A・Hさん 縁起はやはり決定論では?(続き) 2004,8,2,

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曽我様、こんにちは。
試験は…ぼちぼちでした…

お忙しい所、貴重なお話を沢山ありがとうございます。
元々は、無我や縁起について謙虚にお話を伺って、正しく理解したいと思ってたのですが、この頃は、自分の考えばかり述べてしまってて恐縮です。
しつこく色々と聞いてしまうと思いますが、私の事を、人々に無我や縁起を適切に説く為の踏み台みたいに捉えてくだされば、私も気楽で幸いです。

クオリアの話も拝読させていただきました。
ですが、未だ殆ど消化できてない状態ですので、ある程度理解が至りましたら、改めて意見を述べさせていただこうと思います。

未読の文章が多いのに色々質問してしまって大変申し訳ありません。
時間を見つけて読ませて頂いて行こうと思いますので、よろしくお願い致します。

私にはやはり、次の辺りが未だ理解できそうにありません。
・縁起≠決定論
・決定論と、努力や善悪との両立
・存在としての我と、現象としての我の違い

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まず、縁起と決定論ですが、私は、縁起を全てとした考えの先には、決定論しか導き出せないんです。
もし全ての物事が、何らかの縁によって引き起こされたとすると、今の自分の全ては、紐解いて行くと結局は、全く他なる物事の、当然たる結果にしか過ぎないという事になると思うんです。
選択をする自由の幅があるとしても、例えば、そこで何を選択したかには、何かの理由があるはずです。その理由の理由、更にその理由と考えて行くと、今の状態は、起こるべくして起きた事に過ぎないという結果になって来るんです。
どのように考え、どのくらい努力できるか、こういう場合に何を選択するかすら、全てが一切他に掛かっているのならば、一体どこに、自分の選ぶ道があるのでしょうか。
ですから、人には選択の幅があると言う話におきましても、それは、本人が選択したと思い込んでいるだけで、実際にはそれを選択する事を運命付けられていたという事という解釈しかできないんです。

縁起の考えとは、一因一果という事であると聞いた覚えがあるのですが、そうでも無いのでしょうか…?
一因一果というのは、まさに決定論そのものだと思うんです。
縁起と決定論とは、例え導き出す結果が同じであっても、その考え方の本質は、元々相異なるものなのでしょうか?
すると、私が縁起=決定論だと一目散に結論した事には、根本的な勘違いがあったのだと思うのですが、その辺りが明らかにならないと、どうも気持ちが悪いんです。

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それから、例えこの世が決定論的に動いているのであっても、努力はできると仰られたのですが、努力するか怠けるかすら決まっているのならば、努力しているのではなく、努力させられていて、そしてそれを、努力していると思いこまされているだけだと思うんです。
宗教でも決定論的な考え方があるものもあるみたいで、「神は、予め救う者と救わない者とを決めているが、だからといって、絶望して怠けてはいけない」というものを聞いた事があるのですが、どのように捉えれば良いのかさっぱり解らないです。
例え決まっている事であっても、自分は自分で努力をしたと思いこんでいるから、それで充分であるという考え方なのでしょうか?
また、決定論的な世界は、悪い事をするかどうかだって決まっているわけですから、人に対して善悪も言えなくなってしまいます。人が善悪を言うのは、人が自分で何かを選べるものだと思っているからこそだと思うんです。そしてそれは、人が人であるからこそ抱く妄想に過ぎないという事になると思います。
自分で、良い事をしたり、悪い事をしなかったりするような事は、自分に選択権があると主張する、とても傲慢な考え方と言う事になってしまうと思うんです。
決定論的な考え方では、良い事をしても、悪い事をしても、全ては神(物理法則)の所為だということになると思うんです。
こんな決定論的な世界を、どう受け入れたら良いのか、私には解らないんです。
例え決定論が真実だとしても、無理にそれを受け入るよりも、むしろ否定し、自分に選択権があると信じて、自分で努力し、悪い事があれば自分の責任とする方が、人間として健全に生きられると思うのですが、曽我さんは、決定論に対しては、どのようにお考えなのでしょうか?

私は、多くの人は私と同様、縁起と聞けば、縁起=決定論とまず飛ぶので、そこでまず誤解を沢山生んでいると思うんです。
おそらく、私を含めた普通の人は、無我や縁起と聞けば、「無闇に自分から何か働きかけようとせずとも、なるようになる」とか、「流れに逆らおうとせず、流れに身を任せるべき」のような印象を受けると思います。
私も、自我といえば能動的、無我といえば受動的な印象を受けます。
すると、無我は努力を否定するのではないかと解釈をされてしまうと思います。
人は善から悪へ流れ落ちて行くという考え方があると思いますので、特にこの場合は、流れに逆らう事こそが重要であると考えらるのではないかと思います。

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現象としての主体性と、存在としての主体性ですが、曽我さんの話のなかで、どの辺りまでが存在としての主体性を考える故の過ちで、どの辺りまでが現象としての主体性故のものであるのかが、未だ良く解らないです。
努力をする事は、我執にはならないのに、死を選ぼうとする事は、我執になるのでしょうか。(この辺りは、保留される問題に被ってきてしまうのでしょうか…)
一切の価値の否定というのも、解らない所が多いです。
死ななければならないとする事は、生に対し、捨てるだけの負の価値あるという事を認めるという事ですから、確かに、価値を認める考え方になってしまうというのは解ります。
ですが、努力をしないよりも、努力をする方が良いのならば、それだけで、努力というものに、価値が備わってしまうと思うんです。
苦痛に対し、苦痛を軽減する事が大切になるのならば、それだけで、苦痛には負の価値があると思うんです。
誰かの苦しみを救えるならば、それだけで生きている意味はあると思います。そういう、生きる意味の求め方も有ると思うんです。

とても失礼な発言だとは思うのですが、普通に解釈してしまうとどうしても、何かもっと高次元の考え方があって、それに基いて、ある時は主体性を認め、ある時は主体性を否定し、ある時は価値を認めし、ある時は価値を否定しているようにしか見えないんです。
例えば、前回頂いたメールの中の、
>「主体的努力も縁起による決定論的反応だ」と極論することは、
>理屈の上では可能かもしれませんが、やっぱり理屈の上だけのこと。
>主体的努力を決定論的反応に解体しても、なにもよいことはもたらさず、
>自分を追い込むだけのような気がします。
というのは、揚げ足取りみたいになってしまうかもしれないのですけど、どうしても解釈の仕方が解らないんです。
極論と言えども、縁起の考えから導き出されるものなので、これは、縁起を信じる事よりも、主体的努力を重視すべきだという事で、縁起という考えを絶対視する事の限界を示しているのではないかと思えてしまうのですが、どうなのでしょうか…
自分にとって良い事か否かを考える事についても、一種の価値を認めてしまっている事に他ならなく思えるんです。

無我や縁起が、苦しみを和らげるという目的から生まれた悟りならば、無我や縁起よりむしろ、苦しみをいかにして和らげるかという事こそが本質であり、求めるべき事なのでしょうか。
苦しいのは避けたい、他人を傷つけるような事や、貶めるような事はしては行けない、何を信じれば良いのか解らなくなった時、少なくともこれらの事が信じられるのではないかと思える事があります。
物理法則を絶対視する人達が居ると思いますが、彼らの導き出す考え方が、仏教の考えに近いとしても、彼らの目的はそもそも、この世の全てを人間の知る範囲に収める事という感じで、仏教とは目的が違うのではないかと思うんです。ですので、例え結果が同じでも、目的が違う以上、同意見である事に安心してはまずいのではないかと思います。
彼らは多分、無とは何か、決定論である事がどう言う事か、いまいち表面的にしか理解してないのではないかと思えてならない事があります。
例え何が真実であっても、人間として信じるべき事は、その真実であるとは限らないのではないかと思う事があります。

なぜ死ななければならないと思うというのは、人が生きて行く限り、他の生き物を犠牲にしていくわけですし、人が苦しみしか生まないのならば、苦しみを全く無くす為にはそうするしか無いというのがあると思います。
自分の無力さに押しつぶされた時、死ねば解放されそうだと思うのは仕方ない事だと思います。長年信じてきたものに裏切られるのは、かなり大変な事でしょうし。
人間の居ない世界、主体性という現象が存在しない世界は、苦しみも全く無いと思うのですが、これは一種の理想郷なのでしょうか…。
確かに、意味が無いものは存在してはならないというのは変だと思うのですが、意味を求めてはいけないけども、実際には意味がある、そういう感じなのではないかという気がします。

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主観に関しても、客観的に見た世界と解釈すれば解るのですが、例え幻でも、主観の存在を否定する術は見当たらないです。
一瞬先の自分が自分でなければいい、朝起きたら自分でなければいいなどと考えた事はあるのですが、それでもやはり、自分は自分のままだったんです。
それは、昨日の自分の記憶を受け継いでいるからこそ抱く妄想だという解釈も確かに、客観的な観点からは通用すると思うのですが、どうしてもそれでは腑に落ちないんです。
もし今ここで自分が2人に分裂したら、自分は消えるのか、一方になるのか、他方になるのか、両方になるのか、それは客観的に見ればどうでも良い事ですが、実際イメージしてみると、どうにもならないと思うんです。
もし自分のコピーが可能ならば、更にはそれが、特に自分の性格や記憶と一致している必要も無くなって来ます。
曽我さんは、こういう事をお考えになった事ってございますか?
悪い人がいて、しばしば悪い事をしている、自分はその人を悪く思う。しかし、もし自分が、今の自分の記憶や性格を失って、その人の記憶や性格を受け継いだら、自分は悪い事をしないだろうか。
自分が一瞬前、どこかの犯罪者で何か悪い事してたとします。
でも、肉体が別々なので、その時の記憶も何もなく、結局全く矛盾は起こらない、そういう事が考えられると思うんです。
自分が誰であっても、いつの時代の人間であっても、矛盾は起こらない事になって来るはずなんです。
主観の存在が妄想ならば、妄想しているのは誰なのか、この辺りはどうも、客観的に見れば簡単に割りきれてしまう問題なのかもしれないのですが、それが本質であるとはどうしても思えないんです。
こういう感覚がある限り、人間と、火や雷とを同じ土俵の上で見る事は、無理があると思えてならないんです。

私は非常に執着心の強いほうだと思いますので、主観を考えるのは、確かに我執によるものなのかもしれません。
私は唯物論的な考え方を忌み嫌ってて、無我や縁起についても比較的反対の考え方で、ついつい変な事を言ってしまう事があるのですが、それも、人の死を、あたかも物が壊れるのと同一視するように、消えて無くなるのだと安易に捉えるという考え方に対する反感に、異様に執着している結果なのかもしれません。

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量子論の話、読ませていただきました。
量子論は、授業で習ったものは難しかったですが、決定論を覆す可能性があるという点においても、大変興味深いものだと思います。
詳しい数式とかは、未だにあまり理解できてないのですが、私の知っている、量子論に関わる一般的な話を交えて書いてみます。
それまでの古典力学(ニュートン力学)では、どんなにカオスみたいに複雑で予測不可能であろうと、決定論的なもので、それが常識のような感じで物理は進んで来たそうですから、量子論が非決定論的な性格を持っている事は、とても革命的だったそうです。
量子論には色々な解釈があるそうなのですが、未だこれが正しいと断言できる解釈が無いと聞きます。
統計力学は、実際にある沢山の粒子の位置や動き等を、どう統計的に扱っていくかという感じの物だったと思いますが、量子力学では、統計的な量こそが本質となって来て、実際の位置や運動量は、同時に観測できないのではなく、そもそも実際不確定であり、多くの状態にいくらかの確率で存在しているが、確かに一つしか存在しないという辺りや、位置と運動量とが同時に観測できないのも、観測する技術がないのではなく、観測がそもそも不可能であるという辺りも、天地がひっくり返ったようで、奇妙で興味深い点だと思います。

ですが、例え非決定論的だと言っても、では、数ある未来の中から一つの未来を選び出すのは、一体なんなのでしょうか…?
それが単にランダムに決まるとすれば、我々の努力が何も関わってないのですから、決定論とは大差無いと思うんです。
量子論には、パラレルワールドと言う解釈もありますが、複数の枝分かれした宇宙のうちの、一つを選び出したのは誰なのでしょうか。
それとも、我々はこの世界で生活しているようで、実は同時に他の無数の並行宇宙においても、そこ特有の記憶を持って生活しているのでしょうか。

それから、ニューロンの活動等、現時点で解っている脳内の反応には、量子論の支配する世界に深く関わる作用は無いそうで、現在の常識だと、人間の脳は、古典力学の範疇にある、つまり、決定論的であるそうなんです。
これは、私にはどうも絶望的な事です。

また、量子論の、非決定論的な解釈の唱える所は、縁起に敵対して来る可能性があると思うんです。
決定論的な世界においては、人間の心は、物理法則に全く従っているだけなので、何の能動性も持たないのですが、量子論においては、その可能性を示唆しているからです。
縁起に決まっている者ではなく、主体性によって決めるという辺り。
普通、能動性は、主体性の存在を認める事に繋がって来るように思えます。
縁起の味方は、従来の古典力学的な、決定論的な考え方だと思うんです。

私は、一概に量子論の世界と、人間の心とを結びつけるべきではないのではないかと考えています。
つまり、量子論が人間の心を記述する法則なのではなく、量子論の唱える世界は、人間の心の性質に近い所があるという感じではないかと考えています。

私は、世界は非決定論的であると信じているのですが、決定論を否定する事は、それほど容易な事では無いと思うんです。
例えば、過去に様々な努力をしたり、苦渋の決断をしたりして、今の自分が居ると、改めて思ったりします。
しかし、自分がどの程度努力するか、どう決断するが、それ以前に既に決まっていたと言う事を、どのようにして否定できるのでしょうか。
今、自分の意志でしたと思った事が、実は遥か昔から既にそうなると決まっていた事であるという事を否定する事は難しいと思うんです。
確かに未来は予測できないかもしれませんが、予測できない事が、決定論を否定する決定的な決め手にはならないと思うんです。
この点は、私が非常に悩んでいる点でもあります。

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だいぶまた長文乱文になってしまいました…
あと数日後くらいから、暫く実家に帰って参ります。
それでは、お元気で。


【 2004、9、10、加筆 】
 A・Hさんの問題提起に対して、中島文寛さん、岸 善生さんから御意見を頂き、私からの返事も遅れてお送りしました。すべて独立して項目を立てましたので、意見交換一覧にもどってご覧下さい。

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