妹尾義郎さん 輪廻を「信じる」者は仏教徒ではない 2003,12,20,

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 高橋哲夫氏との討議を拝読。

 私は「輪廻を信じている人は、無常=無我=縁起(すなわち仏教)を本当には体得していない」という曽我さんの見解に何ら過失はないと思います。
 しかも輪廻説と無我説とは両立するものではないと捉え、前者を斥けようとする論理的立場からだけではなく、歴史的に形成された「輪廻を前提とする」旧来の立場からみても正当といえます。
 例えば、大乗仏教の中観派の伝統的な考え方は「分別(言語的分節=観念=信憑)によって、すべての善悪の区別が生じる」というもの。ナーガールジュナに帰されている(この著者推定は文献学的には、やや怪しいのですが)『大智度論』には「善悪を分別するがゆえに、六道あり」という文言がみえます。また『中論』にも「業と煩悩とが滅尽するから解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる」(第十八章五偈)とある。
 こうした見解をパラフレーズすれば、「信じさえしなければ、輪廻はない」のです。分別、すなわち言語の分節化作用によって善悪を立てるから輪廻があると思い込む。輪廻があると思い込むから輪廻があってしまう。輪廻という妄念を心から完全に追い出してしまえれば(「無常=無我=縁起を本当に体得すれば」)、輪廻はない(ゲダツできる)というわけです。
 同様のことは道元も述べていますし、ダライラマの講演にすらみえます。曽我さんのご懸念に反し、歴史的に形成された大乗仏教の釈義においても「輪廻を信じている人は、無常=無我=縁起(すなわち仏教)を本当には体得していない」で一向に構わないのです。
 仏教は、とりわけ大乗仏教の中観派は、言語的認識の限界の超越を目指す実践哲理なので、世俗的善悪もそれが言葉によって分別されたものである以上、あくまで仮設に過ぎません。ニ真理論を採っても、輪廻は世俗的真理に留まります。そして勝義的真理(無常=無我=縁起という根本義。分節を本質とする言語的認識を超えた実相)と世俗的真理(言語的認識の世界)とは同格ではあり得ないのです。
 以上の考察から、歴史的大乗仏教の教理においても、輪廻や善悪業報といった観念を「信じる」者、そうした虚妄にしがみつき、執着する人は仏教徒たり得ないといえます。


妹尾義郎さんへの返事 2003,12,23, 

拝啓

 強力な援護を頂いたと、心強く感じました。ありがとうございます。

◎ 輪廻について

 妹尾さんの御意見と同じように、「輪廻は世俗の真実」、「輪廻は、真実であると把握する知(真実把握・真実執着)にとって真実として有ると把握されているのに過ぎないものであって、真実としては無いものであり、単に言説として有るに過ぎないもの、分別によって想定されたに過ぎないもの」という御意見は、実はかなり前に頂いたことがあります。

 但し、その主張は妹尾さんとはまったく正反対でした。

 『とはいえ「全く無いもの」ではありません』
 『「輪廻」とは「真実としては無いもの(空であるもの)」ですが、「単に有るもの」としては有りますので、「真実である」と思い込む思い込みの部分のみが否定されているのであって、「輪廻は有る」ということや「輪廻は世俗として有る」ということは全く否定されないものです。』
 『「輪廻は無い」と考えることは修行をする意味が無くなってしまうことになり、全くダメな考えだとされます。』
 『今日でも偉いゲルク派のお坊さんは何度も輪廻を繰り返していつか仏陀になれればいいと願っていますので、「輪廻が無い」と考える人は誰もいないでしょう。』
 という内容でした。(「あたりまえ、、般若経」本文、注7、Shojiro NOMURAさんからの御意見参照)

 妹尾さんのように、明解ならありがたいのですが、輪廻を説く方々の主張される所は、いったいどちらなのか理解しかねます。輪廻という真実実体はないけれど、現象としては輪廻する、という意味でしょうか???

 私のように輪廻はないと思っている「ローカーヤタ」は、「真実としては無い輪廻」を、まず一旦とりあえずは「真実であると(無理にでも)思い込んで」「何度も輪廻を繰り返し」修行を続け、その上であわよくば「真実としては無い」と知るべきなのでしょうか? まるで、足を洗う前に、一旦泥で汚してから洗うかのように。
 輪廻について聞いたこともない他宗教の人は輪廻するのでしょうか? 輪廻への思いこみなどないのですから、上の論理からすれば輪廻しないはずです。無常=無我=縁起を体得できた仏教徒と異教徒・無宗教者は輪廻しなくて、中途半端な仏教徒(とヒンズー教徒など?)だけが輪廻するのでしょうか?
 輪廻を主張する論理は、矛盾だらけのように思えます。来世のためのサンガへの喜捨など、輪廻思想の元で実際に行われていることは、無常=無我=縁起への抵抗、常住永遠のアートマンへの執着ではないかと感じてしまいます。

 今、久しぶりに「ダライ・ラマの仏教哲学講義」(大東出版社 福田洋一訳)を開いてみたのですが、41ページに、「釈尊がお亡くなりになった後も、釈尊の心の流れはけして終りは迎えない」というということが、龍樹の論証(!)だとして主張されています。その後、数ページに渡って中有だとか転生のプロセスが解説されています。これは、どういうことでしょうか? この本は、ハーバード大学での講義の記録だそうですから、おそらくは異教の聴衆への言葉であり、まず一旦人々の足を泥で汚したのでしょうか?

 妹尾さんの『輪廻を「信じる」者は仏教徒ではない』という明解な御意見は、大変心強い御支援です。
 にもかかわらず、Shojiro NOMURAさんや佐藤哲朗さんがおっしゃるように、チベットの高僧達は輪廻を「信じて」おられるようですし、テーラワーダの長老達も輪廻を説いておられます。ブッダダーサ比丘など例外はおられるにせよ、伝統的仏教のほとんどは輪廻を当然の前提としているように感じます。立派なお坊様方は、仏教を分かっておられないのでしょうか? 分かっておられるけれど、一旦足を汚させるために敢えて輪廻を説いておられるのでしょうか? それとも単に私が分かっていないだけでしょうか?

 「ダライ・ラマの仏教哲学講義」17ページに釈尊の言葉としてこんな言葉がありました。(訳注によれば、ツォンカパが引用しているが、典拠となる経典は不明だそうです。)

 「焼いて、切って、こすって、それが金であるかどうかを吟味するように、僧と智者はわたしを尊敬するが故にわたしの言葉を採用するのではなく、それを十分に吟味することによってわたしの言葉を採用しなければならない。」

 私は、僧でも智者でもありませんが、「焼いて、切って、こすって、」輪廻説を自分自身で吟味する他ありません。

◎ 分別について

 輪廻については、私の今の仏教理解の仮説の体系には置き場のないものであり、不要なものですから、無視していてもよいのですが、それとは別に、気にかかっている問題があります。

 大乗には、分別は良くないことだとして、分別を否定し停止しようとする流れがあるように思います。それに対して、それを激烈に批判しているのは、駒沢大批判仏教グループです。瞑想や修業体験による無分別智を否定し、仏教は分別によって合理的に学ぶことができると主張しています。
 でも、私は、それにも無理があると思います。
 「精神統一とともに修養された知慧は偉大な果報をもたらし、・・・」(中村元訳、大パリニッバーナ経)
 定とともに修養された慧も必要なのです。それは通常の分別だけの智慧ではない筈です。特に自分という現象の「無常=無我=縁起」を体得するには、世俗的な分別知だけでは届かない。なにかそれを超えた別の慧が必要だと思います。分別を積み重ねていった先に、分別では届かない領域があり、そこにおいて定とともに修養された慧が必要になる。つまり、分別知と般若の両方が必要だと思っています。

 対象化、好悪の価値付け、執着、言語、自己意識、、、。これらがどういう順番でどう作用しあい、私という現象の反応が生まれているのか。通常の反応パターンのどこがどう悪いのか。無常=無我=縁起を体得すれば、反応のパターンのなにがどう変わるのか。仏教の勉強や最新の科学の成果の勉強といった分別と、定とともに修養された慧と、両方の努力で、自分の無常=無我=縁起を体得できればと思っています。

 この問題は、私の個人的な問題意識なので、これ以上妹尾さんのお時間を取るわけにはいきません。このくらいにしておきます。

 今後とも宜しく御意見・御批判のほどお願い申し上げます。

                                 敬具
妹尾義郎 様
        2003、12、23、               曽我逸郎

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