ひばりさん 宗教の心 2004,2,29,

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私は一般に述べられている「宗教」について腹の底にストンとこず、それで次のように受け止めています。これは「仏教」に限らず、正しい宗教なら、総てに当てはまる事と思います。

我々の体には「頭」が付いているが、この「頭」、「生きている内」に使わないことには意味がない。しかしかといって、「悪しき事」に使うべきではない。この為には、「自己犠牲」が伴う必要がある。
普通我々は、「他己犠牲」を求めているようだ。

ひばり


ひばりさんへの返事 2004,2,29,

拝啓

 メール頂戴致しました。ありがとうございます。

 拝読して思ったこと、書いてみます。

 私は、他の宗教についてはよく知りませんので(その割には、時々偉そうなことを言っていますが、、)、仏教についてだけ考えます。

>この「頭」、「生きている内」に使わないことには意味がない。

 そのとおりだと思います。「死んだ後」も使える(死後生がある)と考える人もいますが、その考えは、釈尊の無我の教えに反すると思っています。
 また、「頭を使う」=「多面的によく検討する」ということは、自灯明・法灯明には欠かせない、大変大切な事だと考えます。

>「悪しき事」に使うべきではない。

 まったく同感です。「悪しき事」に使うと、自分と人を苦しめることになります。

>「自己犠牲」が伴う必要がある。普通我々は、「他己犠牲」を求めているようだ。

 この点については、もう少し細かく考えさせて下さい。
 ひばりさんの文章を踏まえながら、私の考える釈尊の教えのあらましを書くと、こうなります。

 「普通(=ありのまま、自然のまま、凡夫のままでは)我々は、自分を守り拡大しようとする反応を自動的に繰り返している。自分が<ある>と思いこみ、自分と自分に得なものに執着し、自分に損なものを憎む。その結果、周囲の有情と自分自身に苦をもたらしている。それを停止するためには、「自己観察」と「自己統御」が必要である。それによって、自分が執着している対象(自分を含む)も、憎んでいる対象も、無常にして無我なる縁起の現象であって、執着することも憎むこともできないと知る。そうすれば、自動的反応のパターンは変わり、無用な苦は生み出されず、平安に生きることができる。」

 一方、「自己犠牲」は、時として自分のみならず他の人にも苦をもたらすのではないでしょうか。深く考えていない独り善がりの「善行」や「自己犠牲」は、しばしば巨大な苦を生み出します。

 タイミング的に、おそらくオウムのことが頭にあって、メールを下さったと想像します。麻原は知らず、実行犯の信者たちは、「善行」(ポアで悪業を止めてやり、より良い死後生に転生させる)とか「自己犠牲」(修行)とかの理屈を立てて自分の疑念を封印し、自分を納得させたのではないでしょうか? ここまでひどくなくとも、「善行」や「自己犠牲」は、我執(自分があると思い込み、自分に価値を与えようとすること)を肥大化させる最も強力な幻覚剤のひとつとしてしばしば使われているように思います。つまり、「自己犠牲」は、「洗練された我執の自動的反応」である場合も多いと思います。
 「自己犠牲」に酔うことなく、「自己観察」と「自己統御」で自動的反応にブレーキをかけ、必要であればそれを止めるというのが、よりよいアプローチではないでしょうか?

 また是非、御意見・御批判をお聞かせ下さい。
                             敬具
ひばり様
      2004、2、29、
                           曽我逸郎

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