高橋哲夫さん 輪廻転生と縁起について 2003,12,7,

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息子から使い古したパソコンを譲って貰い、初期仏教中心に検索して、あなた様のホームページに行き当たりました。
 「あたりまえのことを方便とする般若経」大変面白く読ませていただきました。そこで、輪廻転生について述べておられますが、私は縁起の図に描かれているように、「我」を成立させている「縁」が姿形を変え、消滅を繰り返して伝わることにより輪廻転生が行われていると考えています。
 「袖振り合うも多生の縁」との言葉があるように、今の私があるのは前世の縁によってであり、前世のたくさんの生き物が私の存在に関わっています。もしかしたら古生代のアンモナイトが輪廻転生を繰り返して、私になっているのかも知れません。
 文字を一つ一つ拾って打たなくては成らないので、簡単ですが、これで失礼させていただきます。

曽我逸郎 様

平成15年12月6日

高橋哲夫


高橋哲夫さんへの返事 03,12,8,

拝啓

 メールを賜り、ありがとうございます。アクセスカウンターの数だけはそこそこ増えるものの、このところメールを頂けず、不安を感じておりましたので、元気づけられました。

 実は、最近少しめげております。たまたま縁を受けて、とある自称「仏教」教団のだしている本を読んだのですが、私の目からはまったく仏教とは思えないにもかかわらず、多くの信者を集めているようです。耳障りのいい、執着に適う教えを、人は望むのですね。あたりまえのことですが、あらためて気付かされました。また、逆のずっと正統的と思われる団体の指導者にも、先日幻滅をしてしまいました。ガラクタの山を這いずり回っているような感じで、一体自分は釈尊の残してくださった教えに近づいているのか、遠ざかっているのか、無力感を感じております。

 そんなことをぼやいていても仕方がありませんね。輪廻転生について御意見を頂きました。

 輪廻思想には、人に来世を恐れさせ、現世での行ないにルールを与える効果があると思います。また、来世でのより良い暮しを望む人達がサンガにお布施をして、サンガの維持・運営が経済的に楽になるという効果もあるようです。バンコク暮しのレポートを読んだことがありますが、人々は、解脱ではなく、優雅に暮らせるいい身分に生まれ変わることを願ってタンブン(徳積み)に励むのだそうです。
 でも、輪廻思想がそういう効果を生み出せるのは、背後に自分かわいいの我執があってのことではないでしょうか? 輪廻思想は、我執を強め、無我=縁起の教えの鋭い刃を丸めてしまうと感じます。
 私は、上に書いた効果以上のメリットを輪廻思想に見つける事ができません。かえってマイナスの方が多いと思います。ですから、輪廻転生が仮に事実だとしても、それを説いて回るべきだとは思えません。

 輪廻については、ホームページのあちこちで触れています。新しいところでは、以下の三つを読み流していただければ幸いです。他の話題もあり冗長ですみませんが、輪廻に関するところだけ読んで下されば結構です。ただ、関連していますのでこの順番で読んでいただいた方が分かりやすいかと存じます。
・小論集 2003,6,10, 日本テーラワーダ仏教協会 実践会に参加して
・意見交換 03,6,12, 佐藤哲朗さん
・小論集 2003,10,28, タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘
 高橋さんのお考えは、佐藤哲朗さんに近いのかもしれません。
 それから、トップページを下にスクロールして頂くと、Googleサイト内検索がありますから、そこで「輪廻」で検索していただくと、他にも沢山のページがでてきます。多くは意見交換のページです。私の見解を読んで頂きたいのは勿論ですが、メールを送って下さった方々の様々な御意見もきっと御参考になるかと思います。

 あと、仏教には関係のないオマケですが、以下のようになさると簡単にブラインドタッチが身について、キイボードを打つのが楽になります。(ただし、ローマ字入力)
 アルファベットの表を作り、それぞれのキイを打つ指を書き添えたものを、モニターの上か横に貼り付けるのです。
 例えば〈A:左小〉・・・〈H:右人←〉〈I:右中↑〉・・・、というように。〈A:左小〉は、「Aは、左手小指で基本位置のまま打つ」の意味です。〈H:右人←〉は、「Hは、右手人差し指でひとつ左を打つ」です。〈I:右中↑〉は、・・お分かりですね。表とモニターだけを見て、キイボードを見ないようにして打っていれば、ほんとにすぐにブラインドタッチがほぼ身につきます。(私の場合、二日ほどでした。)

 タイピングの練習がてら、また是非御意見をお聞かせ下さい。

                             敬具
高橋哲夫様
     2003、12、8、                 曽我逸郎


再び高橋哲夫さんから 03,12,12,

私のつたない意見に対して、ご返事を頂いただけでなく、そちら様のホームページに載せて頂いて驚いています。たぶん曽我様の輪廻転生の見方は、佐倉哲氏の影響だと思いますが、いま一つ心に引っかかるものがあるのです。
 浄土真宗以外の宗派では余り聞きませんが「有無の見」と言う言葉があります。この説明を浄土真宗のホームページ
http://www2.big.or.jp/~yba/teach/mizutani110.html
から引かせていただきます。

◆ 有無の見
 有見とは
「万物は常住であり、不変であって、人は死んでもまた生まれ変わる」
という考え方。
 無見とは
「万物はすべて虚無であり、人は死ぬとまったく無に帰する」
という考え方。

 この二つの考え方は、正しい因果の道理に背くものとして、邪見といわれる。
 龍樹菩薩は、この有無の見について、

「人間を含むすべてのものは、互いに因縁和合によって生じ滅してゆくものであって、その存在は、常住不変でもなく、虚無でもない」
として、「空」の思想をもって示され、有無の見を摧破された。

 また、お釈迦さまは、次のようにも説かれている。

すべてのものが、縁によって生じ、縁によって滅びるのは永遠不変の道理である。
だから、移り変わり、常にとどまらないということは、天地の間に動くことのないまことの道理であり、これだけは永久に変らない
『勝鬘経』 より

 有無を超越した無量無辺、不可思議の絶対的存在、それが永遠の真実である。そしてそれは法でありましょう。

 私はたとえ輪廻転生という言葉がなくても、今の私があるのは、今までの多くの縁によってであり、またこの私が多くの縁を造り、この私の何かが後生に伝わっていくのではないかと、考えています。これが私がただ無駄に生きているのではなく、私が死んだ後に何か良いものを一つでも、後の世に残したいとの思いを生んでいます。

 それからもう一つ「あたりまえのことを方便とする般若経」の後半部分で、町の娘さんが自然との一体感を述べているところがありますが、これはバラモン教の梵我一如の思想にならないのでしょうか。初期仏教ではほとんど人間中心であり、自然に対する記述はありません。大パリニッバーナ経でヴェーサーリー郊外のチャーパーラ霊樹のもとでブッダが
「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」
と述べているぐらいだと思います。

 曽我様からご返事をもらえるとは思っていなかったので、自分の考えを少しでも纏めようとしているうちに、時間ばかりたってしまい返事のメールが遅れたことをおわびします。

  曽我逸郎様

 平成15年12月11日

        高橋哲夫


高橋哲夫さんへの返事 03,12,15,

拝啓

 お返事ありがとうございます。

 いろいろな点について御意見を頂きましたので、順番に私見を書いてみます。

● 佐倉哲さんと私の相違

 佐倉さんの名誉のために申し上げますと、佐倉さんの影響という訳ではありません。輪廻に関して佐倉さんと私の解釈は異なっています。
 私の理解では、佐倉さんはあくまで無記ということを評価しておられると思っています。分からないことは分からないというのが正しい態度だとおっしゃっていると思います。
 【 12/16加筆】佐倉さんのHPへはリンクのページから飛べます。

 対して、私の仮説はこうです。釈尊は、無常=無我=縁起を見出されたが故に、輪廻しない事は分かっておられた。しかし、当時の人達は輪廻を当然の事として受け入れており、またそれが社会の規範を支える土台でもあった。無常=無我=縁起を体得すれば、苦を滅し真の慈悲を発動すると同時に、輪廻しない事も分かるけれど、無常=無我=縁起を体得しないうちに輪廻の否定だけを先に聞けば、世の人々は早まった結論をだしてしまう。それを恐れた釈尊は、死後については無記として明言を避けつつ、無常=無我=縁起を体得することだけに集中するよう説かれた。輪廻がもはや常識でもなく規範を支えてもいない現代日本においては、輪廻を説く事には、かえって害がある。これが私の考えです。
 という訳で、佐倉さんは節度を守っておられますが、私は一歩踏み出して想像を交え勝手な仮説を抱いております。

 読み返して、ひとつまずいことに気がついてしまいました。私の仮説を裏返すと、「輪廻を信じている人は、無常=無我=縁起(すなわち仏教)を本当には体得していない」ということになってしまいます。現在の仏教徒のみならず、仏教を伝えてきた歴史上の仏教徒のほとんどは輪廻を前提としていたと思います。ということは、ほとんどの仏教徒は仏教を分かっていない、と私は言っていることになるのでしょうか?
 こんな大それた事を主張するほどの勇気はありませんが、私の仮説は、そういう大それた、世界の「仏教徒」を敵に回す(?)ものなのかもしれないという自覚はもたねばならないと気付きました。
 勿論、輪廻を否定する人は無常=無我=縁起を体得しているなどといった、それこそ大それたことは毛頭考えておりません。私の課題は、自分の身において、自分が無常にして無我なる縁起の現象である事を本当に知ることであり、今それを模索しつづけております。為念。

● 有無の見

 私は、有無の両辺を離れた正しい中道とは、「無常にして、無我なる、縁起による現象」という捉え方だと考えています。永遠の実在でもなく、虚無でもない。それは、現象ということだと思います。存在ではないが、まったくないわけでもなく、現象している。高橋さんが引用しておられるとおり、まさに龍樹のいう「常住不変でもなく、虚無でもない」「生じ滅してゆく」あり方です。「人間を含むすべてのものは、互いに因縁和合によって生じ滅してゆくもの」、すなわち現象であると考えています。

● 勝鬘経

 「お釈迦さまは、次のようにも説かれている」と書いておられますが、仏典解題事典(春秋社)によると、勝鬘経は「大乗経典中で如来蔵思想を説く代表的作品の1つ」とあります。成立年代を調べる余裕はありませんが、少なくとも大乗経典ですから、釈尊から数百年の隔たりがあり、「お釈迦さまが説かれた」と考えるのは無理だと思います。
 【HP掲載に当たって加筆】谷真一郎様。頂戴した仏典解題事典、使わせて頂いております。ありがとうございます。

 釈尊の言葉でなければすべて否定すべきだというのではありません。最も古いとされる経典にしても、成立は釈尊から随分下るのですから、本当に釈尊の言葉かどうか、確かめようがありません。仏教として正しいかどうかは、誰が言ったかではなく、その内容によって判断する他ありません。でも「仏教」のなかには、さまざまな矛盾する教えが混在しています。その中からどれを選ぶのか? その基準はあるのか? まだるっこしいし、確実かどうかも分かりませんが、私は、仏教理解の体系的な仮説を作り、それを検証し、修正して行く他はないと考えています。すべての検証に耐える仮説の体系ができたなら、おそらく釈尊のお考えに近いはずです。釈尊に直接教えを乞うことがかなわず、大きな腫瘍が「仏教」の中に蔓延ってしまっている現在では、それしか方法を思いつきません。「あたりまえ、、、」HPの意見交換のページは、互いに仮説検証しあう場と思っています。高橋さんのように御批判を頂けるのは、私にとって大変あり難いことです。

 で、勝鬘経を内容からどう判断するか? ここで如来蔵思想まで論ずることはできません。もし高橋さんが如来蔵思想を正しい仏教だと考えておられて、駒澤大学批判仏教グループをまだ御存知でなければ、袴谷憲昭、松本史朗両氏を始めとする同グループの主張と是非一度対決してご覧になることをお薦めします。

 ここでは、高橋さんの引用された言葉だけで考えてみます。

 「すべてのものが、縁によって生じ、縁によって滅びるのは永遠不変の道理である。だから、移り変わり、常にとどまらないということは、天地の間に動くことのないまことの道理であり、これだけは永久に変らない」

 まったくそのとおりだと思います。100%同意します。火は生じて、消える。風は起こって、止む。星は生まれて、消滅する。人は生まれて、死ぬ。すべてが生じて滅びるのは道理。人が生まれて死ぬのも、まことの道理。
 これが輪廻の根拠になるとは思えないのですが、、。

 一方、この経典の言葉から、高橋さんが導き出しておられる判断には、いささか違和感を覚えます。それは、「道理」を「絶対的存在」にすりかえておられる点です。どうして道理が存在に変わるのでしょうか?
 また、百歩譲って「絶対的存在」があるとしても、高橋さんも私も、生じて滅する「すべてのもの」のひとつであって、「有無を超越した無量無辺、不可思議の絶対的存在」の側ではありえないと思いますが、、。

● 「何か良いものを一つでも、後の世に残したい」

 まったく同感です。私達は、努力してなにかを成し遂げ、思わず知らずなにかをしでかし、様々な縁を常に周囲に振り撒きつづけています。よい縁を残し、悪い縁を残さないようにしたいと思いますが、なかなか適いません。
 よい縁の中で最良だと思うのは、仏教の縁です。正しい仏教を残すというような自信はありませんが、正しい仏教はどういう教えか皆で問いましょうという呼びかけは、私にもできると思っています。これは、簡単だけれど、後に残す縁としてはすごく大きな、重要なことだと思います。
 来世に自分か自分モドキを残すことより素敵だと思うのですが、如何でしょうか?

● バラモン教の梵我一如の思想(自然と仏教)

 なるほど、バラモン教の梵我一如と結びつけて考えたことはありませんでした。私自身としては、「あたりまえ般若」の自然の捉え方は、本覚思想的で問題があると思っております。

 (「問題があるなら書き直せよ」とおっしゃるかもしれませんが、なかなかそれも難しく、原則的に一度公開したものは、(メールの相手の方の要請でない限り)書きなおしたり削除したりせず、加筆して修正するようにしています。皆さんからの御指摘のお陰で、私の仮説も「あたりまえ般若」本文からずいぶん変化しています。なにか問題点を見つけていただいた時は、扉ページのGoogleサイト内検索でその後の考えがないか探して頂けると助かります。我侭を言って申し訳ありません。)

 本覚思想は、梵我一如まで遡れるのかもしれません。あるいは単に、自然を肯定的に捉えそこに価値を見出すのは、世界のどこにでもある考え方なのかもしれません。

 それに対して、本来の仏教は、外の自然にほとんど関心を払っていないようです。おっしゃるとおり、パーリ経典に自然の賛美を見つける事は困難です。わたしもそれほど読んだわけではありませんが、ほんの少ししか知りません。

 ひとつは高橋さんのおっしゃっている大パリニッバーナ経第三章です。(中村元訳「ブッダ最後の旅」岩波文庫より)
 「アーナンダよ。ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの地は楽しい。バフプッタの霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。チャーバーラ霊樹の地は楽しい。」
 「アーナンダよ。<王舎城>は楽しい。<鷲の峰>という山は楽しい。ゴータマというバニヤンの樹は楽しい。チョーラ崖は楽しい。ヴェーバーラ山腹にある<七葉窟>は楽しい。仙人山の山腹にある黒岩(窟)は楽しい。寒林にある<蛇頭岩>の洞窟は楽しい。タポーダ園は楽しい。竹林にあるカランダカ栗鼠園は楽しい。(医師)ジーヴァカのマンゴー樹園は楽しい。マッダクッチにある鹿園は楽しい。」

 それから、聖句経と大サッチャカ経にほとんど同じ文がありました。(片山一良訳「パーリ仏典中部(マッジマニカーヤ)」大蔵出版より)
 「・・・私は、何が善であるかを探求する者として、最上の静寂の句を求めつつ、マガダ国を順に遊行しつつ、ウルヴェーラーに近いセーナーニガマに入っていきました。そこに楽しい地域、清清しい密林を、澄んで流れている川、楽しく心地よい浅瀬を、また辺り一帯に托鉢村を見ました。比丘たちよ、その私はこのように思いました。<ああ、この地域は楽しい。密林は清清しい。川は澄み流れている。浅瀬は楽しく心地よい。辺り一帯に托鉢村がある。ここは、努力を求める善家の息子が努力するためにふさわしいところだ>と、その場に坐りました。」

 このような言葉を経典に見つけると、「感覚の門をいつも注意深く守れ」とおっしゃった釈尊も、時には外の自然に気持ちを開かれたこともあったのかと、少しほっとします。

 今の私の考えは、外に自分を開くのではなく、内に自分を観察するのが元々の仏教だろうと思っています。「自分の内部の縁の仕組みが時々の縁にどのように反応して自分が現象しているのか、よくよく観察分析することによって、自分が無常にして無我なる縁起の現象であることを心底納得する」、これが釈尊の教えてくださった方法だろうと思います。

 ところで、岩波文庫をざっと繰ってみましたが、高橋さんのおっしゃる「人間のいのちは甘美なものだ」という言葉は見付けることが出来ませんでした。思いがけない言葉です。釈尊はどういう状況で仰ったのでしょうか? 是非出典を教えて下さい。

● おわりに

 何度も繰り返してすみませんが、私の仏教理解は仮説です。今は輪廻を否定していますが、なるほどと納得させていただければ、いつでも考えを改めます。
 たとえば怖駭経(恐怖経)など多くのパーリ経典で、釈尊の成道時の智の内容に、「自分の過去生を思い出すこと」(憶宿命智)と「衆生の輪廻する様を見ること」(衆生生死智)を含んでいることは知っています。また、輪廻はないとする考えが、ローカーヤタという外道の考えだとしてずっと批判されてきたことも知っています。
 しかし、それでも、無常=無我=縁起と輪廻とを体系として一体化する術が見つけられません。輪廻を仮説の体系に取り込まねばならない理由も分からないのです。

 是非また御批判、御教授下さい。
                           敬具
高橋哲夫様

       2003、12、15,           曽我逸郎

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