高橋哲夫さん 件名:「月」を見ないで「指」を見る…その2 (集団自殺ほか) 2004,10,14,

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「月」を見ないで「指」を見る・・・その2

 早速のご返事ありがとうございます。実はこのメールの前にもう一通のメールを書いてお送りしようとしたのですが、埼玉の集団自殺のニュースが入り思うところがあって書き換えました。

 私は過去三人友人知人を自殺で失っております。その内二人は独身で家族の人の話によると生前に最後にあったのが私だそうです。もう一人は一回電車に飛び込み大けがをして助かったのですが、三ヶ月後に家で首をつりました。

 二人はあまり宗教に縁がなかったのですが、一人は某新興宗教団体に入っていてその人の兄はリーダーとして活躍していました。後から思ってみると三人とも自分の世界に閉じこもっていてあまりにも世間との接触が少なかったような気がします。仏教で言えば「我」が強いと言うより「我」だけで生きているという感じでした。頑固とか人の言うことを聞かないと言うのではなく、生きているのは自分一人で社会の中にいながらロビンソンクルーソーみたいな感覚を持っていたのではないかと想像しています。

 最後の会話と言っても別に「死にたい」とか「苦しい」では無く、ふつうに趣味とか仕事の話をしただけなんですけどね。その後すぐに家族の人から死んだとの話を聞いて、こちらがびっくりしました。三人とも経済的には安定していて、(一人は学校の教師で、後の二人は自営で事業はきつそうでしたがアパートやマンションを持っていて暮らしていくには困らない状態でした。家族の人の話では事業は縮小しましたが、負債はないそうです)別に死に急ぐ必要はないのですから、もう少し気楽に生きることを考えられなかったかなと思います。後から考えるとなんか様子がおかしいとは思いましたが、そのサインを受け取れ無かったことに悔いが残ります。

 仏教の実践というと蘇我さんは、座禅や念仏、お題目などの修行の方に頭が向かっているみたいですけど、釈尊も「悟り」だけを説いたのではなく、仏教はもう一つの柱、いかに生きていくか、その方法も説いています。

七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)
「諸悪莫作(しょあくまくさ)、 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)、(法句経 183番)」

五戒
「生命を傷つけない。与えられていないものを取らない。不倫をしない。嘘をつかない。お酒や麻薬などで酩酊しない」

などを始め、初期の仏典では日々の生活、親子や仕事などにおける人間関係の心構え等が具体的に載っています。このことは近頃忘れられている感がします。

大パリニッバーナ経の釈尊の臨終の時の言葉です。

 さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」

修行は悟りを得ることだけではなく、日々の生活そのものではないでしょうか。そうでなければ「畢竟何の用ぞ(つまるところ何なんだ)」だと思います。

 曽我逸郎様

  20004.10.14                    高橋哲夫


高橋哲夫さんへの返事  2004,10,18,

拝啓

 集団自殺は、ニュースを聞くたびに困惑します。ひところ連続して起き、しばらく収まっていたのに、また頻発し始めたようです。どうしてそんなにあわてて簡単に結論を出すのでしょうか。

 多分、彼らは、自分でなにもしなければ、自分が今と同じ状態のままずっと存在しつづける、と感じているのだと思います。存在しながら、存在する証しを示せず、存在する価値を見出せず、ロビンソンクルーソーのように誰にも知られず、雑務に追われながら、ただ生き長らえることに嫌気が差したのではないかと思います。

 私自身は、本気で自殺しようと思ったことはありません。「そんな奴に自殺志願者の気持ちが分かるか!」と言われれば、そうかもしれませんが、学生の頃からしばらくの間、結構しんどい時期がありました。
 ひとかどの御立派な自分がいるつもりで、自分にふさわしい価値ある役割があり、俺はそれを成し遂げるべき人間なのだ、という思い上がりがありました。心の奥では実は、それによる世間の評価を望んでいたのかもしれません。しかし、いくら探しても、そんな価値はなく、かわりに、どうでもいいことばかり次から次へとこなさねばならないのでした。
 くだらない、どうでもいいことに追われながら、絶対的な価値を見出せないことに腹を立て、同じようにどうでもいいことに追われている周囲の人々を見下していました。そんなふうにひねくれて、いらいらしていたのです。

 自殺する人達も、私と同じように、自分にはふさわしい価値があり、価値ある自分が存在する筈だのに、その価値をどこにも感じられず、周囲からは自分にふさわしくないことばかり押しつけられている、という感覚があるのではないかと想像します。

 私の場合は、そんな状況で救いとなったのは、上を見ることでした。電線の鳥や風に揺らぐ梢や流れる雲を見上げて、気持ちを開くこと。そんな対症療法でなんとかバランスを保ちながら、ずっと問いつづけていたのは、まさに「畢竟何の用ぞ」、「結局のところなんのためなのか?」という問いでした。手段的目的ではない、究極の価値、絶対的な価値はなにか、という問い。それさえはっきりできれば、それに向けて努力することで、自分にも価値が与えられる筈でした。しかし、どんな価値も目的も、究極のものとは思えない。

 八方塞の状況を破るヒントになったのが、仏教、つまり無我=縁起の教えでした。自分にふさわしい価値がある筈だ、という考えは、御立派な自分が存在するという前提に立っている。そもそもそれが間違いだったのではないか? 私とは、そのつどの縁への無常にして無我なるそのつどの反応ではないか。ご大層な実体などない。時間の中の、場における、シームレスに外とつながる現象である。この考えは、ひとつの光明になりました。その後、仏教を学び、検証していくにつれ、ますますこれは間違いのない事実だとの思いを深めています。
 単に事実であるだけでなく、それを自分のこととして受け入れ納得していくにつれ、自分が軽くなり、楽になっていっているという実感もあります。無常=無我=縁起が腹の底までドスンと落ちて納得できたわけではありませんが、方向としてはこれで間違いがないはずだと感じています。

 自殺をしようとする人は、その前に一度、仏教、無常=無我=縁起を考えてみてもらえたら、と思います。経典には、我々の頭は燃えている、と表現されていました。どこにあったか、思い出せなくてすみませんが、それくらい切羽つまった状況に我々はいる、ということです。これを書きながら思い浮かんだ比喩は、我々は、ひなたの雪だるまのように、みるみる着々と融け崩れつつあるのです。死は着実に迫っている。ボタボタと融けつつある雪だるまが、「自分は変わることなくこのまま空しく存在しつづけるのだ」と考えて、川に飛び込むなら、馬鹿げています。無常=無我=縁起は、今を軽安に生き、軽安に死に向かうことを可能にする教えだと思っています。

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 戒については、私も大変重要なことだと思っています。

 ひとつには、定や慧を可能にする準備として、悪を避け、自分を平静穏やかにするために・・・。大パリニッバーナ経にこうありましたね。「戒律とともに修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功徳がある。精神統一とともに修養された智慧は偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。」(中村元訳 岩波文庫より)

 もうひとつは、戒を守ることで、凡夫であれ、苦を作ることを止められる。苦を作る執着の反応を抜本的になくすことはまだできないけれど、そのつどそのつどの苦を作る反応を止めることができる。

 さらに、戒を守るためには、そのつどそのつどリアルタイムで自分のあり方を観察する必要があります。「あ、今俺、腹を立てている」「あ、こんどは妬んでいる」という風に。このことは、そのまま、自分が無常にして無我なる縁起の現象であり、執着による自動的反応を繰り返していることを観察することでもあります。

【2004,10,26,加筆】 パーリ中部61 アンバラッティカ・ラーフラ教誡経では、「自分の行いが、自分や他者を害し苦を生むものでないか、常に観察せよ」と説いている。

 ラーフラよ、もしそなたが身による行為を為したいと思うならば、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。<私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになりはしないか、他者をも害することになりはしないか、両者ともに害するものになりはしないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか>と。ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、<私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになる、他者をも害することになる、両者ともに害することになる、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである>と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、けっしてなすべきではありません。しかし、ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、<私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することにならない、他者をも害することにならない、両者ともに害することにならない、この身の行為は善のもの、楽を生むもの、楽の果のあるものである>と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為をなすべきです。(片山一良訳『パーリ仏典 中部』大蔵出版)

 私は、ついつい無自覚・無反省のうちに執着の自動的反応を繰り返してばかりおりますが、できうるかぎり、いつも気をつけて、自分をコントロールしていきたいと思っております。

 お便り、ありがとうございました。またご意見お聞かせ下さい。

                           敬具
高橋哲夫様
       2004、10、18、
                          曽我逸郎

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