伊藤さん 「あたりまえ般若経」の「座る練習」への不満 2004,8,3,

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「はじめの、そして一番大切な練習は、座る練習だ。座る練習をきちんと続けていけば、自分と世界の境がなくなる経験をする。自分と世界がまるまるひとつになる。自分もなく、意識もなく、意識の対象もない。それがどのようなものだったか、後から思い返すことはできない。言葉が生まれる前の経験だから。この経験を繰り返すことによって、あなたたちは、こねられ、殻がとれ、柔軟になり、世界にむけて大きく開かれる準備ができる。」
偽経の上の部分についてメールいたします。

坐禅中に「無字」の公案を考えていました。「無」について考えたり想像したりしていました。
結局そこで気づいたのは、今自分と世界は「有る」ということでした。「無」は無いのですから経験もできず、想像することしかできません。
ただ一つ明らかなのは「有る」が全く無い状態が「無」であるという論理的帰結です。
但しひたすら「無」を想像した結果、今「有る」ということが理解できました。
あたりまえのことですが、世界と自分はあるのです。「有る」側の陣営に、この世界とともに自分もいることに気づきました。
そういう意味では私は世界と一つといえなくもありませんが、意識はありますし、意識の対象もあります。
言葉を用いなくとも「意識」は意識しています。
しかし「私」という感覚はあまりありません。自分の体も、横で坐禅している人の体と同じで、客観的に感じることもできます。
「何だかそっくり返って座っている奴がいるなー。あ、自分か。」「こいつもいつか死ぬんだよねー。あ、自分が死ぬのか。」とか。
結果的に我執がなくなっているのだと思いますから、偽経にある座ることの結果は私の経験と同じですが。

しかし、自分と世界の境がなくなる経験は私にはありません。ここに書かれていることは作者の経験から出た言葉なのでしょうか?
それとも想像でしょうか。
具体的にこの経験のことを尋ねたとしても答えは言語を絶すると書かれているので説明はしてもらえないのであれば、もし経験されたことでないのだとしたら、このような思わせぶりな言葉は、何か言葉では表現できない秘密の経験がある、というような言葉で人をたぶらかすことになりますが、どうでしょうか。
もしこのような経験がおありでしたら、言葉で表現できないにしろ、とつとつとでもいいですから、表現する責任があるように思います。

偽経の試みは大変面白く、実際非常に読みやすかったです。ろうそくの炎、風で我という実体のないことを説明するくだりなどは大好きです。
ただ坐禅の説明には何か不満が残りましたのでメールをお送りしました。

経験といいましてもまだまだ新米なのですが、臨済系の居士の坐禅会に毎週参加して1年3ヶ月になります。独参は1年になります。
無門関第一則「趙州無字」は透してもらってはいますが、言葉少ない師匠ゆえ、自分でわかったような気がしているだけかもしれません。

一つ思い出しました、徹宵坐禅会のとき、ウシガエルが夜中ずっとないていたのですが、そのときに、ウシガエルと私は一つになったとは感じませんでした。
ただ、同じ世界に生きているという意味で親しみがわいたのを思い出します。
以上私の座禅中の感覚を表現すると、意識はありますが「私」感は減る、という感じです。世界は世界であります。
私は世界の一員ではありますが、世界と私は一つではありません。

こおろぎも夜を徹したり寺の庭・・・これは師匠の徹宵坐禅会明けの気持ちをよんだ俳句です。

伊藤


曽我から伊藤さんへ返事 2004,8,4,

拝啓

 メール頂戴致しました。ありがとうございます。

 最初に謝らねばなりません。ホームページをつくって「あたりまえ、、般若経」を掲出したのは1997年で、私の仏教理解もそのころからは随分変わってきました。考えの変わったところは、書きなおすのではなく、意見交換や小論集のページに後から新しい考えを付け加えていくような構成になっています。分かりにくくて申し訳ありません。おっしゃるとおり、私自身も「あたりまえ、、般若経」には、様々な点で問題があると思いはじめています。

 当時の考えはこうでした。
 「自分を知ろうとしても、それとして知ろうとした自分は、対象として立てられた自分(ノエマ自己)だ。対象として立てられた自分ではなく、見る側の自分、現に働いている本当の自分(ノエシス)を知らねばならない。そのためには、対象化はあってはならない。対象化のない特殊な知が必要だ。それが般若であろう。主客のない智である。対象もなく主客もないのであるから、自分を含めた世界の全体を一挙に知る智であるはずだ。」
 このように考えていました。対象化せずに自分を含めた世界の全体を観取するわけですから、言葉(世界の一部分に輪郭線を引いて対象化すること)はもはや通用しないはずだ、とも考えていました。そのような考えから、言葉による直接の表現(論理的表現)ではあらわせないことを、それでもなんとか言葉によって模索する試みとして、あのような偽経という形式を採りました。
 「主客のない智」については、当初は、よく言われる「主客未分」という言葉で考え、その後「主客対生成・対消滅・対再生」、さらには「意識の指向性停止体験」と言葉を変えて考え続け、一貫してそれをある種の決定的な宗教的体験として要請しておりました。ですから、「あたりまえ、、般若経」に登場する娘の山での体験は、私の実体験ではなく、必要であろうと要請していた体験を想像して書いたものです。

 その後、南方上座部にヴィパッサナー瞑想というのがあると知り、今の私の考えは、こちらに近いものになっています。

 その話の前に、対比のために、もっと以前の禅の経験に触れておいたほうがいいですね。
 学生時代、或る禅の会に入っていました。臨済宗のお寺のお世話になっていて、日曜の朝が例会でしたが、そのお寺は雲水さんの修行道場もあり、大接心の時には我々も泊りがけで参加を許されていました。私も無門関第一則を頂いて老師に参禅していました。しかし、取り組みがいい加減だったせいで、これという成果もないまま、就職して遠ざかってしまいました。
 禅というものを分かっていなかったのかもしれませんが、数息観によって無念無想になるのが当時の目標でした。そして、現実に時々は無念無想になっていたと思います。しかし、無念無想は、自分が起こっていない状態(小論<ダマシオ 「無意識の脳 自己意識の脳」 を読んで>参照)であり、「深すぎて障害となっている定」(小論<タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘>参照)ではなかったかと考えています。

 対して、ヴィパッサナーというのは、止観の観のことで、自分というそのつどの現象を定においてひたすら実感を持って観察しつづけることだと理解しています。最初はやはり出る息、入る息の観察から入ります。自分のそのつどの動作を観察することや、自分の今の感情を観察することなどもあるようです。私は、まだ色身の観察もままならない状態ですが、受想行識もつぶさに観察して、自分とは無常にして無我なる縁起の現象、反応の組み合わせであったと知るのがヴィパッサナーではないかと考えています。
 ヴィパッサナーでは、念住経というのを重視していますので、それを御一読頂ければ、およその考え方は想像して頂けると思います。小論「クオリアとホムンクルスを、、」の後半で、一部を抜き出していますので、ご覧頂ければうれしいです。またリンクのページには、パンニャディカさんの「パオ・セヤドー法話集」を紹介していて、こちらは詳細をきわめた解説・案内になっています。

 ということで、現在の私は、「主客未分」=「意識の指向性停止体験」=「無念無想」ではなく、定における自己観察、すなわち自分という現象の一側面を対象として詳細に実感を持って集中し静謐にして明晰な意識で観察しつづけること、それが正しい修行であり、それによって自分の無常=無我=縁起を腑に落ちて納得するのが仏教であろうと考えています。

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 最後に、伊藤さんの御見解について若干感想を申し上げると、「意識はありますし、意識の対象もあります。」と仰るのは、私も同じ考えです。
 「「無」は無いのですから経験もできず、想像することしかできません。」と仰るのも、まったくそのとおりだと思います。但し、世の中には、「無」や「空」を実体視・対象化して、真の実在、根本存在、「主客未分で捉えるべきもの(なるべきもの)」だとする考えもあり、それに対しては警戒すべきだと思います。

 ひとつだけ、考えの違うところがあります。

> あたりまえのことですが、世界と自分はあるのです。「有る」側の陣営に、この世界とともに自分もいることに気づきました。

 私は、仏教は、有るという立場も、無いという立場も、両方離れた立場だと思っています。それが無常にして無我なる縁起の<現象>として物事を、なにより自分を見る仏教の立場だと思います。常住でも断滅でもない現象としての捉え方、それが仏教=無常=無我=縁起だと思います。

 暑い日が続きます。どうぞ御自愛下さい。

 御精進の成果をまた教えて下されば幸いです。
 今後とも御意見・御批判お聞かせ下さい。
                                  敬具
伊藤様
     2004、8、4、                     曽我逸郎


伊藤さんから再び 2004,8,17,

私の感想に対して丁寧な返信をありがとうございます。
小論集をいくつか読ませていただき曽我さんの考えも変わってきたということ理解いたしました。

このような日常あまり話さないようなことで意見交換ができることに感謝いたします。

まず、意見の相違としてコメントを頂きました、有る、無い、について私の考えを補足いたします。
この宇宙の中においては物は増えもしなければ減りもしない、宇宙の総体としては不増不減であり、その中において様々な現象の起こっている場所として、生きていることの前提条件とせざるを得ない。そういう意味で私は、宇宙は有る、と言います。ただし、この宇宙の外にでて、宇宙自身を眺めることができない以上、客観的にこの宇宙が存在しているということができない、ということはわかります。

最後に、クオリアに関する小論2編を読みました感想ですが、我執の無いところにある主体性と自由を観じる、というようなテーマであると思いますが、日々の坐禅で感じることと近いと感じました。以下は坐禅を通じて心がけていることのメモ書きです。
近いか近くないかご意見はあると思いますが、毎週の坐禅によって日々の仕事に追い立てられるのではなく、自分が選び取って働いているのだ、と考えがリフレッシュされます。

(以下メモ)
坐禅を通じて根拠のない考えが消えていく。
過去は記憶の中にしかなく、今しか存在しない。
未来もまたわからず、刻々と今に置き換えられていく。
欲望は満たされないときに起こり、満たされると消え
不満は自ら選び取る意思のないところに起こり、選び取った後には不満は覚悟と努力に置き換わる。
過去の失敗が気になるか、評判が気になるか、将来が不安か。
今この時の行動を改めるほかはない。

Through the meditation, I abandon clueless concepts such as Heaven, Hell, Reincarnation and so on.
The past exists only in my memory.
What is existing now is the present.
The future is being replaced by the present every moment.
So the future is unpredictable.
The lust rages with insufficiency, calms down with sufficiency.
Dissatisfaction occurs where the will lacks.
The will to make a choice replaces the dissatisfaction to readiness and effort.
Even when you feel repent of the past mistakes, worried over the present reputation and anxious for the future,
Only thing you can do is to change your present behavior.
(メモ終わり)

これからもホームページでのご活躍をお祈りしています。
伊藤

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