江口聖市さん 永遠を求める執着(瞬間を愉しむ) 2004,3,4,

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< 永遠を求める執着 >

一応全章を読ませていただきました。私なりの感想を述べさせてください。

私は、釈尊が説かれたとされる、ある教えを私なりに実行しているものですが、実はこの仏法に縁した切っ掛けは永遠なる生命を求めていたことに因ります。

40年近くの修行?の結果得たものは、自分(自我)は無常の存在であると言うことでした、心身ともに、個の寿命としては区切りが(死)あるということと、ヒトは何の為に生きているかという命題に対して、人生には目的などなく、ただ今の瞬間を愉しめば良いということでした。

無常とは言葉を変えれば曽我さんのおっしゃてるように、常ではなく変化し続けることだと理解しています。たしかに空なるものは生ずることも滅することもない、因果律を無視した始まりもなく終わりもないことを表わしているのでしょう。私の一念(今の心の一つと因数分解できます)は、くるくると変化して止まないものです。又、心は、一切の現象を造り出すともある経では説かれています。

永遠なるものが在るとすれば、それはすべての有情無常にとって母ともいえる空なのでしょう。例えて言えば、大海を空なるものとすれば、表面の波や、泡、砕け散る飛沫は個をもった有限なる私だと想うのです。
個体を持つということは、それぞれが、一つ一つの個性(感情、理性、本能)を持てると言うことに、繋がっていき、もし、かりに個体、個性をもたない、永遠なる自我というものがあるとすれば、それは、もはや自我と呼べる代物ではなく、空なる無我でしょう。こんなふうに考えだすと、結論としては、自分はこの変化する娑婆世界を愉しむことに専念すれば良いんじゃないかと、想ってしまうのです。
仮に、経で説かれている、無間地獄、灼熱地獄のような環境におかれたとしても、三途の河を渡るヒトのために、渡し舟を作ろうと考えたり、閻魔さんが、パンツひとつで居たら風邪をひくよと言って彼のために、着物を作ってやろうとしたり、餓鬼で飢えているヒトが多いなら、地獄の土地に何か食べ物を栽培しょうと思えば楽しいではないですか。要は今自分が置かれている状況を、どうしてもっと愉しいものにしようかに知恵を絞りたいのです。現状嘆いたり、先のことに、心を砕くのはつまらないと心底思ってしまうのです。

こころのどこかでは、無我にはなりたくないという気持ちが強いんでしょうね。従って禅をやろうという気持ちにもなれない私です。


江口聖市さんへの返事 軽安、空、無我 2004,3,10,

拝啓

 メール頂戴しありがとうございます。返事遅くなり申し訳ありません。

 どういう返事をお出しすればいいか考えながら、何度も読ませていただきました。大変共感するところと、微妙な部分と両方あるように感じたからです。

 初めに共感した点から。

>自分(自我)は無常の存在である
>心身ともに、個の寿命としては区切りが(死)ある
>ヒトは何の為に生きているかという命題に対して、人生には目的などなく、
>私の一念は、くるくると変化して止まないもの
 まったく仰るとおりです。私もそのとおりに思います。でも、
>ただ今の瞬間を愉しめば良い
 というお言葉には、一瞬、よくある享楽主義なのかと思ってしまいました。「人生には、目指すべき目的や価値はない」というと、大抵、「では自殺せねばならないのか」という反論か、「やりたい放題して人生を終えればいい」という意見か、両極端のどちらかが返ってきます。「またしても目先の欲によって苦を招く人か」と思ってしまいました。
 しかし、江口さんの娑婆世界の愉しみ方は、違いました。
>無間地獄、灼熱地獄のような環境におかれたとしても、三途の河を渡るヒトのために、渡し舟を作ろうと考えたり、閻魔さんが、パンツひとつで居たら風邪をひくよと言って彼のために、着物を作ってやろうとしたり、餓鬼で飢えているヒトが多いなら、地獄の土地に何か食べ物を栽培しょうと思えば楽しいではないですか。要は今自分が置かれている状況を、どうしてもっと愉しいものにしようかに知恵を絞りたいのです。
 肩に力の入った善行・菩薩行ではなく、ちょっとした軽安な親切なのですね。勿論、実際にそれをやる段になれば、様々な障害や苦労、邪魔があることでしょう。でも、それも愉しんでしまう、そんな軽安さ。さすが40年も研鑚してこられたんだと感じました。
 私もそういうふうに、軽安に人を助け、いいことをしたとも思わず、屈託なく、命尽きるまで楽しんで生きられれば、と憧れます。おそらく「軽安」は、私に一番遠いあり方なのかもしれません。

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 次に、微妙な部分を書きます。私の考えをお伝えして、江口さんのお考えと比較して頂き、相違があれば互いに研鑚できればと思います。空と無我についてです。まず空から。

 「永遠なるもの」、「母ともいえる空」、「大海を空なるものとすれば」という表現から、江口さんは、私が「あたりまえ・・・般若経」を書いた頃と近い考えで空を捉えていらっしゃるのではないかと感じました。あれから六年半くらい過ぎて、私の考えは随分変わっています。

 今、私は、こう思っています。空(シューンヤ)は、英語なら void あるいは empty で、本来述語であり、主語となるもの(すべての現象)が「自性に欠ける」ことを意味する。空は、元々は、無常=無我=縁起と同じことを言っていたと思います。述語にとどまる限り、空は正しい言葉でした。

 しかし、それが、名詞「空(性)」となり、対象化され、一人歩きし始め、「一切を生み出す根源、すべてに内在し、すべてを超越する永遠なる絶対的実在」として考えられるようになっていきました。バラモン教の梵や老荘思想の無と共通する考えです。(つまり、「あたりまえ、、般若経」の「空」解釈は、そのような悪しき典型です。)

 「空」(あるいは「真如」)を実在視して考えると、やがて以下のような思想が生み出されます。
 「人間は、空の現れだ。外からの客塵によって汚されているだけで、本来清浄である。賢しらな努力を捨て、はからいを止め、あるがままに身を任せよ。そうすれば本来の空の働きのままに、絶対自由の境地に遊ぶことができる。それが解脱だ。」
 つまり、超越的な「空」と一体になることで、「我」をも超越的なものにする、梵我一如の焼きなおし、釈尊の無常=無我=縁起とは、正反対の考えが生まれることになりました。さらに場合によっては、「煩悩即菩提」と自分の欲望を肯定し、一切は空の現れと有情の苦も座視・肯定する思想さえ生まれることがあります。
 けして江口さんがそうだと言っているのではありません。空を実体として捉えることには、そのような危険な芽が宿っており、釈尊の無常=無我=縁起の教えと相容れない、とだけ申しております。

 海の比喩で言えば、波が波を生み、また泡を生み、泡が飛沫を生む。そのように無常にして無我なる現象が、縁によって生みだされ、縁によって変化し、縁によって終わり、そのつど他の現象に縁を振りまく。縁による現象の連鎖が起こっているだけで、その上にも下にもなんら超越的な実在はない。つまり、波や泡が起こっているだけで、海などないのです。海(「空」「真如」)は言葉によって構想された観念に過ぎません。観念を実在とする過ちは、やがて仏教の中に反仏教を生み出すことになりました。

 という訳で、「空」や「真如」は、誤解を生みやすい危険な言葉なので、私は極力使わないほうがいいと思っています。無常=無我=縁起で、すでに言い尽くされていると思うからです。

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 無我について

 江口さんは、「無我にはなりたくない」と書いておられます。しかし、いくらなりたくないと思っても、私たちは、生まれてから死ぬまで、ずっと無我です。出家前の釈尊も、修行中の釈尊も、成道後の釈尊も、ずっと無我です。

 私たちは、最初から最後まで、縁起によるところの無常にして無我なるそのつどの現象です。にもかかわらず、私達はそのことを知らず(無明)、独立自存の自分がいて、それが外の世界に自律的に対処していると思い込んでいます(我執)。自分に有利なものを手に入れ、不利なものを拒絶・否定し、自分を守り育てようと懸命になっています。身の回りの些細なことから戦争まで、すべての争いはこの我執に由来します。我執は苦を生みだし、自分も人も苦しめます。

 自分は縁起によるところの無常にして無我なるそのつどの現象であった、と気づくこと、それによって我執の自動的反応を止めること、それが覚りだと思います。
 「あぁ、これまで俺は、憤怒し、悲嘆し、増長し、必死になって自分を守り育てようとしてきた。そのためには、敵だと思ったものを容赦なく攻撃してきた。でも、そんな守り育てるべき自分なんてなかったんだ。私は、周囲のすべての事物と同じで、皆から縁を受けてそのつど起こり、そのつど皆に縁を振りまいている、そういう現象だったんだ。あの人も、この虫も、あの花も、石も風も、みんなそうだ。あぁ、そこのあなた、そんなに髪を逆立てて怒らなくてもいい、そこのあなた、そんなに胸をかきむしって悲嘆にくれることはない。寒いなら、拙いけれど服を作ってみようか、空腹なら、いっしょに種をまこう、、、」

 頑張って想像して書いてみましたが、腹に落ちて分かっていないので、空疎ですね。自分が死ぬことを頭では理解しながら、本当には分かっていない、私の無常=無我=縁起はそのようなレベルです。自分の無常=無我=縁起を、腑に落ちて納得する術が、定における自己観察だろうと考えています。それができれば、こんな私でも、軽安に過ごすことができると思うのですが、、、。

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 蛇足ながら、、、。

 「心は、一切の現象を造り出す」と言っておられるのは、唯識を踏まえておられるのだろうと思います。私は、唯識思想にも問題があると思っています。難しいことを言い出せばきりがないのでしょうが、三界唯心という言葉は、縁によらない独立自存の心を妄想させかねません。心が一切の現象を造り出すのではなく、心もまた、外界からのそのつどの様々な縁とそれ以前の様々な心を縁にして、そのつど引き起こされている現象です。

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 是非また、御意見・御批判をお聞かせ下さい。
 今後とも宜しくお願い致します。
                                 敬具
江口聖市様
     2004、3、10、                     曽我逸郎


江口聖市さんから 法華経寿量品文底秘沈の法 2004,3,10,

曽我逸郎様

私の戯言ととも取れるような投稿に、かくも誠実にお付き合い頂き感謝申し上げます。世の中まだ捨てたものじゃないと実感しています。

お尋ねの或る教えとは、タイトルに記しましたように、釈尊が晩年に説法したといわれるものを、後代の弟子が編集した法華経28品の本門(第15品から28品までを指します)部の寿量品第16の経文の文の底に秘められたとされる、5字、7字の南無妙法連華経です。今は、特に組織にはつかず、自分一人で実践しています。
私の拙い説明では、曽我さんに申し訳ないと思いますので、御書の一文をご紹介させて頂きます。ご興味が、おありでしたら一読していただければ嬉しいです。

“ 天地水火風は是れ五智の如来なり一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に世間と出世と和合して心中にあって心外には全く別の法無きなり故に之を聞く時、立所に速やかに仏果を成ずること滞り無き道理至極なり、総の三諦とはたとえば珠と光と宝の如し、この三徳有るに由って如意宝珠と云う故に総の三諦にたとう。若し珠の三徳を別々に取り放さば何の用にも叶う可からず隔別の方便経の宗宗も亦是くの如し珠をば法身にたとえ光をば報身にたとえ宝をば応身にたとう。この総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌うなり之を丸じて一と為すを総の三諦と云う。この総の三諦は三身即一の本覚の如来なり又寂光をば鏡にたとえ同居(どうこ)と方便と実報の三土をば鏡に遷る(うつる)像(かたち)にたとう。四土も一土なり、三身も一仏なり今はこの三身と四土と和合してほとけの一体の徳なるを寂光の仏という。。。。。

三世の諸仏はこれを一大事の因縁と思し召して世間に出現し給えり一とは中諦、法華なり大とは空諦、華厳なり事とは仮諦、般若、方等なり、巳上一代の総の三諦なり、之を悟り知るとき仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり。因とは一切衆生の身中に総の三諦有って常住不変なり、これを総じて因と云うなり、縁とは三因仏性有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今この一と大と事と因と縁との和合して遭いがたき縁に値いて五仏性を顕わさんこと何の滞りあらんや。。。。

私も空についてかなり理解の程度が最近かわってきました。このことについては又HP上に投稿させていただきたいと考えています。

 江口  - 拝 −


江口聖市さんへの返事 2004,3,18,

前略

 メール頂戴しありがとうございます。返事が遅くなり申し訳ありません。

 御書とは、日蓮の言葉でしょうか? 私は、もともと日本仏教には疎く、残念ながら、むずかしくてよく理解できませんでした。当面は、釈尊の教えを学ぶことに専心したいと思っています。いずれ、また縁ができれば勉強させて頂きます。

 空についての御意見、お待ちしております。

 宜しくお願い致します。
                      草々
江口聖市様
        2004、3、18、                曽我逸郎

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