阿呆陀羅經さん 死後に関する無記のタターガタは衆生 2004,6,13,

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曽我様 はじめまして。

柄が悪いことで有名な某巨大掲示板で「原始佛教」というスレッドを立てて遊んでおります、阿呆陀羅經と申します。よろしくお願いいたします。佛教に関心を持った当初から、「あたりまえ般若」をずっと拝見しておりまして、勉強させていただいております。

さて、今回メールさせていただきましたのは、最近意見交換欄でも論題に上っております、いわゆる「無記問題」についての私見を申し上げたいがためです。

ブッダが問いに答えなかったといわれる、十難もしくは十四難とよばれる「形而上的論題」の最後のもの、「如来(タターガタ)の死後に関する問題」について、従来「如来(タターガタ)=ブッダ」とされ、衆生に関しては死後の存在を認めたという見解が一般的であったと思います。

ところが、この問題に関して色々と調べましたところ、「無記」の文脈における「タターガタ」とはブッダなる「如来」ではなく、「衆生もしくは我」の意であると、パーリニカーヤの古註であるアッタカター文献の各所に記されていることに気がつきました。これらは5世紀の大註釈家ブッダゴーサの編になるものですが、彼はその編集にあたって、当時シンハラ語で残されていたさらに古い註釈や、インド以来の古註を参照しており、したがって信頼に足る語義解釈であると思われます。

一方、古訳の漢訳阿含において同様の問題に言及される箇所を調べると、『別訳雑阿含経』の第10巻196経には「衆生神我。死此生彼。為有為無。亦有亦無。非有非無。非非有。非非無。曇瞿。」という訳文が見られ、「如来」は登場せず、散逸した旧訳の『中阿含経』の残存断片ではないかとされる、単経の『邪見経』と『箭喩経』では「如来」としてのブッダと、死後の存在の有無が問われるもの「如此」とが明確に区別され記されています。

このように、無記の文脈での「タターガタ」の原意を探ると、パーリ・漢訳ともに、本来は衆生を意味していたことはほぼ明確であると思われます。また、中村元氏の大著『原始仏教の思想T』p234に「佛教でもジャイナ教でも説くところの、このコンテクストにおけるタターガタとは『如来さま』のことではなくて、『たましい』のことである。タターガタは『衆生神我』と訳されていることがある。」 とあり、この指摘が一連の調査のきっかけとなったことも併せてお知らせ申し上げます。

参考資料としては、片山一良氏による一連の註釈つきパーリ佛典の和訳と、ネット上で読める大正蔵経を参照しました。なお、以下の漢訳経典はWebで読むことができます。

『別訳雑阿含経』第10巻(196)http://w3.cbeta.org/result/normal/T02/0100_010.htm
『邪見経』 http://w3.cbeta.org/result/app/T01/0093_001.htm
『箭喩経』 http://w3.cbeta.org/result/app/T01/0094_001.htm

資料提示ばかりになりましたが、とりあえずお知らせまで。

                              阿呆陀羅經 拝


阿呆陀羅經さんへの礼状 2004,6,13,

拝啓

 お名前と書き出しに「スワ、荒らしか!」と一瞬ビクリ(すこしワクワク)としましたが、拝読して心強いサポートを頂いたと大変勇気づけられました。

 御存知のとおり、私は、「生まれ変わりは無常=無我=縁起と相容れない。釈尊は、如来の死後については「薪の尽きた火のように消え去る」と、どこへも生まれ変わることはないと明言され、衆生の死後については、無記でもって、明言を避けられた。本当は、生まれ変わりはないのだけれど、それを信じている人に結論だけ言うとかえってミスリードして苦を生む行動に走らせかねないから。」と、このように考えているのですが、これまではほとんど論拠もなく、自分でも強弁だなぁ、と感じておりました。
 それが、この度、阿呆陀羅經さんに(すみません、私の文体では違和感がありますね。)文献学的なサポートを頂いて、これまでより胸を張って主張できます。ありがとうございます。

 ところで、2ちゃんねる(ですよね)で「原始佛教」を探して見ましたが、見なれないもので、見つけられませんでした。URLと言っていいのでしょうか、お教え下さい。

 (最初に頂いた修正前のメールにあった)『邪見経』と『箭喩経』から引用下さった部分は、文字化けしておりました。繁体字のフォントを入れないと見られないのでしょうね。

 それから、片山一良氏による註釈つきパーリ佛典の和訳は、どうすれば入手できますでしょうか?

 今後とも引き続き情報・御意見・御批判お聞かせ下さいませ。

 ありがとうございました。

                          敬具
阿呆陀羅經様
         2004、6、13、
                          曽我逸郎


阿呆陀羅經さんから 2004,6,13,

拝復
早速のご返信ありがとうございます。

>お名前と書き出しに「スワ、荒らしか!」と一瞬ビクリ(すこしワクワク)としましたが、拝読して心強いサポートを頂いたと大変勇気づけられました。
文字通り阿呆なHNで申し訳ありません。新しいのを考えようかと思ったのですが、各所にこれでカキコしてますもので、一応統一しておこうと思い、敢えてこれにしました。元来は大道寄席笑芸の名称ですので気軽に呼び掛けてやって下さい(笑)。

さて、本題に参りましょう。

>生まれ変わりは無常=無我=縁起と相容れない。
基本的に同意です。しかし、
>釈尊は、如来の死後については「薪の尽きた火のように消え去る」と、どこへも生まれ変わることはないと明言され、衆生の死後については、無記でもって、明言を避けられた。
この「薪の尽きた火」の譬喩は、経文の文脈からして、生物学的な死を基軸としたものではないと思います。正覚に逹して「もはや迷いの生存(輪廻)には戻らない」という確信の状態が説かれているのではないかと考えますがいかがでしょうか。もしもそれが死後断滅論になれば「断見」もしくは「無見」となるでしょう。
>本当は、生まれ変わりはないのだけれど、それを信じている人に結論だけ言うとかえってミスリードして苦を生む行動に走らせかねないから。
生物学的な死を基軸とした「生まれ変り」や「死後の生存」に関して、ブッダは一貫して否定も肯定も拒絶する、無記の姿勢を堅持したというのが私の見解です。先のメールでご紹介申し上げた経文にもある通り、ブッダは無記の範畴に関して、特に覚者と衆生の区別を設けておりません。「タターガタ」の語釈にしても原始佛教の段階では「如来」といういわば超人的意味は未確立であったと考えておりますが、それはまたの機会に...。また、輪廻についても各個人が確認了解できる範囲での「迷いの生存」を指すと考えております。「生死輪廻」も以上のような前提で捉えるのが妥当ではないかと思います。以下に興味深い経文を引用させていただきます。原始佛教における「生まれ変り」の概念について何らかの示唆が得られると考えております。
「アングリマーラ、おん身はもう一度サーヴァッテイにおもむくがよい。おもむいて、その婦人にこの ように告げるがよい−婦人よ、わたしは生まれてこのかた、故意に生物の命を奪った記憶がない。このことの真実によっておん身に安らかさあらんことを、胎児に安らかさあらんことを、と」
「師よ、それはわたしにとって、知りながら嘘をつくことになりませんでしょうか。師よ、なぜならわたしは故意に多くの人の命を奪いましたから」
「アングリマーラ、おん身はもう一度サーヴァッティにおもむくがよい。おもむいて、その婦人にこのように告げるがよい−婦人よわたしはとうとい道に志す者として生まれ変わってからこのかた、故意に生物の命を奪った記憶がない。このことの真実によっておん身に安らかさあらんことを、胎児に 安らかさあらんことを、と」
         『マッジマニカーヤ』86「アングリマーラ経」より
〔PS〕 片山一良氏訳のパーリ佛典は、大蔵出版から『中部経典』の全訳と『長部経典』の訳が進行中です。また、中山書房佛書林から雜誌形式の『原始佛教』として『長部』の大部分と『中部』の一部が続刊されており、これらに豊富に引用されるアッタカター註釈が非常に参考になりました。註釈には先の「タターガタ」のような単純な語釈にとどまるものと、部派アビダルマに基づく煩瑣な経典解釈部分が混在しており、特に後者は取り扱いに注意を要すると思います。

                            阿呆陀羅經 拝


阿呆陀羅經さんから 追加です。 2004,6,14,

前略

文字化けするようですので『佛説邪見経』と『佛説箭喩経』を添付テキストファイルで、『別訳雑阿含経』の該当箇所を以下に抜き出してお送りします。ソースはこちらの国内サイトからダウンロードしました。http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/japan/down.html

たしか『別訳雑阿含経』は『国訳一切経』に収録されず、他の二経も『新国訳大蔵経』に収められてはいますが、「如来」と「如此」の区別については註釈でも特に触れられてはいなかったと思います。『南伝大蔵経』の『中部経典』所収『マールンクヤプッタ経』の干潟龍祥氏による訳注−手許にないので参照できませんが−では、「タターガタとは去来するもの、すなわち衆生有情(取意)」と記されてあったと記憶しております。取り急ぎ要件まで。

                             阿呆陀羅經 拝

≪曽我付記≫
 やはり一部文字化けしたりして(漢文経典も読めないし,,,)私にはうまく扱えないので、添付ファイルも『別訳雑阿含経』の該当箇所も、とりあえず割愛させていただきます。
 ご紹介頂いたサイトの<『大正新脩大藏經』テキストデータベース(SAT)について>に、「本データベースを,インターネット等において不特定多数の者に再配布しようとする場合には,加工の有無を問わず,当研究会に事前に書面によって許可を得てください.」ともありましたので、、。どうか皆様ご自身で直接同サイトを参照下さい。


阿呆陀羅經さんへ   2004,6,17,

拝啓

 丁寧なお心遣い、ありがとうございます。

 大蔵出版の片山一良訳「パーリ仏典」のシリーズは、中部を3冊だけ持っておりました。『別訳雑阿含経』に相当するものも訳されていて、どこかで入手できるのかと思ったのですが、そうではなかったのですね。

 で、同書の中分五十経篇Tの第63 小マールキヤ経をみると、確かに「タターガタ」と「如来」が訳し分けられていて、「タターガタは死後存在する」という一文に補注1がついていました。巻末を見ると、阿呆陀羅經さんのご指摘のとおり、このようにありました。(パーリ語は一部略)

 〈「タターガタ」(tathA・gata)とは有情(satta)のことである〉。なぜならば《あるものが業垢によってこの状態に来ているように、そのように(tathA)他のものがつぎつぎと来ている(Agata)ということで、有情はタターガタ(そのように来ているもの)と言われるからである》。ここは《タターガタ(有情)、霊魂(jIva)、我(attA)は死後、この身が壊れて以後、生じる、存在する、見られるという意味である。これによって、永遠の状態による十六の有想論、八の無想論、八の有想無想論が示されている》。
 法蔵館の仏教学辞典で「無記」を見ても、「如来(ここでは衆生を意味する)」とありました。

 どちらにも以前目を通している筈ですが、今回阿呆陀羅經さんにこの注の重みを

 >パーリニカーヤの古註であるアッタカター文献の各所に記されていることに気がつきました。これらは5世紀の大註釈家ブッダゴーサの編になるものですが、彼はその編集にあたって、当時シンハラ語で残されていたさらに古い註釈や、インド以来の古註を参照しており、したがって信頼に足る語義解釈であると思われます。
 と指摘していただくまで、読み流しておりました。読み流しながら、「死後についての無記は衆生の死後」という印象だけが残り、まるで自分の独創であるかのごとく吹聴していたのかもしれません。

 漢訳経典はまるで読めませんが(正確には、パーリ語もサンスクリットも読めず、和訳しか読めない、、、)、そちらでも「如来」とは訳されていないとのご指摘、ますます強固に根拠を固めていただき、まったく納得です。

 お陰で頭の中を整理してかっちりと認識することができました。ありがとうございます。

 その上で、阿呆陀羅經さんの御見解は私の「独創的強弁?」と異なる点もあり、それは、阿呆陀羅經さんは、「釈尊は如来の死後についても無記を貫いた」、と考えておられ、「薪の尽きた火の譬喩は、生物学的な死を基軸としたものではない。正覚に逹して「もはや迷いの生存(輪廻)には戻らない」という確信の状態が説かれている」と仰っている点です。

 先程と同じ「パーリ仏典中分五十経篇T」に「第72 火ヴァッチャ経」があり、ここでは、無記の話の続きに、「薪の尽きた火」が登場します。(すみません、阿呆陀羅經さんは先刻御承知でしょうが、ホームページで読んで下さる方を少し意識しています。)

 ヴァッチャゴッタ遍歴行者:「(ゴータマ尊のように)心が解脱している比丘はどこに生まれ変わるのか?」
 世尊:「『生まれかわる』ということは相応しくない」
  「『生まれかわらない』ということは相応しくない」
  「『生まれかわり、また生まれかわらない』ということは相応しくない」
  「『生まれかわらないし、また生まれかわらないのでもない』ということは相応しくない」
 ヴァッチャゴッタ:「混乱した、浄信も消えた」
 世尊:「あなたの前で火が燃えたなら、何によって燃えているのか」
 ヴァッチャゴッタ:「草や薪を取ることによって燃えている」
 世尊:「その火が消えたなら、どこに行っているのか」
 ヴァッチャゴッタ:「それは相応しくない。草や薪が尽き、他の補給がなければ、消えている、と呼ばれる」
 世尊:「ちょうどそのように、如来について述べようとする場合、色によって述べることはできますが、如来にはその色が、断たれ、根絶され、根幹を失ったターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものとなっています。ヴァッチャよ、如来は、色という呼称から解脱しており、深遠、無量にして、深入し難く、あたかも大海のようなものです。『生まれかわる』ということは相応しくありません。『生まれかわらない』ということは相応しくありません。『生まれかわり、また生まれかわらない』ということは相応しくありません。『生まれかわらないし、また生まれかわらないのでもない』ということは相応しくありません。」
 <「色」を「受」・「想」・「行」・「識」に置き換えて、同文繰り返し。>
 ヴァッチャゴッタ遍歴行者は、賞賛し、帰依した。
 曽我の読みによる要約なので、重要な部分が落ちているかもしれません。最後の世尊の言葉は、片山一良訳のまま写しました。
 「生まれかわる」、「生まれかわらない」云々の四句の否定については、アッタカター注があり、「どの答えをしても、特定の考えを捉えることになる。拠り所のない者、捉われのない者となれ、諸論説の楽しみに入る機会を得てはならない、という理由で、四句すべてを否定された」といった主旨が述べられていました。これは、無記において答えを拒否された理由と同じ理由だと思います。

 さて、どう考えるか、、、。単純に読めば、やはり生物学的な死を基軸とした生まれ変わりについての話だろうと感じます。この経の前半には、無記があり、ヴァッチャゴッタは「タターガタは死後存在するかしないか」と尋ねていますし、その流れの延長上で読まざるを得ないのではないでしょうか。「薪の尽きた火が消える」という喩えも、本来はシンプルに「縁がなくなれば終わるだけであり、どこに生まれ変わることもない」という意味だったのに、その後のサンガ内の転生を肯定する動きによって、なんだかよく分からない話に骨抜きにされていったのではないかと(根拠なく)想像します。

 確かに、釈尊は、死後の問題については大変慎重で、「一貫して否定も肯定も拒絶する、無記の姿勢を堅持した」といってもいいと思います。ただ、死後について、釈尊も答えを持っておられなかったのか、あるいは、御自身ははっきりと答えを知っておられたが、その答えが質問者に資することはなくかえって害になるものだったから、答えられなかったのでしょうか? 私は、後者に違いないと(根拠なく)想像しています。

 釈尊の時代のように、生まれ変わりが世の常識で、社会や規範を支えるものであった頃なら無記が正しい態度だったと思いますが、現代、生まれ変わりがもはや常識でない今、「死後についての無記は、如来の死後であって、一般の衆生は輪廻転生するのだ」などと説いて「前世の悪い因縁がある。喜捨しろ」などと脅す輩がおり、その害毒を中和するためには、「無我=縁起と死後の生まれ変わりとは矛盾する、生まれ変わりはない」と明言した方がよいのではないかと考えます。

 一番いいのは、「生まれ変わり」とか「転生」とか「死後生」といった言葉が、人々の頭からも、辞書からも消え去ってしまえばベストなのでしょうけれど、、。
 そう考えると、生まれ変わりがもはや常識でない現代において、いつまでも死後について論争しているのは、多分「論説の楽しみに入」っているのでしょうし、だとすると、やはり、釈尊の教えに従って、やっぱり無記を堅持すべきなのでしょうか、、?

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 2ちゃんねるの「原始佛教」覗いてみました。といっても、ハードディスクがいっぱいいっぱいでしかもどうも不安定なので、生で見られるソフトは恐くて入れられず、過去ログを見せてもらいました。
 いくつもの話題が平行して進行しているので、どれがどれへの返答なのか気をつけて読まねばならず、結構つかれました。でも、読み出すと、読みふけってしまいますね。しっかりとした裏打ちがありしかも示唆に富む発言をする方もおられ、熱いと感じました。そうでない方も多いですが、、。確かに玉石混交ですね。電波男さんという方も、口調に反して言っておられることは至極まっとうで、共感する部分がかなりありました。

 また今後ともお気づきの点御指摘下さいますようお願い申し上げます。

                               敬具
阿呆陀羅經様
       2004、6、17、                   曽我逸郎

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