ひばりさん 宗教の心(続き)自己犠牲 2004,2,29,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おっしゃる通り「自己犠牲」も、「諸刃の剣」です。しかし先にも述べたように「頭は生きている内に」と、「自己犠牲」の在り方についても気を配る必要があります。
「般若心経」に述べられていますように、「空」とは、「大小、長短、善悪」らに分別されるものではなく、これは購読している地方新聞に載っていた「コラム」の記事ですが、

児童保護士が非行少年に「親が心配しているから止めるように」と諭したところ、少年は「今真面目になるわけにはいかない、止めると親の行為が正しいものになるから」と言って止めない。それは親の異性関係を知っていたからだ。

と言うように、「善、必ずしも善」ではありえず、「悪、必ずしも悪」ではありえません。
間、余り詳しく説明すると本の一冊にもなってしまいますから、ここでは「自己犠牲」とは「自己を放棄」する為の方便として述べたもので、それはいわば「自我を捨て、無我になる」一つの手段として述べました。そして「自分以外のもの、普遍的世界」に目を向けるべきだと思うのです。
例えて言えば、堤防や包みは今日コンクリートとで出来ていますが、これは石ころや砂粒の集合体で、その一粒が我々が言う「自己」に当たりますね。何千億個の粒があるのに、また洪水などは何十年に一度くらいなものなのに、毎日二十四時間ぶっ通しで頑張らなくとも、と思いがちになるものですが、集中豪雨などなくても、一粒が役目を放棄して抜けたら「アリの穴から堤は壊れる」ことになります。
この事から、「自己犠牲」は、ある得手のものに対してすべきではなく、即ち「差別なき行為(布施、菩薩行)」であるべきものでしょう。
こういう風に「aともいえbとも言える」ものなので、私自身も頭がこんがらかりますね。もっともこれが「空」の真髄とわかっていますが。
曽我さんに理解していただけるでしょうか?

ひばり


ひばりさんから 「宗教の心」 NO.3 2004,3,3,

曽我氏の本文や遺書、論文、一通り読ませて頂きました。
しかしアンケートに答えるに当たり、たった一つしかマークがつけられませんでした。曽我さんの文章は、簡単に言えば「受け売り」になっているように思います。釈尊のね。
我々は一人の人であり、私は貴方ではなく、貴方は私ではない。であるから、釈尊は私ではなく、私は釈尊ではありうることはないものです。ですから、釈尊がこうされたから、私もそうすれば悟りに導かれるかと言うと、そうはいきません。「生に対する受け止め方」「性質とか性格が同一ではない」などから、釈尊の「一挙手、一投足」をなぞり真似したところで実を結ばないと思います。
釈尊には釈尊のやり方があったのであり、それを真似するのではなく自分にあった道をたどる必要がありましょう。
宗教法人の中に、確か「生長の家」と言うのがありますが、その教えは「テレビの見たいチャンネル」にチャンネルを合わせるように、釈尊からの電波を受信できるチャンネルにあわせることが、悟りの一歩だ、と言うように説明されています。しかし私には、これはこれで正しいと言えますけれども、このチャンネルの周波数には「幅」があると言わなければなりません。それは今も言ったように、それぞれの「個性」に合わせたものでなければならず、「これ」と限定することは出来ないからです。
「とんち」で有名な「一休禅師」は悟りを開かれてから、「釈迦も達磨もクソ食らえ」と言われたとか。それも釈迦は釈迦、達磨は達磨、一休は一休だからでしょう。
だから「貴方は貴方」であって欲しいものです。

ひばり


ひばりさんへの返事 2004,3,5,

拝啓

 思いがけないお言葉を頂き、喜んでおります。釈尊の受け売り、釈尊の真似と言って頂いたのは、批判なのでしょうが、私にとっては誉め言葉以外のなにものでもありません。
 ただ、正直なところ、どこまで正しく「受け売り」が出来ているのか、あまり自信はありません。釈尊に倣おうという気持ちは強いのですが、肝心の釈尊のお姿がはっきりと見えない。これは違う、そんな筈はないと、人の批判はできるのですが、自分の理解は、雲を掴むようで、拙い仮説のままです。

 私は、釈尊の教えは、人によって個性によって変化するようなものではないと思います。四聖諦はすべての人にあてはまるし、無常=無我=縁起は宇宙のすべての事物にもあてはまる。相手に応じて説明の方便は変えられたでしょうが、教えの核心は、極めて普遍的な真理だと思います。人間の自然なものの見方(「ものはそれとしてある」という見方)に逆らって、今から2500年も前に、そんなところまで突き詰め考えて到達された釈尊は、実に信じ難い天才だったと思います。
 私が釈尊ほどの天才であったなら、自分で自分の道を見つけられるかもしれませんが、残念ながらそうではなさそうです。せめて、残された教えの破片を検分し、混ざり物を排除し、つき合わせて、少しでももとの全体の形を復元したいと願っています。

 ですから、一休宗純和尚の真似よりは、できるならば釈尊の真似をしていきたいと思っております。

 「自己犠牲」に関して思ったことは、言葉の一人歩きの危険性です。初めに言い出した人の意図とは無関係に、言葉が後で勝手な解釈を生み出すことがよくあると思います。例えば、空とか真如とか仏性とかは、対象化され実体視されて、釈尊が否定されたブラフマン&アートマンの理論の蘇生となって、仏教を大きく蝕んでいると感じます。
 ひばりさんの「自己犠牲」も、ひばりさんの思いを離れて、間違って理解する人がでてきて、先のメールに書いたような安易なヒロイズムに変質されてしまうおそれがあると思います。誤解されやすい表現ではないでしょうか。
 そのようにいうと、「堤防の比喩」にも同様の危険性が潜んでいるように感じました。一粒でも抜けたら堤防(全体)が崩壊するのだから、すべての粒は、全体のために頑張りつづけなければならない、という統率の論理にすりかえる輩が、必ず出てくるに違いないと思います。
 「自己犠牲」は、自分の胸の内に修めている内は(安直なヒロイズムでない限り)よいことだと思いますが、他の人にそれを説いた瞬間、それは「他己犠牲」を求めることになってしまうので、やはり、別の言い方を工夫した方がいいのではないでしょうか?

 私は、無我の教えとは、自分の欲望を殺して、普遍(全体)のために奉仕することを説くものではないと考えます。勿論、自分が無常にして無我なる縁起の現象であることを腑に落ちて分かれば、欲望や執着の反応パターンはおこらなくなると思います。ですが、起こってくる欲望・執着を力ずくで押さえ込むのではなく(これは、戎定慧の戎の段階)、無常=無我=縁起を納得して(慧)、欲望・執着が生まれなくなるようになるのが釈尊の教えだと思います。
 無我は、縁起と表裏一体の教えです。私達は、独立自存の存在ではなく、さまざまな縁を受けることで発現し、さまざまに発現することでさまざまな縁をまわりに振りまいています。大きな縁の動きの中で、どのような縁を返していくか、限界のある僅かな主体性の幅しかないけれど、ひとりひとりが考え、なるべくよいこと(自分にも、他の有情にも新たな苦を与えず、今ある苦を抜いていくこと)をしていくように努力する。これが仏教ではないかと思います。
 堤防は、水圧や夏の日差しや冬の凍てつく寒さ、蟻、モグラなどさまざまな縁を受けています。そうした縁を受けながら、魚や木や虫や人などのさまざまな暮らしを見て、なにが正しいかひとりひとりが考える。その結果、脱ダム宣言じゃないですが、コンクリートによる河川管理はよくないという人も出てくるかもしれない。さまざまな意見が批判しあうこと(=縁を与えあうこと)で、私達はより広く多様な縁を受けることができ、それをよく考えることで、返せる縁の幅が広がり、自分と有情によりよい縁を返せるようになるのではないかと希望的に考えます。(仏教の無我=縁起や慈悲の教えは、民主主義を支える理論にも応用できるだけの普遍性があるわけです。)

【ホームページ掲載に当たって加筆】
 釈尊は、自灯明、法灯明を説かれた。にもかかわらず、「我を捨てろ」などの言い方で無我の教えを歪曲し、自分で考えることを禁止して、指導者を無批判に受け入れることを強いる「仏教」があまりに多い。
 (ひばりさんの御趣旨とは無関係な思いつきですが、変なことを考えました。世界の古代文明は、みんな大河の流域に発生した。それは大河が定期的に氾濫して肥沃な土壌を運んできたおかげで、作物が豊かに実ったからだ。学校でこう習いました。であるなら、現代でもうまく氾濫を利用すれば、化学肥料を減らせるかも・・)

 実際の自分の毎日の生活から目を背けて、理想的なことを書きました。

 また御意見・御批判を是非お送りください。

                                  敬具
ひばり様
      2004、3、5、                     曽我逸郎


ひばりさんから 「宗教の心」 NO.4 2004,3,5,

まったく曽我さんのおっしゃるとおりです。言葉として述べますと、その真の意味は別の意味に受け取られてしまいますね。
前回のべた「釈尊は釈尊なり、一休さんは一休さんなりに」と言うことは、述べ忘れましたが、釈尊は相手の「性格、性質等」をよく見据えられ、その「性格、性質等」に最も適当な教えを説かれました。これを「対機説法」と言いましたね。機根に適した教えを説く、と言うことなので、場合によっては「A」に説いたのと「B」に説いたものとは正反対の場合もあったようです。ですから我々凡人は、凡人に適した釈尊の教えにすがり、修行して「真如」の世界にたどり着くことが大切になりますね。
となりますとAとBとでは、その勤め方、修行がまったく同じものとはならないことになります。
その為に仏教では、いろんな「宗旨宗派」が擁立されています。それは修行の仕方によって決まる、と私は思います。それも「呼吸法」のリズムの違いに現れいていると・・・。
一般的な修行である「座禅」の呼吸は静かです。次は「称名念仏」、これはお東よりお西の方がデンボが早い。これより早いのが「お題目」でしょう。これらの呼吸をつつけることによって「臍下炭田」が整い、精神状態が瞑想状態に入れる訳ですが、人によっては座禅よりお題目のほうが・・・と言う人もいますね。
これは音楽にもテンボやリズムが向く人と向かない人があるように、得意下手があるのと同じことです。
我々は主に、「家のお宗旨だから」と先祖代々からのお宗旨を受け継ぐよりも、よく自分の性格などを見据えてどのお宗旨が適しているか、考えるべきでしょう。
釈尊も、一目釈尊にお目にかかりたいと遠路訪ねて来た人に、「私の側近くにいても法を見ないならば、私を見たことにはならない。しかし遠く離れていても法を見るならば、その人は私の側近くにいる」と述べられており、我々は独自性ある修行によって「法」にたどり着く必要がありますね。
「法」を見て取ってから、「四聖諦、八正道、縁起、空」らに展開されることでしょう。
言葉の限界、感じますね。

ひばり


ひばりさんへの返事 2004,3,8,

拝啓

 メールありがとうございます。

 おっしゃるとおり、私も、修行にはさまざまなスタイルがあると思います。修行のみならず、仏教の理解についても、重点の置き方などによって、いくらかの幅が生じるのは自然だろうと思います。
 ただ、現代は、仏教を名乗りながら、仏教でないもの、仏教に反するものが、あまりにも多いと感じます。それについては、他の人達のためにも、これは仏教ではないと私は思う、と指摘しなければなりません。
 しかし、なにが仏教でなにが仏教を名乗る反仏教か、その判断は人によって異なるでしょう。それは、互いに批判しあいその結果を検討して行くことで、納得できる答えを探して行くしかありません。また、仏教の幅の中での相違であっても、単に教えを聞くものの個性の差によるだけなのか、あるいは理解の深さの差なのか、それも同様の方法で考えていくべきだと思います。

 ところで、スッタニパータのマーガンディヤでは、「『わたくしは、このことを説く』、ということがわたくしにはない」<中村元訳「ブッダのことば」(岩波文庫)>とあり、釈尊は、見解に固執すること、論争することを否定しておられます。これについては、どう考えればいいのでしょうか?

 「このことを説く、ということがない」というのは、懐疑論者サンジャヤの主張そのままです。おそらく、サーリプッタと共に大挙して移ってきたサンジャヤの弟子達をとおして、かつての師サンジャヤの「見解」が釈尊の言葉としてまぎれ込んだのだと思います。なぜなら、ここにこうあっても、経典の他のほとんどすべての部分で、釈尊は、さまざまなことを、しばしば繰り返し説いておられるからです。あるいは、バラモン・マーガンディヤが苦の滅に資することのない主張をし、釈尊が無記的な対応をされ、それがサンジャヤ風の言葉で残されたのかもしれません。ともかく、釈尊は、肝心の点については、明確な見解を持っておられたと考えます。

 では、見解への固執と論争の否定は、どう考えるのか?  もう一度読みなおすと、釈尊が見解への固執と論争を否定された理由は、「内心の平安」を保つ( or 得る)ためだと読めます。もしそうだとすれば、屁理屈かもしれませんが、自分の見解に固執せず、内心の平安を保ちつつ、誰が正しい・誰が勝ったの論争ではなく、互いに理解を深め合うための議論をすることは、おそらく悪いことではないと思います。
 我執の強い我々は、ついつい勝った・負けたの感情に陥ってしまいます。そのことは痛感していますが、それでも、勝った負けたの感情を恐れて議論しないより、自説に固執せず(=自説を仮説と捉え)、正しさを求めて検討しあったほうがいいと思います。
 もっと正直に言うと、私は、私だけの考えで正しく仏教を学ぶ自信がないのです。釈尊から二千数百年の時が流れ、現代では、さまざまな「仏教」が玉石混交のままそれぞれ「総本家」「宗家」といった看板を並べて客引きをしています。その中から、ひとりだけで正しい仏教を「選択」する自信がありません。異なった意見を聞き、間違いや見落としを指摘して頂いて、さまざまに検討しながら、釈尊の教えに近づいていければと思います。今後とも、よろしく御協力をお願い致します。

 ひばりさんのメールへの返事というより、自問自答に陥ってしまい、「議論すること」に固執した見解を書いてしまいました。

 引き続き宜しく御意見・御批判をお聞かせください。

                                 敬具
ひばり様
      2004、3、8、                    曽我逸郎


ひばりさんから  2004,3,8,

「見解への固執と論争の否定」とは、だから「般若心経の心」である「あるがまま」なんですよね。すべて「流れに身を任せる」ことで、「己を立てて流れに逆らう」事ではないと言う事でしょう。

ひばり


ひばりさんへの返事 2004,3,9,

前略

 早速にお返事賜り、ありがとうございます。

 そろそろ収拾を、とも思いますが、私にとって重要な部分で若干の見解の相違があるようなので、もう少しお付き合い頂ければ幸いです。

 「あるがまま」とか「随運」「無為自然」は、仏教というより老荘思想ではないでしょうか?

 釈尊は、努め励め、怠るな、と繰り返し仰いました。流されていけば自然に釈尊の教えに流れ着くとは思えません。我々の自然なあり方は、欲望執着に導かれた反応を繰り返すことです。自然のまま流されていれば、我執の反応を強める、すなわち、かえって「己を立てる」結果になると思います。

 それに、流されていって、どこかの教団に漂着し、「最終解脱者の教えは絶対だ。世間の人間は悪業を重ねている、ポアして救え。これは、何事にも心を動かされない修行でもある」と言われても、流れに身を任すのでしょうか? 太平洋戦争中のようなことがあれば、仏教者は、「勇敢に戦って敵を殺せ」と、また世間の風潮に乗るべきなのでしょうか?

 ひとりひとりが、努力して、「自分を拠り所に、法を拠り所に」仏教の正しい道を模索すべきだと思います。その努力が真剣であるなら、自分と違う考えや自分には理解できないことを言っている人に出会ったら、どちらがより正しいのか、検討したいという思うでしょう。
 前回お送りしたメールから、私の「見解」を再度書きます。

 自分の見解に固執せず、内心の平安を保ちつつ、誰が正しい・誰が勝ったの論争ではなく、互いに理解を深め合うための議論をすることは、おそらく悪いことではないと思います。
 我執の強い我々は、ついつい勝った・負けたの感情に陥ってしまいます。そのことは痛感していますが、それでも、勝った負けたの感情を恐れて議論しないより、自説に固執せず(=自説を仮説と捉え)、正しさを求めて検討しあったほうがいいと思います。

 般若心経については、仏教に入る大きな入口になっている点は評価していますが、内容というか、考え方には少し問題があるのではないかと思っています。すなわち、空を名詞化して超越的実在として捉え、その結果、「我々は空の現れであるから、賢しらな修行は止め、はからいを止め、対象を捉えることを止めれば、本来のあり方にもどり、空とひとつになり、一切とひとつになり、解脱できる」という観念的思想を生み出し、空によって我を強化する思想の萌芽となったではないかと思っています。どうお考えになりますか?

 できましたら、山崎清巳さん、清水さんとの意見交換も御一読頂いて、また御意見御批判をお願い致します。

                               草々
ひばり様
      2004、3、9、
                           曽我逸郎

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ