岸 善生さん 現代物理と仏教 2004,6,19,

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はじめまして。
「現代物理」と「華厳経」というキーワードで検索いたしましたところ、曽我さんのホームページを見つけました。

Pannyadhikaさんと曽我さんの対話の中で、

「最近の量子論を読めば、「過去と現在と未来の時間は、<現在の一点>にたたみ込まれているのだ」、と書かれています」
という部分に目が留まりました。

私は、物理の方を大学卒業後も考え続けております物理好きのサラリーマンですが、考えていた光のエネルギーの式の中にあらわれる時間と空間の畳み込み積という概念が、たまたま昨年の4月に見たNHKのこころの時代で放送していた華厳経の考え方に酷似している事に驚愕し、それから仏教の方にも興味を持ち始めました。

確かに、現代の量子論におけるファインマンの経路積分という方法によると、今の中には、過去、現在、未来が畳み込まれており、この場所には全空間が畳み込まれているということが起こっております。

もしよろしければ、私のホームページをご覧ください。
http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123

突然のメールで、失礼いたしました。

岸 善生


岸 善生さんへの返事 素人のいくつかの質問 2004,6,23,

拝啓

 メールを頂きありがとうございます。

 ホームページ拝見しました。

 えーと、数学は、数T、数UBは結構得意で、好きでもあったのですが、受験以来トンと御無沙汰で、そこからさらにどんどん退化してしまっており、申し訳ありませんが肝心の数式は全部パスさせて頂き、日本語だけ読みました。

 そんなありさまですので、どれだけ理解できているのか甚だ心許ないのですが、物理学の深い洞察から仏教までも視野に入れて考えておられる深さと広さと柔軟性に感服いたしました。

 中で、

 >自分だけの過去が原因で、今の自分があるのではなく、世界中の人々の過去、そして宇宙全体の過去の影響を受けて今の私があることになります。
 >そして、今この瞬間の私の行為が、未来の状態を変える原因となっています。
 >私だけの未来を変えるのではなく、世界中の人々の未来、そして宇宙全体の未来を変える原因となっていることになるのです。
 と書いておられるのは、まさに縁起のことだと思いました。

 一方、現代物理学と符丁する(or 現代物理学の一歩先を行く?)世界理解の代表として、華厳経をとらえておられると読みました。
 釈尊の教えこそが仏教だと考える私の立場からすると、華厳には釈尊の教えと重なり合わない部分が結構あると思っています。釈尊は、執着によって苦を作っている私達のあり方に集中して関心を向けられ、世界全体のあり方にはほとんど関心を向けられなかったように思います。もっと言うと、そのような関心を持つことを禁じておられました(無記)。対して、華厳は、宇宙のあり方にこだわり、多くを語っているように感じます。苦の生産の停止についてはともかくとして、世界理解、世界を説明するモデルの構築については、華厳は釈尊より進んだのかもしれません。

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 いくつか質問させて頂いてもいいでしょうか? 物質化・粒子化して捉える悪癖の見本になるかもしれませんが、笑いながら教えていただければ幸甚です。

 1)私は、縁起は、時間的にも空間的にも接している所で起こる、と考えています。例えば、テレビの生中継で遠くの出来事を知って、何か考えたり、気持ちが動いたとしても、遠くの出来事が直接働いたのではなくて、その間には、カメラマンとか中継電波とかさまざまの現象が媒介していて、私に直接届く縁は、ブラウン管から発射された「光子」とスピーカーによる空気の振動である、と考えています。ドミノ倒しに喩えれば、全部の駒が一斉に私を倒すのではなく、最後の一駒が私を倒す、と考えます。(この考えを自分にもあてはめれば、私という現象は、無数の現象〈例えばレチナールとか、シナプスでの興奮伝達物質とかの反応〉の連鎖・積み重なり〈内なるドミノ倒し〉ということにもなります。)
 しかし、物理学的には、空間的・時間的な世界の全体が、(宇宙のかなたも、遠い過去や未来も、)直接に一挙に(?)局在化の点に収縮する、と考えるべきなのでしょうか?
 自分でも分かったという自信はまるでありませんが、こういうイメージなのでしょうか? 宇宙全体に広がるさざめく風呂敷のような波紋が何枚もあって、それが重ね合わさり、突出した波形が出来たところが個物と呼ばれる現象に収縮する? 全然違いますか?
 風呂敷全体が揺らめいて世界は変化するのであって、個物の変化が隣の個物を変化させるのではない?

 2)「顕前秩序」と「内蔵秩序」のお話は、最初「顕前秩序」=現象世界、「内蔵秩序」=真如 or 梵、みたいな解釈に繋がりそうで、やばいなぁと感じましたが、「内蔵秩序」が本源として先にあるということではなく、「顕前秩序」(現象世界)が先にあって、それを局在の点において観察し、「包み込む」ことによって=「内蔵秩序」が生まれる、という話であると読みましたが、それでいいでしょうか?
 つまり、「内蔵秩序」が本源として「顕前秩序」を生むという宇宙生成の説明ではなく、一個の点に過ぎない我々人間にどうして大宇宙を観察することができるのか、という説明であろうと思いましたが、いかがでしょうか?

 3)物理学的には空間的にも時間的にもあらゆる現象が一瞬の一点に包み込まれている、といった主旨が述べられていたと思いますが(自分の読みに自信がない)、この場合の未来は、ひとつの決まった未来を考えているのでしょうか? つまり、運命論的決定論的なたったひとつの未来が想定されているのでしょうか? 「今この瞬間の私の行為が、未来の状態を変える」と言っておられるので、おそらくそうではないと想像するのですが、もしそうなら、可能性のあるすべての未来がたたみこまれているのでしょうか? 逆に、過去は、今に至る只ひとつの過去がたたみこまれているのでしょうか。それとも、実現しなかったけれど可能性のあったすべての過去(あるいは分裂してそれぞれにばらばらに実現されたすべての過去)が収縮しているのでしょうか? 数式の意味するところは、どうなんでしょう?

 3)光の波とは異なり、時間の経過と共に物の波束の形状は崩れてしまう、物の波は一時的であり、諸行無常である、とありました。まったく納得です。ただ、ぜんぜん仏教的ではなく、物理学的でもない質問ですが、物の波の寿命はどれくらいなのでしょう? 物をどんどん細かく分けて行くと、波の性質が顕著になり、非常に不安定な刹那滅的な振る舞いを示す、というのは聞いています。しかし、そのような素粒子も適切に組み合わさることによって、陽子、中性子となり、さらに原子、分子とマクロ的になると、ずいぶん安定的になるのではないか、と思っています。なぜこんな質問をするかと言うと、Pannyadhikaさんが「目の前の机が刹那毎に生滅を繰り返している」と仰るのに対して、私は、「机もつきつめれば波であり、現象ではあるけれど、机としてはマクロな物であり、比較的安定しており、刻々と壊れつつあるけれど、そのテンポは割合と緩慢なのではないか、と思うからです。マクロな物について、物理学的には、刹那毎に生滅を繰り返していると考えるのか、緩慢に崩壊しつつあると考えるのか、どちらが適切でしょうか?

 4)「(華厳経は)一切は心の変現であって、心はあらゆるものの根源であり、真の実在であると説く」と「華厳唯心偈」のパンフレットを紹介しておられ、またこれに共感しておられるように感じました。
 時々私は、「唯物論的だ!」と非難されることがあり、自分では「違う!唯現象論と呼んでくれ!」と答えたいのですが、心的現象は、肉体的現象(色身の現象)に縁起して、色身において起こっている現象だと考えています。つまり、心的現象より、肉体的現象のほうがより根本であり、個体発生的にも系統発生的にも、肉体的現象は心的現象に先立つ、と考えています。(勿論、心的現象が一旦発生すれば、それから肉体的現象へ縁起することもありますが、、。<例えば、病は気から>)
 岸さんは、私の考えは誤りであり、心こそがあらゆるものの根源で、真の実在であると考えておられますか? もしそうだとすると、心は、エネルギーでしょうか、波でしょうか、それとも、、? 心からマクロな物質が生まれてくるとすると、その仕組みは?

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 軽い感想のつもりが、疑問を書き始めると、どんどん新たな疑問が湧いてきました。無知な素人の、常識に捕われた愚かな考えとお笑い下さい。できますれば、捕われを粉砕するヒントなり御提供頂ければ、と思います。

 常識に凝り固まった見方を訂正するのは、骨の折れる作業で時間もかかります。仏教という根本的変革に加えて、現代物理学の説く根本変革にまで首を突っ込もうとするのは、無謀なことかもしれません。ですが、おそらく岸さんもお考えのとおり、両者は直結していなくとも、両方参照することで新しい気づきの契機になりそうな気がします。私としては、仏教を考えるヒントとして、物理学も時々覗かせていただこうと思っています。

 お仕事ご多忙のこととは存じますが、今後もたまに馬鹿げたメールをお送りすることがあるかもしれません。お時間の許す範囲で、何卒宜しく御教授頂ければ幸いです。

                                 敬具
岸 善生様
      2004、6、23、
                                曽我逸郎


岸 善生さんからの回答  2004,6,24,

曽我様。

なんのなんの、大変深く読み込んでいただいたように思っておりまして、感激いたしております。
私のホームページに対して、このように真剣に質問をしてくださった方は初めてです。

1)ご指摘の通り、粒子化の過程では接するということが非常に重要だと思っております。
光のエネルギーの式に現れる波にしても、相対論的粒子のエネルギーの式に現れる波にしても、接する直前までは、球面状に広がった波なのですが、接したその瞬間に、突出した波形の衝撃波に変化し、それを私たちは粒子であると感じていると思っております。
突出した波に変化するきっかけが接すること(例えば、光の波とレチナールが)であり、もう少しいえば、接した点における波の時間変化(時間微分)を感じていると思っております。
接する直前の球面状に広がった波は、ポテンシャルの次元を持っておりますがそれを時間で微分すると単位電荷に働く力(電場)の次元になります。
つまり、ポテンシャルが球面状に広がり、接する事によって、突出した波形の衝撃力に変化するのです。これを粒子と呼んでいるのではないかと思っています。
順番に申し上げますと、まず波源から球面状の波がやってきます。
球面状の波を時間微分すると、中間段階として曽我さんのおっしゃる宇宙全体に広がるさざめく風呂敷のような波(平面波)になります。これが重なり合い、位相がそろっていて波が強めあう部分が、粒子(個物)であるとわたしも考えております。
そして波が強めあう部分は、まさに「接している所」なのであります。

2)「顕現秩序」が現象、「内蔵秩序」が可能性(ポテンシャル)の波というイメージでいます。
真如や梵というのはまだ私はよく分からないのですが、この可能性の波は、虚空蔵のようなイメージがあります。この内蔵秩序にはあらゆる可能性が包み込まれていて、持ち合わせているエネルギーによって、さまざまな現象が取り出せるといったイメージです。

3)はい、物理的にはあらゆる空間とあらゆる時間の状態がこの一点この瞬間に包み込まれております。そして、事象として実際に起こった過去のみならず、可能性として起こるはずであった過去全てが包み込まれています。
この包み込みというのは、いろいろな可能性の波を全空間と全時間で足し合わせるというものですが、波の位相によって、強めあう事に寄与している波(状態)と、弱めあう事に寄与する波(状態)があります。この強めあうことに寄与している状態があらゆる可能性の中から実際に現れた事象です。実際には現れなかった事象も存在しなかったわけではなく、弱めあってしまった結果、顕現しなかっただけということになります。
未来も同様です。可能性のあるあらゆる未来が包み込まれています。
今というこの瞬間のエネルギーの持ち方によって、可能性の波の位相が変わり、未来に現れてくる状態に大きく影響します。

3)マクロな物の寿命は、おっしゃるとおり長いです。1グラムの物体では、実際に波として崩れるまでになんと10の15乗年という長い時間がかかります。
常に生成や消滅を繰り返しているのはミクロな世界においての話になります。
これは、物理定数のプランク定数が10のマイナス27乗という非常に小さな値のためマクロな世界では波動性が隠れてしまっているからです。
でも机はやはり波なのです。机を押すと反発してくるのは、狭いところに閉じ込められた波は運動量が大きくなるという、波の不確定性原理によって起こっている事象です。
その大きくなった運動量を机からの抗力として私たちは感じているのです。

4)正直申しまして、こころとは何なのか私はまだよく分かりません。
ただ、この世界を構成している根源は波動であり、これが可能性の波であり、その波に「働きかけること」によって、現象が創り出されていると考えています。
「働きかける」とは「接する」といってもよいでしょう。
量子力学(ファインマンの経路積分)の世界が、華厳の世界に似ていたので唯識に言及していますが、これは若干飛躍しすぎているかもしれませんね。
こころが現象を作り出している、とまでは物理では言えていません。
こころが何かはまだよく分かりませんが、可能性の波から現象が現れる時、どの現象が現れるのかを決めているのが、エネルギーや運動量です。
エネルギーや運動量が、波の位相のパラメーターになっておりまして、この波の位相を空間や時間の方向に少し変化させてみても、あまり位相が変わらないところ(位相が極小値を取っているところ)が、強めあい、実際の現象として現れてくる所なのです。
意識もエネルギーなのでしょうか?

わたくし、頭の中がよく整理できていないところも多く、かなり思いついたままにホームページに記事を追加してきました。
このように質問を受けてみると、最初の頃に書いたことと、後で書いたこととの間に一貫性がない部分もあることに気付かされ、大変勉強になります。

私の感想では、自然科学がやっと仏教に近付いてきたという思いがあり、このように仏教を研究されている方と対話できることがとてもうれしく思っております。

これからも、気軽にお話できればと思っております。

岸 善生

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