toyouさん ヴィパサナー瞑想は考えない境地を体験するもの 2003,12,16,

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おはようございます。
あなたのHPの更新を楽しみに読ませて頂いている者です。
私の名前は、生意気なことを書くかも知れませんので、
しばらく、控えさせて下さい。
最近、記事の更新がないので寂しく思っていましたが、
久しぶりに更新記事があり、うれしく思いました。

「日本テーラワーダ仏教協会 実践会に参加して」の
「Eヴィパサナー瞑想について」の項、下からから3行目
「考えない三昧ではなく、明晰な意識が仔細に自分をチェック
して・・・」と書かれていますが、考えないから、明晰な意識が
あらわれると言うことを理解してないように思いました。
ヴィパサナー瞑想は考えない境地を体験するものです。
そのつもりで、少し実践すれば、すぐ体験出来ると思います。

ブッダの境地を文献からのみ学ぼうとするのは無理だと思います。
曽我さんほどの人ならば、自分の体験で検証してみようという
志しを持って下さい。


toyouさんへの返事 2004,2,21,

拝啓

 御意見賜り、ありがとうございます。

 自分では、「こんなこと書いていいのかなぁ」とびくびくしながら、また時には、わざと物議をかもしそうな書き方をしたりもしているのですが、あまり御批判を頂けません。勿論自分の仏教理解の方向はそんなに間違っていないだろうという気持ちはあるのですが、今の日本の「仏教」からは遠く隔たっているはずで、ボコボコにバッシングされても当然と思っていますが、シカトされています。なにか反応がもらえないと、自分が正しい方向を向いているのか判断ができず、不安になります。そういう状況ですので、御意見を頂けて、とてもうれしく感じました。

 さて、メールを拝読して、適切でない表現だったと思いました。問題の文章を抜き出します。

 >日本の禅宗等における忘我の境地的ななにも考えない三昧ではなく、明晰な意識が仔細に自分をチェックして無我であると結論づける。釈尊の悟りはそんなふうであったのではないかという気がする。

 「日本の禅宗等における」という表現については、私はそんなことが言えるほど日本の禅宗の三昧を知りません。ですから、これは、私がヴィパッサナーを知るまで瞑想に対して抱いていた勝手なイメージに過ぎません。それから、「なにも考えない」というのも、おっしゃるとおり不適当でした。より適切には「対象観察のない」というべきでした。さらに言いかえると、「一切の活動の停止した、無念無想の」ということもできます。
 訂正して書き直すと、こうなります。

 >対象観察のない、一切の活動の停止した、無念無想の三昧ではなく、明晰な意識が仔細に自分をチェックして無我であると結論づける。釈尊の悟りはそんなふうであったのではないかという気がする。

 「対象観察のない、一切の活動の停止した、無念無想の三昧」とは、ブッダダーサ比丘が言っておられる「深すぎて障害となっている定」のことだろうと思います。(小論集「タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘」参照下さい。)
 ダマシオの説をあてはめれば、「原自己の変化をなくし、それによって中核自己の生成を止めること」になるかと思います。(小論集「ダマシオ 「無意識の脳 自己意識の脳」 を読んで」を参照下さい。)

 それに対して、釈尊の方法は、おそらく思考の停止した考えない定であったでしょうが、自分が今どのように発現しているか(=何にどう反応し、どう執着しているか)、そのことを集中的に観察し、集中的観察によって定に入る、あるいは、定において集中的に自分を観察する、そういうものだったのではないかと想像しています。ブッダダーサ比丘も、般若は対象を持つと書いています。観察の対象があるならば、観察する中核自己も発現し続けていたと想像します。

 以前の私は、ノエシスとノエマ自己という言葉をよく使っていました。そのつど発現して働く自己(ダマシオのいう中核自己)と、対象として捉えられた自己像(ダマシオの自伝的自己?)という意味です。「いくら自分を見ようとしても、それはノエマ自己にしかならず、ノエシスはけして捉えられない」という考えでした。それ故、「意識の志向性・対象化が停止した、主客対消滅(伝統的言い方なら「主客未分」)の宗教的体験が必要なのだ」などと考えていた訳です。
 しかし、これは、自分を一個の点として固定的に捉える考え方でした。私は、一個の粒子ではなく、様々な反応の仕組みが複雑に重なりあい、たくさんの反応が連鎖反応した結果生み出されています。私は世界に開かれており、そのつどそのつど様々な縁を受け(外からの縁と内からの縁がある)、様々に反応しています。どのような縁にどのように反応しているか、そのことは対象として観察できるし、それを観察することが、自分が、無常にして無我なる、縁起によるところの、執着によって苦を生み出している反応であると見極めることになるのだと考え始めています。
 禅寺の玄関を入ると、よく「脚下照顧」と書かれています。あれも「靴はそろえて脱げ」という意味ではなく(冗談です)、本当は「そのつどの自分という反応を観察し続けよ」という意味だったのかもしれません。スッタニパータなどに頻出する「よく気をつけておれ」(中村元の訳)という釈尊のお言葉も、この意味ではないかと考えています。

 「自分の体験による検証」の努力は、実は細々とではありますが続けております。家族が起きてくる前、小一時間ほど坐り、犬の散歩の時、時間にゆとりがあれば歩く瞑想をします。(林道のような道なので、犬は離して大丈夫なのです。)日曜の朝は、在家の方々の座禅の会にいれて頂いて、禅寺で坐っています。この時も、内緒ですが、警策の回っていない時は目を閉じてヴィパッサナーで自己観察をしています。
 昨年夏、日本テーラワーダ仏教協会のウィセッタ長老指導の合宿で、観察による定(or 定においての観察)を、ほんの爪の先ほどですが、体験できたような気がします。(その時の報告は、小論集「自分という現象について」を参照下さい。)それ以来、たまにうまく坐れることもありますが、たいした成果は上がりません。もっと熱心にたくさん時間を取ってやらねばならないと思いますが、根がなまけものなので、ちゃんとできていません。

 現代において釈尊の教えを自分に実現するには、文献等による学習と、あれこれ思考錯誤することと、考えないけれど対象観察のある定の、みっつが必要ではないかと思います。

 是非また御意見・御批判を下さい。私は批判に餓えております。

 特に、「正しい瞑想は、明晰な意識が定において対象観察(自分という反応の観察)を突き詰めることだ」という見解に対しては、どのようにお考えになりますか?
 御意見お聞かせ願えれば幸甚です。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。
                               敬具
toyou 様
      2004、2、21、                曽我逸郎

追伸:書き終えて送信日時が「2003年12月16日 10:31」となっているのに気づきました。私のところに届いたのは、昨日です。こんなに時間のかかることもあるのでしょうか。返事が遅くなり申し訳ありません。

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