和バアさん 自然崇拝型梵我一如 阿弥陀信仰 2004,6,20,

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いつも、いつも、丁寧な返事をいただいて感激と共に恐縮もしています。でも確かに、こうしてそれぞれの問題点、気づいたこと、相違点などを意見交換することによって今まで目にしていても、見過ごされてきたことが、ちゃんと問題点として認識されている。(曽我さんとっては同じようなテーマで何回も人が替わって挑戦されているところがあり、うんざりされているかもしれませんね)どなたかが、このHPのことを菩薩行といっておられましたが全く同感です。

さて、また蒸し返しになってしまいますがどうぞ疑問にお答えください。

自然崇拝型梵我一如についてです。

>◆C 森も山も海も空も星も、すべてが本源の現れである。人は、大自然と一体となり、その息吹を感取し、そこに溶け込んで生きることに喜びがある。
  ⇒自然礼賛主義

> 自然礼賛主義は、原始的なアニミズムであり、現代的なエコロジー思想と結びつく傾向があります。「仏教」における典型的な例は、草木国土悉皆成仏とか無情説法などです。

きっと私には本源という意味がまだ理解できていないと思うのですが、>人は、大自然と一体となり、その息吹を感取し、そこに溶け込んで生きることに喜びがある。

ここのところは、縁起とはならないのでしょうか?自然の中に生かされている自分というものがいる。(ここのところで自分と感じるのに問題があるのでしょうか?)

今、ここに私がいるがそれは父・母・祖父・祖母・・・・・・と悠久の過去からの遺伝子の繋がりであるとともに、自然からいただいたいろいろな縁の結果でもあると思います。

ですから私たちが自然に対して、>大自然と一体となり、その息吹を感取し、そこに溶け込んで生きることに喜びがある。>ことは自然に対する感謝ではないでしょうか?

私の師匠(浄土宗の方です)がおっしゃいますには、釈尊はまず何を悟ったかというと、

「奇なるかな、奇なるかな、山川草木悉皆仏性」とおっしゃった。この世界の山川草木に至るまで、何もかも全てが仏である。
ここでこの仏ですが、わたしはこの宇宙の生業そのものを仏と受け取りました。ブラフマンのような意思を持つものではなくて、縁起として相よりそう?それぞれが、縁によって生まれるそのものを仏と呼んでいるのだと思っています。

ただ、その感じ方の中に、あ〜大自然の中に“わたし”はいるんだ。となると・・・・

なるほど、釈尊のおっしゃる“我なるものは何処にもない”、の教えからは遠くなってしまいますね。

すみません、わたしにはこの思想の何処が問題になるのかもうひとつわかっていません。

問題とかではなくて、釈尊の説かれた教えではないということでしょうか?

 最後に、阿弥陀信仰について

> 私は、阿弥陀信仰は、梵我一如型思想ではないと思います。
> 梵我一如型思想では、自己は、絶対肯定されるべき本源と一体であり、自己もまた本来肯定されるべきものとして捉えられています。(自己≒本源)
> しかし、阿弥陀信仰では、自己は、どうしようもない徹底的にダメな救い難いものとして捉えられます。対する阿弥陀は、自分とは一切の共通点がない対極であり、絶対的他者です。(自己≠阿弥陀)
 絶対的他者による一方的救済を説く阿弥陀信仰は、釈尊の仏教とも異なるでしょうし、梵我一如型「仏教」でもありません。「仏教」の中では異質なもののように感じます。清水結子さんという方が、メールで「阿弥陀信仰はキリスト教の真似のように感じる」という主旨を述べておられます。キリスト教かどうか分かりませんが、西域の異教の影響を受けているという学説もあるそうです。確かに、一神教に近い考え方のような感じもします。
確かに、キリスト教と近いものがあるのかもしれませんね。お師匠さんは一時期キリスト教の信者となっていたようです。(イエスの死は神に対する贖罪で・・・どこか阿弥陀信仰と通じるところがあるらしいのですがわたしには理解できませんでした)

ただ、死後は阿弥陀様と一体(合体する?)となるようです。また生きていくうえで、はからいを捨てなさいとも言われます。このはからいとは損得のことだと理解しています。

(どうやら私の理解とやらはとても大雑把でイメージとして頭の中にあるものですから適切な言葉を使っている自信がありません。)

それこそ、自然崇拝型梵我一如そのものだと思います。周りの何もかもを阿弥陀仏と捉え、自分は生きているのではなく、大きな大きなものに生かされている、とおっしゃいます。

この生かされているということ、(他力)をいつも諭してくださるのですが、なかなか迷いから抜け出せずにいます。

で、今はここで学ばせていただき、瞑想にも魅力を感じているわけです。

またまた、まとまりがつかなくなってきました。

以前より、より深い理解でもってこのHPのいろいろな議題を見ることができるようになっています。これからも、(後ろにいるみんなのためにも)精進してください。

応援しています。

転送していただきました,NORTONV世様からのメールびっくりするやら、うれしいやら、ぼ〜っとしていたり、いらんことを考えたりで返事の方すっかり遅くなってしまいました。

お手数ですが、転送していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

NORTONV世様

励ましのメールをいただきながら返事がすっかり遅くなってしまいました。気がつけばあれから一月以上経っていました。

今回は半分は開き直りのメールかもなァ(どうしても納得できなかった、誰がこれは釈尊の仏教ではないといわれても、でも偽者でもないよね、との思いが消えませんでした)

>むしろ(はっきりこうとはいえませんが、小生自身も自分の中で解決できているわけじゃないんで)人間に、何らかの謙虚さと豊かさをもたらすのではないでしょうか。
大自然に向かうと自分がほんとに小さく感じます。

1.子不語怪力亂神、(論語 述而篇)・・・・子は、怪力と力わざと不倫と神秘とは口にされなかった。

2.樊遲問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之(論語 雍也篇)・・・・樊遲はんち知を問う。人として正しい道を励み、心霊には大切にしながらも遠ざかっている。

一生懸命にこの訳を調べました。(えらい宿題やなァ)

なんせ開き直ったら立ち直りも早い和バアです。

ありがとうございました。


和バアさんへの返事  2004,6,24,

拝啓

 返事、遅くなりました。なかなかスパンと竹を割ったように考えを説明できず、すみません。

* まず、自然崇拝型梵我一如の問題点について

 私は、縁起とは、現象から現象へと働くものだと思っています。言ってみれば、水平の方向(→)です。対して、梵我一如の考え方は、なにか単一の本源があり、そこからすべての現象が生み出されるという考えです。言ってみれば垂直の方向(↑)。単一の本源からの垂直の万物生成は、縁起とは呼びにくいと思います。
 自然を見るとき、個々の様々な現象、水や風や鳥や虫や動物を見ているうちはまだ大丈夫なのでしょうが、個々の現象の奥に「大自然の生命」とか「宇宙の息吹」とかを意識し始めると、すでに梵我一如に一歩足を突っ込んだことになると思います。
 両者の違いは本当に微妙で、だからこそ自然崇拝は、気をつけないといつのまにか梵我一如に陥ってしまうことになるのだろうと思います。

 では、「大自然の生命」を称えることの何が問題なのか? それは、素晴らしき大自然から生まれた、大自然の一部であり、基本的に「よきもの」として、自分を肯定することになるからだと思います。
 5,19,にお送りしたメールでは、よき本源から生まれた本来よきものである筈の世界と自分とに、なぜ悪や苦があるのかという問題を解決する必要に迫られて、梵我一如は苦行主義や無為自然主義や全肯定主義などといった間違った考えに至る、ということを述べました。
 今回の和バアさんからのメールで、もうひとつの主義があることに気づきました。
 「はからいとは損得のこと」と和バアさんは書いておられます。「損得」とは執着のことでしょう。つまり、「はからいを止めよ」とは「損得の執着を止めよ」という意味になる。「損だ得だと下らない執着をすることをやめよ。そうすれば、本来ありのままのよきものに立ち返ることが出来る。」
 「損得の執着を止めよ」という考えのどこが悪いのか? 悪くはないと思います。道徳的な教えです。七仏通戒偈とも共通するでしょう。でも、これだけなら、ただの道徳です。苦の対処療法にすぎず、根本治療ではありません。戒定慧の戒だけであり、戒は絶対に必要だけれど、戒だけでは不充分です。ただの道徳に終わらない仏教の要の教え、仏教の仏教たる所以が、ここにはありません。
 本源を想定してそれを見ようと目を凝らすのではなく、自分に目を向けること。様々な現象を縁とするそのつどの反応を観察し、自分が無常にして無我なる縁起の現象であったと目の当たりに見て腑に落ちて納得する。それによって執着の自動的反応を慈悲の自動的反応に変え、苦の生産を止める。これが仏教だと思います。

 梵我一如の考えは、最悪の場合、悪と苦を拡大する全肯定主義を生みます。あるいは、意味のない苦行主義、むなしい無為自然主義、最善の場合でも道徳主義しか生み出せず、苦の根本治療である釈尊の無常=無我=縁起の教えを学ぶことを邪魔します。

 山や空を眺めることは、私も大好きです。それができないままでは、気持ちのバランスは崩れてしまうでしょう。ですが、パーリ語の経典には、私の知る限り、自然を賞賛する言葉はほとんどありません。釈尊とて雲や緑に気持ちを開かれて深呼吸をされたりということはあったと想像するのですが、教えの中では「大自然に目を向けよ」というようなことは仰らなかったようです。「山川草木悉皆仏性」は大乗仏教のかなり発展した(or 逸脱した?)考えであって、釈尊がこれを仰ったと考えるのは、学問的に無理であると思います。

* 阿弥陀信仰について

 「いまさらなんだ、さんざ偉そうに言っといて!」と怒られるかもしれませんが、誤解があれば早いうちに解いた方がいいと思いますので、申し上げますが、私、阿弥陀信仰については、聞きかじりの知識しかありません。そんなレベルの人間の、思考錯誤の独り言くらいのつもりで聞いてください。

 前のメールにも書きましたとおり、私は、阿弥陀信仰は、もともとは、自分が徹底的にダメで無力であるとの自覚のもとに、阿弥陀仏の本願にただもうおすがりするしかない、という考えだと思っています。
 でも、和バアさんのお師匠さまの言葉、

 >周りの何もかもを阿弥陀仏と捉え、自分は生きているのではなく、大きな大きなものに生かされている、
を聞くと、阿弥陀様は、誓願を立てた人格のある仏様から、人格のない超越的存在、和バアさんの感じておられるとおり、〈梵的なもの〉に変化しているように思えます。
 ただし、そういう変化はあっても、もともとの「自分はどうしようもないダメな人間だ」という思いはおそらく変わっていないのでしょうから、普通の梵我一如が陥りがちな、上記のような問題は起こりにくいのかもしれません。〈梵的なもの〉への感謝だけが生まれるのかも。

 自然の美しさ、崇高さに打たれ、恵みに感謝する。そのこと自体はなんら問題があるわけではありません。よいことだと思います。しかし、それを仏教だという言うことは、間違いだと思います。本当の釈尊の教えを隠してしまうことになりますから。

 申し訳ありません。阿弥陀信仰とか他力については、ほとんど存じておりませんので、たいしたことは言えません。これくらいで御容赦下さい。

                                  敬具
和バア様
      2004、6、24、                    曽我逸郎


【ホームページ掲載にあたって加筆】

*「はからい」について
 和バアさんは「はからい」とは損得のこと、と言われた。確かに、そもそもの「はからい」は「損だ得だという小賢しい執着」のことだっただろうと思う。当然「はからい」はよくないことであり、否定的ニュアンスがある。
 ところが、梵我一如化した「仏教」においては、「ありのまま」たらんとするあまり、「はからい」が拡大解釈されて、無我や縁起を知ろうとすることまでが、執着であり、はからいであると禁じられるようになった。つまり、釈尊の残された方法、釈尊に学ぶものとして当然為すべき努力までが否定されるに至った。その結果、「仏教」は、「空」や「真如」を夢想する共同幻想か、はったりによる神秘主義と化してしまったと思う。
 この間違いを糾弾するために、私はあえて「はからい」という言葉をポジティブな意味に転換して使いたいと思う。仏弟子は、懸命に「はからって」、釈尊の残してくださった道を歩むべきである。
 04,6,13,のピスキスさんとの意見交換で、6,24,の私のメール「はからいを極めてありのままを見る」も参照頂ければ嬉しい。

*「他力思想における<はからいの禁止>について」
 他力思想も「はからい」を禁止しようとするが、その背景は梵我一如型の思想と異なっていた筈だ。
 梵我一如型の思想が、本来あると想定された自分の内なる「よきもの」を「よきまま」に働かせるために「はからい」を禁止しようとするのに対し、他力思想では、「自分はまったくダメでよいことなどなにもできない」という思いがあり、そのような私が、なにかしようとしても、碌なことはできない。万一なにかできたとしても、愚かな私は、そのことで「私がそれをなした」と慢心し、かえって罪を作り、浄土を遠ざける。自分からはなにもせず、ひたすら阿弥陀様の本願におすがりして、おまかせするしかない、と考える。
 しかし、和バアさんのお師匠さまの「大きな大きな〈梵的な〉もの」として阿弥陀を捉える考えは、他力思想が、自力のはからいを禁じて、内なる他力=梵と一体化しようとするかのような、梵我一如化の傾向を見せているようにも思える。自分とはまったく異質な絶対他者であったはずの阿弥陀が、しだいに内在し、かつ超越する〈梵的なもの〉に変化しつつあるのだろうか?
*「梵我一如から派生する悪しき<主義>」(追加)
 もうひとつ思い出した。「分際主義」と仮に名づける。
 「我々(お前達)は、大いなる本源によって、この素晴らしき世界の一員として生み出して頂いたのであるから、調和を保ち、美を実現するために、もって生まれた自己の役割(分)を自覚し、それを果たすことに専念せよ。女は女らしく、農民は農民として、**は**として生きよ。各々が自分の分を自覚し、ひたすらそれをなしとげんと邁進するところに、和は実現される。分を超えたことをしたり言ったりすることは、和を乱す悪しき行為である。」
 差別を正当化し固定し、批判を圧殺する思想である。

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