ピスキスさん 統合失調症と自我意識の問題などその後は? 2004,6,13,

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はじめまして。

アンケートを送りました。
瞑想・ヨーガに関心があります。
中井久夫氏の分裂病に関する知見と関連した、自我意識に関する論文を読ませていただきました。大変興味深く思いました。

私自身は、心理職として、認知にも問題があり、ことばの遅れたお子さんの通園する施設にも勤務しています。
分裂病でいうところの統合失調と、そういうお子さんの様子とは、ある意味通ずるところがあると思います。
もし、そこで論じられて、その後のご見識などありましたら、ぜひお聞かせ願えれば幸甚に存じます。

自身は、修行の道は程遠いのですが、身近に同様の関心を持って修行に励んでいる人を見てくらしています。
その人が、最近、「すべては無意味綴りだ」などということがあり、ふーーん?!と感心して聞いています。
特におかしな行動もなく(笑)、毎日穏やかに、わたしに対してもやさしく、自分の務めをこなしている人です。

また、ときどきサイトを訪問させていただきたく思っています。

ひとことごあいさつまで。

ピスキス拝


ピスキスさんへの返事 2004,6,15,

拝啓

 メール頂戴致しました。ありがとうございます。

 残念ながら統合失調症については、その後はほとんど勉強できておりません。
 かわりと言ってはなんですが、メールを頂いて思いついたことを、あまり関連のない連想にすぎませんが、書いて見ます。

 以前「脳のなかの幽霊」(V.S.ラマチャンドラン、角川書店)で読んだことを思い出しました。ナディアという「自閉症サヴァン」の女の子がいて、5歳でダ・ヴィンチ顔負けのデッサンを描いたそうです。同書P249を見ると、疾走する馬の姿を本当に見事にありのままに捉えています。普通の8歳の子の描いた、板を切り抜いたような馬の絵とは雲泥の差です。

 そこから飛躍してまったく実証性のないことを考えました。

 一部の仏教では「はからいを止めよ、ありのままでおれ、ありのままに見よ」と言います。まるで、かつて本来のあり方をしていた私達がいて、ありのままに見て、ありのままに過ごしていたかのように。

 しかし、はからいのない元々のものの見方は、実は、凡庸な幼児の絵のような、板か棒のようにものを見る、かなりの単純化(抽象化)をした見方ではないか。それだけの単純化をして、やっとはじめて私達は、なにかを対象として捉えることが可能になるのではないかと思います。それは、「ありのまま」からは程遠いものの見方で、それが、私達の世界との接し方なのだと思います。

 一旦単純化して捉えた対象を、一部の人は、その後どんどん細分化して詳細に観察しようとします。そういう努力・訓練(=はからい)を積み重ねていって、ようやく「ありのまま」が見えてくるのではないでしょうか。ダ・ヴィンチのデッサンのように。

 では、なぜナディアは、5歳にして(最初から?)ありのままに見ることができたのか? 想像にすぎませんが、単純化・抽象化し情報量を落としてモノを対象化する、という手続きをしないまま、膨大な生データそのままになんとか対象を捉えるだけの能力が彼女にはあり、抽象化せずにそうしてしまう術を身につけてしまった。そのせいでキャパシティの余力が乏しくなって、自閉症と診断されるようになったのではないかと(根拠無く)想像します。

 私達の執着(価値評価の体系)は、まさに板や棒でこしらえたような単純なものです。<肩書き**>は偉い、とか、自分がいて、あれは自分に得で、それは自分の敵だ、とか、、。型に嵌まった価値判断の体系に縛られて、その結果、執着の自動的反応を繰り返して、無用な争い、無用な苦を生産しつづけています。

 それに対して、釈尊は、よく気をつけて実態をよく観察する訓練を重ねて、無常=無我=縁起を見よ、と仰った。つまり、ダ・ヴィンチのように努力し、修行を重ねて、無常にして無我なる縁起の現象が縁起する様を、ありのままに見られるようになれ、と仰った。ただし、ダ・ヴィンチの場合は、外の対象を観察したのに対し、釈尊は自分という現象が反応する様を観察された。それによって、思い込みの価値の体系を解体し、執着を滅し、無用な苦を人と自分に創ることはなくなると発見されたのだと考えています。

 実際の事を知らないまま、乏しい知識を膨らませて想像してしまいました。御意見・御批判頂ければ幸甚です。

                              敬具
ピスキス様
     2004、6、15、                     曽我逸郎


ピスキスさんから再び 2004,6,15,

曽我逸郎さま

ピスキスです。
ごていねいな返信、ありがとうございます。
十分に咀嚼できていないことをおことわりします。

曽我さま:
> しかし、はからいのない元々のものの見方は、実は、凡庸な幼児の絵のような、板か棒のようにものを見る、かなりの単純化(抽象化)をした見方ではないか。それだけの単純化をして、やっとはじめて私達は、なにかを対象として捉えることが可能になるのではないかと思います。それは、「ありのまま」からは程遠いものの見方で、それが、私達の世界との接し方なのだと思います。
表現の違いだけかもしれませんが、「対象をとらえる」というときにすでに、はからいが始まっているように思います。

つまり、世界から自我が分化することが、「はからいをもつ」ことの始まりなのではないでしょうか?

> では、なぜナディアは、5歳にして(最初から?)ありのままに見ることができたのか? 想像にすぎませんが、単純化・抽象化し情報量を落としてモノを対象化する、という手続きをしないまま、膨大な生データそのままになんとか対象を捉えるだけの能力が彼女にはあり、抽象化せずにそうしてしまう術を身につけてしまった。そのせいでキャパシティの余力が乏しくなって、自閉症と診断されるようになったのではないかと(根拠無く)想像します。
というところですが、自閉症のことは、まだまだよくわからないことが多いようですが、脳の器質的な問題からくるというのが通説になっていると思います。ですから、診断以前の問題として、すでにあるということではないかと思います。

(魂の問題と脳(器質)の問題とを同列に論じるようで、なにか不遜というか、ちがうようにも思いますので、わたし自身はこのあたりにさせていただき、もっとよく考えてみたいと存じます。)

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わたしの関心のひとつは、悟りとか安穏の境地に至った人は、当然、自我や認知においても、ことばが適当かわかりませんが、「感じ方や認知のしかたも普通とは違うのでは?」ということだったのです。

(先のメール)「すべては無意味つづり」ということばを「採集」したので、これは面白い(笑)と思って、曽我さんへのメールに書きましたが、それは、見えている世界がありのまま、何の意味づけもなくそこにあり、自分がそれを意味づけて見ている(世界を作っている)のだということも、そのとき同時に感じているということであるようでした。

「名称(nama)と形態(rupa)の消滅」という観念と、なんらか関係があるのではと思ったのです。
<杉浦さま:禅定体験から見た無我 2002,2,24>に関連したやり取りの中で、すでに書かれているものではないかと思います。サイトをまだよく読ませていただいてなくて、蒸し返しになりましたら、どうかおゆるしください。


ピスキスさんへ はからいを極めてありのままを見る 2004,6,24,

拝啓

 お返事遅くなり、申し訳ございません。

 自閉症については、確かに、何も知らないまま思いつきを述べて無責任であったと反省しております。

 ただ、私の思ったことの重点は、サヴァンのナディアではなく、「健康な」幼児の描く稚拙な絵の方にありました。幼児の描く絵が稚拙なのは、手を思いどおりに動かせず、描く技術がないからではなく、もともとあのように単純化してものを見ているのではないでしょうか? そして、我々「健康人」(凡夫)のものの見方も、同様に稚拙なのではないか、と考えたのです。見るもの出会うものを、その瞬間に、「これ好き、嫌い、汚い、カッコイイ、金持ち、ダサイ・・・」と至極単純に振り分けて処理してしまう。まるで、四角と丸と線だけで描かれた幼児の絵のように。

 梵我一如的傾向の強い「仏教」では、よく「はからいを止めよ」「ありのままでおれ」などといった言い方がされます。この「はからい」は、「主体的努力」のことだと考えています。
 「こうしたほうがいい、ああしてはいけない、などと小賢しく考えるから、余計に迷路に迷い込む。何も考えるな。自然でおれ。そうすれば、ありのままの世界、真如がおのずと現前する。」
 このような言い方で、主体的努力は禁止されます。このような考えを無為自然主義と呼ぶことにします。

 無為自然主義は、我々は、「本来」のありかたでは、世界をありのままに見ていた、と考えます。なのに、「好き、嫌い、ああしよう、こうしよう・・・」と「はからい」をするから、ありのままが見えなくなって、迷っている、と言います。

 それに対して、私は、「健康な」幼児の稚拙な絵を見て、凡夫のものの見方は、そもそもの最初から、単純化された稚拙なものなのではないか、と思ったのです。そうであるのに、ただ「はからい」を止めてボーっと世界を眺めるなら、ただ映像がピンボケになるだけで、ピンボケになったおかげでひとうひとつは見分けられなくなり、それを「世界の実相だ」、「真如が見えた」とはしゃいでいるだけではないのか、と思います。

 ありのままに見るためには、そうではなくて、ダ・ヴィンチのように、よくよく目を凝らして、細かいところまで観察すること。つまり、主体的努力・はからいを重ねて極めることで、ようやく可能になるのではないかと思います。それによって、汚いものも、カッコイイものも、ダサイものも、本当にそうであるのではない、と分かってくる。変わらぬ価値を持つ「存在」ではなく、無常にして無我なる縁起の現象であると分かる。それが釈尊の説かれた方法だと思います。

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 「対象化して捉えること」は、自我を妄想することよりはるかに根深い反応で、生命誕生のかなり初期から始まっていると考えています。大腸菌がちょうどいい温度の方へ移動するのも、すでに方向を志向しており、ヒトデが貝を探すのは、もう完全に、あるカテゴリーにあてはまる個物を対象化していると考えます。アメーバが餌を取り込むのも、既に対象化であると言ってもいいかもしれません。
 生物は、地球に誕生した極早い段階から、自分にとって都合のいいものと、不都合なものだけを、都合がいいか悪いかだけの基準で、いち早く発見し対処しようとしてきました。我々人間の、世界への対応の仕方もその延長線上にあり、都合がいいか悪いかだけの基準でいち早く拙速に反応する仕組みが構築されています。その結果が、「これ好き、嫌い、汚い、カッコイイ、金持ち、ダサイ・・・」という反応、つまり執着の仕組みによる自動的反応であり、それが苦を生み出しています。
 この状況に対して、釈尊は、「執着の自動的反応を停止して、気をつけて、よく見るように努力なさい」と教えられたのだと考えます。そうすれば、「好き、嫌い、汚い、カッコイイ、・・・」と単純化して価値付け、処理してきた「モノ」が、実際は無常にして無我なる縁起の現象であり、生まれては、変化し、壊れ、他を生み出していることを見ることができ、執着の反応で守り育てようとしてきた「自分」も、やはり同様に無常にして無我なる縁起の現象であり、そのつどの反応であった、「守り育てるべき自分」は構想に過ぎず、そのような「自分」に執着することが、かえって自分と人に苦を作り出していたのだ、と知ることができる。これが無明からの目覚めだと考えています。

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 自問自答の暴走になってしまいました。ピスキスさんのメールに即して、簡単に振りかえっておきます。

 >「対象をとらえる」というときにすでに、はからいが始まっているように思います。
 >つまり、世界から自我が分化することが、「はからいをもつ」ことの始まりなのではないでしょうか?
 私の考え方、言葉の使い方では、「対象をとらえる」のも「自我を妄想する」のも、ありのままな自然な反応であり、「はからい」(主体的努力)ではありません。そのような「ありのままの自然な執着に導かれた反応」から、正しい「はからい」努力・研鑚を重ねることによって、ようやく無常にして無我なる縁起の現象として、世界の現象と自分という現象を、ありのままにみることができるようになる、と考えます。
 つまり、「ありのまま」の我々は、執着の自動的反応であるが故に「ありのまま」に見ることができず、「はからい」を正しく重ねて、詳しく観察することによって、執着を離れて「ありのままに」みることができるようになる、と思います。
 >魂の問題と脳(器質)の問題とを同列に論じるようで、なにか不遜というか、ちがうようにも思います
 ピスキスさんのお考えがよく理解できていないので、魂と脳についての私の考えを書きます。
 魂をなにか実態として考えることは、アナートマン(無我)の教えで否定されていると思います。魂と呼ばれているのは、我々という反応の、ひとつの領域のことだと考えます。魂と呼ばれている反応は、脳などの色身の現象に依存してそこでおこる現象です。脳(色身)の状態が、物理的・科学的、あるいは病気によって変化すれば、魂と呼ばれる反応の反応の仕方にも、影響が生じます。魂と呼ばれる反応と、脳の状況とは、密接に関連していると考えます。
 >見えている世界がありのまま、何の意味づけもなくそこにあり、自分がそれを意味づけて見ている(世界を作っている)のだということも、そのとき同時に感じている
 この言葉だけからの印象ですが、この友人の方は、仏教の道を正しく歩んでおられるのではないかと想像します。自分が執着している外の対象について、執着に気がついておられるのではないでしょうか? 一方、そのように世界を意味付けてみている自分については、どのように捉えておられるのか、その点は不明です。

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 とりとめなく勝手なことばかり書きました。もし御興味を持っていただけたなら、こちらもまとまりがなく読みづらくて恐縮ですが、小論集のこれらも御一読いただければ幸甚です。

 「人無我を説く方便の試み。無我なる縁起の「自己」とは。その2:動物進化と自己意識の発現」
 「無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か。」

 今後とも宜しく御意見・御批判をお聞かせ下さい。

                                 敬具
ピスキス様
        2004、6、24、
                           曽我逸郎


ピスキスさんから  2004,6,24,

曽我さま

あまり論じることに慣れていなくてすみません。

曽我さんは、無為自然主義というものでは得られず、主体的努力を極めることによって初めて到達できるのではないかとおっしゃっているのですね。

個人的には、両者は同じところにたどり着くものなのではないのか、というようなイメージを持っていますが、よく分かりません。

> 「対象化して捉えること」は、自我を妄想することよりはるかに根深い反応で、生命誕生のかなり初期から始まっていると考えています。大腸菌がちょうどいい温度の方へ移動するのも、すでに方向を志向しており、ヒトデが貝を探すのは、もう完全に、あるカテゴリーにあてはまる個物を対象化していると考えます。アメーバが餌を取り込むのも、既に対象化であると言ってもいいかもしれません。
なるほど、そうなのでしょうか。
>  生物は、地球に誕生した極早い段階から、自分にとって都合のいいものと、不都合なものだけを、都合がいいか悪いかだけの基準で、いち早く発見し対処しようとしてきました。我々人間の、世界への対応の仕方もその延長線上にあり、都合がいいか悪いかだけの基準でいち早く拙速に反応する仕組みが構築されています。・・・
はい、そうでしょうね。

・・・以下についても、異論ございません。

すべてが、そのままあるものとして、自己自身も縁起の現象そのものであるということが、分かってくるということなのでしょうか。そういう到達点については、おっしゃるとおりだと思います。

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先日の記述 :

> >見えている世界がありのまま、何の意味づけもなくそこにあり、自分がそれを意味づけて見ている(世界を作っている)のだということも、そのとき同時に感じている
についてですが、
>  この言葉だけからの印象ですが、この友人の方は、仏教の道を正しく歩んでおられるのではないかと想像します。自分が執着している外の対象について、執着に気がついておられるのではないでしょうか? 一方、そのように世界を意味付けてみている自分については、どのように捉えておられるのか、その点は不明です。
わたしは仏教書については全く理解がないので、「執着」ということで表現されているものが、どのようなものなのかよく分からないことをおことわりします。執着ということばよりも、歩いている自分自身をふくめて、まわりをただ知覚しているという状態だと思って聞きました。そのような状態にある自己を、意識がみているというような構造だと思います。瞑想で経験するところの広がった意識が、瞑目せず街を歩きながら経験されているように思いました。

どうも失礼いたしました。

ピスキス拝  6/24

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