な状態に保つ(止・サマタ)。
 集中の度を高めて自分という反応の反応する様をリアルタイムで凝視する(観・ヴィパッサナ)。日常のものの見方が知らぬ間に対象にかぶせている、決まった価値判断が染み着いたカテゴリー化のヴェールを、突き破り剥ぎ取って、自分という現象の変化する様をそのまま仔細に見つめ、観察する。この練習を繰り返すことが、戯論として学んだ無常=無我=縁起を自分の事として納得するための方法である。

◎6、慧
 定における自己観察の訓練を重ねることによって、ある時、自分が無我であり縁に応じてそのつど反応している現象であることが、決定的な気付きとして了解される。これが「慧」だと思う。「あぁ、私は、なんと愚かであったことか! 執着し得ないものに執着していた!」無明は破られ、執着の反応は根こそぎに絶やされる。もはや苦を作ることはない。涅槃において、安らぎ、現象として軽安に生きることが可能になる。

 厳密な意味での慧は、上記のような一種の宗教的体験(但し、高揚感とは正反対の)において体得されると思う。しかし、釈尊の教えの戯論レベルの理解も、準備的とはいえ、広義には慧とよんでいいと思う。学習と思考による戯論としての理解、慈悲・戒による執着の弱体化、定における自己観察。これらを繰り返すことで、戯論レベルの理解(広義の慧)も深まって行く。そして、その先に、真の慧の実現、執着の抜本的な滅、苦の生産停止、涅槃があると考える。

◆10 慈悲:如来において

 無常=無我=縁起の根底的理解に到達すれば、あらゆる目的・価値は意味を失うだろう。目的や価値の呪縛を説かれて、くつろぎ、満足し、軽安に、、、では何をするのか?
 そこで、消去法によって唯一最後に残っているのは、慈悲ではないだろうか。執着が消え、その制約から解き放たれた慈悲は、目的とか価値としてではなく、自然な反応として、働き出す。巧まずして捨を伴った慈悲だ。如来は、涅槃において、くつろぎ、満足し、軽安に、慈悲に生きる。
 縁に応じて自動的に起こる反応を、執着によるものから、慈悲によるものに変えるのが、仏教だと思う。


◆11 釈尊の教えではない「仏教」

◎ 梵我一如化した「仏教」

 梵我一如は、インドの伝統的な思想であり、残念ながら仏教よりも広く根深く繁茂している。そればかりか、仏教を侵食し、仏教を変質させてきた。現代の「仏教」は、多かれ少なかれ梵我一如型思想の影響を受け、釈尊の教えとは異質なものになっている。

 梵我一如型の思想とはいかなるものか。

 『すべての現象を超越して、絶対的で単一の「なにか」(梵)が存在する。それは、絶対的に肯定されねばならない。また、そこからすべてが生み出される始源でもある。したがって、それは、すべてを超越すると同時に、遍在し、すべてに内在している。それ故にまた、差異の体系である言葉によっては表すことはできない(離言)。
 我々は、皆すべて、梵から生まれた。我々はそれぞれに、梵を分有している。自分が本来梵とひとつであることを体得することで、我々は、自己の有限性・不完全性を超越することができる。』
 視野を広げれば、これは、インドだけの特異な思想ではない。世界宗教と呼ばれるものにもしばしば見られる。神秘主義がそうだろう。そこでは「梵」のかわりにそれぞれの神の名が使われるだけで、基本的に皆同じ構造である。老荘の「道」もしかり。あるいは、「梵」を「宇宙的生命」とか「大自然の命」と呼び変えれば、アニミズムにもなる。梵のキャラクターの違い(人格神か、そうでないか、父性的か、母性的か、等々)によって、各宗教の違い・個性が生じるが、梵我一如型の考えそのものは、よくあるパターンであり、人類共通の自然な(つまり自動的に陥りやすい)発想である。
 それに対して、釈尊は、梵を立てない。現象が現象によって縁起するだけだと説く。釈尊の縁起は、いわば<水平方向の縁起>だ。それに対して、梵我一如化した「仏教」は、縁起を口にしても、それは梵から個物への垂直方向の「縁起」にすぎない。

 梵我一如化した「仏教」には、いくつかのパターンがある。

※1、空や真如を対象化し実体視して、梵のかわりにすること。
 空(シューンヤ)は名詞ではなく形容詞であり、そもそもの意味は empty とか void である。仏教的には、「自立的持続的自性に欠ける」を意味する。真如(タタター)は、「そのようであること」であり、「無常であり無我であり縁によって現象していること」を意味した筈だ。であるのに、いつのまにか、空も真如も、名詞として対象化してとらえられ、実体視されるようになり、内実は「梵」と等しいものに変質してしまった。こうして、梵我一如は、仏教のふりをして本来の釈尊の教えを追いやり、「仏教」を名乗るようになった。

※2、アニミズム型の梵我一如を「仏教」とすること。
 特に、中国において老荘の影響を受けた「仏教」に顕著に見られる傾向だ。例えば、無情説法、自然法爾、山川草木悉有仏性、あるいは「柳は緑、花は紅」といった言葉にそれは現れている。
 自然を畏敬すること自体は悪いことだとは思わない。しかし、それを仏教だということは、正しい釈尊の教えを覆い隠すことになる。初期経典には、自然の賛美はほとんど見られない。

※3、他力思想における梵我一如化タイプ
 本来の他力思想は、梵我一如型ではなく、また釈尊の教えでもないと思う。(この件はまだあまり踏み込んで考えていないので、機会を改めていずれ取り上げたい。)
 ただ、他力思想の中には、アニミズムと結びついて梵我一如型化したものがあり、現代ではこちらのほうが本来の他力思想より巾を利かせているような気がする。

※4、思考、はからいの禁止。無念無想
 「あらゆる思考、努力、はからいは、執着であるから、すべて捨て去れ。」という主張にしばしば出会う。このような考えは、執着を「客塵」(よそから来た汚れ)と考え、それとは別に「本来の自己」があって、それは「明鏡」のごとく、汚れのない透き通った純なるものだと考えている。つまり、(梵に由来する)純にして善なる「本来の自己」があると想定している。如来蔵とか仏性とか自性清浄心などと呼ばれるのがそれであり、梵我一如の「我」、すなわちアートマンである。これは釈尊の無我の教えに反する。また、正しい努力を、「さかしらなはからい」だと否定する点で、害が大きい。

 梵我一如型の思想の危険な点は、「梵」が絶対的・超越的であり言葉が届かぬものとされる点だ。言葉ではなく、なんらかの体験によって体得すべきものとされる。それに出合うことを目指して日常的でない修行を行えば、大抵の人はそれに「出会う」ことができる。人は、見たいものを見るのだから。一旦「出会え」ば、それは絶対の超越として掲げられ、けして合理的に検討されることはない。なぜなら、最初から絶対的・超越的で離言(言葉の届かぬ)存在を妄想し、憧れ、遂にそれを「如実に」実体視することに成功したのだから。
 梵我一如は、嵌まりやすく、抜け出しにくい思想だ。しかも、梵我一如は、自分、「我」を肯定してくれる。執着におもねる甘い罠である。

◎ 輪廻転生あるいは死後生

 輪廻転生・死後生と無常=無我=縁起とは、両立不能だと思う。どちらか一方を取れば、他方を否定せざるを得ない。古来、両者の辻褄を会わせようとする試みが続けられてきたが、納得のできる説明にはまだ出会ったことがない。
 輪廻転生は、インドに広く見られる考えだ。一方、無常=無我=縁起は、釈尊の教え独特のものだと思う。それ故、私は無常=無我=縁起をとる。輪廻転生は、仏教外から「仏教」に忍び込んだ非仏教思想だと思う。
 勿論、経典に輪廻転生が説かれていることは知っている。(例えば、パーリ中部4恐怖経(怖駭経)) しかし、初期経典とて、釈尊の教えそのままではない。上の理由で、輪廻転生は、釈尊の教えではないと思う。

 死後生を考える時、問題になるのは「無記」だ。釈尊は、死後についての問いに答えられなかった。それ故、現代の我々も、死後に関しては、判断を保留するのが正しい態度である、そう考える人は多い。
 しかし、釈尊の時代は、人々が輪廻転生を信じていた。無常=無我=縁起を納得する前に「死後生はない」と聞けば、人々はかえって間違った判断をして苦を増やす。釈尊はそこまで考えて、無記とされたと思う。
 無記は、判断保留ではなく、相手にさえしないこと、通常の否定以上の否定だと思う。

 現代日本では、死後生は常識ではない。その中で、ことさらに輪廻転生・死後生を説く「仏教」には、執着心につけ込もうとするものも少なくない。さらに、輪廻転生と整合させようとすれば、無常=無我=縁起の切っ先の鋭さは、丸め込まれてしまう。悪しき「仏教」を撲滅し、無常=無我=縁起を正しく保つため、輪廻転生とか死後生などはないと明言したい。


◆12 方便としての科学

 無常=無我=縁起を自分のこととして納得するのが釈尊の教えだと思う。であるなら、現代の我々には、釈尊の時代にはなかった方便がある。科学だ。

 科学は、(勿論戯論のレベルであるが、)無常=無我=縁起を説明する方便になると思う。
 相対論や量子論は、法無我を説明する方便になる。
 進化論は、我々の系統発生における縁起を説明し、「我」という現象がいつどのように発生し、どのような効果を生命にもたらしたのか、考えるヒントになる。
 脳科学は、そのつどの反応が縁によってどのように生成してくるのか、少しずつ明らかにしつつある。
 釈尊は、自分の無常=無我=縁起を見つめることを説かれ、それ以外の事についてはほとんど語っておられない。従って、このような拡張には批判もあるだろう。しかし、私としては、現代の人びとに釈尊の教えをより広く、より上手に伝える方法があるなら、なんでも利用したいと思っている。

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 ご意見・御質問・ご批判お聞かせ頂ければ、幸甚です。

2005年10月8日 曽我逸郎

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