ひばりさん 流れに従うこと 2004,3,9,

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「あるがまま」とか「随運」「無為自然」は、仏教というより老荘思想ではないでしょうか?(曽我)
人間と言うものは、困ったことに思考力がある。それ故に「自我」を持つ。この人間の先祖は遠い昔、土の中から生まれてきたものである。海水や太陽光を受けてアミノ酸などが精製されて誕生した生命体が進化したものである。
この太古の人間をも含む生命体は、思考力は持っていても、「食欲、種の保存欲、生命力」位しかなかった事だろう。
「ありのまにま流されて行く」とは、進化した人間が持つようになった「五欲」を「無我」にし、基本生命体のみの人間として時間に流されていくことを意味している。
浄土真宗の教えに
岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと みずの ながるる
と言う短歌がありますが、流れに逆らう「岩や木の根」と対決することなくごく自然に流れていることをさしたものでしょう。
 釈尊は、努め励め、怠るな、と繰り返し仰いました。流されていけば自然に釈尊の教えに流れ着くとは思えません。我々の自然なあり方は、欲望執着に導かれた反応を繰り返すことです。自然のまま流されていれば、我執の反応を強める、すなわち、かえって「己を立てる」結果になると思います。(曽我)
水の流れに従うことが「努め励め、怠るな」という事。そして流れの終着には、釈尊の台の内にいる。釈尊との一体化。
 ひとりひとりが、努力して」、「自分を拠り所に、法を拠り所に仏教の正しい道を模索すべきだと思います。
 自分の見解に固執せず、内心の平安を保ちつつ、誰が正しい・誰が勝ったの論争ではなく、互いに理解を深め合うための議論をすることは、おそらく悪いことではないと思います。(曽我)
 「自分を拠り所に、法を拠り所に」とは固執すること。すると「自分の見解に固執せず」は矛盾している。
又般若経、その要点のみを纏めた般若心経は、釈尊が悟りによって直感的に悟った宇宙の構造を解明したものであり、釈尊の弟子が「世に辺があるのかないのか、また死後も魂は存在するのかしないのか、それを教えて頂けないなら教団を去る」と言ったのに対して、釈尊は「そのことを知ったところで「苦」の解決にはならない。私が説くことのみを受理するように」と諭された。
この「空の思想」については、現在 江口さんと曽我さんとのに討論に対して一言述べたいものを書いていますので、それをと参照ください。
私の『あるがままに流れていく』ということは、「流れ」は釈尊が敷いた流れ、その流れを自我を張らずに逆らわずに受け入れ、釈尊の懐に飛び込もうと言うことです。しかし完全に「無我」ではなく、「流れに身を任せよう」とする自我、「逆らわずに受け入れよう」とする自我は存在はしています。

判りますかなあ
ひばり


ひばりさんへの返事 自灯明・法灯明 2004、3、10、

前略

 申し訳ありません。まだよく判りません。特に、流れに従うこと=努め励むこと、とはどういうことか、また、釈尊の流れに身を任せるべきなのか、あるいは釈尊の真似はせず自分の道を見出すべき(前に頂いたメール)なのか?
 これらの点は、「空の思想」についてのメールを読ませていただいた上で、あらためて考えさせて頂きたいと思います。すぐでなくとも全然構いませんので、宜しくお願いします。

 ただ、ひとつだけ、『「自分を拠り所に、法を拠り所に」とは固執すること。』という御意見については、私が舌足らずだったようなので、再度説明させてください。

 「自分を拠り所に、法を拠り所に」は、「自灯明・法灯明」とも言われ、釈尊の死後を心配したアーナンダに述べられた言葉、釈尊の遺言のひとつです。中村元訳「ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経」(岩波文庫)から引用します。(P63〜)

 アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、―誰でも学ぼうと望む人々は―。

 また、大パリニッバーナ経には、こういう言葉もあります。(P81)

 アーナンダよ。このように言われた時に、わたしは、悪魔・悪しき者に次のように言った。―
 『わが修行僧であるわが弟子たちが、・・・みずから知ったことおよび師からおしえられたことをたもって解説し、説明し、知らしめ、確立し、開明し、分析し、闡明し、異論が起こったときには、道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説くようにならないならば、その間は、わたしは亡くなりはしないであろう。
 こういう教えもあります。(P103)
 「修行僧たちよ。ここで一人の修行僧が次のように語ったとしよう、―<友よ。わたしはこのことを尊師からまのあたり直接に聞いた。まのあたりにうけたまわった。―これが理法である。これが戒律である。これが師の教えである>と。修行僧らよ。その修行僧の語ったことは、喜んで受け取らるべきではないし、また排斥さるべきでもない。喜んで受け取ることもなく、また排斥することもなく、それらの文句を正しく良く理解して、(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味すべきである。それらの文句を、(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味してみて、経典(の文句)にも合致せず、戒律(の文句)にも一致しないときには、この結論に到達すべきである、―<確かに、これはかの尊師の説かれたことばではなくて、この修行僧の誤解したことである>と。修行僧らよ。それ故に、お前たちはこれを放棄すべきである。(合致するなら、正しいと決定せよ、という趣旨が続く)
 上に引用したような意味で、「自分を拠り所に、法を拠り所に」と申し上げました。すなわち、経典や他の人の意見を学んで、自分でよく考え検討する。その結果、「釈尊の教えは、こういうことであろう」という見解が生じる。しかし、その見解に固執せず、仮説として捉え、さらに様々な経典や違う意見とぶつけ比較し、自分の思考をたよりに、なにがより正しいか吟味分析し、仮説を修正・解体し、時には放棄し、再構築し、深めて行く。ある程度深まったら、自分の身による検分、修行における確認・探求も加え、なんども検討を繰り返すことで、仮説をだんだんと釈尊のお考えに近づけて行く。これが、「自分を拠り所に、法を拠り所に」で言い表わしたかったことです。ですから、見解に固執することではありません。
 (ただ問題は、今に伝えられている経典は、どれも釈尊の教えをそのままに伝えるものではない、という点です。法をそのまま拠り所にできない、法も吟味しなくてはならない訳で、我々は、より慎重に考えねばならないと思います。)

 山崎清巳さん、清水さんとの意見交換などに書きましたとおり、私は、般若心経や空を実在視する思想には、問題があると思っています。是非御批判下さい。

 メールをお待ちしています。
                                草々
ひばり様
      2004、3、10、                    曽我逸郎

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