妹尾義郎さん toyouさんと曽我のやり取りに(瞑想と言葉と思考) 2004,2,22,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

toyouさんと曽我さんのやり取りを読んで「考えた」こと。

 瞑想などの修行によって、言葉の分別(分節化作用)を完全に超克することは不可能というのがブッダの教えです。
 だからこそ小乗部派系の経典においてもブッダは、無念無想の無色界の定(滅尽定)ではなく、色界における最上位の禅定である四禅において悟りを開いたとされています。ブッダは色界に属する四禅において、世界のあり様を観察し、言葉で「考えて」縁起の理法を悟ったのです。(この場面は、部派系経典のみならず、多くの原始経典、大乗経典にも共通してみられます)従って、「考えない」無念無想の境地においては、悟りは開けぬ、ということになります。
 ブッタタート比丘の「深すぎる定」という捉えは、おそらくこうした部派系経典の記述を踏まえたものでしょう。

 人は簡単に言葉による分別、概念化作用を超えられません。
 何故なら言葉は、生存の根源的欲求(無明)に根ざしているからです。多少の瞑想修行で得られる忘我感は、無我の理そのものではあり得ません。そこでは未だ言葉が超えられていないからです。感受および感受対象はなお言語によって捕捉され、言葉によって記憶され、言葉で想起されます。どんなに純粋感覚に近いように思えても、それは言葉なのです。そして、その言葉による分別作用は反対側で、そのときどんなに微弱になっていたとしても確実に「この私」を分節しています。
 そのようなレヴェルの定を、無我を知るためのメタファ(方便)としてではなく、無我の状態そのものと見誤れば、まったく逆に、その経験時に分節した「この私」=我を絶対化してしまうことになります。
 こうした瞑想修行は、バラモン教、ヒンドゥ教でも広く行われていたことが知られています。そのような方法でブッダと同じ悟りが開けるのであれば、仏教は存在しなくてもよいことになるでしょう。だから、仏教者はブッダが四禅において「考えた」縁起の理法を、仏教の真核として最も尊重しなければならないわけです。

 大乗仏教の中観派では、ブッダの四禅における悟りを踏まえ、禅定とともに批判的思考を重視します。ナーガールジュナは「言葉に拠らずして、(言葉を超えた)最高の境地を説くことはできない」(「中論」)と述べています。言葉によって言葉を滅し、思考によって思考を否定するというプロセスを経なければ、真の言葉の超克、真の無我は達成できないと説示されているのです。


妹尾義郎さんへの返事 2004,3,2,

拝啓

 御意見頂き、ありがとうございます。

 麻原結審を迎え、メディアでオウム事件実行犯達の手記や手紙を何度か目にしました。私は、麻原の選挙立候補や地下鉄サリンといった時期日本にいなかったので、生の感覚がないのですが、手記などによる限り、彼らも、初めは本当に真面目な人たちだったのですね。生きる目的がわからず、自分に価値を与えてくれる生き方を求めて、間違った縁を重ねた結果、あのような事をやってしまった。

 彼らの当初の問題意識は、私自身の学生時代とほとんどぴったり重なっています。自分が麻原になれるとは思いませんが(あんなに盲信してもらえる程の人間的魅力がない)、信者にはなっていたかも。まあ、私は、ひねくれた頑固者ですから、信者にもなれなかったと思いますが、、。

 初めてオウムに触れたのは、多分1980年代の終わり頃だったか、マスメディアが騒ぎだす前に、大阪のオフィス街でもらったチラシでした。昼飯を食べて会社に戻る途中、配っていた人の印象は残っていませんが、チラシは、紫かアズキ色のまだらの背景に、髭をのばし白い衣で瞑想する麻原が空中浮遊のごとく散りばめてあって、いかにも怪しい、いかがわしいものでした。「なんじゃこれー、気持ちわりー」とか言いながら、読んでみると無我や縁起に触れており、「結構まともなこと書いてあんじゃん」と同僚と話した記憶があります。

 それが、なぜあのようなことをしでかすに到ったのか。オウムの教義をきちんと読んだ事がないので、印象にすぎませんが、大きくは四つの間違いがあったような気がします。
 a, 自灯明・法灯明による「犀の角」ではなく、麻原に絶対帰依する「信者」になったこと。
 b, 輪廻を信じたこと。
 c, 無常=無我=縁起といった釈尊の教えよりも、修行による個人の変性意識体験を重視したこと。
 d, その結果として、結局無我が分からず、自分があると思いこんだまま、自分に執着し、自分に価値を与えようとしたこと。

 妹尾さんは、メールにこう書いておられます。

>多少の瞑想修行で得られる忘我感は、無我の理そのものではあり得ません。
>そのようなレヴェルの定を、無我を知るためのメタファ(方便)としてではなく、無我の状態そのものと見誤れば、まったく逆に、その経験時に分節した「この私」=我を絶対化してしまうことになります。

 まったく同意見です。
 麻原の奥さんだったか、女性信者が、瞑想で得た自分の体験について「大宇宙の光に包まれた」とか「私は光だったのだ」というようなことをどこかで言っていました。これなど、まさに典型です。(「あたりまえ般若」で、「娘」に似たような体験を告白させているのは、自分としても恥ずかしい限りですが、あれを書いた頃は、そういう体験に憧れていました。)
 ブッダダーサ比丘の説法の英訳に、"disenchantment" という言葉がありました。(小論集「タイ上座部の「異端」ブッダダーサ比丘」参照) "enchantment"(魔法・魅惑)の否定、つまり、それまで操られていた魔法や魅惑からの解除です。無常=無我=縁起を知るとは、"disenchantment" だろうと思います。「なるほど、そういうことだったのか。これまでの私は、なんと愚かだったのか。」おそらく、こういう感じだと想像します。けして「隠されていた宇宙の真実在に遂に私は到達した」というような高ぶった至福体験ではない。そのような経験に憧れるのは、もうひとつ新しい魔法にかかることだと思います。
 人間は、見たいものを見、経験したいことを経験します。「宗教」的至高体験に執着する人が、学習もせず思考を否定して瞑想に突き進めば、やがて望みどおりの体験を体験し、おっしゃるとおり「我を絶対化してしまう」ことになるでしょう。

 しかしながら、同時に、私は、学習と思考だけでは、釈尊の教えを自分の身において分かることはできないのではないかと感じています。戒定慧の定、瞑想も必要だと思います。妹尾さんも、「ブッダの四禅における悟りを踏まえ、禅定とともに批判的思考を重視」と書いておられますから、瞑想を全否定されておられる訳ではないと思います。

 では、瞑想と思考のあるべき関係はどのようなものか。三つのレベルを考えました。

 @ 無念無想。ブッダダーサ比丘の言う深すぎる定。ダマシオのいう中核自己が発生しない状態。
  (これは、けして不可能ではなく、短時間であれば可能ですが、なにもない状態なので、役に立たない。)
 B ああでもない、こうでもない、ああだから、こうなるはずだ、云々という思考。
  (これは、足を組んでいても、思考であって、瞑想にはなっていません。この思考は、当然言語によっています。)
 これらの中間に、A「定における観察の瞑想」があり得ると考えています。

 問題は、この「定における観察の瞑想」において、言語や思考はあるのか、ないのか、ということになります。
 toyouさんのお立場は、「思考はなくさねばならないし、なくせる」というものでしょう。ただし、言語については微妙で、toyouさんのおそらく先生にあたる日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老は、言語によるラベリング(痒い時は「痒み」、痛い時は「痛み」と言語化する)を指導しておられます。つまり、言語<単語>はあるけれど、思考はない、という状態ではないかと思われます。
 一方、妹尾さんは、「いかに瞑想を深めようとも、言語の枠から逃れ出ることは不可能だ」とお考えです。
 私の感覚では、拙くも少ない経験ですが、うまくいった瞑想は、言語も思考も、少なくとも日常のレベル( or 妄想のレベル)に比べれば格段に静まっている、と感じます。観察する意識は発生し続けているのですから、それに伴う思考もあるのかもしれません。しかし、日常生活のざわめき・ふらつきとは違う、ノイズの少ない、透明度の高い感覚になります。また、この状態になる時、なっている時、そのことを意識することができます。あまりこういうことを書くと、実はこれも一種の変性意識体験に過ぎないのではないかと心配になってきますが、しばらくはこの方向で自分を実験台に検証を続けてみるつもりです。

 妹尾さんの言及しておられる四禅で思い浮かんだのは、「尋」と「伺」です。片山一良訳大蔵出版「パーリ仏典」では、「大まかな考察」、「細かな考察」と訳されており、初禅には両方あって、第二禅ではともに消えるとされています。(例えば「恐怖経」など)しかし、「禅」を引いてみると「心をひとつの対象に専注してつまびらかに思惟すること」(法蔵館「仏教学辞典」)とあり、そうだとするなら、初禅から第四禅まですべて思惟ということになります。
 発達完成された教理については、いろいろとうるさくややこしいことがあるのでしょうが、釈尊の瞑想は、どうだったのか? 文献学に期待したいところですが、最初期の経典も釈尊からかなりの隔たりがあり、当てにはできません。であるなら、やはり、危険を覚悟で自分の身で確かめる他ありません。

 今検証しようとしている私の瞑想の仮説を「言語化」してみます。

 テレビの科学番組などで、例えばムカデやイモ虫のクローズアップ映像を見ることがあります。身体の節のひとつひとつが順々に微妙に形を変え、てかりが変わり、足が波打ち、全体が見事なリズムとバランスで連繋していく。美しくもあり、気持ち悪くもあり、息を飲んで画面に引き込まれる。
 この時、映像に釘付けになった私たちは、普段のような言語化はしていないと思います。上を書いた時も、昔見た印象を思い起こした上で、言葉をあれこれ探しました。クオリアという言葉が適切なのか分かりませんが、引き込まれて見ている時は、「生々しい実感」がそのまま記憶に残る。いくら頑張っても、それを言葉で表現するのは難しい。
 定における観察は、ちょうどそのような感じで、自分という反応のありさまを実感として見ている。そのようにうまくは滅多になれませんが、そういうことだと感じています。そのためには、無念無想でもダメだし、言葉や思考も邪魔をします。
 定における観察は、自分をスコップで掘り下げることではないかと思います。内奥から出てきたいろいろなものをとりあえずそのまま次々と実感として留めていき、後から通常の強力な言語と思考で篩にかけたりルーペで調べたりする、そういうイメージです。(実体的な比喩ですみません。)
 定における観察と、言語・思考による検討・分析とは、別の工程であり、「かわりばんこ」に行われるのが適切ではないかと思います。

 そして、ひょっとしてうまく行けば、明晰な意識で自分の無常=無我=縁起を直接に実感として見られることもあるのかもしれません。(これは、今の私の「危険な憧れ」(?)です。)
 また、自分というそのつどの反応を実感として観察する癖がつけば、普段の日常生活でも、自分の反応に気づくことができるようになるのではないか、と期待しています。「あ、俺、今むっとした」とか「あれあれ、浮かれてるぞ、なんでだ? ああ、さっきのあんなつまらないことでか」といったふうに。このように反応できれば、湧きあがってくる妄想・執着をそのつど芽の段階で摘み取っていくことも、ある程度可能ではないでしょうか。そして、これが、釈尊が繰り返しおっしゃっている「いつもよく気をつけておれ」ということではないかと思います。

・・・・・・・・・
 妹尾さんの引いておられる龍樹の言葉「言葉に拠らずして、(言葉を超えた)最高の境地を説くことはできない」に刺激されて、違う角度から、言葉について思うことを書きます。

 私は、唯識系の方々など仏教界の一部の方々は、言葉を或る意味で買いかぶり過ぎておられるのではないか、と感じています。阿頼耶識とか真如とか、言葉によって創り出された概念を重視し、それらには言葉が届かないと主張する。「言葉が届かないもの」というのも、言葉の概念に過ぎないのに。その上さらに、「言葉が意識の対象を生み、執着を生み出す。言葉の作用を停止させよ。」と説く。なんだか木霊と議論されているようで、一人相撲ではないかと感じます。

 単純に言って、釈尊は、言葉以前の赤ちゃんや動物の状態に戻れと仰ったわけではないし、成道の後も、それ以前よりかえって巧みに言葉を操られました。言葉の作用の止滅が釈尊の教えではない筈です。

 私たちの問題点は、言葉よりもっともっと根深い、古い層にあると思います。確かに、言語を得て、執着は爆発的に巨大化・複雑化しました。しかし、その種となった執着の反応パターンは、言葉よりずっと前からある。ですから、言語を止めても、執着のパターンはプリミティブな形で残ると想像します。言葉を持たぬ動物も、獲物や天敵を価値づけ、対象として捉え、ふさわしい反応をしています。釈尊による脳手術は、言語よりもっと深い所にメスを入れておられる筈です。

 言葉は非常に鋭利な道具です。執着を拡大し、追及することにも威力を発揮するし、執着を滅することにも使うことができる。(勿論万能ではなく、限界もありますが、、)
 「使い方を誤ると大変危険な道具だから、十二分に用心し、うまく使いこなせるよう技を磨く。執着を暴走させるような使い方は、けしてしない。」
 これが正しい態度だと思います。龍樹の言うとおり、仏弟子には正しく言葉を使いこなす努力が必要だと思います。

 文献などからの学習、定における観察、言語・思考による自己検討・相互批判。釈尊に教えを乞うことのできない我々には、この三つのどれが欠けてもいけないと思っています。(自省です。)

 刺激を頂いたお陰で、漠然と思っていたことが、少し仮説として形をなしてきたような気がします。大変有り難く、感謝致します。
 また是非御意見頂けますよう、お願いいたします。

                               敬具
妹尾義郎様
        2004、3、2、
                              曽我逸郎

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ