曽我逸郎

《ヴィパッサナー合宿報告》


2004年8月23日

 日本テーラワーダ仏教協会の10日間瞑想会に参加してきた。自己評価すれば、68点というところか。70点には少し足りない。不合格というわけではないけれど、もっと実りあるものにできた筈だ。自分のための記録も兼ねて、振りかえっておきたい。

 ヴィパッサナー瞑想会は、私としては今回が3回目半である。それ以前は、昨年5月(5日間、スマナサーラ長老指導、丹後・宝泉寺)、昨年8月(10日間のうち7日間参加、ウィセッタ長老指導、熱海・仏法学舎)、昨年12月(5日間の筈が2泊で退席、スマナサーラ長老指導、熱海・仏法学舎)。
 という訳で、全部足しても二十日強にしかならない初心者だ。ヴィパッサナー未経験の方は、そういうつもりで読んでいただきたい。一方、修行の進んだ方は、お気づきの点をアドバイス頂ければありがたい。
 はじめに、ヴィパッサナーを御存知でない方のために私なりに極簡単に説明しておこう。喩えるなら、野生動物を観察する動物学者のように、自分という現象のあり様を観察することである。四輪駆動車の上で遠く風下からさとられぬように双眼鏡でライオンを観察する。足をなめた。あくびをした。尻尾を振った。一挙手一投足を観察しつづける。基本になるのは呼吸の観察であるが、深い息をしようとか、長い息をしようとかはせず、自然の呼吸のまま、それを感じ続ける。

 今回、ウィセッタ長老の組まれたスケジュールは、かなりタイトで、朝の受戒・法話(約40分)、朝食と食後の休憩(合わせて一時間)、昼食と食後の休憩(合わせて一時間)、入浴のための休憩(一時間)、夜の法話(一時間)の他は、朝の四時から夜十時まで、一時間の座禅と一時間の歩行瞑想がぴっちりと隙間なく続く。歩行瞑想の時は、時々トイレに行ったり、お茶を飲んだりもしたが、座禅だけでも毎日七時間半に及んだ。

 とはいえ、私の場合、最初の一両日は、観察どころではなかった。普段家で坐ると、3、40分で集中が切れてしまいそこで止めていたので、そのリズムが染み着いてしまっていたのかもしれない。一時間の座禅の後半は、妄想や膝の痛みで、何度も姿勢を変える始末。ともかくそこに坐っているだけで精一杯だった。特に夜は眠気もひどく、「だめだ、だめだ、瞑想しなくちゃ、無我の瞑想、無我の瞑想…って、一体どうするんだったっけ?」、こんな有り様で、基本中の基本、腹の動きによる呼吸の観察さえ思い出せず、ひたすら混乱していた。こんな調子で10日間過ごすのか、と心配になったが、ようやく2日目の夜あたりから時々は落ち着いて坐っていられるようになった。
 昨年の夏は、坐る度、歩き始める度に、すぐ一定の定に入るような感覚があったのだが、今回は一座ごとに調子の波が大きかった。

◆ 般若。シンクロによってノエシスがノエシスの無常=無我=縁起を知る。

 このような心許ない状態であったが、それでもふたつほど収穫があった。ひとつは、ノエシスが別のノエシスをノエシスのまま対象化して見ることが可能で、それが般若ではないか、という仮説の思い付きである。

 三日目のインタビューで、「妄想が入らないようにするためには、観察のタイミングを合わせるように。」とのアドバイスを貰った。例えば、歩く瞑想なら、足が上がる、前へ運ぶ、降ろす、重心を移す、という観察を、足の動きにぴったりとタイミングを合わせて意識して行く、という事だ。

 次の日の朝の座禅でこんな体験があった。
 呼吸する腹の動きを観察していた。ただ「膨らむ」「縮む」だけではなく、腹がローリングするように拡大・縮小する動きを、タイミングを合わせて感じていた。定が深まって、腹の動きと観察がシンクロした。やがて、視野いっぱいにナマコのようなタコのような皮膚が広がって、斜めに流れるようにすべったり戻ったりし始めた。肌色と朱色と黒の細やかなまだら模様のひとつひとつが皺に刻まれた筋肉がなめらかに上下する。腹の動きと観察する意識とシンクロして、視界いっぱいで行き来している。けして気味の悪いものではなく、ある意味壮観であった。私は、引き込まれて、ひたすら観察し続けた。

 後で振りかえって、小論集で紹介したブッダダーサ比丘の言葉を思い出した。

 宗教的文脈においては、識と般若はどうしても同一ではない。識は、ある程度推論、合理的知性に依存している。(それに対して)般若は、それを超えている。般若によって知られる対象は、(般若に)吸収される。それ(対象)は透徹され真正面から向き合われる。心は、(対象の)吟味・調査をとおして完全にそれ(般若)に吸収され、揺るぎない状態であるので、理性的ではないが純にして心底からのそのもの(執着の対象)に対する目覚めと、それ(対象)への感情的関わりの完全な欠如(捨)が起こる。従って、仏教徒の般若の修行は、今日の学問や学者の世界〈そこではそれぞれの個人が自分だけの真理を持つ事ができるのであるが〉で用いられているような種類の知的理解とは合致しない。仏教徒の般若は、はっきりしたすぐさまの直感的洞察であり、一、二の方法による対象への透徹の結果でなければならず、それは心に明確な消し難い印象を残すことになるのである。
…小論集《タイ上座部の「異端」ブッダダーサ比丘》【 7, 般若と識(分析知)】参照。
 私の呼吸の観察の体験は、ブッダダーサ比丘の言う般若の萌芽的なものではなかっただろうか。「Handbook for Mankind」を読んだ時は今ひとつ分からなかったが、この体験をあてはめると、実感としてイメージできるような気がする。特に、"penetrate" という言葉で言われている状態が、、、。
 小論集ではよく分からないまま「ある種の主客対消滅の状況」と書いたが、主も客も生滅してはいない。観察する意識も、観察される腹の動きも、明晰にくっきりと働いている。観察する意識が、観察の対象にぴったりと寄り添い、重なり合うこと、それが般若ではないだろうか? 識や戯論が、対象をマジックハンドで遠隔操作する知だとすれば、対する般若は、対象に直接密着した隙間のない智だ。

 ちょっと長くなるが、別の説明をしてみよう。

 自分を対象化して捉えるノエマ自己ではなく、そのつど働いているノエシスをノエシスのまま知るにはどうすればいいのか? それが私の課題の一つであった。それこそが、「自分を知る」という事である筈だ。そのためには、対象化のない智が必要であろうと要請し、それを主客対消滅とか意識の指向性停止体験などと呼んできた。
 確かにそのような状態になるのは可能ではあるが、しかし、その時は自分という現象も停止しており、そのような状態は「体験」できない訳で、いくらそれを繰り返しても、なんら役に立たない。
 では、どうすればノエシスをノエシスのまま知ることができるか?

 まず、気づいたことは、ノエシスはひとつではない、ということだ。同時にいくつものノエシスが並行して働いている。しばしば挙げた例で言えば、車を運転しながら、ラジオに合わせて歌を口ずさみ、缶コーヒーに手を伸ばすドライバーがそうだ。歩く瞑想で言えば、「(重心を)移す、(足を)あげる、運ぶ、降ろす」という動きを、ゆっくりと丁寧に行いながら、その動きを細かく詳細に感じ観察して行く。しかし、いつの間にか妄想が走りだし、取り止めもないことを考え始めている。この時でも、丁寧さはなくなっているが、ゆっくりした歩みは継続し、「移す、あげる、運ぶ、降ろす」という意識は、妄想のバックグラウンドで呪文のように続いている(「移す」筈のところで「降ろす」にずれてしまったりするが、、)。妄想するノエシスの他に、歩くノエシス、動きを意識するノエシスが、自動的な反復反応として、平行して起こっているのである。

 つまり、私という反応は、ひとつのノエシスではなく、いくつものノエシスの重なり合いなのだ。最初に上げたライオンの観察の比喩で言えば、ライオンは一頭ではなく、何頭もいる。新しいライオンが突然沸いて出てくることもあるし(例えば、妄想)、今までいたライオンが消えてしまうこともある。ライオンは群れをなし、様々な長さのたくさんのノエシスが次々に現れては消え現れては消えしながら、互いに撚り合さっている。そのような群れが私なのだ。

 そこに一匹の新たなライオン、観察するノエシスを立ち上げ、別のノエシス(例えば呼吸)を定において観察する。シンクロし penetrate して、対象のノエシスを感じ取っていく。観察のノエシスは、対象のノエシスの動きにリアルタイムで間を置かずぴったりとくっついてシンクロしていく。うまく定に入れば、観察するノエシスも、対象のノエシスも働きつづけているまま、対象のノエシスを明晰にありありと感じ取る事ができる。

 同期的活動は、脳のニューロン間においても重要な意味があるとする説があるそうだ。断片的な機能別のニューロンがいくつかシンクロして活動することによって、それらが結合して、より大きな「意味」が創発してくるという。

 そのことと関係するのかどうかは分からないが、観察するノエシスと対象のノエシスが定においてリアルタイムでぴったりとシンクロし続けることは、両方が働きつづけたまま、通常の意識とは明らかに異なった静謐な感覚をもたらす。
 このようにしてノエシスをノエシスのままノエマ化せずに対象化して知ること、それが般若ではないか? 般若においては、明晰な意識でノエシスの働きをくっきりと詳細に生々しく実感することができる。ノエシスをノエシスのまま見ること、自分は無常にして無我なる縁起の現象であると腹に落ちて納得することの可能性が、おぼろげながら見えてきたような気がする。

◆ 惜しむべきなにものもなし。意識は妄想・雑念だけでできている。

 5日目のインタビューでこういう指示をもらった。
 「まず呼吸による腹の膨らみ・縮みを観察し、次に坐っている自分のビジュアルイメージを意識し、その後、尻や膝など5箇所の触れている場所をひとつずつ順に、その度に膨らみ・縮み、坐っているイメージに戻った上で感じていくように。」

 私の場合、自分をイメージ化するのが苦手で、昨年もここで滞ったのだが、今回もやはり骨が折れる。イメージ化に苦労しているうちに3箇所目くらいで妄想に入り込んでしまう。膨らみ・縮みだけを観察している時は、妄想に入っている事に気づいてもいつから入っていたのか分からないが、この瞑想だとどれほど容易く頻繁に妄想に陥っているか、嫌というほど分かる。

 具体的にどんな妄想かと言うと、例えば、自分とは関係のない誰か他の人の仕事の段取りのことだったり、片付けねばならない家の用事だったり、、。ある時は、英会話のロール・プレイングをしていたこともあった。香港生まれの下の子に一度生まれた所を見せてやらないとと思い、その時夜は何を食おうかと考え、中華なら大勢いたほうがいいと思い、香港人の昔の同僚が元の職場に舞い戻ったという噂を思いだし、彼女にアポを入れようとして、電話で彼女の秘書とあれこれ話しをしていたのである。

 しかし、この様に思い出せる妄想は例外だ。妄想の最中に妄想に気づいて意識したから記憶に残った。他のほとんどの妄想は、あれほどたっぷりと妄想したのに、後からはほとんど思い出せない。跡も留めず、次から次へと連想を生んで、うたかたのように漂い流れ去って行く。
 こんな寓話を聞いたことがある。とある僧が師を扇で仰いでいて、自分は僧に向かないから、寺を出ようと思う。故郷に戻って商売をはじめ、徐々に店も安定し、妻を娶った。店は大きくなり、息子も生まれた。かつての師に子供を見せ、現況を報告しようと思って、馬車で出かけた。途中、妻が大切な息子を取り落としてしまったので、かっとして妻を叩いたら、叩いたのは師の頭だった。つまり、すべては扇であおぎながらの妄想だったのである。
 実際の妄想は、こんなに理路整然と連なってはいない。もっと支離滅裂だ。しかし、際限のない逸脱ぶりはこのとおりである。妄想のちょっとした部分がひっかかりきっかけになって連想を生み、別の妄想へ流れて行く。気づかないままとんでもないところまでさまよい出している。後から思い出そうとしても、何を妄想していたのか、ましてや何故そんなことを考え始めたのか、皆目分からない。

 こんな調子で、妄想に陥っている事に何度も気づき、その度に自分にうんざりしながら、膨らみ・縮みに立ち戻っていた。
 その内、ふと気づいた。座禅中だから、これを妄想だと思う。しかし、普段の私の生活は、実はすべて妄想ではないのか? サッカーの中継は今夜だったっけ、、、あの事、連絡しておかなくちゃ、、、あの人はどうしていつもああなんだろう。いつか言ってやろう、、、きっと俺のこと誤解してるな、まぁ仕方ないか、、、

 妄想、雑念のいきあたりばったりの漂流、それが私の日常のあり方だ。といって、妄想を止めたとて、その他になにか別のものがあるではない。内側は妄想・雑念だけできていて、外側は雑用をこなすだけで終わる。それが私だ。「惜しむべきなにものもなし」という言葉が浮かんだ。なんだか可笑しくなって、その時はずっとにこにこ笑いながら坐っていた。

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 ヴィパッサナーを実践する立場からすれば、タコのイメージも、「ノエシスがノエシスを、云々」も「私の意識はすべて妄想でできている」という考えも、すべては妄想であろう。「妄想」「見えている」「考えている」と観察するに留め、過剰に騒ぎ立てるべきではい。
 しかし、このホームページは、ヴィパッサナー実践の場ではない。ヴィパッサナーの実践とは違うアプローチで釈尊の教えを考えている。
 私は、身における修行と戯論・分別による検討とは、対立するものではないと思う。確かに、瞑想しようとしている時は、あれこれ考えていては、定に入れない。しかし、あれこれ考える事と、瞑想する事と、仏教には両方が必要だと思う。

 ヴィパッサナー・デューラは、学習(ガンタ・デューラ<書物・勤行>)と対照され、両者は今では修行の相補的側面と捉えられている。
…ブッダダーサ比丘 前掲箇所の続き。
 修行実践している方には、この小論が、反面教師としてであれ、なんらかの参考になれば嬉しいし、まだ未経験の人には、これをきっかけにヴィパッサナーをやってみようと思っていただければ嬉しい。

 ご意見、御批判、お聞かせ下さい。

2003年8月23日 曽我逸郎

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