A・Hさん 件名:(続き)無我=縁起と主体性、決定論 2004,9,14,

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曽我様、こんにちは。
大変実のある内容をありがとうございます。
昔、科学妄信者ではないかと思えるような人(この人は無我や縁起を考えてるとは思えませんでした)と少し議論をした事があるのですが、私の疑問の核心のような事からは話をそらすばかりで、ちっとも議論になりませんでしたし、私の話は確かに人に生理的嫌悪感を与えてしまうのではないかと思え、こういう事は誰とも話せないと思ってたのですが、曽我さんはそれを正面から受けとめてくださるので嬉しいです。

今回はかなり急ぎ足な感じになってしまいます…。

>そのような疑問は、よい影響をもたらさない。現にあなたは努力できる。それがなによりの答えだ。不毛な問いにかかずらっている暇はないぞ。怠ることなく修行に励みなさい
確かにこれはそうだと思います。
先日、今更ながら、「あたりまえのことを方便とする般若経」の本編を拝読させていただいたき、私が疑問に思っているような事は、仏教の趣旨そのものにそぐわないものなのではないかと思わされました。
思えば私は、縁起や無我は真実なのかとか、何がこの世の真実か、人間の正体なのかいう事ばかりに関心を持ってしまってるように思います。
>クリックのこの考えは、A・Hさんに近いのではないでしょうか。
そうです。私は、物質のみの世界からは、霊魂は勿論、人間の選択の自由すら生まれないとしか考えられなくて、選択の自由がある事自体が、そもそも霊魂の存在なのではないかと考えているのです。
幾ら複雑にした所で、決して誤魔化す事はできない。ドミノ倒しを止める、しかし止める存在が必要で、その止める動作、存在、タイミングにも原因があり、その原因にも原因があるとすると、結局は一本の糸になってしまう。一本の糸が幾ら複雑に絡み合った所で、ループや枝分かれは決してできない。なんか変な表現ですけど、突き詰めて考えてしまうと、縁起=決定論てやはり思えてしまうんです。
>生命である以上、生命に本質的な原我執により、我々は決定論的に「努力」する。
すると、もし仮にこの世が決定論的だとしても、例え選択の自由がある事が幻だとしても、人はそんな事は考えるべきでは無いと言う事なのでしょうか?
私は、極論ではありますけど、今ここで努力出来ると言う事自体が、そもそも決定論を否定しているのではないかと考えています。
>つまり、仏教とは、執着が自己否定的に変態したものだと考えます。
ありがとうございます。なんとなく解ります。
これにはなにか実感のようなものを感じました。
>「感じる」ことは、主体なしに起こる反応なのです。
この話も、自己はその都度の現象というものも、理論上ではそれでもおかしくは無いと思うのですが、どうも実感できないものがあります。
それが何かを具体的に述べられなくて申し訳ないのですが、今の自分と数分後の自分が、別の現象であると幾ら認識しても、やはり自分のままであるというか、その一貫性は幻なのかもしれないけども、そうは思えないものがあります。
今サボっても、苦しいのは1週間後の自分で今の自分だから良いって思っても、1週間後になれば、やはり自分になってしまっている。
確かに、1週間前にそう思ったという記憶があるからこそ、今こんな目にあうのはおかしいって思うのだという、今の自分があるというのは分かるのですが、上手く述べられなくて申し訳無いのですが、どうもしっくり来ないものがあるんです。

勿論、木が燃える事によって火が起こるというのは分かります。
炎と言う実体に見えるのは、木から放出された燃焼性の気体が燃焼しているものに過ぎず、それぞれの原子に注目すれば、耐えず出ては入っているというのも分かるのですが、人の主体性をそこに当て嵌める事がイメージできないんです。
ですが、否定せずにもっと考え直してみようとは思ってます。

>善悪
外れた事を聞いてしまうかもしれないのですけど、例えば、生を誕生させる事というのは、苦を生み出す事なのでしょうか?
>、「苦にはマイナスの価値があるのではないか」と書いておられました。そういっていいと思います。
ありがとうございます。確かに、価値って言うと、富、名誉、権力のような、汚いイメージのあるものが連想されますよね。価値って言葉自体、下品なイメージがあるように思います。
そうなのですけど、私は、それらは、見かけの価値は非常にインパクトのあるもので、人を惑わすにしても、本当の価値みたいなものを持ち合わせてはいないと言うように捉えて、価値って言葉を使ってます。
でもそこで、本当の価値か、見かけの価値かというのを、2つに綺麗に分けられるものなのかどうかという事は疑問でして、結局は、より本質的なのか、より表面的なのかという、相対的なものに過ぎなく、何が本当か何が見せかけかという境界が曖昧になってしまって難しく思います。
そのように価値って考え方を広げて行くと、何が価値なのかがわからなくなってしまいます。今自分が本当の価値だと思っている事も、結局は私欲の現れに過ぎないものなのではないかというような…。
少々話をずらしてしまったでしょうか…
>慈悲
慈悲については、関心は持っているのですが、私は未だにその概念自体、理解には全然至っていませんので、もっと勉強しようと思います。すみません…
価値というニュアンスではない自然な反応という話に、特に重要性があるように思いましたので、そこも勉強していきたいです。
>そのために生きるべき価値などないことも分かるけれど、死ぬべき理由もなくなる。
これは私もそのように思います。
ですがそうなると、わざわざ死を避ける理由も無くなってしまうのではないかと思うんです。
自殺に限らずとも、我々は常日頃から死を避けようと努力しなくては、死に至ってしまうと思います。

ですがこれは、生に執着しないのも生きる為という話から、なんとなく分かるような気もします…。

>大抵の自殺は、本当は「存在すると固執された自分」を護ろうとする為になされるのではないかと思います。
これに関しては、自殺によって苦しみから解放されようという事と、修行によって苦しみから解放されようと言う事の、決定的な違いを、私は理解できていません…。
自殺にだって覚悟は必要ですし、大抵は苦しいですし、死もただで得る事はできないものだと思うんです。
>霊的主体があるとすれば、いつどのように生まれるのか?
この問題に関しては、私も、いつも自問自答していながらも、的確に証明できるような答えが出せないでいます。
私は確かに、我々が俗に霊魂て呼んでいるものに関しては、永遠でも無いだろうと思うにしろ、魂の最も本質的な部分は恒久的だろうと考えてます。
そして、それは確かに様々な方面から否定される余地を持っていると思います。

例えば人間同士が融合して一人の人間となったり、一人の人間が2人の人間に分離したりする事が起こるとすると、魂はどうなるのか、それは私にとっても重要な問題です。
一つの脳が2つに分かれたり、2つの脳が一つに融合したりというのは、ありえない話でも無いと思いますし。
魂が融合するのだろうか、一方が離れてしまうのだろうか、2つの魂を共有するのだろうか、一つの魂が分離するのだろうか、どこからともなく余分にやってくるのだろうか…と。
ただ、私にとってこの問題は、実際自分が2つに分裂した時、自分は一体どうなっているんだろう言う問題と直結してます。
それから、誰かが実際何かを感じているかどうかを、いかにして確認するかって事が、それに先行される問題となると思います。今知られている範囲においては、自分自身を考慮しなければ、実際は誰も苦痛を感じていないというのでも説明が付くと思うんです。世界には誰も居ない、生命という現象があって勝手に反応しているだけで充分なはずなんです。
感覚については、私ももっと考えて行こうと思ってます。私の言う感覚は、日頃から物質上でいかに再現できるだろうかと言う事を考えているのですが、どう足掻いても、物質上には形成され得ないのではないかというものなので、でもあまり的確に説明できる術がなくて歯痒い所なのです。
また、分離した生命とも限らない、我々の細胞それぞれが生きているわけですし、脳ではなく、反射中枢そのものさえ、霊を持っているかもしれない。一つの神経細胞がそれぞれ霊を持ち、全体としてまた持っている、そう考えて行くと、それは確かに実におかしな事になってしまいます。

それから、永遠な存在として考えられたはずの魂が、日々刻々と、肉体によってなんらかの影響を受けて変化しているとするならば、一体何が永遠なのかという事になってしまい、これも問題です。
全く変化しないのは勿論永遠であると思いますが、全く同じ事を繰り返しているというのも、また永遠ですし。
しかし、永遠や恒久というのも、持ち出さまいと思っても、持ち出さざる追えない場合はあるように思います。
縁起の法則に関しても、それが永遠だからおかしいとするのは、言葉のあやで変であると言う事になるのかもしれませんが、物事を根底で支配する法則、それは、パソコンとかに当て嵌めると、ハードに当ると思うんです。そしてハードは、物質というハードから成立つソフトである。我々が縁起と言うハードの上に存在するソフトであるという考えは、そんなこじ付けでも無いと思えるんです。
エネルギーも、現在では、恒久なものとして考えられているものだと思います。物質はエネルギーで説明が付くかもしれませんが、エネルギー自体は、いつ発生してどこへ行くのかといのも、解明されてなかったと思います。

今は、そもそも魂とは数えられるのだろうかという事を、一つの疑問点としています。
複数の生命体にそれぞれ有るように見える魂は、実は見た目だけ、別々に存在しているように見えるだけで、本当は究極的な一つの魂なのではないかという、異端ではありますけど、一つの自説を持ってます。
神経ネットワークが繋がっていないから、別々の他人だと認識(錯覚)しているだけで、本当は皆一つなのではないかと。
ですが、それだと結局、決定論的な考えに支配されてしまうことになってしまい、それはおかしいと自分で思っていますけれども…。

この魂の問題に関しては確かに、上手く答える術が私にはありません。
しかしながら、今人間の脳によって矛盾無い説明が出来なかったからとして、否定してしまうのは早過ぎる気がするんです。一見相反する考えが両立する所に、もっと重大な真実が含まれているって場合もあるのではないかと思えるんです。
宇宙は存在するが、宇宙の果てがどうなっているか、宇宙の誕生はどうなのかを完全には説明できていないから、宇宙の存在を否定しようなんて考える人は少ないのではないかと思います。私にはそれと同じで、魂の存在は、あるからしょうがないというものなんです。
これに関しては、無いと自分で納得でき、無いと考えるべきであるという事が納得できる時まで、信じ続けるだろうと思います。

それに、ただ魂を考えても、それだけでは、それがどのようにすれば縁起を超越できるのかという事が説明できません。今の所、どのように考えても、決定論(或いは、世界が非決定でも、我々が何も決められないというもの)を否定し得る鍵は、「努力や忍耐ができる事」とか「時が流れている事実」以外には思い当たらないのですが、それでも決定論は違うとして考えています。
物質だけというのは有り得ないが、魂を導入した所で、結局何も解決していない、その点が、私が最初に、自分の方針に限界を感じたという点なんです。

非決定的としても、言葉の上辺だけのもので、その実質のようなものが理解できないでいます。単にランダムなだけでは、非決定的の意義はありませんし。
ただ、霊魂の存在を仮定するのに無理があるのならば、それと同様、選択の自由を肯定する事にも、無理があるように思えてしまうのです。
言葉だけで非決定を唱えるのは容易いのですが、いかにしてそれが実現するのかを考えると、どんな現代物理を無視した突飛な理論を組み込んだ所で、上手く説明できそうには無いんです。

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この場を借りて、中島文寛さんと、岸善生さんの話に返答させてください。
自分の言いたい事ばかりで、かなり内容が足らなくて申し訳ありません…

>1.過去に起こった業はいかなることがあろうと取り消すことはできない。
これは確かにそうだと思います。
ただ、この世の未来が不確定であるならば、或いは過去も不確定になる場合があるのではないかと思う事があります。
道が分かれるのみで、相交わる事は有り得ないのならば、過去は変わりはしませんが、そこらへんの道のように、分かれる事もあれば合わさる事もあるようならば、複数の道が合わさった時、過去は複数の可能性を持って存在する事になるのではないかと思います。単なる空想で、科学的根拠とかは全く無いですけど‥。
>2.故に、過去の因は全て果を生ずる。但し、それがいつどのように起こるかは決定していない場合がある。(これを不定業という)
これに関しては、私の縁起の捉え方から、気になる所があります。
いつどのようにして起こるかというのが決定していないと言う事は、それが起こるには、何かの切っ掛け、つまり、原因がなくてはならないと思うのです。
因無しには果が有り得ないとすると、「いつ起こったか」という事も、一つ果であり、必ず因があるはずなのではないのでしょうか。

以後のものにつきましては、私自身の怠慢と無知により、保留させてください…。

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>量子論は、「縁起」の考え方をサポートすることはあっても縁起と量子論とが対立すること全くないと私は考えております。
私がこう思ってしまったのは、単純に、私自身が未だ縁起を理解できていないからなんです。
縁起と決定論の区別も付かないので、単純に、非決定論を説く量子論は、決定論たる縁起と対立すると考えてしまったんです。それから、人は大抵、選択の自由を証明すべく、量子論に非決定論を求めているように思います。そして私は未だに、選択の自由と、自己存在の肯定とを切り離す事ができないでいます。
それから、ついでなのですけど、量子論が非決定論てきだとしても、波動関数を収縮させるための、観測者がどこに居るのかというのが疑問です。安易に霊と結びつけはしませんけども、脳の決定論に支配される部分が考え、波動関数を収縮されるなら、結局どう収縮するかも、決定論に支配された事になってしまい、いかにして選択の自由を実現するのかが上手く理解できず、結局は、決定論であるとした方が、全てが上手く説明できることになってしまって困ってます。
>「この世の全てを人間の知る範囲に収めよう」などという考えを持った物理学者は、もはや傲慢以外の何ものでもないのです。
すいません。その場の思いつきで、過激な発言をしてしまいました。

(以後余談です…)
実は、よく、科学こそが全てで、神秘的なものを頭っから馬鹿らしいと否定する人達を見てると、自分の知っている事こそが全てなのではないか、自分の知らない範囲を安易に否定してしまう事は、傲慢以外の何物でもないのではないか、それのどこが科学的だと言うのだろうかと、日々不信感のようなものを募らせてしまってまして…。
神秘的な物を否定するかしないか以外の面においても、そいういう考えの人達の中で、人一倍、自分に理解できない価値観を安易に否定してしまったりする人が居たりしますので、どうも色々考えてしまったんです。
勿論そういうのは私自身を含めて誰にでもあるのではないかと思うのですが、自分の認識できない事を否定して、真実に近づけるのか、それは自分の知識の世界に溺れるだけなのではないか、そういう事に打ち勝たなければならないように思うんです。
見えない世界を信じるなんて愚かだって、世間では良く聞きますけど、相手の外見だけ見てても内面は見えないように、ウイルスが肉眼では見えないように、箱の中が空っぽか、それとも非常に重要なものがあるかどうか、外からではわからないように、見えない所にこそ本質は潜んでいるのではないかと思うんです。

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適当な返事になってしまって申し訳無いです。
最近(或いはいつも)、気持ちが色々と落ちつかないのがありまして…
それから、同じ事を何度も言ってしまってるかもしれなくて恐縮です…
それでは。


A・Hさんへの返事  2004,9,27,

拝啓

 返事遅くなり申し訳ありません。
 隣組の中で御葬儀が続いたり、稲刈りやらもろもろで、珍しくちょっとばたばたしておりました。

 思考実験というほどのことではありませんが、仮に、<縁起=決定論であり、我々という現象は突き詰めれば決定論に支配されている>とすればどうなるか、考えてみました。

 途中までの段階では、「主体性にこだわるのは、<我有り>の考えをまだ引き摺っているのであり、我執だったのかもしれない。」 という思いも生まれ、かえって決定論の方が徹底していていいのではないか、とも思えたのですが、最後にはやはり受け入れ難いと感じました。

 前回のメールで、「生命である以上、生命に本質的な原我執により、我々は決定論的に努力する」と申し上げました。この考えを、拡張してみたのです。

 もう少し説明します。

  1.  生命である以上、生命に本質的な原我執により、すべての生命は生き続けようとする反応を決定論的に起こす。例えば、ゾウリムシの適温域への移動の仕組みのように。人間が暑ければ汗をかいて体温上昇を抑えようとするように。腹が減ったら食べ物を探すように。これらは、明らかに自動的決定論的な反応である。

  2.  進化が進むと、経験から学習できるようになり、縁に応じてよりうまく生き続けられるよう適切な反応パターンを蓄積していく。これも決定論だとしてもいい。

  3.  現前の縁だけでなく、今ここにない縁への準備もできるようになる。例えば、冬に備えて住処の補修をするように。狩の道具を作るように。これも決定論に支配されていると考えることはできる。

  4.  よりうまく生きるために、今の自分の反応の仕方を反省し、よりうまい反応をさまざまにシミュレートする。(このために生まれたのが、自分を対象化して捕らえる仕組みであり、その仕組みによってノエマ自己・守り高めるべきアートマンあるいは魂が想定される。A・Hさんの仰る「主体」もこれにあたると思います。)その結果、さまざまな技術が生み出され、文明も発展し、よりうまく生きるための競争、争い、執着が激化し、結果的に苦も大きく深くなった。これも決定論的反応だとすることは可能だ。
     (つまり「自己」という観念は、プリミティブな原我執を人間的我執に進化させ、自分を守り育てる反応を大幅に加速する仕組みだと考えます。)

  5.  シミュレーションはさらに高度化し、「財や地位や権力などを獲得しようと争うことが本当にアートマン(あるいは魂)のためになるのか? それは、アートマン・魂を汚し苦しめるだけではないのか? アートマン・魂を真に純化して救うのは、全然別の方法によるのではないか?」という疑問が生まれる。宗教の深化である。これも決定論的な結果だといってもいい。世界宗教と呼ばれ、広く広まっている宗教をはじめとして、多くの宗教は、(勿論、御利益信心も根強いが、)御利益信仰を超えた部分をも持っているから、宗教の深化は、必然的であり、決定論に支配されていることの証左なのかもしれない。
     (前回のメールで、「仏教とは、執着が自己否定的に変態したもの」と書きましたが、他の宗教においても、御利益信仰(執着心)の自己否定的深化は起こっていると思います。)

  6.  世界のあまたの宗教の中で、釈尊だけが、アートマン・魂を苦から救う方法を追求する果てに、「アートマン、魂は元々なかったのだ。それがあると思い込み、それに執着して、それを守ろう、より強くしようとすることが苦の原因だったのだ。」ということに気づかれた。それは、まさに逆転の発想で、非常に画期的な発見だった。それは、真の惑星直列のごとくほとんどあり得ない稀な出来事だったが、惑星直列と同様に決定論的な出来事だったのかもしれない。

  7.  釈尊は教えを残され、私は、それに縁を得て(まさに決定論)、大きな影響を受けた。これらも、すべて決定論的に起こったと考えることができる。(特に私自身が影響されたことは、私の主体性によるというより、縁による決定論的働きであるという実感があります。)
     発心も、精進も、実は決定論的に起こっているのかもしれない。かえってこう考えた方が、主体性の考え方よりも我執のアクが抜きとられ、無我=縁起の純度が高いようにも思える。
     (この考えは、ある意味、他力的であると言っていいでしょう。しかし、他力思想が要請する超越者は想定していません。)

  8.  仏教に縁を受けた私は、もっと頑張って学ばねばならないと決定論的に思う。しかし、悔しいことに、私は仏教からだけ縁を受けている訳ではない。他からも決定論的な影響を受ける。「ま、すこしくらいはいいか」とか、「もうだめ、休憩休憩」といった反応もしてしまう。つまり、私という反応の場で、相反する決定論的ベクトルがせめぎあっており、その力関係によって私の反応は決まる。

 ・・・・・・ 7までは良かったのですが、この8まで考えて、決定論はやはり都合の悪い考えだと思いました。

 確かに決定論でも様々な事象の説明はつくのかもしれません。特に、時々真面目に頑張ったり、しばしばだらけて放逸に走る私のあり方を、<多様なベクトルのせめぎあいの結果>として説明することは、説得力があり、まさしくそのとおりなのかもしれない、と思います。
 しかし、そのように考えると、放逸でいても、「俺のせいじゃないもの」という気持ちにさせてしまう。自分はビリヤードの玉のようにただ外からの力のままに動かされるだけ、と言い訳をしてしまう。決定論的思考は、頑張ろう、努力しよう、という気持ちを「決定論的に」萎えさせる作用をします。
 決定論で諸々の出来事を説明しても矛盾はないのかもしれませんが、主体的努力を萎えさせるという副作用があります。その結果、正しい精進はなされず、無常=無我=縁起を自分の事として腹に落ちて知ることはできず、執着の火は燃えつづけ、苦は作られつづけます。のみならず、沈鬱という苦が、それらに加えて新たに増えるのではないかと思います。自分が決定論の支配下にあると考えることは、そのような「決定論的」影響力を持っている。

 A・Hさんとの一連のやりとりにおいて、三つの説明が登場しました。ひとつは、今取り上げた古典物理的な決定論。もうひとつは、A・Hさんの立場である「物理を超えた霊魂があり、それが主体性を生む」という考え。もうひとつは、仏教の無我=縁起の考えで、自分は縁起の現象であるが故に、正しく努力すれば自分で自分に正しい縁を与えることができ、自分という反応の仕方を整えていくことができる、というものです。
 この最後の考えのためには、霊魂なしに物理的決定論を逃れる必要があり、我々という反応において不確定性原理が働いていることが条件になるのかもしれませんが、その可能性は否定されていません。そして、この考えは、自分の反応の仕方を反省し正しく整えようとする努力を可能にし、それを鼓舞します。

 問題は、こうしたいろいろな考え方は、単に物事の説明に留まらず、私達の反応の仕方に影響を与えるということです。苦を増やす縁となるものもあるし、苦を減らす縁となるものもある。
 私としては苦を減らすベクトルに荷担したい。私のこの反応が決定論によるのかどうか分かりませんが、やはり私は、仏教(無常=無我=縁起を知って執着を吹き消し苦の生産を止める教え)が広まるよう<努力>し、世の中の苦が少しでも減るようにしたいと思います。決定論的ベクトルかどうか知りませんが、少なくとも苦を減らす縁になる釈尊の教えを、ミームとして広めたいと思います。

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 以下は、A・Hさんのメールへの、断片的個別的反応です。

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> >生命である以上、生命に本質的な原我執により、我々は決定論的に「努力」する。
>
> すると、もし仮にこの世が決定論的だとしても、例え選択の自由がある事が幻だとしても、人はそんな事は考えるべきでは無いと言う事なのでしょうか?
 「そんなことは考えるべきではない」と言いたいのではなくて、「決定論であってもなくても、選択の自由があると思っても思わなくても、生命は、厳しい状況の中で生き抜こうと足掻き、よりうまくより有利に生きようと自然に先天的に<努力>する」というのが申し上げたかったことです。

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> 私は、極論ではありますけど、今ここで努力出来ると言う事自体が、そもそも決定論を否定しているのではないかと考えています。
 ゾウリムシが適温域を外れると運動を活発化させ、イソギンチャクがどこかを齧られると身を捩り、人間が熱いものに触れると手を引っ込め、暑いと汗をかく。そういった反応は、選択の余地のない決定論的なものですが、生命に本質的な生き抜こうとする<原我執>に基づく、広い意味の<努力>だと思います。そのような決定論的な<原我執><努力><生きんとする盲目的意志>が進化して、選択の巾が生まれ、過去の経験によるシミュレーションが可能になり、自己を対象化し想定してシミュレーションし反省し、自己のあり方を修正することまでできるようなった。
 生命は、決定論の支配下から出発して、進化の結果主体性を獲得した。それが可能だったのは、生命が「生き抜こう、よりうまく有利に生きよう」と本性的・決定論的に<努力>する反応であったからだと思います。
【独り言】
 まだ十分検討していないが、自分を守り育て生きつづけようとする生命の本質的な傾向こそが無明ではないか、という思いがある。もしそうだとすると、私がここで言っていることは、こういうことだ。無明によって、生物進化があり、執着は生まれ、アートマンが追求され、発心され、精進され、ついにアートマンはないという気づきが起きる。すべて無明が原動力であり、無明を打ち破るのは、実は無明の力である。生命誕生以来40億年の時間をかけて、無明が達成した自己克服のサイクル、それが仏教なのかもしれない。
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>今の自分と数分後の自分が、別の現象であると幾ら認識しても、やはり自分のままであるというか、その一貫性は幻なのかもしれないけども、そうは思えないものがあります。
>今サボっても、苦しいのは1週間後の自分で今の自分だから良いって思っても、1週間後になれば、やはり自分になってしまっている。
>確かに、1週間前にそう思ったという記憶があるからこそ、今こんな目にあうのはおかしいって思うのだという、今の自分があるというのは分かるのですが、上手く述べられなくて申し訳無いのですが、どうもしっくり来ないものがあるんです。
 この御指摘は、痛いところを突かれました。
 たとえば、前に書いた、雷発生装置(身体)と雷(そこにおけるそのつどの反応=私という現象)という比喩をあてはめるなら、今の雷が、未来の見ず知らずの雷の苦をなくすために努力するのか、というご指摘だと受けとめました。別な言い方をすると、今の縁への反応である「私」と、次の縁への反応である「私」とは、同じ「私」か、別の「私」か、という問題です。同じ「私」だと言えば、常見になるでしょうし、別の「私」だと言えば、断見になるでしょう。
 仏教は常見も断見もともに否定する、と言われています。しかし、私の考え、特に雷の比喩は、断見であるといわれてもしかたのないものかもしれません。
 私としては、「ひとつの持続的な色身における現象であり、かつ今の自分の反応が以降の自分の反応のパターンを形成する」という考えが、常住論にも断滅論にも陥らない考えだと思っていました。
 しかし、A・Hさんの質問には答えに窮しました。「<私>がそのつどの別々の反応であるなら、今の<私>は、なぜ未来の別の<私>のために努力するのか?」

 ミリンダ王とナーガセーナ比丘の問答の中に、個人の連続性にかんする議論があったような記憶があり、本棚を探しましたが、見つけ出せませんでした。
 (どなたか御存知の方教えて下さい。)
 かわりに、ちょっと強引ですが、ダンマパダ 第一章 15、16 を引用します。(中村元訳、岩波文庫『真理のことば 感興のことば』)

 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。
 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が清らかなのを見て、喜び、楽しむ。
 私は、仏教=無我=縁起の教えは輪廻転生と相容れない、と考えています。学問的には、「釈尊は死後については一貫して無記の態度を貫かれた」というのが正しいのでしょうが、私は、釈尊は輪廻転生を信じる人達への影響を慮って無記の態度を取られたが、内心では輪廻転生を否定しておられた、と考えています。ですので、上記の釈尊のことばも、もともとは単に「今と以降と」という意味だったのに、後の人々が現世・来世にしてしまったと考えています。
 悪いことをする人は、その最中においても、それ以降でも、ともに憂い悩む。
 善いことをする人は、その最中においても、それ以降でも、ともに喜び楽しむ。
 これが釈尊の本来の言葉だったと想像します。つまり、今自分を整えて善い行いをするのは、未来のために今を犠牲にして苦しむのではなく、今においても、それは喜びであり楽しみなのです。逃避とかではなく正しく精進をしている人は、実に楽しそうだと思います。その楽しみは、苦に変わることのない楽しみだと思います。

 ・・・・・・すみません。核心に触れずにごまかしているなと自分でも感じます。
 そのつどの反応は、つどが違えば他人のごとく別の反応か、それとも、なんらかの持続性があるのか? この問題も、しばらく回答を保留にさせて下さい。この問いの枠組みである「自他の概念」から問わねばならないのかもしれません、、、。

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> 外れた事を聞いてしまうかもしれないのですけど、例えば、生を誕生させる事というのは、苦を生み出す事なのでしょうか?
 前から思っている疑問で、このような思いがあります。
 <生まれたばかりの赤ちゃんをご覧になった釈尊は、「かわいい、めでたい」と目を細められたか? あるいは、「またひとり苦しむものが増えた」と心曇らされたか?>
 ひょっとすると後者だったかもしれません。どちらとも言いきる自信は、私にはありません。

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> 慈悲については、関心は持っているのですが、私は未だにその概念自体、理解には全然至っていませんので、もっと勉強しようと思います。すみません…
> 価値というニュアンスではない自然な反応という話に、特に重要性があるように思いましたので、そこも勉強していきたいです。
 慈悲について、ちょっとした仮説を思いつきました。慈悲は、仏教が新たに生む出すものではなく、凡夫がもともともっている自然な反応パターンではないか、という思いつきです。そのうち小論にまとめてみますので、また御批判下さい。

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> 複数の生命体にそれぞれ有るように見える魂は、実は見た目だけ、別々に存在しているように見えるだけで、本当は究極的な一つの魂なのではないかという、異端ではありますけど、一つの自説を持ってます。
 A・Hさんのこの考えは、梵我一如の典型だと思います。異端どころか、釈尊よりも古く、釈尊以後の「仏教」にも抜き難く根を張った「正統的」な考え方だと思います。勿論、釈尊はこのようには考えておられなかったのですが、、。

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 私の方こそ自問自答のようなメールをお送りして申し訳ありません。

 お気が向けば、またご意見・御批判お聞かせ下さい。

                          敬具
A・H様
     2004、9、27、
                          曽我逸郎


A・Hさんから再び  2004,11,7,

曽我様、お久しぶりです。

突然メールを送るのを絶やしてしまって、なんだか失礼な事をしてしまった気がしてます。
単に、なかなか落ちついて物事を考える余裕が無かったのと、殆ど言いたい事を言い尽くしてしまって、特に発言するような事も無くなってしまったからなのです。

梵我一如という言葉は初めて知りました。
なので、未だネット上でのみではありますが、少し調べてみたのですが、私の思っているのとは似て違うような気がしました。
もうちょっと勉強しようと思います。
1つの魂が複数の個体に同時に存在しているという辺り、量子論での粒子の捉え方に近いと思ってます。
また、自分と他者とを別とする中に、我への執着が出てくると思うのですが、この考えは、自他が別物のように思えるのは幻であるとしているので、私の本来の考え方や、一般の我の存在を主張する考え方に比べると、それ程無我に敵対するような考えではないと思うのですけど、どうなのでしょうか?

未来の自分の為に今の自分を犠牲にするという話ですが、私は恥ずかしながら、あれ程深い意味のつもりではありませんでした。
もっと人間の煩悩に近い疑問というか、過去の自分と今の自分は違うってのは理論上は理解できるのですが、それをだからそうと割り切ってしまって良いのかちょっと疑問だっただけなのです。
理論的に証明されてないものは信じないという考え方ってあると思うのですが、現在、宇宙や我々人類が存在している事自体、未だ理論的に完全に証明されたとは思えないので、現在知られてる理論や常識を絶対視すると言う事は、宇宙全体の存在を否定する事に他ならないように思えてます。

今回は、全く持ちネタのようなものがありませんので、短いですがこの辺で失礼致します。
暫くは、ROMさせて貰いながら、引き続き色々と考えて行きたいと思います。
また何か考え付きましたら、メールを送らせていただきたいと思いますので、その時はまた宜しくお願い致します。

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