toyouさん ヴィパッサナー瞑想に関して(曽我への返事) 2004,2,27,

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【2004,2,29, 曽我注記】
 このメールは、ひとつ前の妹尾さんのメールの後に頂きましたが、妹尾さんのメールの掲出(2/29)の方が後になってしまいました。toyouさんは、妹尾さんのメールを知らずに、このメールを書いておられます。ややこしくてすみません。

曽我 様
おはようございます。丁寧な御返事ありがとうございます。
toyouでメイルを差し上げたことも忘れて、私と同じ事を考えている人もいるのだな、私がわざわざメールする必要がないなと思っていたら、私がtoyouでした。
さて、「正しい瞑想は、明晰な意識が定において対象観察(自分という反応の観察)を突き詰めることだ」という見解にたいする私の見解は次の通りです。
先ず、正しい瞑想とは、ヴィパッサナー瞑想だと理解します。定(サマディー、集中)は念(サティ)によって導かれるものと考えています。ですから「定において対象観察を」とは考えていません。
体験的にもサティによってサマディが現れるように感じています。
次に、「自分という反応」が本当にありますか。ヴィパッサナー瞑想を実践している時、痛みとか痒みなど感じた時、痛みとか痒みだけでしょう。「私が感じている」とは後で、そう考えているのでしょう。
どうですか?そう感じるのであれば、それは、先ず、痛みという感覚があって、次にそう感じている私がいると思考しているのではないですか。間断無く観察していれば、「私が感じている」など入ってこないと思いますが、いかがでしょうか。

以上の事を文献的に理解するためには、アビダルマの研究が必要だと思います。
「倶舎論」もよいのですが、やはり伝統的なパーリ・アビダルマの研究が必要です。
日本には良い参考書はないようですが、スマナサーラ長老が数年前に講義された時のテープがあります。
これは一本2時間くらいで、百本くらいありますが、勉強になります。

もっとも、曽我さんはスマナサーラ長老は肌が合わないようですが、そのように、感じたのは長老が曽我さんの自我を壊そうとなされたからではないですか。自我を壊さないでは真理は見えてこないからです。

よけいな事を書きました。御健闘をお祈り致します。

toyou より


toyouさんへの返事 2004,桃の節句

拝啓

 お返事頂戴し、ありがとうございます。

 何度も読み返しましたが、よく分からない部分があります。

『「定において対象観察を」とは考えていません。』
と仰っていますが、後のほうでは、
『間断無く観察していれば、』
とも言っておられます。
 定において観察するのでしょうか? しないのでしょうか?

 あるいは、対象の有無が問題で、「観察は、あらかじめ対象を立てるのではなく、そのつど現れてきた現象を観察すべきだ」という趣旨でしょうか? そういう御意見であれば、私も同感です。
 抽象的に議論しても、重箱の隅で行き違うことになりそうですから、私の瞑想の現状を少し具体的にお話しして、間違っているところをアドバイス頂ければ幸いです。

 形を整えて坐り、スマナサーラ長老も指導されているとおり、まず呼吸に伴う腹の動きを観察します。これは、あらかじめ対象を立てた観察です。腹が、上へ下へ波のように膨らんだり凹んだりするのを感じていると、比較的すぐにある程度の定に入ります。耳鳴りがくっきりと聞こえてきたり、額や頭に虫がもぞもぞ這っているようなかゆみがおこったり、組んだ足や手がどこにどうなっているのか分からなくなったり、それが親指を僅かにずらすとぱっと蘇ったり、そんなことが次々起こってきて、それを実感しています。でも、これは、たいした定ではないので、ふと気がつくと妄想に入っていることがしょっちゅうです。妄想は、メールの文章を頭の中で推敲していたり、用事の段取りを考えていたり、そんなことです。仏教についてあれこれ考えていることが一番多いかもしれません。妄想していると気づくと、また腹の動きを対象にして、観察に戻ります。
 大抵はこんな感じで小一時間が過ぎてしまいます。しかし、極稀に、意識の透明度がワンランク上がるような時があります。その時は、そうなったこと、そうなっていることは、明瞭に意識されています。初めのメールで「明晰な意識」と書いたのは、この状態を表現したかったのです。まだほんの2、3回しか起こっていませんから、その状態そのものが目新しく、あわててしまって、うまくそれを利用してなにかを観察・実感することはできませんでした。敢えて言えば、その時は、その意識の状態を実感していたと言えるかもしれません。この「明晰な意識」で、なにかを実感できるのか、今はそれを検分したいと思っています。

 ヴィパッサナーは、色身から始めて、次第に観察を深めて行くものだと思います。私はまだつま先ほどしか入っておりません。そのことは自覚しています。自分の中への探検を深められた人から見れば、私がどのあたりでうろうろしているのか、すぐ分かるのだろうと思います。私の考え方、アプローチに間違いがあれば、是非御指摘頂けると助かります。

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 次に、「自分という反応」に関して。

 toyou さんとの一回目のやりとりに対して、妹尾さんという方からメールを頂きました。その返事に詳しく書きましたが、瞑想と考察と、ふたつ別々の作業として、分けて考えた方がいいのではないかと思います。
 瞑想においては、よく観察して、言語化されていない( or 言語化の希薄な)実感を積み重ねていく。そして、それとは別の工程として、その実感や、経典などから学んだことなどを言語によって検討・考察する。瞑想と考察が右足と左足のように交互に働いて、仏教の理解は深まっていくものと考えます。
 「自分という反応」という表現は、言うまでもなく、言語による検討・考察の工程で生み出されたもので、瞑想中に意識しているのではありません。腹の動きや痛みやかゆみや耳鳴りなどを後から総称して「自分という反応」と表現しただけです。

【ホームページ掲出に当たって加筆】
 瞑想と考察は、ブッダダーサ比丘の「Handbook for Mankind」にあった「ヴィパッサナー・デューラ」と「ガンタ・デューラ」のことと考えてよいと思う。(小論集《タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘》参照)

 ただし、『「私が感じている」など入ってこない』と仰る点に関しては、私の考えは少し微妙です。先に申し上げたとおり、「明晰な意識のある定」の状態の時、それに入る時も、入っている時も、そのことは意識されていました。というより、「これは一体なんだろう」といった驚きの感覚が持続的にありました。その経験を元に、「無念無想の定」ではなく、「意識のある定」もあり得るのではないか、と考えています。

 「自分の無我を知る」とは、「自我が消えてなくなる」ことではなく、「明晰な意識が自分を検分して、はっきりと、自分はそのつどの縁によって縁起している無常にして無我なる現象なのだ、と納得する」、そういうことではないかと思い始めています。
 釈尊は、自分が無我なる縁起の現象であると明確に認識した上で、なにをすべきか、すべきでないか、どう生きるか、決めておられたと思います。無意識のまま生きておられた筈はありません。

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 最後に「自我を壊すこと」について。
 toyou さんは、どういう意味で仰っているのでしょう? もしそれが「自分考えをやめる」という意味であり、「批判的検討を放棄すること」であるならば、私としては、「自我を壊す」つもりはありません。批判的検討を放棄した結果、真理を見るどころか、道を誤った人が大勢いるのですから。自分を拠り所に、法を拠り所に、これが正しいあり方だと信じます。
 しかし、どんな意見にも聞く耳を持たない、という意味ではありません。自分の見解も、異なった見解も、比較検討してぶつけあい批判し、より正しい見解を模索できれば、と思っています。御協力を頂ければ、幸甚です。
 (toyou さんの「自我を壊すこと」が違う意味でしたら、再度御教授下さい。)

 お時間の許す折りに妹尾さんとのやりとりも是非御一読頂き、再度御批判をお聞かせ下さいますようお願い申し上げます。

                                敬具
toyou 様
     2004、桃の節句
                              曽我逸郎


toyouさんから 瞑想 自我を壊すこと 輪廻 2004,3,10,

前略 3つの点について、お返事致します。

1.瞑想について
瞑想についての議論は、お互いの言葉の意味の取り違いや、ニュアンスの違いがありますので難しものです。しかるべき指導者について指導を受けるべきものです。その時、指導者の選択が一番大切で難しのです。失敗すると麻原を指導者にするということになってしまいます。
 しかし、指導者を捜さずに、自分で瞑想を完成させようとするのは、超天才的な仏陀さえ、命をかけての修行で6年の歳月を要したのですから、天才でも一生かけての出来ないのではないでしょうか。
よい指導者を探して、その指導を受けるのが得策だと思います。
 正しい瞑想の方法は仏陀が発見していますので、それを素直に実践すれば、後はそんなに難しくないでしょう。苦労はあると思いますが。

2.「自我を壊すこと」について
曽我さんと私では自我の定義が違うようです。
ブッダの言葉「自分を拠り所に、法を拠り所に」の場合の自分を
曽我さんは自我と取っているようですが、私は違います。
この場合の自分は五蘊(色受想行識)であると理解しています。
そして、自我とは「想」によって形成された観念であると理解しています。
この見解を曽我さんが受入ようと、受入れまいとかまいません。

3.輪廻について
輪廻について議論することはあまりにも徒労なので、したくはないのですが、
一つだけ初めに、はっきりさせておきたいことがありますので、それを書きます。
 輪廻を議論する人々は輪廻と言えば、一つの事柄だと思っているようですが、
皆さん違う事柄を念頭に置いて、議論しているようです。幾つかの例をあげます。

  1. 永遠の変わらぬ魂が輪廻する。伝統的なインド思想。
  2. 親の因果が子に報いなどというもの、これは現代的な科学的な(?)装いでDNAの親から子えの遺伝などを考えている。
  3. 麻原の輪廻思想。曽我さんも麻原の輪廻思想を輪廻だと理解して、輪廻を信じるから犯罪を犯すと述べています。私に言わせれば、輪廻を信じていないから、平気で殺人をすると思えるのです。
    殺人をするものは地獄にいくことを信じていないのです。
  4. 最後に、仏陀のお解きになった輪廻。これは、変わらぬ魂の輪廻ではありません。インドの伝統的な輪廻思想の延長ではないのです。そこから隔絶された破天荒な大発見なのです。 
    変わらぬ魂の輪廻でないと言うと、すぐ何が輪廻するのかと疑問がでるでしょうが、ご自分でお調べてなって下さい。
                              草々

曽我逸郎 様
 2004.3.10.  toyou

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