岸 善生さん 縁起と量子理論は対立しない(A・Hさんの問題提起に) 2004,8,15,

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曽我さん、お帰りなさい。
旅はいかがでしたか。

A・Hさんのご意見の中で、

量子論の、非決定論的な解釈の唱える所は、縁起に敵対して来る可能性があると思うんです。
というくだりがありましたが、
量子論は、「縁起」の考え方をサポートすることはあっても縁起と量子論とが対立すること全くないと私は考えております。

曽我さんの「あたりまえのことを方便とする般若経」をもう一度じっくりと読んでみました。

【無我即縁起】の中の

「一切は重なり合い、互いに縁起しあって、変化する世界をつくっている。世界の一切が今あるものすべてを変え、今あるものすべてがそれぞれの仕方で世界を変え、世界の一切が今あるものすべてを消散させ、世界の一切が新しいものを生み出す。」
は、

【ファインマンの経路積分との比較】の中の

「全ての過去、全ての世界(宇宙)の影響を包み込んだ形で、今この瞬間が成り立っていることになります。
自分だけの過去が原因で、今の自分があるのではなく、世界中の人々の過去、そして宇宙全体の過去の影響を受けて今の私があることになります。
そして、今この瞬間の私の行為が、未来の状態を変える原因となっています。
私だけの未来を変えるのではなく、世界中の人々の未来、そして宇宙全体の未来を変える原因となっていることになるのです。」
と全く一致しておりますし、

【励まし】の中の

「わたしたちは、縁起により、空の力で、一方的に変えられるばかりではない。私たちにも空のエネルギーは流れている。わたしたちも、縁起によって世界を変えている。今のほんの些細なことが、未来に大きな結果となって現れる。」
は、

【曽我逸郎さんとの対話】の中の

「確率の波に私たちがどのように働きかけるかによって、起こる現象が変わってきます。同じ、確率の波が存在していたとしても、我々の働きかけ方によって、違う現象が起こってきます。観測対象と観測者のその時のエネルギーの状態によって、確率の波の位相が変わり、波が強めあったり弱めあったりした結果、強めあったところだけが現象として残ります(現われます)が、波の位相にエネルギーがパラメーターとして含まれているため、その時のエネルギーの状態によって、波の強めあい方が変わってくるからです。」
と同じ事を言っていると読みました。

また、

物理法則を絶対視する人達が居ると思いますが、彼らの導き出す考え方が、仏教の考えに近いとしても、彼らの目的はそもそも、この世の全てを人間の知る範囲に収める事という感じで、仏教とは目的が違うのではないかと思うんです。
ともA・Hさんはおっしゃっておりましたが、確かに物理法則が絶対だと考えている物理学者も多いようです。実際私が量子論を教わった大学の教授も、あらゆる哲学のヒエラルヒーの頂点に「量子力学」と書いて「量子力学帝国主義」なる話を、一番最初の講義で力説していたことを鮮明に覚えております。
私も、自然科学で何でも説明できるはずだと、一年半くらい前までは思っておりまして、仏教の「ぶ」の字も考えたことはありませんでした。
ただ、粒子性と波動性の二重性をうたう量子力学はどこかおかしいと大学を卒業して以来15年間くらい思っておりまして、いろいろと数式をいじくり回しているうちに、空間のあらゆる二点間、そして時間のあらゆる二点間が相互作用しながらこの世界が成り立っているということを表わす数式を見つけました。何とこの世界は不思議な成り立ち方をしているのだなと思っていた矢先に、華厳経に出会ったわけです。
なんとお経が、現代の科学がやっとたどり着いた世界観を、しかも千数百年前に、言っているなんて、私にとっては驚愕以外の何ものでもありませんでした。
そしてこの世界観は、まさに「あたりまえのことを方便とする般若経」の「縁起」なのです。
そして、この世界観に出会って以来、私は非常に穏やかな気持ちになることが出来ました。
「他人」や「自分」という分け方はもはや存在しないので、他人の目を気にすることも無くなりました。また人一倍責任感が強く、責任のプレッシャーに押しつぶされそうになったことも多々ありましたが、「責任」という概念も、責任の範囲などという言葉からも分かるように、二元論的な考えが作り出した概念でありますが、実はこの世界が全体性と呼べるものから顕現した現象に過ぎないということに気付き、「責任」などという概念も存在しないのだということが分かった時、肩の力がすっと抜けました。
こういった意味で、少なくとも私にとっては、物理という存在が私の苦しみを軽減させてくれましたので、ある意味、私にとっては物理がこころの支え(宗教)になっている部分もあります。私のホームページを一番よく見ているのは、恐らく私自身でしょう。

物理学も所詮は本質を「近似している」に過ぎないのです。
世界観を、言葉や偶像や曼荼羅などで表現しようとするのと同じように、物理の場合もただ数式という言葉を使って、近似しているにすぎません。
ですので、「この世の全てを人間の知る範囲に収めよう」などという考えを持った物理学者は、もはや傲慢以外の何ものでもないのです。

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岸 善生
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曽我から岸さんへの返事 2004,8,18,

拝啓

 メールありがとうございます。

 10日間の修行は、今から振りかえると、もっと頑張れたのになァ、という感じです。あらためてHP上で御報告致しますので、その際は御一読頂いて、また御意見を頂けると幸いです。

 岸さんにおいては、物理学の数式は、もはや一種の「偽」経か論の域に達しているのだと思いました。

 しかし、悔しいかな、私にとっては、数式はサンスクリットやパーリ語と同様に、いやそれ以上に難しい。

 数学が全宇宙共通の言語だとしたら、宇宙人に仏教を説く時、岸さんような数式が力を発揮するでしょうね。宇宙の様々な知的生命体が寄り集い、数式で無常=無我=縁起を語り合う。あながち夢物語とも思いません。釈尊の教えは、それくらい普遍性のあるものだと思います。

 A・Hさんからの御質問に対しては、他の方からも御意見を頂きました。議論の輪が広がっていくのは大変うれしいことです。A・Hさんの問題提起がそれだけインパクトの強いものなのだと思います。

 無我にして縁起の現象に、如何にして主体的努力や発心が可能か? おそらく、物理学による非決定論・カオス性と、生物に本来的な「よりうまく生きよう」とする傾向とがあいまって、可能になっているのだろうと想像しています。でも、まだ頭の中が整理されていません。岸さんに頂いた御意見も参考にさせて頂き、もう少し考えてみます。

 今後ともよい刺激を宜しくお願い申し上げます。

                                 敬具
岸 善生様
      2004、8、18、                    曽我逸郎

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