高橋哲夫さん 件名:「月」を見ないで「指」を見ていませんか。 2004,10,9,

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 去年の暮れに意見交換のページに掲載させていただいた高橋でございます。
あれから皆さまの活発なご意見を読んでいて、ふと気になることがありましたので書かせていただきます。T-kotouさんの「仏教とは思考することでも思考の方法論でもなく、「行い」の教えではないのでしょうか?」

この言葉はすごく重大な意味を含んでいると私は感じました。もっとも蘇我さんもはじめの頃は

 「今の仏教学は文献学にすぎない、俺はみずから思索するのだ」

との態度でしたが、結局「文献学的研究成果」を重視する方向に進んでしまいました。
そしてホームページの題名も
「あたりまえのことを方便とする般若経」
から
「月を差す指はどれか?」
に変わってしまいましたね。つまり本当は「月」を見なければならないのに、「指」を見てしまったのではないでしょうか。そしてその「指」に対して議論を戦わせているような気がしてならないのです。

 蘇我さんもご存じでしょうが「正法眼蔵随聞記」に、道元が一生懸命に語録を読んでいると、中国の僧から

「語録を読むのは何の用ぞ」と問われました。
道元は
「古人の行履(あんり)を知らんがためなり」と答えた。
「古人の行履を知るは何の用ぞ」とまた問われます。
「郷に帰りて人を化せん」
「人を化すは何の用ぞ」
「利生(りしょう)のためなり」
要するに語録を読むのは昔の偉いお坊さんの生き方を勉強し、日本に帰って衆生済度をするためだと答えたのですが、そこでまた問われた。
「畢竟して、何の用ぞ」
つまるところ、結局は何の為なんだと。

 文字、言葉というのはものを指し示す道具にすぎないのです。知識としてではなく、智慧として悟りを知りたいのなら、他の人の指を見て意見を戦わせるのではなく、自分が月に向かって指をさせるように努力すべきだと思いますが、どうでしょう。


高橋哲夫さんへの返事  2004,10,9,

拝啓

 メールを頂きありがとうございます。このところ御意見・御批判を頂くことがちょっと少なくなっているので、うれしく感じました。

> 自分が月に向かって指をさせるように努力すべきだと思いますが、どうでしょう。

 自分では、微力ながらそうありたいと努力しているつもりです。「皆の衆、これこそ月ぞ!」と胸を張って指し示したいのですが、残念ながら、「これぞ月ぞ」の自信はまだ持てず、「どれがホントの月かいな?」と問うている段階です。指差す前に、本当の月を見分けておかねばならないのは道理です。そのための努力をしたいと思い、自分でも不十分とは自覚しつつ、一応の努力はいたしております。
 お蔭様で、「これは月ではない。これも違う。」と結構たくさんの自称「月」を消去することは出来てきていると思っています。

> 「仏教とは思考することでも思考の方法論でもなく、「行い」の教えではないのでしょうか?」

 「行い」だけを強調して思考を否定するのは、あまたある月ではない自称「月」のひとつの典型だと思います。たまたまこの考えに出会い、嵌まってしまった人は、仏教を検討することを拒否します。自分の出会った「仏教」を、検討することなく「正しい」と思い込みます。思考し検討することを禁止する教えに嵌まっているのですから、そうなってしまうのは当然なのですが、、。

 世間には、さまざまな「仏教」があります。思考を禁止する「仏教」。梵我一如に乗っ取られた「仏教」。自然崇拝・アニミズムに袈裟を着せた「仏教」。先祖供養・水子供養をする「仏教」。輪廻転生を説く「仏教」。常楽我浄を説く「仏教」。・・・・・・
 言ってみれば、由緒ある釈尊の地が門前町となり、ついには夜の繁華街と化してしまったかのようです。たくさんのもっともらしい「月」やいかがわしい「月」がネオンの月を輝かせ客を誘い合っている。そんな中に、釈尊の旧跡も埋もれてしまっています。比較的良心的な店もあるけれど、ぼったくりの店も多く、たまたま出くわした店に考えもなく入るのは危険だと思います。よく調べないと。

 思考を否定する「仏教」が、必ずしも一般的でないことは、チベットの歴史的事件、「サムイェーの宗論」(794年)でも分かります。何も考えない「不思不観」を説いた摩訶衍という中国禅の僧と、インド中観のカマラシーラが王の前で論争をして、後者が前者を破ったという出来事です。大乗という範疇においても、「思考の停止」は特異な主張だと思います。

 もしも、指を見ないで、直接すぐに正しい月を見る方法があるのならば、それに勝る方法はないのかもしれません。釈尊のおそばで教えに触れることが出来たなら、そうもできたでしょうか。しかし、釈尊の説法そのものが、すでに分析的であり、分析的に学ぶことを要求しておられたように思います。まして、釈尊から2500年隔たってしまった今、指を見ずして「月」を見ようとするなら、その「月」が正しい月だと思っていい理由はあるのでしょうか?

 (念の為に付け加えますと、「言葉による検討や思考だけでよい」と思っている訳ではありません。「言葉による検討や思考もなくてはならない」と申しているだけです。)

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 言葉で学び思考するべきことを説いているものを、経典からいくつか紹介いたします。特に大パリニッバーナ経の言葉は、死を目前にされた釈尊が、自分の死んだ後のことを慮って説かれたことですから、重く受け止めるべきだと思います。

*パーリ仏典中部 第22 蛇喩経 (片山一良訳 大蔵出版より)

 比丘たちよ、ここに、ある愚人たちは、法を、すなわち経・応頌・授記・偈・自説・如是語・本生・未曾有法・有明を学びます。かれらはその法を学びながら、それらの法の意味を慧によって考察することがありません。それらの意味を慧によって考察することがない者には、それらの法が現れることはありません。かれらは、ただ非難の利のために、また非難の解消の利のために法を学ぶだけであり、法を学ぶその目的を得ることがないのです。誤って把握されたそれらの法は、かれらに、長く不利となり、苦となります。それはなぜか。比丘たちよ、もろもろの法が誤って把握されているからです。
 しかし、比丘たちよ、ここに、ある善家の息子たちは、法を、すなわち経・応頌・授記・偈・自説・如是語・本生・未曾有法・有明を学びます。かれらはその法を学び、それらの法の意味を慧によって考察します。それらの意味を慧によって考察する者たちには、それらの法が現れます。かれらは、非難の利のためでもなく、また非難の解消の利のためでもなく法を学び、法を学ぶその目的を得ます。よく把握されたそれらの法は、かれらに、長く利益となり、楽となります。それはなぜか。比丘たちよ、もろもろの法がよく把握されているからです。
*大パリニッバーナ経 第三章 35 (中村元訳 岩波文庫より)
 アーナンダよ。このように言われた時に、わたしは、悪魔・悪しき者に次のように言った。―
 『わが修行僧であるわが弟子たちが、・・・みずから知ったことおよび師からおしえられたことをたもって解説し、説明し、知らしめ、確立し、開明し、分析し、闡明し、異論が起こったときには、道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説くようにならないならば、その間は、わたしは亡くなりはしないであろう。
*大パリニッバーナ経 第四章 8 (同上)
 修行僧たちよ。ここで一人の修行僧が次のように語ったとしよう、―<友よ。わたしはこのことを尊師からまのあたり直接に聞いた。まのあたりにうけたまわった。―これが理法である。これが戒律である。これが師の教えである>と。修行僧らよ。その修行僧の語ったことは、喜んで受け取らるべきではないし、また排斥さるべきでもない。喜んで受け取ることもなく、また排斥することもなく、それらの文句を正しく良く理解して、(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味すべきである。それらの文句を、(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味してみて、経典(の文句)にも合致せず、戒律(の文句)にも一致しないときには、この結論に到達すべきである、―<確かに、これはかの尊師の説かれたことばではなくて、この修行僧の誤解したことである>と。修行僧らよ。それ故に、お前たちはこれを放棄すべきである。(合致するなら、正しいと決定せよ、という主旨が続く)。
 実は、この部分には問題があると思っています。釈尊御存命の時、まだ経典は編纂されていませんでした。では、何に引き合わせよ、と言っているのでしょうか? 釈尊のお言葉に? しかし、それなら上の”一人の修行僧”も「釈尊の言葉だ」と主張しているのですから、他のお言葉と相互に矛盾がある時、どちらを選べばいいのか?
 実際問題として、今に残された経典には、内部に相互矛盾があるのです。
 私はこう考えます。釈尊の教えを体系として考えるべきだと。経典に残る言葉や、さまざまなグループが伝える教えが、体系に適合するのか、しないのか。新しい解釈をすれば体系に適合する場合もあるし、その言葉・教えは混入物であるとして排除すべき時もある。逆に体系を構築し直さねばならないこともあるでしょう。
 現代においては、この方法によってのみ、釈尊の教えに近づくことが出来ると考えています。
【 04,10,13,追加 】 パーリ中部 第43大有明経(片山一良訳 大蔵出版)
 「それでは、友よ、正見が起こるためには、どれだけの縁がありましょうか」
 「友よ、正見が起こるためには二の縁があります。すなわち、他からの声、および正しい思惟です。友よ、正見が起こるためにはこれら二の縁があります」
 「それでは、友よ、正見はどれだけの部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなるのでしょうか」
 「友よ、正見は、五の部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなります。友よ、ここに、正見は戒に支えられています。また聞に支えられています。また、議論に支えられています。また、止に支えられています。また、観に支えられています。友よ、正見は、これら五の部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなります」
【 04,10,19,しつこく加筆 】
 正見は、いうまでもなく八聖道の筆頭である。すなわち、釈尊の教えを学ぶにあたって、まず第一にしなければならないことだ。
 ところが、「正見」という漢訳に引き摺られてか、「正しく(執着を離れて、ありのままに)見る」というような解釈を稀に見かける。まずいきなり、「真如」を見よ、とでも言うのだろうか?
 正見の「見」は、パーリ語では"diTThi"である。The Pali Text Society's Pali-English dictionary(リンクのページ参照)によると、"view, belief, dogma, theory, speculation, esp. false theory, groundless or unfounded opinion."とある。つまり、常見や断見の「見」と同じであり、「見」という字を生かせば、「見解」が妥当な訳だ。
 正見は、「正しい見解」。釈尊の教えをきちんと学んで(他からの声、および正しい思惟を縁として)正しい見解を持つこと。これがまず最初にしなければならないことである。正しい見解とは、無常・苦・無我・縁起であり、四聖諦(苦集滅道)だ。それをまず理論として学んだ後、残りの七つの正道によって、(あるいは、「戒・聞・議論・止・観に支えられて」)それが本当に正しいと自分のこととして納得する。(上記大有明経に倣えば、「心の解脱、慧による解脱という結果となる。」)これが仏教の方法だと思う。
 ところで私自身について言えば、まだ正見を模索している段階であり、このホームページも現時点においてはそれが主たるテーマとならざるを得ない。
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 刺のある書き方になってしまったかもしれません。どうぞお許し下さい。

 ご意見・ご批判をお待ちしています。
                             敬具
高橋哲夫様
        2004、10、9、
                          曽我逸郎

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