中島文寛さん 縁起は決定論にあらず(A・Hさんの問題提起に) 2004,8,12,
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A・Hさんは業の習性、ならびに「六師外道の決定論」と仏教における「業論」の差をご存じない。
- 過去に起こった業はいかなることがあろうと取り消すことはできない。
- 故に、過去の因は全て果を生ずる。但し、それがいつどのように起こるかは決定していない場合がある。(これを不定業という)
- 釈尊はみずからを「努力論者である」と述べられている。
努力論とは、自分の一切合財の人生を自らの「後天的現実行為」によって決定しよう。と言う主張である。つまり釈尊は神の意思によるのではなく(ブラフマンの否定)偶然によるのでもなく(六師外道の無業論の否定)自らの意思により今作りだす「業」をもって未来を切り開くことを説かれた。
- 六師外道の「宿業論」と仏説の業論には一つ大きな違いがある。宿業論は過去の業は取り消すことも変えることもできない。としているのに対し、仏説では「転業」を認めている。すなわちすでに成立している定業については変えることはできないが、不定業については「悪を転じて徳を成す」ことも不可能ではない。(アングリマーラの故事を参照していただきたい)
合掌
中島 文寛