中島文寛さん 中論の立場から曽我説を考える(1) 2004,6,19,
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さて、法戦再開と参りましょう。
で、いくつか曽我様の誤解を招く表現があったのでその誤解に対する注釈を入れながら論議を進めます。
> 7)救いをもたらすのは、(釈尊の理論ではなく)妙好人の無分別智の道であり、真の菩薩道とはこのことをいう。「え、こういう解釈をされてしまった。。。書き方がまずかった。」と今反省しております。
>妙好人の無分別智の道無分別智は妙好人に限りません。もともと大乗仏教の般若経典に由来するものであり、禅・浄土・法華を問わず全ての大乗仏教はこれをもって菩薩道とし、解脱への道だとしております。故に、南伝仏教では般若の智慧を使わず、無分別智を使用しません。(とはいえ、最近のヴィッパサナー経典や南アジアの僧侶の説法を聴く限りでは何かそれに近いものがあるようにとも思われますが詳細は訪ねてみたことが無いのでわかりません)
>「釈尊の教えは実生活で使えるか」さて、やっとたどりついたようです。私が最も問題としたい部分が。
>まがりなりにも仏道に発心し た仏弟子が、釈尊の教えを学んで、それをいかに日常生活に生かすべきかという点を考えます。
釈尊(もしくは釈尊に匹敵する師)を身近に持たないまま、「無我の究竟底を究めることは誠に難しい」と私も痛切に感じています。しかし、究竟底を究めなければ煩悩である、ということでもありません。純白か漆黒か、ではなく、濃いか薄いかは別にして実際はほどんどの部分がグレーです。グレーを少しでも白っぽくしていく努力は可能ではないでしょうか?
確かに、自分のこととして腑に落ちて目の当たりに自分の無常=無我=縁起を納得するのは、非常に難しいことです。しかし、逆に、無常=無我=縁起を知らないまま、執着の自動的反応を繰り返すのは、まったく身近でありふれたことです。自分のこととして腑に落ちて目の当たりに自分の無常=無我=縁起を見ようとする努力(無我の究竟底を究めんとする努力=瞑想などの修行)と平行して、日常の、執着に導かれた無常=無我=縁起の自動的反応を改善する努力も、可能だと思います。ぜんぜん難しいことではありません。
自分が、執着に導かれた無常=無我=縁起の現象として、自動的反応を起こすのを、いつも気をつけて観察しようとするのです。
なぜ、簡単だと思えるんでしょうか??仏滅以来この方法だけで解脱はおろかその前の段階である見性や初歓喜地・信心決定に至った者はおらぬというのに。
続く
中島文寛さんから再び 中論をもって曽我説を考える(2) 2004,6,19,
さて、私は何を問題にしたいのでしょうか。
>無常=無我=縁起を知らないまま、執着の自動的反応を繰り返すのは、まったく身近でありふれたことです。自分のこととして腑に落ちて目の当たりに自分の無常=無我=縁起を見ようとする努力(無我の究竟底を究めんとする努力=瞑想などの修行)と平行して、日常の、執着に導かれた無常=無我=縁起の自動的反応を改善する努力も、可能だと思います。ぜんぜん難しいことではありません。これが本当に善行であることには違いない。違いないがこれが本当に解脱への道か?という根本的な問題を問いたいのです。
さて、ここで問題です。曽我様はほんとうにそう思ってらっしゃるのでしょうか?もし思ってらっしゃるのならかつての禅の師匠に一喝されるのが落ちでしょう。だからといってこの行為をやめることも却って老師に喝棒で打ちのめされることになります。(見事な公案でしょう(笑)
一度ここで曽我様の根底を見せていただきましょう。
中島文寛さんへの返事 2004,6,21,
拝啓
>なぜ、簡単だと思えるんでしょうか??仏滅以来この方法だけで解脱はおろかその前の段階である見性や初歓喜地・信心決定に至った者はおらぬというのに。日常の、執着に導かれた無常=無我=縁起の自動的反応に気をつけていて、気づいたらなるべく早くそれを止める、喩えで上げた渋滞する高速道路のドライバーのように。これって、そんなに難しいことでしょうか? その気になれば簡単なことだと思います。勿論、24時間、100%完璧に執着の反応を制御することは難しいでしょう。でも自分という反応のあり方をなるべく整えようと努めることは、誰にでも可能なことだと思います。いきなり純白は不可能でも、グレーを少しだけ白っぽくする努力は、それほど難しくはないと思います。
また、私は、中島さんが「解脱・見性・初歓喜地・信心決定」などと仰られているものに、この努力≪だけ≫で「至る」ことができるとも申し上げたつもりはありません。
いつも自分という反応の仕方に気をつけて、なるべくよくない反応をしないように、反応の仕方を整える。これは、戒、定、慧で言えは、戒にあたると思います。戒だけでいいということではありません。
「自分のこととして腑に落ちて目の当たりに自分の無常=無我=縁起を見ようとする努力(無我の究竟底を究めんとする努力=瞑想などの修行)と平行して、」と書きましたとおり、定における自己観察も必要であろうと考えております。
最初に頂いたメールで「全て、曽我さまのHPについて全て目を通させていただきました。」とありましたので、私の考えの概略は掴んだ上で御批判頂いているのだと思い、そのつもりでメールを書いて来ましたが、そうではなかったのかもしれませんね。
私が考えているあるべき仏弟子の姿を、改めて書いておきます。
1)戯論・分別のレベルで、釈尊の教えを学び、考える。
2)日常生活において、自分の反応の仕方に気をつけ、執着の反応をせぬようできるかぎり努力する。
3)自分が、無常にして無我なる縁起の現象であり、そのつどの内外の縁にそのつど反応する反応であることを、定において何度も観察し、それを目の当たりに見て腑に落ちて納得せんと努める。
>これが本当に善行であることには違いない。違いないがこれが本当に解脱への道か?という根本的な問題を問いたいのです。「解脱」いう言葉は、あまりよい言葉だとは思っていないので、言い換えさせて下さい。
>さて、ここで問題です。曽我様はほんとうにそう思ってらっしゃるのでしょうか?もし思ってらっしゃるのならかつての禅の師匠に一喝されるのが落ちでしょう。だからといってこの行為をやめることも却って老師に喝棒で打ちのめされることになります。(見事な公案でしょう(笑)
逆に質問させて頂きます。中島さんは、執着を野放図に放置しておいて、仏教の道を歩めるとお考えなのでしょうか? 浄土門の教え・理論は、そうなのですか?
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中島さんと何度もやりとりを繰り返しましたが、中島さんがお考えになる仏教が、今もって私には見えてきません。
「釈尊の説かれた(と言われる)「理論」では涅槃までは無理」で、「釈尊はちゃんとその涅槃への「マニュアル」を説いたのかは疑問」だと言っておられます。そのように「釈尊の理論」を否定なさる一方で、それに対立させて、「無分別智」を肯定的に想定しておられるようです。しかし、この肝心の無分別智に関して、中島さんは「大乗仏教の般若経典に由来するものであり、禅・浄土・法華を問わず全ての大乗仏教はこれをもって菩薩道とし、解脱への道だとしております」と言われ、「これから私の歩まねばならない道」だと仰る以上には、具体的内容をなにも説明しておられません。
6月12日の「無我論」と題するメールで、「自分なりの無我論を述べました。」と書いておられますが、どの部分がそれにあたるのか、分かりません。
また、今回頂いたメールの、「中論の立場」というのも、どのような立場を仰っているのでしょうか?
中島さんのお考えになる無分別智、中島さんのお考えになる無我、中島さんのお考えになる中論を、中島さん御自身の実存に根ざす深みから教えていただけませんでしょうか?
「達することが極めてまれ」な無分別智を目指して、中島さんは、どのような道をどのように歩もうとなさっているのですか?
敬具
中島文寛様
2004、6、21、 曽我逸郎
中島文寛さんから再び 曽我説への反駁 2004,6,21,
> 拝啓
少々とまどいのご様子ですな。
私だって自分の今の心境を説明するのに少々とまどい、はしゃぎすぎていますから。
正直にいいますと、私は幼いころから聞法を重ねていますので、曽我説を読んだとき「何かこれまで聞いてきたことと何か論理的につじつまが合わないことがある」と直感で感じてはいましたが、それが何かについて曽我様が戸惑うとおり、直接的な指摘はできませんでした。
もちろん、中論の理論を使えば証明できますが、知っての通り非常にわかりにくい文章で書かれているので全くの門外漢(失礼)には説明不可能な代物です。
ですが、あの公案を出す直前、有る経験から私は唐突に中論とはなにか理解できました。その経緯についてはいずれ話すとして、今は曽我説のその部分を指摘することが可能です。
さて、ではその公案の説明といきましょう。
まず、最初に、
>なぜ、簡単だと思えるんでしょうか??仏滅以来この方法だけで解脱はおろかその前の段階である見性や初歓喜地・信心決定に至った者はおらぬというのに。(中島さん)今の曽我様ではこれは不可能です。いや正しい表現を使えば、「自分の無常=無我=縁起」について曽我様が(いや常人では)「正確に」認識するのは不可能です。
日常の、執着に導かれた無常=無我=縁起の自動的反応に気をつけていて、「自分のこととして腑に落ちて目の当たりに自分の無常=無我=縁起を見ようとする努力(無我の究竟底を究めんとする努力=瞑想などの修行)と平行して、」と書きましたとおり、定における自己観察も必要であろうと考えております。(曽我)
私が考えているあるべき仏弟子の姿を、改めて書いておきます。まず、釈尊が無常=無我=縁起であると説き、それを見極めるために八正道の道を説かれたのは曽我様も納得されると思います。
1)戯論・分別のレベルで、釈尊の教えを学び、考える。
2)日常生活において、自分の反応の仕方に気をつけ、執着の反応をせぬようできるかぎり努力する。
3)自分が、無常にして無我なる縁起の現象であり、そのつどの内外の縁にそのつど反応する反応であることを、定において何度も観察し、それを目の当たりに見て腑に落ちて納得せんと努める。
この差は大きなものです。ここで龍樹の説かれた中論の「有無の見」の一喝がでてきます。つまり
「無我や縁起といった思考の前提条件、つまり『縁起とはこのようなものだろう、無我とはこんなものだろう』という予断をもって一切のものを見れば、その思考の分だけその認識した姿はゆがんでしまう。『はからいを捨てて』そのまま見れば無常・縁起は認識できるのに、思考のフィルターをかけることによってその姿を正しく認識できない」
で、曽我様のこれまでのご発言を鑑みるに、
日常の、執着に導かれた無常=無我=縁起の自動的反応に気をつけていて、これは龍樹大師のいう無見、すなわち曽我流にいうなら「自動反応を観察してそれを停めようとするが、その「停めよう」という予断が思考のフィルターになるが故に、認識像はゆがみ、正確に自分の無常=無我=縁起が認識できない。」ということになります。
「自分のこととして腑に落ちて目の当たりに自分の無常=無我=縁起を見ようとする努力(無我の究竟底を究めんとする努力=瞑想などの修行)と平行して、」と書きましたとおり、定における自己観察も必要であろうと考えております。
「解脱」いう言葉は、あまりよい言葉だとは思っていないので、言い換えさせて下さい。従って、認識像が正確ではないので、中論の論旨展開からいうとこれは不可能ということになります。
「上記(2)は、自分が無常にして無我なる縁起の現象であったと腑に落ちて納得し、執着の自動的反応を停止し、苦の生産を止めることに繋がるのか?」
100%の誠意をもって、「ハイ」と答えます。
怒ったり、妬んだり、絶望したり、狡賢く立ち回ったりしていたのでは、ますます執着の反応は強化され、無常=無我=縁起を知ることは遠ざかります。申し上げたとおり、(2)だけではなく、(1)や(3)の努力も必要ですが、無明を破るには、(2)は絶対必要です。私のかつての老師も、「悪いことはするな。善いことをせい。仏さん達は、みんなそう教えておる。修行の基本じゃ。」と仰ったに違いないと思いますよ。随分前に亡くなりましたが、、。
というわけです。
ご納得いただけましたかな(笑)。
合掌
中島 文寛