清水さん 真如について(朝日新聞社「仏教が好き!」)2004,1,26,

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 春節を迎え、春の足音を感じるころとなりました。丁寧なお返事をありがとうございました。
 お返事を頂戴してから、2週間が過ぎてしまいました。返事をすこしづつ書いては、読み直しているうちに返信が遅くなってしまったことをお詫びいたします。
 曽我さんに送る前に、もういちど、サイトの続きを見せていただいてから…、と伺って、さっそく、このやり取りをホームページに書き込んでいてくださっていることを知りました。ありがたく、また、恐縮しながら読みました。感謝をこめて返信させていただきます。

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 お返事にあった説明を読んで『「真如」とは名詞ではない』の意味が少しわかりました。『真如』という言葉の意味するところがわかっただけでなく、探し物をした発端の本の内容がよくわかった次第です。ありがとうございました。

 今月から読みはじめた、
河合隼雄と中沢新一の対談集『仏教が好き』(朝日新聞社2003年8月30日発行)の冒頭に、仏教とは何か…という河合氏の質問に対する中沢氏の答えがあります。そこにでてくる一部分がどうしても理解できなかったのです。長くなりますがその一部を引用させていただきます。

 (引用1はじめ)
 「このエラノス会議に集まった人たちに共通していたのは、「宗教なき宗教」というか、「宗教の先にある宗教」というか、「諸宗教にとってのメタ宗教」というか、そういうことに強い関心を持っていた。日本人では井筒俊彦先生だけがそういう道を追及されました。井筒先生の場合、イスラム教から入って、仏教にもユダヤ教にもキリスト教にも何でも深い理解を持って、さまざまな宗教を超えたメタ宗教の可能性というものを構想していらした。僕が学生のころには、井筒先生の仕事は円熟してきて、しだいにイスラム教と仏教を同等に語られていた。「『アッラー』は普通に言われている神ではない。イスラム教が一番深いところで理解している『アッラー』は仏教でいう『真如』と同じなのだとまで言い出される。そのうちあれよあれよという間に『大乗起信論』という本にいたる。そこではもう仏教もイスラム教ユダヤ教もありとあらゆる宗教が井筒先生の思考のるつぼの中で合流して、そこでどの宗教でも単独では歴史の中で実現できなかった、宗教の夢みたいなものが出現するようになっています。そういうときの井筒先生の導きの糸になっていたのが仏教でした。仏教がいわゆる諸宗教のなかの一つの宗教ではなくて、諸宗教が自分が宗教であるということの限界付けを超えて、メタ宗教みたいなものをめざしていくところには、かならず仏教のような思想の形態があらわれてくるんじゃないか、というのが井筒先生の考えだったと思います。」
 (引用1終わり)

 という一説があり、この『真如』に引っかかるものがあって『真如』について調べ始めました。本の中に註釈がありました。

 (引用2はじめ)
 『真如』 言葉では表現することの出来ない、世界があるがままにあることの絶対的な姿を仮にあらわした言葉のひとつ。ありのままの姿。存在の本性。存在の究極的な姿としての、真理そのもの。仏教では法性、実相などとほぼ同義に用いる。
 (引用2終わり)

 辞書をひきはじめたばかりの子どものように、「ここでいう「存在」とは生物だろうか物質すべてだろうか?」「法性?」「実相?」とわからない言葉がますます増えてしまいました。大無量寿経の解説付き訳本で探してみましたが、真如の定義も解説もなしに漠然と『真如の姿を見ることができた』『真如から出て真如にかえる』などの語をみつけて、さらに混乱していました。
 メールを送った当初は、引用にある「宗教なき宗教」は、仏教専門のサイトを調べてわかる内容とかなり異なる立場ではないか…と予測して、それを踏まえたうえで、『真如』の定義のようなものがあれば、と考えていくつかのサイトで『真如』をしらべておりました。ところが、『真如』の定義を書いておられたのは、検索であがったうちトップ50件ほどの中で曽我さんだけでした。『真如』という言葉のかたち(はたらき)がなんとなくわかったような気がしましたので、調べ物はそこまでにして、先を読むことにしました。その時点では、本当になんとなく…だったことに、お返事をいただいて初めて気づきました。

 メールを読ませていただいて、引用1にある「アッラーとは普通に言われている神ではない。」というところに自分がひっかかっていたことにも気づき、そして、その意味に光があたったような気がいたします。
 神というと、キリスト教の教えの上では、人格や、役割、名前をもった神を考えます。曽我さんが説明くださった、
”「そのようであること」で、つまり、「すべてが無常にして無我なる縁起の現象であること」”
は人格をもった神や、天国(あるいは、日常語の冥土?)のような場所ではないですね。だから、「普通に言われる神ではない。」なのではないか…とわかった次第です。次の章では、「輪廻を解脱した存在には唯一名が与えられない。」というくだりもあるので、表面上の意味はそれで通じるのではないかと思い、先を読み進むことができました。読み進んで振り返ってみると、仏教の教えの魅力的な部分を表現しようとしている本であることがわかりました。

 曽我さんの小論文や対話を、調べの途中でいくつか拾い読みしていて、どこかで山のように沸きあがった「わからなさ」のいくつかに出口が与えられそうな気がしました。いままで何度も手にとって読めなかった中村元さんの本も手に取れそうな気がしています。
 仏教用語の定義、あるいは対話の形で解き明かしてくださることが助けになります。それを私たちの日常の言葉で語りなおしてくださることで、もっと助けになります。これから、しばらくの時をかけて少しずつ読ませていただきますね。

 私は歴史や宗教が人間に与える影響、宗教が歴史や社会に与える影響というものについて、個人として興味をもっています。親戚や、周囲の知人友人から受け取ったよい知恵や自分を広げてくれた考え方の中に仏教の影響をみている現在では、仏教はキリスト教の次に身近に感じています。
 キリスト教の教えや聖書、礼拝のしかた、祈り方等はとても好きです。また、それらが生み出してきた音楽や絵画、書籍、歴史には尽きない興味を感じます。しかし、聖書の教えを文字どおりに生活の中で実践しようとすると、人間関係での調和の破壊につながりかねないとろがあります。そのブレーキ用に「周囲の人とできるだけ平和を保ちなさい。」という教えがあるくらいです。時として、「わたし」の自己中心的な考え方によって、他者を抑圧して孤立したり、抑圧の返礼をもらうことを、迫害と勘違いするような独善性も備えてしまいがちです。聖職者や信徒の中には、そのあたりのバランスの取り方に優れた方法をお持ちの方がほとんどですが、集団となると、アメリカ対イスラム世界の図式に表現されてしまっているように、キリスト教独特の独善性が周囲の敵意をかきたてることがよくわかってきました。
 仏教の教えは肯定も否定でもない調和がよく表現されている点で、聖書の教えより優れているのではないか。そういう感触を持っています。が、自分の器の小ささを考え合わせると、大切なことは、一つの教えに対して、そこに語られている真理の意味をより深く、あるいはより広い視野で見つめて、それを理解し実践し続けることではないかと考えています。
 曽我さんの著作はそのためのよきガイドとなるように思っています。
 短い対話でこのようなことをお聞きするのは、失礼にあたるかもしれませんが、曽我さんは、読まれてどのようにお感じになられるのでしょうか。よろしければお聞かせください。
16年1月26日 (月)
                           清水結子


清水さんへの返事 2004,2,12,

拝啓

 返事遅くなり申し訳ありません。流行に遅れずインフルエンザに罹ったり、村の地区の旅行で温泉へ行ったりしておりました。それから、お隣にきているフィリピンの農業研修生とスキーに行くついでに、なんとカソリックのミサに参加したりもしました。

 さて、メールを拝読して、ひょっとすると申し上げたかったことが舌足らずで伝えられなかったのかもしれないと、危惧致しております。

 実は「仏教が好き!」は、去年友人から貰って、私も読んでおりました。正直なところ、チョット違うなー、という部分が多く、読み終えた時は、一瞬「仏教が好き!」批判を書こうかと思ったくらいです。

 私は、真如は、本来の意味であっても、仏教には重要ではなく、なくてもよい言葉だと思っています。それどころか、名詞化され対象化され実在として扱われることで、仏教を変質させてしまう危険な言葉だと思っています。そして、「仏教が好き!」で語られている「仏教」は、そのような「仏教」の典型のように感じました。つまり、「好き!」は、制作者の意図としては、おっしゃるとおり「仏教の教えの魅力的な部分を表現しようとしている本」でしょうが、私の見方では「変質させられた仏教を魅力的に説く本」なのです。

 私の考えは、今の日本の一般的仏教理解からすれば、おそらくかなり偏向しています。でも、「好き!」の仏教解釈も、私とは反対の方向に結構偏っているのではないかと感じます。今回、清水さんから御縁を頂きましたので、思いきってふたつを対比してみることにします。
 深みにはまった話になりそうで、もし仏教についてまだあまり御存知でなければ、混乱させてしまうかもしれませんが、御容赦下さい。その場合は読み流して頂いて、今後様々な仏教解釈に触れられた折に、批判的に思い返していただければ幸甚です。

 先に私の考え方は、自嘲的に仏教原理主義と呼んでおきますが、釈尊のお考えこそが仏教だと考えています。(仏教なんだから、そんなのあたりまえ、とお感じかもしれませんが、実は世の中はそうでもないのです。)
 では、釈尊のお考えとはなにか? 自分の事として体得できたなどとはまったく言えませんが、理屈の上ではこういうことだろうと思っています。

 私達は、無常にして無我なる縁起の現象である。しかし、そのことを知らず(無明)、自分は一貫性のある主宰者(アートマン)であり自分を思うままにコントロールしていると思い込み、自分に執着し、自分を守り、自分に有利なものを奪い取り、自分に不利益なものを攻撃し、自ら苦しみ、人を苦しめている(凡夫のあり方)。執着している対象も、憎んでいる対象も、自分自身も、本当は実体ではなく、他から縁を受け、他に縁を与え、関係し合う無常にして無我なる現象である。そのことを正しく観察し真に納得せよ。そうすれば、慈悲が発動し、苦は吹き消され、涅槃に安らぐことができる。

 凡夫のあり方は、あらゆる生命に共通の生きんとする盲目的意志に根ざすものです。それに対して、釈尊の教えは、生命の進化の歴史にそれまで一度として現れることのなかったまったく新しいユニークなものだと思います。つまり、釈尊は、なにかかつてあった原初的なもの(例えばアニミズムとか石器時代の思考とか)に回帰したり回復したりすることではなく、まったく新しい空前のことを達成されたのだと考えます。敢えて変な言い方をすると、仏とは、ホモサピエンス(凡夫)に提示された、生物進化史上画期的なまったく新しい生態なのです。

 しかしながら、残念な事に、釈尊の教えは、あまりに斬新過ぎて、生命本来の自然な執着から抜け出せないほとんどの人達には、ついていくことができませんでした。人々は、我執(すなわち、自分が存在すると思う気持ち)に適う形で釈尊の教えを読み替えました。歴史上仏教と呼び習わされてきたもののほとんどは、そのような「我執におもねる教え」に巧妙に変造されていると思っています。この我執は、現世利益のような粗野な分かりやすい欲望ばかりではありません。一見我執とは思えない洗練された姿にも進化しています。しかし、洗練されていても、それはやはり我執であり、自分を保持しようとする考えですから、苦をなくすことはできません。

 洗練された我執を説明するために、チョット寄り道をして、一神教を考えてみます。一神教については門外漢ですので、間違いはご批判下さい。批判的な物言いになりますが、有意義な議論のためとお考え頂き、お許し下さい。

 私は、一神教は洗練された我執のひとつの形だと思っています。自分に執着しながら自分の有限性に直面した人間が、自分をなんとか永遠で絶対的なものにしようとして考え出した仕掛けのひとつが、一神教ではないでしょうか? 永遠で絶対的超越的な神を構想し、上空に掲げ、そこにロープを掛けて自分を引っ張り挙げようとする試み。でも、それはけして叶わぬ試みです。なぜならロープを掛けるフック(神)を上空に捧げ持っているのも自分なのですから。そして、同じ努力を続けながら、神を別の名で呼ぶ者は、自分の神の唯一絶対性を脅かすので、けして許す事ができないのだと思います。
 神の前で、人は様々に自己を否定します。一見すると、執着を断つ行いのように見えます。しかし、それは重しとなっている贅肉を削ぎ落とし、軽くして、自分の一番大切な部分として構想した「魂」だけでも神の許へ引き揚げ、永遠の存在にしようとしているだけであって、結局のところ全体は我執の中にあります。肉を捨てて「魂」を救おうとする、軽量化の方策ではないかと思います。

 これに対して、本来の釈尊の教えは、執着にとっては夢も希望もない、身も蓋もない教えです。現象が縁となって現象を引き起こし、それがまた他の現象に縁を与える。現象は縁によって変化し、縁によって終わる。それが繰り返される。これが世界です。身を捧げれば価値をくれる絶対者はいない。超越的存在もない。神も魂もない。縁起の果てになにかが達成されるわけでもない。現象が連鎖して次々と現象するだけ。現象の「上」もなければ「下」もない。現象がすべて。すべてが等しく縁を受け、縁を与える。そういう世界に縁によって生み出された現象のひとつが私です。様々に縁を受けて、はしゃいだり怒ったり落ち込んだり、しばらくそのように縁によって現象し、やがて終わる(死ぬ)。そのことを如実に知って、存在しない自分に執着することはすっかりなくし、無用に苦を生み出さず、与えられる縁を受けとり、時間の中の現象として軽安に生きよ。有情を苦しめず、有情の苦を抜く事を考えよ。これが本来の釈尊の教えだと思っています。

 すみません。思わず書きすぎました。「仏教が好き!」について書かねばならないのでした。

 まず申し上げたいのは、「好き!」の「仏教」は釈尊の仏教ではない、という事です。まるで喧嘩を売っているように聞こえるかもしれません。でも、これは、下に引用するとおり中沢新一氏ご自身の言っておられる事です。中沢氏も同意なさると思います。

<同書 あとがき P259〜>
 ・・・・歴史において現実になったあらゆる仏教の表現形態がそこから生まれ出てくる、アジアの思想的源泉近くに生えている「原仏教」という、未知の植物・・・・(注、この「原仏教」は西欧の仏教学者などの言ってきた「原始仏教」とは、まったくの別物である。「原始仏教」には夢がない。しかし、私たちの「原仏教」は自らが夢の時間を生きる存在なのだ)。・・・・
 ・・・・アジアの人々は、外国からもたらされる外来宗教としての現実の仏教の背後に、いつもそのような「原仏教」の存在を感知しては、それを自分たちの生きる大地に根付かせることによって、仏教に新しい+αする表現をたえまなく生み出してきた。

 私(曽我)は、仏教とは、一人の想像を絶する天才・釈尊の見出された前代未聞の教えだと思っています。仏教は、例えばバラモン教のようなインドの土着的思想に対しても容赦のない否定です(ブラフマン&アートマン<梵・我>に対するアナートマン<無我>)。しかし、中沢氏の「原仏教」は、そうではなく、アジア全土にどこにでも広く自生している天然の思想として捉えておられるようです。
 氏は、日本仏教についても、このように言っておられます。

<同書 P197〜>
 日本仏教というのは何かと言ったら、何千年、何万年来のアニミズム的な考え方と仏教の哲理が合体したときに、ようやく日本人が納得するものができた、それなんですね。そしてそういう仏教の考え方を取ると、安心が得られるんですね。
 だから日本仏教の本質を、僕は「縄文時代の仏教」と呼んでいるのですよ。つまり、縄文時代に形成された思考法がそのまま生かされて、しかも高度な表現にまで発達して、だから「日本仏教」というのは、すでに縄文時代にもあった、という考えです。
<同書 あとがき P257〜>
 仏教と出会うことによって、私たちの祖先は、もともと漠然としたかたちで知っていた思想に、みごとな表現が与えられているのを知って驚き、よろこんでこれを受け入れたのだろう。

 中沢氏は、釈尊の仏教(=無常=無我=縁起)よりアニミズムの方を高く評価しておられるようです。仏教の役割は、せいぜいのところ表現を与えること、触媒程度のものでしかない。
 アニミズムは、生命の自然な「生きんとする盲目的意志」の発展です。豊漁を、力を、子孫を・・・。端的にいうと動物的欲望・執着の発露です。それに対して、釈尊の仏教は、「ものはそれとして存在し続けている」という自然な見方の誤りを、無常=無我=縁起によって鋭く指弾し、それによって欲望・執着を解体して苦を滅尽せよという教えです。アニミズムなどに埋没させようとするのは、あんまりではないかと感じます。

 欲望や憎悪が角突き合わす現代において、釈尊の仏教(=無常=無我=縁起)は、科学もあらゆる対立も包摂する真にメタな思想として大きな大きな可能性を持っていると思います。ところが、中沢氏は『「原始仏教」には夢がない。』とおっしゃる。中沢氏には、本来の仏教の可能性を見出す眼力がないのではないかと感じます。一方、「自らが夢の時間を生きる存在なのだ」といわれる「原仏教」は、中沢氏ご自身が夢想しておられる想像の産物としか思えません。仮にそういうものがあったとしても、単に「アジア型アニミズム」とでも呼べば済む筈で、それを敢えて仏教だとおっしゃる理由が分かりません。

 あるいは、中沢氏のおっしゃっていることを言葉を替えて言うと、こういうことかもしれません。『アジア各地に現存する「仏教」は、それぞれの土地のアニミズムが仏教用語を借りて自己表現しているだけで、本質はアニミズムのままである。』 だとすると、これは、実はとても鋭い指摘かもしれません。南方の上座部でもお坊さん方は、求めに応じて様々なマジナイの儀式をするそうです。日本の先祖供養もアニミズムのひとつでしょうし、無情説法などは、深遠な響きがあるけれど、まさにアニミズムそのものとも言えそうです。輪廻思想も、元を辿ればアニミズムまで行きつけそうに思えます。中沢氏の認識は、かなりの部分当たっていると思いますが、問題は、氏がそのことを肯定的に評価しておられる点です。

 仏教には、法印といって、教えのエッセンスを究極的に煮詰めた言葉があります。これを説く教えは仏教であり、そうでないものは仏教ではないと言われてきました。すなわち、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印、もしくはさらに一切皆苦を加えた四法印です。「好き!」の中に、これらの言葉はほとんど言及されていなかったように思います。特に、無常・無我は、ひょっとすると一度たりとも登場していないのではないでしょうか?
 「好き!」は、釈尊の仏教については、何も語っていないのです。

 では、「好き!」が語る「仏教」は、まったくもって仏教ではないのでしょうか? 否。残念ながら、或る種の「仏教」ではあります。アニミズムに刃を丸められ取りこまれてしまった「仏教」、すなわち、「洗練された我執にかなうように変造された仏教」です。これがどういう「仏教」なのか、どのようにして我執を満たそうとしているのか、「真如」を手掛かりに簡単に述べてみます。

 前回のメールに書いたとおり、「如 タター」は、「そのように」という副詞で、仏教的には「無常にして無我なる縁起の現象であるそのままに」という意味であるべきでした。また「空 シューンヤ」は、一般的には「empty 空っぽの」、仏教的には「自性に欠ける」という形容詞で、「無常にして無我なる縁起の現象である」と同意の筈でした。それを抽象名詞(≒動名詞)にした「空性 シューンヤター」、「真如 タタター」も、おそらく当初は本来の意味を正しく反映した言葉であった筈です。しかし、瞬く間に単なる名詞として対象化して捉えられるようになっていきます。(漢訳では、シューンヤもシューンヤターも、しばしば等しくただ「空」と訳され、状況を余計ややこしくしています。般若心経に登場する「空」の多くはシューンヤターです。)

 「仏教」徒のありがちな思考の展開を想像してみます。
 @「確かにすべては無常にして無我なる縁起の現象だ。しかし、そのこと自体(=空(性)=真如)は、永遠に変わらぬ絶対の真理である。」
 A「仏教とは、空(性)=真如の教えであり、仏教徒は、空(性)=真如をこそ知るべきである。」
 <こうして、空(性)・真如は、しだいに述語的ルーツを失っていきます。感覚的には、追求すべきもの、現象を超越した実在として外に対象として立てられるようになっていきます。>
 B「すべては、空(性)=真如である。空(性)=真如を知るものは、すべてを知る。空(性)=真如を知るものは、一切知者である。」
 C「空(性)=真如は、すべてに内在する。また、世界に遍在する。世界のどこを取っても空ならざるもの、真如ならざるものはない。しかも、同時に、空(性)=真如はすべてを超越する絶対的存在である。」
 D「柳は緑、花は紅。山河大地、すべては空(性)=真如のあらわれ。すべてがそれぞれの仕方で仏法を説いている(無情説法)。」
 E「空(性)=真如は、言葉で言い表わすことができない(離言)。Aだと言ったとしても、Aでないものも空(性)=真如なのだから。世界全体だといっても間違いである。個物もまた空(性)=真如なのだから。空(性)=真如は、絶対無分節であり、頭で考える事はできない真の実在である。自らがそれとひとつになって体得する他はない。」
 F「そもそも、汝は、はじめから空(性)=真如なのだ。空(性)=真如をあらためて求める必要はない。求めてはならない。求めるから得られない。はからいをやめよ。空(性)=真如の働きを邪魔するな。ありのままでおれ。汝のありのままが空(性)=真如なのだ。悩めば良い。苦しめば良い。それが汝の真如なのだ。悩む時は悩め。苦しむ時は苦め。煩悩も菩提。執着もまた真如なのだ。」

 Dについては、「あたりまえ、、般若経」を書いた当時の私自身の自然観がこれでした。私は、自然に気持ちを開く事でずいぶん救われてきました。しかし、初期経典には肯定的な自然の描写は、一部の例外を除いてほとんどありません。釈尊の方法は、自然を真如として眺めることではなく、自分を無常にして無我なる縁起の現象として観察することであったと思います。
 Fは、少し皮肉が過ぎたでしょうか。しかし、こういう言い方は、結構世に溢れ、しかももてはやされているような印象があります。超越し、かつ内在する絶対的存在を想定すると、結局は無批判・無内容な現実肯定に転落せざるを得ないのだろうと思います。

 「真如には言葉は届かない。言語を超越している。」と言われます。しかし、そういう真如という概念自体が、言葉の抽象的な操作によって創出されたものだと思います。そして、いうなれば一神教のフックと同じ働きを期待される。修行の方法は、求めない事、ああしようこうしようというはからいを捨てる事、無念無想。何も考えず、考えてはいけないと考えてもいけない。そうすれば、「束縛を解かれた空(性)=真如が汝において自在に働き出し、汝は一切知者となり、空(性)=真如とひとつになり、絶対自由の境地に遊ぶことができる。」などと言われます。そのようにして、自己は肯定されるという訳です。ですが、「空って何? 真如って何? 絶対自由の境地ってどんな境地?」と尋ねても、たいてい「離言じゃ、言葉で考えてはいかん、自ら知るしか方法はない」と煙に巻かれてしまうのです。

<2004、2、23、加筆>
 真如が実在ではなく観念であることは、中沢氏自身、筆のはずみで認めてしまっておられる。
 「好き!」P27 …「真如」とみまごうばかりの観念の高み…

 空(性)=真如の対象化・実在視は、超越的な価値あるものを構想し、無常にして無我なる縁起の現象である自分を、なんとかそれに結びつけて肯定しようとする試みだと考えます。一神教の神と同じです。他ならぬ無常=無我=縁起の教えの中から、反対の教えに変造できる滓を漉しとって、見事正反対の教えにまで育て上げた我執の力は、おそるべきものだと感心します。

 すみません。「好き!」に添った形ではなく、ずいぶん筆が滑って、大乗仏教の一部にみられる顕著な傾向を批判してしまいました。ただ、中沢新一氏や、中沢氏が何度も肯定的に取り上げておられる井筒俊彦氏の「仏教」は、現象を超えたそういう超越的な実在を想定する傾向のある「仏教」(例えば唯識思想、如来蔵思想、華厳、密教など)に偏っていると感じます。言い訳のかわりに、「好き!」の中から、この傾向が顕著にあらわれている文章をいくつか引用します。

<P161>
 ブッダが「空」と言っていることは言語化不能であるというのが原則なんですね。密教だけではなくて、『般若経』でも「言説不能、言葉で言うことは不能、だけどこれは確実に、肯定的に、ある」と言われます。
<P242>
 井筒俊彦先生が言っておられるような「存在」(being)ということが根本になってきて、それは名づけることができないのです。したがって、「無」とか「空」とでも呼ぶより仕方がない。しかしそれは何もないのではなく、逆に存在そのものと言っていいのです。
<P244>
中沢  ・・・・真ん中に神がいるんです。が、この神は黙っている、創造もしない。
河合  そうそう。それは存在しているんです。
中沢  ・・・・これが宇宙の根源にあって、そのいちばんいいモデルが『華厳経』の毘盧舎那仏や曼荼羅の大日如来というモデルなんだ、というところに井筒先生は接近されていった。

 このような考えは、偏った「仏教」であり、釈尊の仏教ではありません。「言説不能の存在そのもの」を夢想することではなく、無常にして無我なる縁起の現象を徹底的に見つめることが、我執を滅尽し苦を吹き消すことにつながると思います。

<2004、2、23、加筆>
 中沢氏は、一神教は非対称性の宗教で、仏教は対称性の宗教だと述べておられる。まったくそのとおりだ。しかし、これは、釈尊の仏教にこそ最もピュアでシンプルにあてはまる。なぜなら、縁起する現象だけを認めて、その上にも下にも、なにも認めないからだ。一方、真如や空(性)といった超越的実在を想定する考えは、いかにそれが遍満し内在すると言おうが、現象する有情と対等ではなく、純粋に対称と言うことはできない。

 チョット言いすぎてしまったでしょうか? 好意的に見れば、イスラム研究者だった井筒俊彦氏が、大乗仏教の中のこのような傾向に親和性を感じておられたのは、無理のない事だったのかもしれません。大乗は、インド西方で生まれました。釈尊の後、アレクサンドロス大王の遠征があり、マウリヤ朝、クシャーナ朝といった国が栄え、インドと西アジアの交流が活発になっていく中で大乗は誕生します。一方、イスラム神秘主義は、神の超越性をとことん突き詰めた結果、あらゆる対称性・相対性を超えた絶対者として、言語化不能・絶対無分節・超越即内在の神を想定するようになったのではないか想像します。確かにイスラム神秘主義と空(性)=真如は、よく似た方向性をもっているように感じます。西アジアのどこかに同じルーツを共有していたのかもしれません。(但し、しつこく申し上げますが、釈尊の教えは、それとは別のものです。)

 考えていたより、批判的、というより皮肉っぽい内容になってしまいました。お互い反対の方向に偏っているのですから、シーソーのようなもので、向こうには向こうからの視点・批判があると思います。
 仏教の変遷を、進歩・発展と肯定的に捉えるか、堕落と見るか、要はその違いなのでしょう。

 世の中には、様々な仏教解釈があります。私の解釈はそのうちのひとつに過ぎませんし、しかも検討中の仮説です。いろいろとご指摘頂いて、これまでも随分考えは変わってきました。今後も変わると思います。釈尊のお姿は遠く霧の彼方、本当にとらえがたく、様々に想像するしかありません。清水さんも、ご自身で様々な解釈を批判的に比較検討されるようお薦めします。中村元は、偏り少なくしかも釈尊中心に考えていますから、お勧めです。煙に巻くようなよく分からない話をありがたがらないことが大切だと思います。

 最後に、一神教と仏教について少し違う角度から思うことは、たいていの仏教徒は、最終解脱者だとでも思い込まない限り、自分を執着の虜だと思っていると思います。そういう仏教徒から見れば、一神教の信者も、我執が別の現れ方をしているだけで、我執に捕われている点では自分と同じ、という気持ちがあると思います。自分も誰も彼もが執着に捕われているという見方の故に、仏教徒は一神教の信者に比べれば独善的にはなりにくいけれど、そのかわりに甘えが強いように感じます。
 そして、無常=無我=縁起の考えからすれば、一神教も一神教の信者も、自分と同じように縁起する無常にして無我なる現象ということになります。

 まとまりのない内容になりました。仏教に対するご興味を削いでしまったのではないかと心配です。

 是非また御意見・御批判をお聞かせ下さい。皆様から問題提起を頂くことで、様々な気づきがあり、かけがえのない刺激になっています。何卒よろしくお願い申し上げます。

                                 敬具
清水結子様

      2004、2、12、                   曽我逸郎


【若干の加筆 2004,2,18,】

 誤解を受けたかもしれないので、少し言い訳をしたい。

 私は、釈尊にこそ学びたいと思っているのであって、けして上座部の徒でも、アンチ大乗でもない。大乗においても、龍樹を初めとする中観の良質の部分などは、釈尊の「無常=無我=縁起」の教えにかなり正確に立ちかえっていると思う。

 ホームページに掲載した後、少し大乗に対して批判的な言い方をし過ぎたかと心配になって、小川一乗「大乗仏教の根本思想」(法蔵館)を読み返した。この本は、かつて大変共感を感じつつ読んだのだが、うかつにもすぐには内容を思い起こせず、タイトルだけに反応し、大乗をざっと復習して自分の考えに間違いがないかチェックしようと考えたのである。

 ページを開いてすぐに思い出した。私が上のメールに書いたこととほとんど同じことが述べられている。というより、私が影響を受けているのに、そのことを忘れていたのかもしれない。責任転嫁するつもりはないし、虎の威を借る狐のようだが、同書からいくつか引用させてもらい、自己弁護を図りたい。

P 5
 仏教というものはそれが伝播した国や民族に受容されて発展してきたというのが一般的な理解なのですが、私はそれを受容ではなく変貌であると、仏教が習俗化していくことであり、仏教が非仏教化していく道をたどっているのであるというように考えているのです。
P12
 仏教の教えの中に、インド民族のタントリズムの教えが入る度合いが深まるにつれて、次第に仏教は密教化していき、仏教それ自体は衰微の一途をたどっていくのです。……ヒンズー教(インドのタントリズム)を取り込んでいった仏教が、ついにヒンズー教にのみ込まれてしまうわけです。
P23
 日本の仏教は、最初から仏教ではなかったのです。……彼ら(最澄と空海)は最初から仏教以前の日本の神信仰、山岳信仰を取り入れているのです。
P26
 ともかくも、密教から大乗仏教へと立ち返ったのが鎌倉仏教なのです。そして最も純粋に立ち返ったのが道元であろうと思いますし、普通の人間として大乗仏教に立ち返ったのが親鸞であろうと思います。
 (小川先生は、本来の仏教への立ち返りが二度あったといっておられる。一度目は、龍樹を代表とする初期大乗であり、二度目は道元と親鸞の鎌倉仏教である。私は、鎌倉仏教については、高校の日本史か倫社レベルの知識しかないので、なにもコメントできない。)
 ……そして八百年たった現在どうなっているかということを見ますと、ほとんど鎌倉仏教以前の状況に逆戻りしてしまっていると言わざるを得ません。加持祈祷が行われ、現世利益信仰が行われ、しかも日本民族古来の神信仰と仏教の区別もつかなくなって霊信仰が盛んになっているのが現在の日本仏教です。
P29
 仏(覚者)からの「思想としての仏教」と、人間(迷者)の都合に合わせた「習俗としての仏教」とには決定的な次元の相違というものがあるということです。
 (この言葉は、特にすばらしいと思う。)
P41
 非仏教化とは、ひと言でいえば、真実を神や梵のような実在として実体化するということです。……仏教というのは、うまい具合に時代とともに教理が深まって、今日まで発展展開して続いてきているのではないのです。まちがった方向へずれたのを批判し否定するという、その繰り返しであると言ったほうがよいでしょう。
P76
 釈尊が亡くなったあと、釈尊の教えであるダルマ(法)、すなわち、「教法としてのダルマ」が「存在としてのダルマ」に変質していくのです。簡単に申し上げますと、釈尊の教えは真理であり、真実なのですが、その真実なるものは実在すると言われるようになりまして、次第に「教法としてのダルマ」が「存在としてのダルマ」に変わっていくのです。
 (「存在としてのダルマ」は、有為法と無為法の二種類に分けられ、無為法(虚空や涅槃)は常住なる実在とされた。大乗の空(性)や真如に先だって、既に部派仏教の時代に、常住なる実在を想定することは始まっていたのだ。そして、無為法が、中国で老荘思想の無や道と結びつき、「仏教」における実体化は根深くなっていく。)
P119
 無我という基本的な主張が、我を認める方向に変わった途端に、我を認める方向に変わった途端にというのは、「梵我一如」というインド宗教の原理に接近し、密教化した途端にということですが、仏教はインドの宗教の中に埋もれてしまったわけです。
P278
 不生不滅ということばを、特に中国仏教でたいへんな誤解をしてしまったのです。その誤解というのは生滅変化する根底に不生不滅の実在があるという意味に解釈してしまったということなのです。
 (龍樹の「不生不滅」は、「自性を持って」ということばを補い、「自性を持っては生まれることも滅することもあり得ない」と理解すべきであるのに、実在視して解釈してしまった、という意味。)
P338
 縁起的存在の背景には、その本質として生滅変化することのない不生不滅の真実が実在し、それを空性だと勘違いしたということです。そういう不生不滅の真実在があると考える誤解です。そのような誤解が、龍樹が厳しく批判し否定してきた阿毘達磨仏教において形成された実体論となんら変わりのないものであることは、いままでの説明で明らかであり、重ねて説明するまでもないと思います。
 龍樹の空性というのはそのようなことではないのです。私たちの存在、生滅変化している存在は、なにひとつ自性をもって生じたり、滅したりしているものではないということが空性ということであって、生じもしない滅しもしないような、なにかわけのわからない真実在があり、その基盤のうえに生滅変化する私たちの存在があるというようなことではないのです。

 十分過ぎる援護を頂いた。
 ・アニミズムは、仏教ではなく、仏教に敵対するものである。
 ・空(性)と呼ぼうが真如と呼ぼうが、超越的実在を想定するのは、間違った仏教である。
 釈尊の教えを仏教とするなら、このように主張をせざるを得ないことは、感じて頂けたかと思う。

 「大乗仏教の根本思想」の趣旨は、けして上に尽きるものではない。是非全体をお読み頂きたい。仏教に対する真摯さと確かな学識に裏打ちされた本です。

<2004、2、21、誤解されそうなので加筆>
 いかなるアニミズムであれ、習俗であれ、仏教を侵食し変質させようとするものでなければ、あるいは、人に苦を与えるものでなければ、否定するつもりは毛頭ない。歴史的文化的に意義があり、尊重されるべきものである。

 ところで、助けて頂いたにもかかわらず、一点だけ「仏教が好き!」とは関係のない部分で、小川先生と考えの違うところを書いておきたい。

 けして攻撃のつもりではない。このごろは、あれこれ批判ばかりしているようで自分でも心苦しいが、それは差異を明らかにするための手段である。差異を明らかにしてそれを考えることで仏教理解が深まり、一歩でも釈尊に近づけると思う。だから、私と違う考えをお持ちの方は、是非協力して頂いて、ご批判をお聞かせ願えればうれしい。

 小川先生は、大谷大学学長でおられるから、浄土真宗の方だと思う。絶対他力のお立場だから当然かもしれないが、努力ということを否定しておられる。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という親鸞の言葉をなんども引いておられる。「私は徹頭徹尾縁による関係性によっている。立派な自分があるのではない。良いことをしても、私が良くてしたのではない。悪いことも、私が悪くてしたのではない。すべて縁による。自分にも煩悩にも涅槃にも実体はない。煩悩や苦や、その他様々な縁が今この時の私をつくっている。そのことを知ることで、煩悩も苦も、それまでの煩悩・苦ではなくなる。縁の引き受け方が違ってくる。縁のままになんでものびのびと行なっていける。」このような趣旨を述べておられる。

 しかし、釈尊は、努力を否定されなかった。「怠ることなく修行を完成なさい。」これが釈尊の最期の言葉だ。(中村元訳「ブッダ最後の旅」岩波文庫)
 ということは、100%縁によることと、努力することとは、矛盾しないのか? しない。既に小論集《無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か》でギクシャクと述べた事だが、もう一度簡単にまとめておきたい。

 私の主観的なイメージでは、大乗は、一般的には、自分の内側より外の自然に関心を向け、自分をそこで縁起する内部構造のない点として捉える傾向があるように思う。ブラウン運動をする粒子のごとく、縁のまま右に左に動きまわると。小川先生も例外ではない。

 ただし唯識は例外かもしれない。唯識は、非常に複雑な内部構造を想定している。小川先生が前掲書で「唯識はむしろ阿毘達磨仏教への逆戻り現象」(P40)と書いておられるように、唯識は、この点では阿毘達磨的なのだろうか。

 しかし、生物、特に人間は、大変精妙な内部の仕組みを持っている。仕組みといったからといって、実体的なものを考えているのではない。そもそも身体が無常にして無我なる縁起の現象である。そこに依存して、ホメオスタシス維持の自動的反応や、反射や、学習や、記憶などの、さまざまな「内部の縁の仕組み」が働いている。生物、特に人間は、ひとつの縁に機械的にひとつの反応をしているのではない。ひとつの縁に、一定の範囲で様々な反応が可能だ。例えば、困っている人を見た時、助けてあげるか、しらんぷりするか、弱みにつけこんでカモにするか、幅のある対応ができる。勿論人によってある傾向に偏っていることはあるだろう。しかし、それでも、どんな人でも様々な経験を蓄積しており、それを様々に組み合わせてシミュレートすることでいくつかの選択肢を持つことができる。この僅かばかりの自由・主体性を使って、自分の経験を増やしたり、本や映像メディアから様々な事を学ぶことができる。それによって縁に対する反応の可能性をさらに広げることができる。シミュレートした結果を比較検討し、考察し、自分の行動を選ぶことができる。つまり、人は、自分で自分に縁を与えることができ、自分を変えていくことができるのだ。

 ただし「絶対の自由」はあり得ない。それは、無我=縁起の教えに反する。

<2004、2、21、加筆>
 前にも一度紹介した味わい深い言葉を再度記しておきたい。
"You can't control the length of your life...
but you can control the width and depth." (Anonymous)
…人生の長さは変えられないが、広さと深さは変えることができる。

 私は、なぜ苦しむのか? 私はどういう反応なのか? そのような問題を抱え、仏教に縁を得たのなら、自分が無常にして無我なる縁起の現象であることを自分のこととして本当に納得するために、努力が必要だ。自然なありのままの私たちは、我執の反応なのだから、努力しなければ自分の無我=縁起は分からない。その努力の方法が、戒定慧だと思う。

 小川先生も、「自分が100%縁起によることを知ることで、変わる」と仰っている。おそらく言わんとすることは同じだろう。ただ力点が違うだけだ。
 しかし、わたしは、仏教において、言葉は正しいだけでは十分でないと思う。小川先生も仰っているように、仏教の歴史では、本来の意図は正しかった言葉が、誤解され、間違った解釈を生むことがしばしばあった。例えば空や真如のように。だから、できるだけ誤解を生み出さない表現を使うよう注意せねばならない。
 「俺が修行に励んでいる、俺の努力だ」という気持ちを恐れて、「すべて縁のままに任せなさい」というより、「自分の無常=無我=縁起を正しくとことん納得するためには、正しい精進が必要だ」という方が、誤解の余地が少ないと思う。

・・・・御批判お聞かせ下さい。 2004,2,18,

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