中島文寛さん お返事その1 2004,6,11,
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お返事ありがとうございます。正直申せばあれで、怒りに満ちたお返事が来るのではないかと案じておりました。
>気のせいか、中島さんは、私にあまり好印象をお持ちでないように感じます。おそらく、中島さんの仏教と私の仏教理解の仮説とが相容れない。とお考えなのだろうと思います。「好印象をもってない」というわけではないんですよ。というより、「何をわけわからないところでうろうろしているんだろう?大事なところはそんなところではないのに。ここは一喝すれば少なくとも注意は引くことはできるだろう」と考えた次第です。
>御自分の仏教を大切にしておられる。自分事としてではなく仏教を議論する人も多い中で、それは大変立派なことだと思います。私はここが少々問題があると思っているのです。心に浮かんだ疑問点は「聞くは一時の恥。知らぬは一生の恥、 」と考え、善智識にお尋ねになるほうが、あっさり解決します。それをああでもない。こうでもない。とやるのは時間の無駄です。
私としましては、そういう方とこそ意見交換しあって、今までとは違う角度から問題を捉えたり、気づかなかった点を指摘して頂いたりして、自分の仮説を改め深め育てて行きたいと思っております。ぐさりと来るような意見・批判・質問を頂ければ、それだけ深いところの問題点を認識できるわけで、それを期待しています。これまでも、おそらくメールを下さった方は、軽い素朴な疑問のお積もりだったのでしょうが、いざ答えようとすると行き詰まってしまい、悪戦苦闘した結果、見えていなかった問題点に気づいたことなどもありました。
で、このステージ(論題)でデュエルモンスターズ(ポケモンはもう古いですぞ(笑)をやるべきかどうか少々迷っています。というのはこれは私の本当にやりたい論題ではないからです。その前に、ステージを作ってしまいましょう。
(但し、私が作るのですから私が有利な戦場になりますが覚悟して置いてください(笑)。ではそのステージ「2」に移ります。
中島文寛さんから 2004,6,11,(第2信) その2(空と無我の本当の使い方)
まず、申し上げなければならないことがあります。
まず、あそこで有無の見を持ち出したことは本当は禁じ手なのです。
中論はこう書いています。
「不完全に見られた空は智慧の鈍いものを害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇、あるいは未完成の呪術のごとくである」
(第24章 11詩)
つまり、空を理解し、なおかつそれを実際に「行に活用できる者以外」はこれ使用してはいけない。と説いているのです。
私は確かに有る程度中論についての知識を持っています。但し、それを自分の実生活(もしくは宗教的生活と言う言葉はといいたいですが使いたくないですね。仏道を志すものにとって実生活=宗教的生活ですから)に使いこなせる人は現在、ほとんどいないでしょう。大体中論について自分の意見を述べるぐらいの人(例えば、法然・親鸞・道元など)は一宗を開いています。それぐらいの知識・識見それにいうまでもなく求道心が必要です。いわばポケモンでいうならモンスターに戦車砲を持たせるようなものであり、とても普通の人は使いこなせないのです。
そして、それは無我の教えも同じことが言えるのです。倶舎論を解説した学者はこう書いています。
>仏典を紐解けば、至る所、無我の言葉に接する。しかも真に無分別智に達する者は、この地上に果たして何人いるであろうか?極めてまれであろうと思う。つまり、安易に「無我・無我」と唱えるだけではだめなのです。空論と同じくそれを活用できなければ、それは「煩悩」なんですよ。
>およそ煩悩具足の凡夫といわれる場合は、無我と言いつつも、有我と次元を同じくすることが考えられ、有我見と同様、無我見であって、煩悩の領域内のことがあるのである。倶舎論には無我を執着することも、我執と同様に悪として次のごとく説く(この本文は漢文でとても難しいので中略します)
>我々は凡夫であるために無常・苦・無我・不浄を見定めず、たとい道理を心得ても徹底せず常・楽・我・浄の迷いに没し「無我なるが故に苦なり・苦なるが故に空なり・空なるが故に無我なり」という仏語を聞くとも、無我の究竟底を究めることは誠に難しい。
(福原 亮厳 「無我説の宗教的竟態」 龍谷大仏教協会編 「無我の研究」より)
>罪の意識と言うほど大袈裟ではありませんが、私とて、「あの言い方はよくなかった」、「こうしてやればよかった」と反省することは多々あります。でも、それによって釈尊の無我は否定されるのでしょうか? まさか釈尊の教えがそんなやわなものである筈はありません。私が罪の意識に苛まれたり、私が反省することと、無我の教えとは矛盾しません。罪の意識に苛まれたり、反省したりすることは、草刈りをして疲れて嫌になったり、家に戻ってテレビのコマーシャルを見てビールを飲みたくなったり、冷蔵庫を開けたけれど無いので腹を立てたりするのと同じように、無我なる縁起の現象であり、反応の仕組みによるそのつどの反応です。あらかじめ確固とした「私」がいて、それが、苛まれたり、反省したり、疲れたり、・・・腹を立てたりするのではなく、苛まれたり、反省したり、、、するその度に、そういう「私」が縁起し現象しています。そういった「そのつどの反応」が「私」だと考えています。上に曽我様の独白を持ってきたので私が何が言いたいのかわかると思いますが(笑)「考えてる」だけじゃだめなんですよ。その理論を活用しなきゃ。
で、理論を使いこなすにはどうすればよいのか?それは3に移ります。
但し、正直いうとこれは普通の人には読んで欲しくないのです。深刻で救いようのない話なので。
中島文寛さんから 2004,6,11,(第3信) 3,仏法は生きている者のためにある
さて、ここで一つ問題を出しましょう。なぜ、仏法には「八万四千の法門」ができたのか?
あっさり言います。「釈尊の直説では涅槃に導けないからである。」
びっくりするかもしれませんが、よく考えてみればわかることです。なぜここまで仏説が分裂しているのか。それらがお互い矛盾しているのか。
もし涅槃に導く秘伝があれば、人々が最も欲するものですからこれまで一字一句誤りなく伝わっているはずです。それがないということは理論面のどこかに無理があったと考えるのが普通です。
但し、勘違いされては困りますがこの責任は釈尊にあるのではなく、我々の側にあります。つまり、悟れないのは不詳の弟子たる我々の責任です。
また、釈尊が弟子たちを悟らせることができたのはその法のみではなく、インストラクターとしての能力もまた一流だった。と言う意味の言葉をある有名な直木賞作家の禅僧(笑)が書かれていましたが、つまりそのような方がそばにいないとその理論は使いこなせなかったのだろうと私は思っています。
>ちょっとした疑問 : 禅宗にも浄土門にも法華の宗にもちゃんと法を継がれた師がおられるということは、禅宗も、浄土門も、法華の宗も、すべて釈尊から正しく法を継いできたとお考えでしょうか? すべて正しい仏教であると? でも、説一切有部には否定的でいらっしゃるのですね?一時そう思っていた時期もあります。但し、今は考え方を変えました。
たしかヴィパッサナーの教授をなされている師が「この瞑想法は釈迦の直伝ではなく、その後考え出されたものだ」との発言をなさっているそうですが、私もそう思います。ヴィパッサナーはたぶん竜樹の非難後、これではいかんと、理論を実践化するために喩我行派の修行方法を参考につくりあげたのだろうと思っています。すくなくともヴィパッサナーのことを扱った経典を読む限りではその時代背景は教派分裂時代以降のことを描いているシーンが思い浮かびます。
つまり、説一切有部とはカソリックであり、大乗というのはプロテスタントであり、竜樹というのはカルヴァンだと私は勝手に思っていますが。
遅くなったので私が無我をどう思っているかは明日の晩書きたいと思っています。
中島文寛さんから 2004,6,12,(第4信) 無我論
夕べの文章について訂正を。
>それがないということは理論面のどこかに無理があったと考えるのが普通です。そうじゃないですね。理論は完璧だったんです。それを実践できる人がいなかったんですね。
さて、では私が考えている無我について言わなければなりません。
その前に、一つ質問があります。「曽我さまは非我といわれるがそれをその身で感じたことがあるか?」
ヴィパッサナーの初級コースを受けられた経験があるようですが、感覚を研ぎ澄まさせる訓練というのはいわば準備段階にすぎません。その上の段階を言えば最終的には自分が無我であることをバーチャルに体験させるところまで行きます。
例えば自分が死に、その体が腐って骨になるところまでを実際の感覚として感じ取る訓練などが上げられますが、実際相当きついものです。
と言われると私はその上級コースを受けたことがあるように思われるかもしれません。断っておきますが、私はヴィパッサナーの瞑想訓練を受けたことがありません。但し、私はその苦を知っています。
小学校のころでしたか、わたしは相当変わった子供だったようで、人の死、いや自分の死について感心をもっていました。ある晩のことふと思いついたのが、「自分のいない世界というのはどんなのだろう」ということでした。
そこでこころのなかで創造してみました。その世界を。もちろん私がいなくても世界はちゃんと動いています。その世界を見ているうちに私は気づいたのです。「私のいない世界を今感じているのは一体誰なんだろう?」
それを感じたとたん、私はぞっとしました。つまり、そんな視線はないのだ。私がいなくなればそんな感覚もなくなってしまうのだということに。
最近ヴィパッサナーに関する経典が出回るようになってそれを読んでみると修行の最終段階に近いところにそれを感じる瞑想方法というのがありました。私はそこに偶然まぎれこんでしまったのでしょう。
私は断言しますが、あの世界は普通の人に耐えられるような苦痛ではありません。我執というものがいかに強力か私はあの恐怖からよくわかっています。
さて、釈尊は 諸行無常・一切皆苦・諸法無我 と説かれたのはよく知られたことですが、その字面だけを通り一遍読んでいるとその恐るべき意味は伝わりませんね。曽我様の昔書かれた般若経ほど能天気ではないんですよ。あの世界は。そしてこの文の意味は「その苦を逃れる術はないのだ」という通告なのです。
曽我様はこれまで、非我の教えとは一切皆苦を逃れる教えだと思われていたのかもしれませんが、そうではないのです。「それは逃れることができないのだ」ということをわからせるための教えです。
で、多分曽我さまは「その我執を吹き消せば、その苦しみから逃れられる。と釈尊は説かれたではないか。」と考えておられるかもしれません。
ところが話はそう甘くはないのです。「理論として」我執を消すとはどういうことか、ある学者はこう書いています。
>しかし、無我の自覚が、自覚それ自身を否定するものであるとするならば、それがたとえ事実であるにしても、それは人間の生存にとっては全く意味のないことになってしまうであろう。一体悟り解脱とはこのようなことでよいのであろうか。それは人間の生存にとって、本当に生存そのものを生かすものでなければならないのではないか。これは雑阿含経の「尊重」という一説について解説した部分ですが、釈尊はつまり無我を悟られたとき、ぞっとしたということを書いているのです。一切苦を逃れる方法を捜し求めたのに、結局悟ったのは「それを逃れる方法がない」ということだったのですから
(「仏陀の無我観」 武邑 尚邦 前掲書掲載)
段々話しが重くなってきたでしょう(笑)。ではどうすればよいのか???
ここで救いをもたらすのが無分別智の世界ということになります。つまり理でははっきりいって救いようがないのです。
逆に言えばここまで追い込まれないと無分別智は発動しないのでしょう。
というわけで、とりとめもないですが自分なりの無我論を述べました。
ちなみに私はまだ真宗で言う「信心決定」をなしていません。ですからこの文章は途中までは私の実感ですが、無分別智の部分はこれから私の歩まねばならない道です。
最後に一言だけ言えることは普通の人は「無分別智の道」が絶望と暗闇に満ちていることを理由に「そんな道ないじゃないか」と考えるでしょう。しかしながら、幸いなことに、私にはその道が暗闇ではなくがうっすらではありますが見えています。なぜなら私はかつてその道を歩んだ「妙好人」と実際に近くに接していたからです。真の菩薩道とはこのことをいうのだ。と私は思っています。
a.ここに引用した各文は一応著作権法の範囲内で掲載されているものですが、その引用は私個人の恣意的なものであり、実際の著者の意図と相違している場合があります。その場合の責任は全て私個人によるものであり、原著者にはないことをお断りしておきます。
b.ここに書かれた私の意見は確かに私の今、考えていることですが、それと同時にこれが「真実」と受け取らないことを願います。
ここで言います。「真実」とは何でしょうか?真実の「仏法」とは何でしょうか?私の文章を読んだ各人によく考えていただきたい。
私個人の答えはこうです。「仏法とは誰のためにあるのか?それは今、生きている人のためにある。仏法は何のためにあるのか?
今生きている人の一切皆苦を救わんがためである。ではその仏法はいかにその方法を説くのか?答えは方法は各人それぞれである。逆に言えば、
一切苦に迷う人々に対し、その生をまっとうさせることのできる教えならば、いかに多様化しようがそれは仏法である。」
合掌
中島 文寛
中島文寛さんへの返事 釈尊の教えを生かす方法、他 2004,6,16,
拝啓
頂いた4通のメール、頭の中で整理しながら何度も読み返しました。私なりの読みを要約してみます。
もう一点、重箱の隅をつつくようで申し訳ありませんが、
>『仏典を紐解けば、至る所、無我の言葉に接する。しかも真に無分別智に達する者は、この地上に果たして何人いるであろうか?極めてまれであろうと思う。』この引用された文章からすると、(前後の脈絡を知らないので間違っているかもしれませんが、)「無我(仏典の説く釈尊の教え)を知ること」=「無分別智」であるように読め、また「無分別智」に達することも、「無我を知ること」同様に「極めてまれ」(ほとんど不可能?)と主張しているように感じました。ここでいう無分別智と妙好人の無分別智とは、別のものなのでしょうか。
また、文末の「仏法は、一切皆苦を救わんがためにある」という言明と、上記6の「釈尊は苦を逃れる術はないと悟った」という言明を突き合わせると、「釈尊の教えは仏法ではない」というおかしな帰結が導かれてしまうのではないでしょうか?
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さて、以上のような感想を持ちましたが、中島さんが提起されている問題(デュエルモンスターズ「ステージ2」)は、「釈尊の教えは実生活で使えるか」という問いだと理解しましたので、この点について私の考えを述べてみます。
先のメールで喩えとしてあげた<ビールを飲みたくなったり、冷えたビールがなくて怒ったりする>のは、我々全員、すなわち凡夫の日常生活が、無我なる縁起のそのつどの反応であることの説明でした。ステージ2では、まがりなりにも仏道に発心した仏弟子が、釈尊の教えを学んで、それをいかに日常生活に生かすべきかという点を考えます。
釈尊(もしくは釈尊に匹敵する師)を身近に持たないまま、「無我の究竟底を究めることは誠に難しい」と私も痛切に感じています。しかし、究竟底を究めなければ煩悩である、ということでもありません。純白か漆黒か、ではなく、濃いか薄いかは別にして実際はほどんどの部分がグレーです。グレーを少しでも白っぽくしていく努力は可能ではないでしょうか?
確かに、自分のこととして腑に落ちて目の当たりに自分の無常=無我=縁起を納得するのは、非常に難しいことです。しかし、逆に、無常=無我=縁起を知らないまま、執着の自動的反応を繰り返すのは、まったく身近でありふれたことです。自分のこととして腑に落ちて目の当たりに自分の無常=無我=縁起を見ようとする努力(無我の究竟底を究めんとする努力=瞑想などの修行)と平行して、日常の、執着に導かれた無常=無我=縁起の自動的反応を改善する努力も、可能だと思います。ぜんぜん難しいことではありません。
自分が、執着に導かれた無常=無我=縁起の現象として、自動的反応を起こすのを、いつも気をつけて観察しようとするのです。
また例を挙げます。高速道路を運転していて、ひどく渋滞している。どうやら工事らしく、隣の車線から車が次々移ってくる。隣の車が無理に割り込んで来ようとしているので、割り込ませまいと前の車との車間を詰めた。
この時、自分を観察する癖がついていれば、「アッ、オレ、また馬鹿なことしてる(愚かな反応だった)」と気づくことができます。そうすれば「イカン、イカン」と苦笑しながら、譲ることができます。渋滞でいらいらしている(苦)ところを、相手も自分もさわやかなゆとりある気持ちに変えたのですから、これは自他ともに苦を抜き楽を与える立派な慈悲の行いだと思います。
いつも自分という反応に気をつけていて、なるべく悪い反応をしないようにする、もし悪い反応を始めたらそのことになるべく早く気づいて連鎖反応を早くストップさせる。完全には無理でも、なるべく少しでもそうして、自分という反応に善い癖をつけていく。悪循環ならぬ善循環に入れば、どんどん善くなっていく筈です。(前に盗跖のところで述べた善因楽果に繋がっています。)
突き詰めれば、釈尊の教えを実生活で生かす方法は、結局は七仏通戒偈、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」だと言ってもいいでしょう。
もう随分古くなったので、今でもそのままの考えでいるわけではありませんが、意見交換のページ、00,10,12, のユキオさんとのやりとりで作った「凡夫-如来の図」も見ていただけるとうれしいです。今の自分のグレーを少しでも白くしていこうと持続して努力していくことは、「無我の究竟底を究めること」に繋がっていくと思います。
(現実の私を知っている人が読んだら、開いた口がふさがらないようなことを書いています。自分でも恥ずかしい。友人知人の皆様、どうか御内密に。私とて、こうありたいという気はあるのです。)
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積み残した問題を簡単に。
@ 一切皆苦を逃れる術はないか?
苦には二種類あると思います。我々が縁起の現象である以上、逃れられない苦はあります。例えば、釈尊でさえ、晩年には背中の痛みに苦しまれました(テーラワーダ系の方なら「痛みは感じられたが、苦は感じられなかった」とおっしゃるのかもしれませんが、、)。サーリプッタが亡くなった時も、悲しまれた筈です。もし何も感じられなかったら、あれほどの人望があったとは思えません。しかし、苦の第一の矢は受けても、それを原因にして第二の矢まで受けられることはなかった。サーリプッタの死も、悲しみとともに見つめ、そのまま受け入れられたと思います。鍛冶工チュンダの捧げた食事にあたって亡くなる時も、激しく下血され苦しまれたが、怒ったり恨んだりされることはけしてなく、かえってチュンダを案じて「チュンダはよい業を積んだ」と誉められました。
第二の矢は、私達がつくる苦です。実際のところ、私達の苦のほとんどは、私達自身がつくって自分と人に与えているのだと思います。私達は、執着の自動的反応を繰り返し、自分を苦しめ互いに苦しめあっています。ほとんどの苦の原因は、私達自身にあるのですから、私達自身が変われば、多少なりともなんとかできる筈です。誰か一人が、執着の自動的反応を一瞬でも止め、慈悲の反応をすれば、それは他の人の苦を抜き、執着に追いたてられていた自分を振りかえるゆとりをその人に与え、その人もまた、執着の反応を一瞬慈悲の反応に変えるかもしれません。そのようにして、社会にひろく「善循環」が拡大していく可能性は、わずかなりともあると思います。
苦には、逃れられない苦と、私達がつくりだしている苦の二種類がある。苦の大半は後者である。自動的に執着の反応を繰り返している私達自身のあり方を変えていけば、苦の生産は減らせる。
苦を逃れる術を求めるのではなく、苦をつくらない術を求めるべきである。
【04,6,19,加筆】 苦については、我々は確かに被害者ではあるけれど、それ以前にまず、加害者であり、人と自分を苦しめているのだ。
A 無我をこの身で感じること
私としては、先ほどの喩えの高速ドライバーは、今の自分が無我なる縁起の愚かな反応だったと気づいたのですから、無我を自分の身で感じた、と言っていいと思います。
ただ、中島さんの文脈からすると、仰っているのは、「自分の死を感じたことはあるか」との問いだと思います。だとすれば、ない、ですね。
思いつくまま、自分の死に関わる経験を書きます。
たいした距離ではありませんが、岩登りをやっていて落ちたことがあります。幼い頃はアパートの窓から落ちたこともあります。オートバイでは、ダンプカーにぶつかったり、一つ間違えばという事故を幾度かやりました。でも、鈍感なんでしょうね、あまりキリキリとしたところまでは死を感じたことはありません。確かに、家族が寝ている早朝、こっそりとライディング・ブーツを履いて出る時は、帰って来れないかもしれないと、いつも一瞬思いましたが、それはまあ、飛行機に乗りなれない人が、空港で掛け捨て保険に入ろうかと一瞬迷うようなレベルです。漠然と死に憧れたことはあっても、本気で自殺しようと思ったこともありませんし、、。
ですが、さあこれから手術を受けるという際には、全身麻酔もありましたし、顔の局所麻酔もありましたが、手術台の上で、もう自分ではどうにもできない、すべておまかせします、なんでも受け入れます、このまま死んでもしょうがないですね、いいですよ、という奇妙な安らぎ・落ち着きの心境になったことが思い起こされます。あれは、若干は妙好人的な気持ちだったのでしょうか? 私的には、ニルバーナと呼んでもいいような、あの時だけの異質な状態だったと思います。そういえば、北アルプスの岩尾根で天候が急変し、雨風濃霧に打たれながら窪地に寝転がって、周囲すぐそばいたるところで鳴り響く雷を聞いている時も、それに似たようなさわやかな気分になりました。それから、昨年、有楽町で「人体の不思議展」を見て、私も仏教的なポーズでプラストミック標本にしてもらって、どこかに展示してもらおうかと考えました。今もその構想は暖めています。見てくれる人に死を思い、仏教を思ってもらうために。
個人的なことはこれくらいにして、一般論に戻ります。
中島さんの仰るように、自分の死を見つめることが、「普通の人に耐えられるような苦痛ではない」としても、死は必ずやってきます。と言うより、私達は刻々と着々と死につつあるのです。遠ざけようとしても、遠ざけられるものではありません。私が思うには、おそらく、自分に執着するから、自分の無常=無我=縁起を知らないから、死が耐えられない苦痛になっているのだと思います。
私の母は、今或るグループホームのお世話になっていますが、そこには、母のように痴呆にはなっていないお婆ちゃんもおり、自分の死が近いことを、実に淡々と、若干の寂しさは漂わせつつ、お話しされます。
私の友人は、癌になり、それが脳に転移して、亡くなりました。子供と買い物に行って、パン屋の店先で突然発作が起こって倒れたこともあったそうです。この一瞬にも、自分が何を言い、何をするか分からない、今はどうやら自分で自分をコントロールしているようだが、次の瞬間どうなるか分からない。そんな不安にずっと耐えつづけるのは、大変な苦しみだったと思います。見舞いに行って、気休めの民間治療薬を渡した時、奥さんを呼んで、「お前聞いといてくれよ。俺が聞いても忘れるかもしれないし、、。」と冗談を言ったのが忘れられません。そんな苦しみを抱えながら、当然感情の起伏はあったでしょうが、最後の発作の直前まで、息子とキャッチボールをしたりして、しっかりと生活を続けました。
私は、普通の人は、想像するよりずっと強いと思います。そして、自分もそうでありたいと思います。
思ったより長いメールになりました。
御意見・御批判頂ければ幸甚です。
敬具
中島文寛様
2004、6、16、
曽我逸郎
中島文寛さんから再び 2004,6,16,
お返事痛み入ります。
> 浄土門のお立場として、筋は通っていると思います。ただ、肝心の無分別智については、おそらく、それが無分別=言語化不能ゆえに、また中島さんにとってはこれからの道とおっしゃっているからなのでしょうが、どのようなものなのか書いて頂いておらず、想像のしようもなく苦慮致しました。ぼんやりとしたものであれ光はその道にしかないようであるのに、肝心のその道が今ひとつよく分かりません。私だって完全にわかっていません(笑)。わかっていたら今頃こんなメール書かずに曽我さまの所へ押しかけていって「わが道」を説いていますよ。
> もう一点、重箱の隅をつつくようで申し訳ありませんが、「たとえ道理を聞いても徹底せず」および「無分別智に達する者」と書いてあるのに注目してください。くどいようですが、「理論として納得するだけじゃだめ!」ですよ(笑)
>『仏典を紐解けば、至る所、無我の言葉に接する。しかも真に無分別智に達する者は、この地上に果たして何人いるであろうか?極めてまれであろうと思う。』この引用された文章からすると、(前後の脈絡を知らないので間違っているかもしれませんが、)「無我(仏典の説く釈尊の教え)を知ること」=「無分別智」であるように読め、また「無分別智」に達することも、「無我を知ること」同様に「極めてまれ」(ほとんど不可能?)と主張しているように感じました。ここでいう無分別智と妙好人の無分別智とは、別のものなのでしょうか。
妙好人の問題ですが、「違いはない」と私は思っています。これは私もこの境地に達していないので説明しづらいのですが親鸞聖人の教えに「自然法爾」と言う教えがあります。これが無分別智の世界だと私は思っています。
> また、文末の「仏法は、一切皆苦を救わんがためにある」という言明と、上記6の「釈尊は苦を逃れる術はないと悟った」という言明を突き合わせると、「釈尊の教えは仏法ではない」というおかしな帰結が導かれてしまうのではないでしょうか?曽我さん。最後に私が無分別智の話しをしたのを忘れていませんか(笑)。
> さて、以上のような感想を持ちましたが、中島さんが提起されている問題(デュエルモンスターズ「ステージ2」)は、「釈尊の教えは実生活で使えるか」という問いだと理解しましたので、この点について私の考えを述べてみます。やれやれ、これ言いたく無かったんだがな。誤解を招く恐れがあるから。。。。。
先のメールで喩えとしてあげた<ビールを飲みたくなったり、冷えたビールがなくて怒ったりする>のは、我々全員、すなわち凡夫の日常生活が、無我なる縁起のそのつどの反応であることの説明でした。ステージ2では、まがりなりにも仏道に発心した仏弟子が、釈尊の教えを学んで、それをいかに日常生活に生かすべきかという点を考えます。
釈尊(もしくは釈尊に匹敵する師)を身近に持たないまま、「無我の究竟底を究めることは誠に難しい」と私も痛切に感じています。しかし、究竟底を究めなければ煩悩である、ということでもありません。純白か漆黒か、ではなく、濃いか薄いかは別にして実際はほどんどの部分がグレーです。グレーを少しでも白っぽくしていく努力は可能ではないでしょうか?
確かに、自分のこととして腑に落ちて目の当たりに自分の無常=無我=縁起を納得するのは、非常に難しいことです。しかし、逆に、無常=無我=縁起を知らないまま、執着の自動的反応を繰り返すのは、まったく身近でありふれたことです。自分のこととして腑に落ちて目の当たりに自分の無常=無我=縁起を見ようとする努力(無我の究竟底を究めんとする努力=瞑想などの修行)と平行して、日常の、執着に導かれた無常=無我=縁起の自動的反応を改善する努力も、可能だと思います。ぜんぜん難しいことではありません。
自分が、執着に導かれた無常=無我=縁起の現象として、自動的反応を起こすのを、いつも気をつけて観察しようとするのです。
この理論なんですがね。唯識論で同じ方法を説いているんです。ところがこの方法で悟れるのは、「三劫」先の世だと言っているんです。(絶句)
>究竟底を究めなければ煩悩であるいや、煩悩なんです。もう一度竜樹の説いた有無の見を思い出してください。「有我に執着するのも無我に執着するのも煩悩である」
それか本当をいうと其中堂でお求めいただきたいんです。これは中論やるんだったら中村元の竜樹よりよっぽどわかりやすいですから。
合掌
中島 文寛