清水さん ちょっとおじゃましました。 2004,1,11,

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曽我様
 今回は、Googleで「真如」を検索してこちらのサイトにやってまいりました。探していた方向と少しスタンスが違うお考えであるとわかりましたので、つまみ食い的な読み方をさせていただきましたが、とても興味深くよませていただきました。
 もともとの土壌がキリスト教なので理解ができたとはいえませんが、
 意見交換のページにあった、「真如は名詞化してはいけない。」といった部分が参考になりました。まだ、経典そのものも般若心経しか読んだことはありませんでしたが、わからなくても学び続ける。という姿勢が大切なのかな?と思っております。
 読ませていただいたことで、ますます、仏教への魅力が増しました。
 今度は、じっくり読みにうかがいたいと思います。

 本当にありがとうございました。
 2004年1月7日                        清水


清水さんへの返事 2004,1,13,

拝啓

 メール頂きありがとうございます。仏教への魅力が増した、と言って頂いたのは、大変嬉しいです。

 真如は、サンスクリットでは、tathatA (タタター。Aは長母音)で、tathA (「〜の如くに」という意味の副詞)に tA (抽象名詞をつくる接尾語)がついたものという解釈が一般的です。英語なら、 thusness とか suchness という訳語(「日英仏教事典」大東出版社)が第一にあがります。
 日本語に直訳すれば、「そのようであること」で、つまり、「すべてが無常にして無我なる縁起の現象であること」が本当の意味だと思います。主語と述語を含んだ名詞節か、あるいはせめて動名詞として考えなければならない。
 しかるに、大乗においては、特に「真如」と漢訳された中国・日本ではその傾向が顕著になったように思いますが、真如は、名詞となり対象化されて、「現象世界を超越して実在する言葉で説明できない何か」として捉えられる傾向が強くなってしまいました。
 本来の仏教は、現象を見つめ、すべてが(なによりも自分が)、無常にして無我なる縁起の現象であることを見極め尽くすことで、執着をなくし、苦を吹き消す教えであったのに、名詞化・対象化された真如は、現象から焦点をそらさせ、ありもしない永遠の真実在に執着させる働きをしていると思います。

 御明察のとおり、私の考えは、現在の一般的な考え方とはかなりスタンスが違います。学問的に厳密に語れば単純ではないでしょうが、少なくともイメージとしては、真如を超越的な永遠の真実在として捉える方が、普通です。
 様々な考えを比較検討されて、また御意見御批判をお聞かせ下さい。
 キリスト教の視点からの御批判も頂戴できれば幸甚です。

 今後とも宜しくお願い申し上げます。
                               敬具
清水様
       2004、1、13、                   曽我逸郎

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