NORTONV世さん 無我についてのよしなしごと 2004,3,6,

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初めてお便りを差し上げますNORTONV世と申します.HP楽しく拝見しております
生き生きとした曽我様の言葉で語られるBC6世紀のスーパーリアリスト、釈尊の教えの先鋭且つ深遠な事は驚くばかりです.般若経も感服いたしました(どなたかが同じことをいておられましたが)ブラボー!です

意見などという物はおこがましくてとても差し上げられませんが意見交換や小論の感想(っていうかただのヨタ)を述べさせていただきます.気楽にお聞き流しください
1.人無我について
1-1)曽我さんは竜樹に倣って無我を縁起で説明しておられます.
人にあてはめて言えば”先ず肉体が前提にあって、五感で観測が電気信号に変換され神経回路を通って脳に伝わり、その結果生じた脳内化学物質の分泌云々・・(詳しい事は全く知りませんので、ごめんなさい)の現象総体であって実在の我があるわけではない“,といったところですか、
 これは勿論正しいと思いますが(釈尊も竜樹も大脳生理学者ではないでしょうが)、しかし、ちょっと引っかかるところがあります.
釈尊は“生/老/病/死”の苦から衆生を救うために無我に行き当たられたわけですが、上記を理解したところで”苦“から救われるでしょうか?まぁ釈尊の時代の衆生は輪廻転生による永遠の苦を恐れていたのであって”生まれ変わるような実態としての我なんて無いんだよ”って説明で充分だったのかも知れませんが.
佐倉哲さんのHPでの新興宗教信者とのやりとりなんか読むと現代日本人は輪廻転生は恐怖じゃなくって天国みたいな救いと考えている人が多いみたいですね.

1-2)小生の考える人無我(多分パクリあり)
小生が最近思っているのは人無我=タマネギの芯には何にも無い.です.
我々はおよそオギャアと生まれ、初めて産婆さんだの母親だのという他人を認識します。そして、その他人が自分に対して働きかけてくる事により、その働きかけの対象である自分を逆に認識します.我々は先ず最初に親にとっての子であり、じいちゃんにとっての孫であり、成長するに従って、近所のおばさんにとっての近所の子であり、…という具合に時間的/空間的な自己の社会的広がりの中で重層的に自分を造っていきます.いわばDNAという前提があり、その上に言語/教育など様々な社会的条件に制約されて形成される皮を一枚一枚かぶっていきます
これを逆に現在の自分から.会社の中で課長さん/家の中でのお父さん/趣味の仲間内での自分という具合にタマネギの皮をむくように一枚一枚はいでいくと真中には何にも無い事に思い当たります.
この無我の説明は例えば自灯明の説明などともうまく整合すると思います(アートマンに二つの意味を持たせても無論いいんでしょうけど)釈尊は“タマネギの真中は空っぽだ”とはいっても(それこそ縁起の皮の塊としての)”タマネギ“そのものの存在を否定しなかったと考えます.
勿論この考え方は欠点だらけで
@)“釈尊は社会心理学者でもフロイトでも無いぞ”といわれかねない
A)曽我様の無我=縁起説に対しそれがわかったところで“苦”が克服できるのか?

と、自分でツッコミながら、その疑問にひとっつも応えていない=自爆 笑)。どころか、タマネギの芯になんにもないのを理解するのは恐ろしいストレスの種になりそうな気がする.

確か仏教のオリジナルは“色受想行識には我という物は無い”
だったと思いますが“色/受/想/行/識について、いつの日か”曽我節“を語っていただければ幸いです

2.禅修行について
曽我様は、瞑想/座禅などの禅修行に興味を持っておられるように見受けられます確かに曽我様が紹介していらっしゃるブッタダーサ比丘の記すように

 無常、苦、無我という特質を量って、合理的にどれほど考えたとしても、知的理解の他には何の結果も得られない。世俗のものに対して幻滅や覚醒を起こすことはけしてあり得ない。
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 合理的思考は、人をして自分たちは我(=アートマン)ではあり得ないと納得させるに十分ではある。しかし、その結果は単なる信仰にすぎず、我として自分たちに執着することを完全に切除できるような明白な洞察ではない

のは確かなんでしょう

私はちょっと思い出した事があり禅修行の内、座禅/瞑想とはちょっと違う側面を述べます(エラソーに)
私の中/高校は浄土宗系でしたが何故か中三の時には(希望者には)永平寺参禅五日間という行事がありました.所謂観光参禅と少し違って、掃除などの雑務以外、食事や朝の読経は雲水に混じって全く同じという中々キツイ奴でした.そのときは食事の仕方/手の洗い方/風呂の入り方…実に恐るべき瑣末主義の塊だなとも思いましたが、反面、何でも正しいやり方ってのはあるもんだな、位の感想は持ちました.

その後、高校時代から、ちょくちょく山に出かけるようになりテントを担いで山から山へ一週間キャンプなどという事もやるようになりましたが、このキャンプ暮らしがちょっと雲水修行に似ているという感覚をもちました.
キャンプでは重量の問題があるので不必要な物は一切持っていけません(昔のテントやザックは綿帆布製で重かったですからね.一週間分の食料などを入れると20kgは軽く超えます)水が極端に貴重な尾根筋などでは勢い食作法なども雲水と同じように食べ終わった後お茶ですすいでそれを飲んで食器はふくだけということになります.
そしてこのキャンプ暮らしで身に染みてつくづく体感するのは”人間一人が生きるのに本当に必要な物は実に少ない“こと(立って半畳寝て一畳.天下とっても二合半)です。言い換えれば普段我々ははいかに不必要な物に囲まれ、それがさも必要なように思い込んで生きているかです。
キャンプ暮らしの間は朝起きて食事を作り食べ弁当をこさえテントを畳み、ひたすら歩き次のキャンプ地に着けば、設営し、食事を作り夜7時くらいになれば星空をちょっと見て寝てしまいます.他のキャンパーの迷惑になるので天気予報以外はラジオもつけませんし、ぐちゃぐちゃと遅くまでしゃべる事も出来ません.
その間に日々消費するのは何合かの米といくらのタマネギ/人参/ジャガイモ(腐り易い物はNG)、フイッシュソーセージ、漬物、茶葉、炊事燃料として何十CCのガソリンだけです.
情報が遮断されているので中日ドラゴンズの勝ち負けに心をわずらされることも無く、人気連載マンガの主人公の今週の運命に思いがいたることもありませんでした。

 一週間もキャンプ暮らしを続ると家へ帰ってきて、相変わらずの物の中/人の中にあってもしばらくは独特の違和感を感じました。まぁ俗塵感覚に戻るのに3時間くらいしかかかりませんが.
してみると、あの雲水暮らしというのは屋内でやってるキャンプのようなものかもしれません.
 私事ですが小生の物故した大叔父は永平寺で10年修行した後、丹波の山奥の檀家も少ない禅寺の住職となりました.欲の無い人で、親戚中で一番貧乏でしたが、一番尊敬を集めていました.檀家の信望も厚かったと聞いております.

取り留めの無い事をうだうだと失礼致しました


NORTONV世さんへの返事 

拝啓

 メール頂きながら、返事が遅くなり、申し訳ありません。

 さっそく順番に、思ったことを書きます。

1) 【戯論・分別で縁起=無我を理解して苦を吹き消すことができるか?】

 私は、一知半解のまま進化論や脳科学をこねまわして無我や縁起を考えておりますが、それで苦を吹き消せると考えているわけではありません。あくまで方便です。

 ひとつには、霊魂のような持続的実体を想定している人、あるいは人間の極自然なあり方として、独立自存の自分がいて諸々のことに対処していると自覚的でなくともなんとなく思っている普通の人々、そういう人々に対して、「ちょっと待って、そうじゃないんじゃない? 無常=無我=縁起の方が、合理的でしょ?」という問題提起ができればと思っています。普通の人々(=執着に導かれて苦をつくっている人々)にアンチテーゼ(執着すべきものはない)をぶつけるというと大袈裟ですが、そういう気持ちがまずあります。

 それから、仏教を学んでいるつもりでも、様々な「仏教」があって、へたをすると、例えば、変性意識体験によって「私は超越的実在と一体なのだ」などと思い込み、かえって我執を拡大して途方もない苦を人と自分に創り出してしまう危険もあります。戯論・分別のレベルであっても、あらかじめ仏教(無常=無我=縁起)をしっかりと学習しておけば、そのような落とし穴にはまりこむ危険性を減らすことができます。仏教と間違った「仏教」とを見分ける基準を身につけるためにも、戯論・分別レベルの学習は必要だと思います。

 もうひとつ思うことがあります。卑近な例を思いつきました。乗り物に乗っていて、肘掛けの上で隣の人と腕がぶつかる。お互いむっとして、そのことばかり気にしている。せっかくの時間なのだから、景色を眺めるとか、本を読むとか、眠って疲れを癒すとか、いろいろ過ごし方はあるのに、僅か1,2センチのスペースのことで、延々と腹を立て続ける。でも、これは、本当はスペースの問題ではないのです。自分の領域を侵害されていると感じて怒っている。つまり、我執の反応です。
 もし無常=無我=縁起を知っており、執着が苦を生んでいることを知っていて、自分のあり方に振り向くことができれば、自分が今愚かしい反応をして苦をつくっていることにも気づくことができるのではないでしょうか?
 つまり、戯論=分別レベルの理解でも、それをあてはめて自分の反応を振りかえることができれば、自分の反応のパターンを抜本的に変えるには至っていなくとも、そのつどの我執の反応のいくらかは芽の段階で摘み取ることができ、苦の生産を減らすことはできるのではないかと思います。

 我執の反応が抜本的に改変されるのは、無常=無我=縁起を自分の身のこととして本当に腹に落ちて分かった時でしょう。おそらくそれが覚りだと思います。戯論・分別だけでは、そうはならない。しかし、戯論・分別の仏教理解も、覚りを実現しようとする発心は生み出し得ると思います。
 (自分のこととして腑に落ちて分かるための方法として、私が、今想定し、検証しようとしているのは、「定における自己観察」です。)

 戯論・分別レベルの無我=縁起の効能をまとめます。

  1. 仏教外の人に、無我=縁起の考えの合理性・革新性・普遍性を訴えることができる。
  2. 仏教と間違った教えを判別する基準となる。
  3. 自分にあてはめて振りかえる癖をつけることで、自分の我執反応に気づくことができる。
  4. 我執反応を根本的に改めるために腑に落ちて分かろうとする発心を導く。

2) 【タマネギの皮】

 そのとおりだと思います。なにかを経験し、なにかの反応をするたびに、それは業として、私たちの反応パターン(皮)を形成していく。そしてタマネギは、大きくなっていく。悪いことをして味を占めれば、そういう皮が積み重なるし、良いことをしてよかったと思えば、そういう皮が増えていく。新しい皮は、新しい反応パターンであり、古い反応のパターンを変えたり止めたりする。

 ところで、仏教の修行については、どうお考えになりますか? 「汚い余計な皮を外側からはがしていくことが修行だ。」 そういったイメージが一般的だと思いますが、、。
 私は、仏教の修行も、新たな皮を重ねることではないかと思います。蓄積してきたものを捨てることではない。
 勿論、この皮は、他の皮とは少し違います。自分を観察し分析して、自分は芯のない皮だけのタマネギだったのだと知ろうとする皮です。そして、それが達成できれば、また新しい皮ができます。執着によって苦を作らず、人の苦を抜き、軽安に反応していく。そういう皮です。
 仏教の目指すところは、すべての皮をはいで何もなくなることではないと思います。それはできないし、できたとしても脳死と同じなんの反応もできない状態です。

 それから、芯のないことをストレスと感じるのは、我執だろうと思います。現象している我々にとっては、芯のないほうがシンプルだし、ものごとの実態をそのまま見ることができる。我執的反応パターンがなくなれば、芯(我執)のない方が、楽だろうと思います。

3) 【色受想行識】

 私は、色受想行識で釈尊の仰りたかったことは、こうではなかったかと思っています。

 「あなたたちにもわたしにも、我(アートマン)と呼べるような独立自存の自律的主体はない。自分をよく観察し分析してみなさい。色・受・想・行・識に腑分けできるけれど、そのどれもがそのような我ではあり得ないし、それらの組み合わせも我ではあり得ない。だから、あなたたちにもわたしにも、我はないのだ。」

 つまり、わたしたちに独立自存の自律的主体がないことが要点であって、色受想行識はその説明の仕方(方便)のひとつだったと思っています。
 今は「私の無常=無我=縁起」が私の課題だと思っています。その過程で色受想行識を考えるのでない限り、色受想行識そのものをひとつのテーマにして考える余裕は当面ありません。色受想行識をそれとして考え始めると、部派仏教のようなカテゴリー分析の迷路に陥りそうな気がします。色受想行識の”曽我節“はお聞かせできそうにありません。(地元の御柱祭にむけた木遣りなら現在特訓中ですが、、、)
 (おそらく、色受想行識は、自分を観察する修行においても、ひとつひとつを対象にして無我を確認して行くプロセスを形成していると想像します。今の私は、色身を観察しようとしている段階ですが、それから先については、なにも知らずなにも言えません。)

4) 【山、禅寺の作法】

 私も、高校と大学の1年だけ、山岳部におりました。高3の時は、千メートル少しの山ですが、何度か一人で登ってツエルト(簡易テント)を張りました。日が暮れると何もすることがなく、風の音や枝の折れる音を聞きながら、緊張してシュラフの中にもぐりこんでいたことを思い出します。釈尊が遺体捨場の森で修行された時は、どうだったでしょうか。

 永平寺の細かく決められた作法というのは、テレビでちょこっと見たことがあります。ヴィパッサナーでは、瞑想以外の時も、自分の一挙手一投足をはっきりと意識して行え、自分に実況中継せよ、と指導されましたが、それとつうじるものがあるのでしょうか? 様々な道具をゆっくりと注意深く扱う茶道の動きにも、同じようなことを感じました。茶道も禅にルーツを持つそうですから、すべてつながっているのかもしれませんね。
 私たちが無我なる現象であるなら、形を整えるというのは、まったく理に適ったことだと思います。私たちは、反応パターン(形式)の積み重なったタマネギで、本質となる芯はないのですから、反応の仕方を整えることが、まさしく自分を整えることです。
 後片付けもできない自堕落な私がこんなことを言うのは、自分でもちゃんちゃらおかしいのですが、、、。

 また是非御意見御批判をお聞かせ下さい。

 今後とも宜しくお願い致します。
                              敬具
NORTONV世様
           2004、3、15、         曽我逸郎

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