曽我からA・Hさんへ 件名:無我=縁起と主体性、決定論 2004,9,7,

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拝啓

 最後のメールを頂戴してから、随分時間が経ってしまいました。夏バテか、このところどうもだらけ気味で、自分に活を入れる為にも、A・Hさんに頂いた重い課題に取り組もうと思います。

 今までのやりとり、プリントアウトして読み返しました。A・Hさんの疑問にまっとうに対応できていない箇所がいくつもあると感じました。今回もこれですべてが解決できるとは思っていません。おそらく問題点を再度洗い出すことにしかならないかもしれませんが、精一杯考えてみます。
 自分の仮説を鍛えるのにふさわしい、挑戦し甲斐のあるテーマを与えて頂いたと感謝しています。

@ 問題点の整理

 最初に、A・Hさんの提示された問題を確認しておきたいと思います。

  1.  自分という主体(主観・魂)こそ重要である。無我=縁起の考えは、主体を否定する間違った考えだ。
  2.  主体があってこそ、主体的努力は可能になる。無我=縁起の考えでは、主体的努力は不可能であり、唯物論と同様に決定論に陥る。

 このふたつが、もっとも根本の問題だと思います。そして、問題をさらにはっきりとさせるために曽我の視点から付け加えると、A・Hさんのおっしゃる主体とは、物理的決定論を超越するなにかであり、必然的に物質的存在ではないもの、すなわち、霊的ななにかを考えておられると思います。霊的な実体、主体、つまり、仏教が無我の教えで否定するアートマンそのものであろうと考えます。

 根本の問題の他に、そこから派生する疑問も頂きました。

  1.  主体があってこそ、感覚は可能になる。無我であれば、道端の石ころと同様に感覚も感じ得ない。それが苦からの解放であれば、同時に喜びもなくなり、死んでいるのと同じではないか?
  2.  無我=縁起の考えでは、責任も善悪も否定されるのではないか?

 また、私とのやりとりの中で生まれた問題もあるかと思います。

  1.  曽我は一切の価値の否定を言うが、それでは主体的努力は何を目指すのか? 一切の価値を否定すれば、目指すべき価値もなくなるのではないか?
  2.  なにごとにも価値はないのであれば、別に自殺してもいいのではないか? 死ねば一切の苦はなくなるのだから、それがもっとも手っ取り早く、根本的な苦の解決法であることになる。

 一方、曽我の視点から、A・Hさんの主体の考えが内包する問題として、

  1.  霊的主体があるとすれば、いつどのように生まれるのか?

 という問題もあり、これはコピー人間の思考実験にも関わってくると思います。

A 問題の検討

 順番に行きます。

 1, 無我=縁起は、主体を否定するか?

 仏教の無我=縁起は、なんであれ我々の執着する対象が、実体を持たず、縁によって起こっている現象である、と教えます。執着とは、その対象をいつまでも自分のものにしておこうすることです。執着の対象は皆、実体なく、違うものに変わっていく。だから、いくら執着しても、留めておくことはできない。無常にして無我なる縁起の現象に執着することは、けして満たされないことであり、故に苦を生みます。最大の執着の対象は、自分自身です。「私」とか「自分」とかは、実体ではなく、縁によって起こっている現象です。A・Hさんが、お考えになるとおり、無我=縁起の教えは、A・Hさんが考えておられるような主体を否定します。

 以後の陳述のために書き添えておくと、我々は、ビリヤードの玉などとは少し異なり、内部(脳のニューロンの連結パターンなど)に蓄積された大変複雑な反応の仕組みにおいて、縁が反響し、共鳴し、弱めあい、強め合い、複雑なプロセスを経た結果出力される反応です。
 勿論、反応の仕組みも、不変ではなく、反応する度に、あるいは長い間その反応をしないことによって、また単純に老化や病気・事故・薬物などによって変化します。
 我々は、縁によって変化する反応の仕組みによって、縁に反応するそのつどの反応です。
 2, 無我=縁起では、主体的努力は不可能であり、決定論に陥るか?

 この問いは、私にとって大変タフな問いで、きちんと答えられる自信はまだありません。ともかく考えられる所まで考えてみることにします。

  ◆まず、縁起についてですが、元々の仏教が縁起として考えていたものは、自分という反応のプロセスです。それは、釈尊から時代を経て完成された十二支縁起(無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死)もそうですし、もっと素朴な「AによってBが起こる」という形式で述べられるたくさんの言葉もそうです。目に付いた後者の一例を挙げておきます。

 元々の縁起の教えは、自分という現象の分析であり、外の物理的な現象までは問題にしておりませんでした。
 そして、この例でも分かるとおり、縁起には順逆のふたつの方向があります。自然な流れに流されて執着や苦が生み出される「順」の方向と、苦や執着の原因へと遡り、それを無くすことによって、苦や執着が生まれないようにする「逆」の方向と。「順」は凡夫のあり方であり、「逆」は発心した仏弟子のあり方です。
 つまり、縁起説は、けして決定論ではないのです。自覚せずあるがままでは縁起の流れに従い苦を作りつづけることになるが、そのことを知って、正しく努力すれば、苦を生む縁起のドミノ倒しを、途中の駒を抜きとることで、止めることができる。これが、釈尊の説かれた元々の縁起の教えだったと考えます。縁起説は、決定論ではなく、主体的努力を説く教えです。

 当初の縁起説は、いうならば、現代の心理学、認知科学、生理学などの領域を対象としており、物理学の領域を問題とするものではなかったと言えましょう。大雑把な印象で申し上げると、龍樹をはじめとする初期大乗によって縁起説の適用範囲は拡大されたと考えます。
 ◆次に、無我説が主体的努力を否定する決定論であるか、考えてみます。まずアートマン(A・Hさんの「主体」)を否定する部分を再度上記『ブッダのことば』から引用します。
 駒澤大学の松本史朗先生は、「スッタニパータはアートマンを説く」と指摘しておられます(小論集の「スッタニパータはアートマンを説く反仏教!」参照)。 しかし、私には、以下の引用部分はアートマンを否定していると読めます。一部分だけの引用は、「アートマンを説く部分を無視して、都合のいいところだけつまみぐいしている」という謗りを受けるかもしれません。また、原文にあたる能力もないので、文献学的にはいろいろ不適切な点があるかもしれません。その点、ご承知おき下さい。

 これらにおいて、否定されているのは、「常住性または本性である堅固なもの」とか、「実在とみなされた自己」、「生存を構成する要素のうちの堅固な実体」、「観じて認められる自己」、「考えて有る、と不当に思惟されたわれ」、「妄想される自己」、「固執される自我」であり、すなわちアートマンであると考えます。

 しかし、同時に、「見出さない」、「捨てる」、「認めない」、「執着している」、「制止する」、「妄想しない」、「うち破る」のは誰か? という疑問も出てくると思います。そのようなことをする「主体」が、あるはずではないか?

 そのような「主体」を宣揚するかのように見える経文があったので、次に引用します。(ダンマパダ 中村元訳『真理のことば 感興のことば』岩波文庫より)

 一見すると矛盾するように思えます。一体、仏教は、自分、自己を認めるのか、認めないのか?

 こういうことだと考えます。
 あらかじめ存在し、永続性を持ち、独立自存の、なにごとも取りしきる主宰者として、自分を対象化して妄想することを止めよ。仏教は、そう教えています。普段のまま対象化して捉えられたものは、縁起する現象としてではなく、独立自存で変わらず存続し続ける実体として捉えられます。自分を対象化する場合だけではなく、なんであれ日常的なやり方で捉えると、そのように捉えてしまいます。モノが独立自存で永続的だと誤解するからこそ、我々は、それに執着(いつまでも自分のものにしておこうとすること)するのです。ですから、そのようなやり方で、モノや自分を捉えることを、仏教は間違いだと教えます。
 A・Hさんの「主体」は、仏教の立場からすると、申し訳有りませんが、このような間違った自分の捉え方だと思います。

 では、それに対して、仏教が認める自分とはなにか? そのつどの縁への反応だと思います。「良い馬を調教するように自己をととのえよ」とは、放っておけば、落ち込んだり、はしゃいだり、放逸になったり、怒ったり、欲望の虜になったり、執着したりするそのつどの自分を、そのつどそのつど細かく規制し、調教し、整え、良い癖をつけていけ、という意味です。
 つまり、無我の教えも、主体的努力を説くものであり、自分で自分のそのつどの反応の仕方をコントロールすることを説くものです。けして、決定論ではありません。

 龍樹は、無我であり、固定的実体をもたない、縁による現象であるからこそ、ものごとや我々は変化することができる、と言っています。
 以上、仏教の無我=縁起の教えが、主体的努力を説くものであり、けして決定論ではないことを述べました。

 ◆しかし、この説明では、おそらくA・Hさんにとっては、返事になっていないと思います。霊的ななにかを導入することなく、物理的な決定論をいかにして踏み越えて、主体的努力が可能になるのか? そのことを考えねばなりません。これは、非常にタフな問いかけです。

 これまでは、小論「無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か」や安部さんとの意見交換などに書いたように、このように考えていました。

 生命は、その反応を維持し拡大しようとする反応であり、そのような「原我執」ともいうべき強い傾向を持っている。すべての生命は、「原我執」にもとづき、おかれた状況の中で生き永らえようとあがく。その「あがき」は、はじめは機械的であり、決定論に支配されているが、進化が進むと、状況への適応を精緻化するために、さまざまな反応の仕組みが蓄積されていく。(反応の仕組みの蓄積について考えたのが、小論「クオリアとホムンクルスを仏教(無我=縁起)の視点から考える」です。)様々な経験からの学習を蓄積することで、ひとつの状況への反応に巾が生まれる。
 人間は、けして縁から自由ではない。生得的な縁、経験による縁に支配されている。しかし、その中で、反応に巾を持つ。その巾の中でひとつの反応を選択するところに主体性は可能になる。ひとつの反応を選び取り、そのことによって新たな経験をし、その経験を縁に学習してさらに反応の巾を広げることができる。こうして人間は、自分自身の反応の仕方に大きな影響(縁)を与えることが可能になる。

 このような考えで、無我=縁起と主体性の問題を解決したつもりでおりました。
 しかし、今回A・Hさんから突きつけられた問いは、「主体的努力をしているつもりでも、決定論によってあらかじめそう決まっていたのではないか? 努力をすることも、努力しているつもりであるのも、思い込みであり、決められたとおりに反応しているだけではないか?」という問いでした。上記の私の考えに合わせて言いかえるなら、「反応の巾の中からひとつの反応が選ばれるといっても、それも実は決定論に支配されているのでないか?」という疑問です。

 困りました。初期経典の中からヒントになるものを見つけられればいいのですが、思いつきません。釈尊がこの問いを受ければ、おそらく修行に役立たぬ問いとして斥けられたと思います。「そのような疑問は、よい影響をもたらさない。現にあなたは努力できる。それがなによりの答えだ。不毛な問いにかかずらっている暇はないぞ。怠ることなく修行に励みなさい」 釈尊ならそう諭されたでしょう。しかし、私がこのように書いても、釈尊に逃げたことにしかなりません。もう少し考えてみます。

 岸 善生さんから、「量子論の視点からすると、世界は非決定論的である」という御意見を頂きました。(HP「意見交換」参照下さい。)おそらく、このことは、まともな人であれば、もはや誰も否定しない常識であろうと思います。そしてこの非決定性を、カオス・非線型が拡大し、世界は予想し難くダイナミックに変化すると説明される。「世界は、縁起によって変化しており、非常に非決定的である」、このように言っても、現代の物理学は同意してくれると思います。

 しかし、このことは、我々の主体性の問題を解決してくれません。世界がいくら可能性に満ちていても、我々自身がマクロ的スケールの現象であるなら、A・Hさんのおっしゃるとおり、いくらカオス的で非線形的であり計算困難であったとしても、やはり決定論的であり、ただ変化する世界に翻弄されていくだけ、自分で梶を切ることはできないことになります。
 我々が、自分の所でスイッチを切り替えられるためには、我々という反応が非決定的でなければなりません。
 現在のところ、非決定的な現象は、量子的な現象しか見つかっていないようです。(違うかな?) だとすれば、A・Hさんのように物理を超越する霊的存在を考えるのでなければ、我々自身に量子的効果が働いていないといけないことになる。

 岸 善生さんに教えていただいたところによると、ロジャー・ペンローズは、「計算不可能な量子重力の過程が細胞骨格のマイクロチューブルで起きていて、波動関数の収縮としてシナプスの伝達効率が変化する」と考えているそうです。また、昔読んだ本(アーウィン・スコット『心の階梯』伊藤源石訳、産業図書)のページを繰ってみて、ジョン・エクルズ、フリードリッヒ・ベックという人達が、「シナプス小胞の放出される確率が、ある量子過程(おそらくは水素結合の振動)の影響下にある」と主張しているという記述を見つけました。この人達は、我々自身において量子効果は働いており、我々の反応は決定論的ではない、と考えているわけです。

 もっとも、アーウィン・スコット自身は、「神経に関する観測に量子補正が必要となるようなことは、まず考えられない」と書いています。またDNAモデルを発見してノーベル賞を貰ったフランシス・クリックは、『DNAに魂はあるか』(中原英臣・佐藤峻訳、講談社)の付章で、荒っぽく要約すると、「私達は、決断は意識できるが、そこにいたる計算は決定論的だがカオス的で意識できない。そのため、私達は、その決断を自由意志による検討の結果だとこじつける」といった主旨を述べています。クリックのこの考えは、A・Hさんに近いのではないでしょうか。

 ここに挙げた本は、みんな十年ほど前のものばかりですから、その後新しい発見や考えがあるのかもしれませんが、おそらく未だにこの件は決着がついていないと思います。私としては、今後研究が進んで、私達という現象も非決定的である、と証明されることを期待するしかありません。
 人間の脳には、大脳皮質だけでも100億個を超えるニューロンがあり、それぞれが平均して1万個位のシナプスを持っているのだそうです。シナプスで起こっている興奮伝達の過程は、膨大で複雑で精妙なことこの上ない。さらに、伝達された興奮が、インパルスとして樹状突起や軸索を通っていく時、そのひとつひとつの分岐部分でも、枝の太さとかインパルスが次々とやって来る微妙なタイミングとかによって、インパルスを通過させたり、止めたりしているそうです(前掲『心の階梯』)。樹状突起や軸索にたくさんの分岐を持ち1万のシナプスを持つ100億個のニューロンのネットワーク。そうした空間的条件の膨大さのみならず、無数のインパルスが走る頻度やタイミングという時間的条件の無限の変化もある。ひとつひとつのニューロンは、そのようなダイナミックに変化する状況の中で、閾値の上か下か、ホンのわずかの微妙なところで発火したりしなかったりしています。これほど精妙なことが膨大に積み上げられたシステムですから、どこかに量子論的な非決定性がもぐりこむ隙間がきっとあるのではないかと、素人としては期待しています。

 さらに言えば、仮に決定論に支配されているとしても、我々はともかくも努力ができるのです。否、生命である以上、生命に本質的な原我執により、我々は決定論的に「努力」する。あらゆる生物は、うまく生きようとする仕組みを持っています。ゾウリムシでも、水温が適温を外れてくれば自動的に運動が活発化して泳ぎ回り、適温の所に行きつけば運動が低下してそこに留まるという生得的仕組みを持っています。ましてや、進化の頂点に立つ人間、進化の過程で獲得したさまざまな仕組みを総動員して、すこしでもよりうまく生きようとする。経験によって蓄積した様々の情報を組み合わせ、脳という非常に重層的なシステムで何度もシミュレーションを繰り返し、思考錯誤し、新しい方法を発見し、あるいは古い方法を決断し、生命に本源的な我執によりその実現に努力する。その過程は、クリックが言うように極めてカオス的であり、神ならぬ我々にはそのシミュレーションのプロセスも発見・決断される方法も事前には予想できません。努力して、予想できない方法を発見・決断し、その実現に努め、その経験を縁にしてさらに学習する。この過程は、全能の神の視点からは決定論に支配されているとしても、我々にとってみれば、十分に主体的であると言ってよいと思います。

 今、私は執着を肯定的に書きました。違和感を覚えられたかもしれません。少し説明が要りますね。こういうことです。
 生物は、本源的になんとかうまく生き続けようとする。進化の結果、その傾向、能力は発展し、精緻化されて、欲望、執着という段階に達した。執着の最も進化した姿は、例えば、戦争や搾取やテロなどがそうだと思います。しかし、人間の思考錯誤の能力は、本当に「うまく」生きるとはどういうことか、さらに突き詰めて考えることも可能にしました。その結果、うまく生きるために執着に踊らされているのは、本当にうまく生きていることなのか、という疑問に逢着する。これが発心だと思います。自然な縁のまま執着の反応を繰り返し、苦を作りつづけていることに気づき、それを止めようとする。つまり、仏教とは、執着が自己否定的に変態したものだと考えます。仏教は、素朴で純粋な穢れない状態がかつてあったと想定し、そこに戻ろうとする思想ではなく、執着の先にある、未だかつて経験したことのないあり方へ導く教えだと思っています。
 A・Hさんが、霊的な主体を想定されたり、それなしには人間は決定論に支配され主体性を失う、と考えたりなさるのも、<真に「うまく」生きること>を模索されているからだと思います。それは、つまり、発心のひとつの現れです。
 しかしながら、霊的な主体を想定することは釈尊の教えに反しますし、根拠のない要請だと思います。「霊的主体がないのなら、努力しても実は思い込みに過ぎず、決定論にしたがっているだけ」という考えは、現にできる努力を萎えさせます。自分の反応を整え、良い縁を与えていくには努力が必要です。
 ですから、私としては、霊的主体や決定論に対抗して、無常=無我=縁起の教えや、縁へのそのつどの反応として自分を捉えること、自分という反応を整え、無常=無我=縁起を自分の事として観察し、腹に落ちて納得することを、ミームとして対峙させ、それを進化させ、世に増殖させたいと考えているのです。それによって、世の中の苦が少しでも減るのであれば、大変うれしいことだと思います。

 以上、尻切れトンボのようですが、2)の無我=縁起と主体的努力・決定論の関係について、今私の考えられることを述べました。

 3) 主体がなければ、感覚もないか?

 いきなり結論めいた主張をしますと、私は、<主体が先にあってそれが感じる>のではなく、<感じることや様々な反応が撚り合さった上に後から「主体」が妄想される>、と考えます。

 私の言う「主体」とは、スッタニパータに倣うなら、「堅固な実在とみなされ固執される自己」、「考えて、あると妄想される自己」のことです。

 「感じる」ことは、主体なしに起こる反応なのです。・・・・変ですか? 「動詞には先に主語があるはずではないか?」 そうお考えかもしれません。しかし、これは、言葉によるミスリードのひとつです。
 例えば、「火が燃える」と言います。でも、実体的な火が先にあって、それが燃えるのではありません。燃えることによって、火が生まれた。そういう言い方の方が、実情に近いのではないでしょうか?

 またしても進化論で恐縮ですが、神経系はあるけれど、中枢神経はないという段階があります。イソギンチャクとかがそうですね。身体のどこかを齧られたり、異常があれば、信号が神経を伝わって、もがいたり、身を縮めたりといった反応がおこります。しかし、この場合、まだ中枢はないのですから、「感じる」ということは起こっていないと想像します。異常を知らせる信号が筋組織に直接伝わり、運動をおこすだけ。ゾウリムシの運動量が水温によって変化するのと同様に、精妙で、うまく生きつづけることに役立ってはいるが、自動的な反応だろう思います。人間で言えば、熱いものに触れた時に、熱い!と感じるより先に自動的に手が飛び逃げる、そういう反射の反応です。その後、進化が進んで、中枢が発達してくると、感覚器から届くその時その時の状況(縁)を感覚として感じることが始まり、対象(縁)をより的確に捉えるようになり、全身の様々な機能を縁にふさわしく統一して反応させるために、情動が始まる。そして、そのさらにずっと先に、自己を実在とみなす反応が始まるのだと思います。

 レスリー・J・ロジャース『意識する動物たち』(長野敬+赤松眞紀訳、青土社)をパラパラと読み返してみると、様々な実験の結果、自分を意識する反応は、人間の他には、猿の一部とかイルカ、一部の鳥などにしか見られないのだそうです。我が家の犬(ブラッキー)や猫(キャンビー)は、私や私が持っているオヤツは明らかに対象として捉えますが、自分を対象にすることがあるかどうかは疑わしい。お腹がすいたり、(ブラッキーの場合)退屈したりは確かにしているけれど、「自分が」空腹である、「自分が」退屈しているとは思っていないと思います。人間の場合、自分を意識できるのは生後十二ヶ月頃からだと読んだ記憶があります。それ以前は、お腹がすいたり、オムツが濡れたりして不快であれば泣いて訴えますが、おそらくそこにはまだ「自分」という意識はない。ただ不快なだけ。自分を意識できるようになるのは十二ヶ月以降で、さらに対象化した自分を主体として構想しあれこれ作り変えようと悪戦苦闘し始めるのは思春期以降ではないかと想像します。

  1.  熱いものに触れたときの人間の反射反応や中枢神経のない動物⇒感じることなき反応
  2.  人間の生後十二ヶ月頃までの赤ちゃん、犬、猫⇒主体なく、ただ感じて反応する。
  3.  人間の生後十二ヶ月〜思春期、チンパンジーなど極一部の動物⇒自分を意識し、それを守り育てようと執着する。
  4.  人間の思春期以降⇒より「うまく」生きるために自分を主体として構想し、自分を変えようとする。本格的な努力。

 A・Hさんのおっしゃる「主体」は、3の段階で意識されはじめ、4で、「堅固な実在として妄想される」のだと考えます。

【 2004、9、11、加筆 】
 パーリ仏典中部(片山一良訳 大蔵出版)を読み返していて、「第38 大愛尽経」についてここで触れるべきだと思った。
 この経の概略は、こうである。
 サーティという比丘に悪しき見解が生じた。
 <この識は流転し、輪廻し、同一不変である。それは語るもの、感受するものであり、それぞれの処においてもろもろの善悪業の果報を受けるものだ。>
 これは「あらかじめ識ありき」の考えであり、A・Hさんの「主体」の考えとほとんど同じだと思う。
 それに対して釈尊は、こう諌められる。
 <縁がなければ、識の生起はない、このように私は述べてきたではないか。>
 この「生起」とは、「一旦生起した識がそのまま存続する」という意味ではない。それではサーティの悪しき見解と大差ない。そうではなくて、「識は縁のつど新たに生起する」という意味である。そのことは、5節によって明らかだ。
 <眼ともろもろの色とによって識が生起すれば、それは眼識と呼ばれます。耳ともろもろの色とによって識が生起すれば、それは耳識と呼ばれます。鼻と…。舌と…。身と…。意と…。>
 識が先にあって、それが目で見るのではない、耳で聞くのではない。眼で見ること、耳で聞くことが識を生起する。

 公正であるために書き加えておく。同経7節から十二支縁起が説かれているが、そこでの支の順番は、識が六処(眼耳鼻舌身意)に先立つ。つまり、識が先に生起して、それが名色を起こし、六処が生起し、接触が生起し、感受が生起する、となっている。つまり、感じることに先だって識が起こっていることになる。
 無明→行→名色六処接触感受→渇愛→取著→生存→生まれ→老死 (各支の訳語は片山一良訳に合わせた。)
 私としては、5節にあるように「眼や耳といった六処が(対象となった色に)接触し感受が起こり、それによって識が生起する」と考える方が、釈尊の無我=縁起の教えに適うと考える。十二支縁起として確立された各支の順序には、縁起説でありながら、「先に識があって感受する」という我論への転落の傾向が、既に見られるように思う。
 (ちなみに13節には、人間が生まれ、成長し、感官が成熟し、執着・嫌悪するようになり、苦を生み、出家し、正しく修行し、全体の苦の集まりの滅を達成するまでの過程が詳細に述べられているが、ここでは識の生起については触れられていない。)
 (大愛尽経は、教説の内容が自然な流れになっておらず、いくつか別の固まりがまとめられたような印象を受ける。あるいは、何回かに分けて加筆されたか。文献学的に証明する能力はないが、、。しかし、識の生起する順については、経の内部に明らかに矛盾があると思う。)

 別の問題ながらついでに触れておくと、12節の前半は、過去の自己存在、未来の自己存在、現在の自己存在を否定している。これは、ここまでに説かれている縁起から自然に導き出される無我という結論だ。
 比丘たちよ、そなたたちは、このように知り、このように見ながら、過去に向かって走ることがあるでしょうか。<われわれは過去に現れたのか。過去に現れなかったのか。過去に何になったのか。過去にどのようになったのか。われわれは過去に何になり、その後何になったのか>と」
 「いいえ、尊師よ」
 「比丘たちよ、そなたたちは、このように知り、このように見ながら、未来に向かって走ることがあるでしょうか。<われわれは未来に現れるのか。未来に現れないのか。未来に何になるのか。未来にどのようになるのか。われわれは未来に何になり、その後何になるのか>と」
 「いいえ、尊師よ」
 「比丘たちよ、そなたたちは、このように知り、このように見ながら、今、あるいは現在に、内心に疑惑を抱くことがあるでしょうか。<私は存在しているのか。存在していないのか。何であるのか。どのようにあるのか。この生けるものはどこから来ているのか。かれはどこへ行く者になるのか>と」
 「いいえ、尊師よ」
 ここに説かれた過去・未来・現在の自己存在の否定は、過去生・死後生の否定を当然含意すると思う。中部第4恐怖経などに説かれるような宿住随念智(自分の過去生を思い出す智)・死生智(生けるものたちの死と再生の智)・天眼智(生けるものたちが業に応じて死にかわり生まれかわりしているのを見る智)とは、けして相容れないと思う。輪廻する識を考えたサーティ比丘に対して、釈尊は大変厳しい態度で臨まれたのである。
 4) 無我=縁起と責任、善悪

 人間は、無常にして無我なる縁起の現象ですが、ビリヤードの玉のようにただ外からの縁のままに動かされるのではありません。内部に複雑な反応の仕組みを持ち、そこで縁はなんども反響し巡り、その上で反応が生まれる。その反応の仕組みは、生得的な仕組みの上に経験から学習したことが幾層にも積み重なっています。そして、なにか反応をする度、経験をする度に、反応の仕組みは変化する。その量は、ほんの少しのこともあるし、一挙に大幅に変わることもあります。

 自分の反応の仕組みに一番影響を残す縁は、他ならぬ自分という反応だと思います。外からの縁も時に重大な影響を与えますが、それをどう受けとめるかは、自分次第です。今の自分の反応が、それ以後の自分の反応の仕組みを作る。ずるいことをすれば、その後もずるいことをしがちになるし、怠惰であれば、どんどんそちらへ流れて行く。いつも自分の反応に気をつけて、苦を作らぬ善き反応の癖をつけていく。外からの縁は、自分でどうすることもできないのですから、自分の反応のし方をコントロールして、自分によい縁を与えるしかありません。責任という言葉のニュアンスが少し違うのかもしれませんが、自分が今どんなあり方をしているか、それは自分に責任があると思います。そして、今の自分の反応が、これからの自分の反応パターンを作っていく。そういう自覚をもって、そのつどを生きていかねばなりません。(だれきった生活をしている癖に、こんなことがよく言える。はずかしい、、。)

 次に善悪について。
 仏教においては、善悪は、それ自体で完結した絶対的のものとしては与えられていないと思います。苦を作ることを止める働きをするか、苦を作る働きをするか、それによって決められていると思います。例えば、戒は、有無を言わせぬ神の命令ではなく、それを犯すと苦を作る縁になり、それを護ると苦の生産の停止に資するから、戒として定められている。
 苦への対処が仏教の最大のテーマであり、善悪はそこに内包されると思います。

 5) 一切の価値の否定と主体的努力

 すみません。この件に関しては、私の言い方が乱暴でした。

 仏教は、無用な苦を作ることを止める教えだと考えます。苦を完全になくすことはできない。しかし、私達の苦しむ苦のほとんどは、私達が作って、自分を苦しめ、互いに投げつけ合い、人を苦しめているのだと思います。私達の自然なありのままのあり方は、苦です。(苦諦)。苦の原因は、「堅固な実在とみなされる自己」を妄想し、守り育てるべきものとして執着し、自分にとって有利なもの、害あるものを価値の固定した変わらぬ「存在」として捉えて、執着し、嫌悪することにあります(集諦)。無用な苦をなくすためには、自分も執着の対象も、実体ではなく、縁によってそのつど生まれ変化する無我なる現象であると正しく見よ(滅諦)。そのためには、自分を整え、正しく努力する必要がある(道諦)。これが仏教だと思います。

 A・Hさんは、「苦にはマイナスの価値があるのではないか」と書いておられました。そういっていいと思います。無用な苦をなくすことこそ仏教の本義であり、無常=無我=縁起は、それを実現するために自分の事として腑に落ちて知る必要のある教え、いわば手段です。この手段は、非常にユニークで画期的な発見であり、しかもあらゆる事物にあてはまる普遍的な深い真理だと思っていますので、ついつい本義をすっ飛ばして、手段だけ熱く語ってしまう傾向が私にはあります。以後気をつけます。

 で、私が、「仏教は一切の価値を否定する」と書いたのは、仏教はなにかたいしたもの、畏れ入るようなものを打ちたてようとするものではない、というつもりでした。そのような「立派な」価値は、地位や名声や富や権力やいつまでも生きたいという気持ちなどと一緒に、仏教は否定します。仏教は、なにかを達成しようとする教えではなく、命ある間、ただ穏やかに軽安に、落ち込むこともなく、はしゃぎまわることもなく、生きることを可能にする教えだと思います。そのためには怠ることなく努力せよ、と釈尊は言われました。

 価値の問題に関連して、自分なりに一応の解釈がありながら、いまひとつ納得できていないテーマがあるので、そのことに触れさせて下さい。慈悲の問題です。
 慈悲は、執着と同様に、自然な反応パターンとして我々に備わっていると思います。自然のまま放っておいてありのままであれば、縁によって、我々凡夫は、執着の反応をしたり、慈悲の反応をしたりする。執着の反応の方が強いでしょうが、慈悲の反応も全然しないわけではない。
 無常=無我=縁起が真に自分の事として腑に落ちて分かれば、執着の反応は停止し、慈悲の反応だけが残り、執着の反応が消えた分慈悲が積極的に発動すると推察します。成道後の慈悲は、「価値」というようなニュアンスではなく、もっと自然な反応であろうと思います。
 修行者に対しても、慈悲は説かれますが、それは、ある意味、執着を薄めて、無常=無我=縁起を納得しやすくするという手段的、戦略的な意味合いもあるように感じています。

 自信のなさが露呈した歯切れの悪い文章を書いていますね。私は、自分の慈悲の理解を、粘土細工に後から張りつけた粘土のように、いまひとつしっくりこないものを感じています。自分の仏教理解の仮説の体系に根をおろしていない。練り込まれていない。
 (慈・悲とともに、四無量心(慈悲喜捨)のひとつである捨についても、腑に落ちた理解に達していません。)

 仏教における価値については、慈悲という点から、もっと考えるべきであろうと感じていますが、この問題は、しばらく保留とさせて下さい。

 6) 自殺について

 この問題は、先のメールでも考えましたので、今回は簡単に触れるだけにします。

 無常=無我=縁起を自分の事として腹に落ちて納得できれば、大半の苦はなくなると想像します。残るのは、純粋な肉体的苦しみ。それだけを取り出せば、大抵の場合は、大したものではなくなるのではないかと想像します。そして、無常=無我=縁起を自分の事として腹に落ちて納得できれば、そのために生きるべき価値などないことも分かるけれど、死ぬべき理由もなくなる。大抵の自殺は、本当は「存在すると固執された自分」を護ろうとする為になされるのではないかと思います。それがないと分かれば、自殺の理由もなくなります。

 ただし、純粋な肉体的苦しみが激烈で持続する場合はどうなのか、という問題は、やはり保留のままにさせて下さい。

 7) 霊的主体があるとすれば、いつどのように生まれるのか?

 すみません。この問いは、A・Hさんのお考えを反証するために立てました。

 物理的制約に縛られない霊魂を想定しておられるとすると、肉体が物理的に傷つけられて、ホメオスタシスが維持できなくなって、つまり死んでしまっても、霊魂は存続しつづけるとお考えだろうと思います。A・Hさんは、「わざわざ自己存在の永遠を否定するというのも、奇妙なように思えてしまいました…」と書いておられますから、自己存在は永遠であるとお考えなのだと思います。
 一方、私は、私という反応は、肉体という場における反応だと考えるので、肉体が壊れれば、そこでの反応も起こり得なくなると考えています。薪の尽きた火のように。

 死後に関しては、これ以上お話する内容をもたないし、平行線にしかならないでしょうから、これで切り上げます。ただし、霊魂の発生については、考えてみていただきたい事例を思いつきました。

 A・Hさんは、コピー人間の思考実験を提起されました。物質的に自分とまったく同じものがコピーされたと仮定すると、霊魂の存在を否定するなら、どちらが自分とは言えなくなるではないか。どちらか片方を殺すといわれて、自分ではなくコピーを殺せというのは、なにか霊魂が働いているからだ。そういう御趣旨の思考実験だと思います。

 これに対して、私は雷発生装置の喩えを出しましたが、あまりに遠いスタンスから返事をしてしまったようで、ピントはずれだったかもしれません。
 もう一度答えるなら、肉体の継続性によって、私には私がオリジナルだと分かり、隣のそっくりさんはコピーだと主張するでしょう。一方、コピー人間は、私の寸分違わぬコピーであるなら、同じように肉体の継続性の感覚もコピーされており、自分こそオリジナルだと感じ、この私の方をコピーだと主張することでしょう。すなわち、まったく寸分違わぬコピーなら、ともに自分こそオリジナルと主張し合い、第三者には判定不能、その意味では、イコールだと思います。そして、その両方が、それ以降、それぞれにそのつどの反応を繰り返し、学習し、やがて個性(その人らしい反応パターン)を形成していくだろうと思います。

 この思考実験は、あり得ないことではなく、実は現実に起こっていることだと思います。

 その前に、事前の準備としてふたつ前提を設定させてください。
 ひとつは、「霊魂があるなら、すべての動物は霊魂を持っている。」ということ。A・Hさんは、感じるものには霊魂がある、と言っておられたと思います。同時に、自分以外の他人がなにかを感じているかは確認しようがないともおっしゃっていますが、そこまで問題を拡大すると収拾がつかなくなるので、「人間以外の動物もすべて霊魂を持っている。」と仮定します。
 もうひとつは、「霊魂があるなら、一匹の動物は、必ずひとつの霊魂をもつ。」 霊魂を持たない動物や霊魂をふたつ以上持つ動物はいないと仮定します。
 これらふたつを前提とすると、霊魂の発生について、説明の困難な事態がでてくると思うのです。

 人間の細胞のなかにもたくさんのミトコンドリアがあり、それはかつて細胞の中に共生した好気性細菌だといいます。だとすると、私は、多くの霊魂を持つ部分で出来あがっているのでしょうか?
 ミトコンドリアは私の中に住んでいるだけで、それぞれ別の動物であり、私には霊魂があり、ミトコンドリアにも霊魂があるのかもしれませんね。では、共生の始まった頃、ミトコンドリアが共生した相手とミトコンドリアには霊魂があったのでしょうが、そこから進化してきた複雑な多細胞動物の霊魂はいつどのように生まれてきたのでしょう。
 生物は、単細胞生物から多細胞生物に進化したと考えますが、その中間では、役割分担のある群体という状態を経たであろうと推測します。このとき、細胞の数だけあった霊魂が、あるタイミングでひとつに融合したのでしょうか? (霊魂は融合するのでしょうか?)
 クラゲは、発生の際、固着したポリプにくびれが何段もできて、それが一枚ずつ剥がれて、それぞれが一匹のクラゲになるそうです。この時、霊魂は分裂しているのでしょうか? プラナリアなど、ふたつに切られても、両方がちゃんとした状態に再生する動物がいます。この実験をした学生は、霊魂を増やしたのでしょうか? クローン羊の霊魂は、どの時点でできるのか?
 下等な動物に限りません。人間でも一卵性双生児の場合、受精直後はひとつの霊魂で、その卵がふたつに分かれた時、魂がふたつに増えたのでしょうか?

 私には、「先に霊魂ありき」の考えには、やはり無理があると思えます。
 「感じることなき反応」から、「感じる反応」が始まり、その後「自分を想定する反応」が生まれ、「執着の反応」に発展した、と考える方が無理がないし、釈尊の無常=無我=縁起の教えにも合致すると考えるのですが、如何でしょうか?

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 いつもの癖で自問自答に走り、自分に言い聞かせるような文章になりました。

 夏バテを口実にだらだらしている内に、随分秋めいてしまいました。

 また御意見・御批判お聞かせください。
                             敬具
A・H様
    2004、9、7、
                             曽我逸郎


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