中島文寛さん その話は「無我」ではありませんよ。 2004,6,8,

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非常な失礼をかえりみず、申し上げます。

その回答は完全に「無我説」を逸脱していると申し上げざるを得ません。

「盗跖」という固有名詞を「私」もしくは「曽我さま自身」に置き換えてよく考えてください。もし罪の意識にさいなまされたとしたら、これは「我」がいることになる。ということになりますが。

中島 文寛


中島文寛さんへの返事 2004,6,8,

前略

 執着の反応を繰り返し、安らぎなくそれに突き動かされつづけるのは、無我なる縁起の現象です。我々は、無常にして無我なる縁起の現象であるのに、永遠の主宰者である「自分」がいると妄想し、それを守り育てようとし、自分に有利な「もの」と不利益な「もの」があると妄想し、「利益するもの」を取ろうとし、「不利益なもの」を憎む。繰り返し起こるこれらの反応は、「自分」も「もの」も恒常的実体であると妄想する執着の反応です。すべては現象であり、実体ではありません。執着し、満たされることないが故にさらに執着し、同じ過ちを繰り返すのは、自然な執着の反応パターンにのって、反応が繰り返されているのです。執着するのも苦しむのも、現象であり、反応です。私という実体が執着し苦しむのではありません。

 中島さんのお考えになる「無我」とは、どういうことですか?

                              草々
中島文寛様
      2004、6、8、                  曽我逸郎


中島文寛さんから再び 2004,6,8,

>執着の反応です。すべては現象であり、実体ではありません。
この話は曽我様の考え出した学説かもしれませんが、私の私見では単なる説一切有部を変形させたに過ぎません。

私は真宗の門徒なので、中論の真宗的解釈の一説を引いて説明しましょう。

「有無の見は有我の見」
(前略)
悪、煩悩、罪障などの存在は見えるのだが、その全部を具足した自己が見えない。だから「煩悩具足の凡夫」といわれ、「煩悩具足のわれら」と言われることば、これがどうしても読めない。ある人はまた「念仏者は無碍の一道なり」という歎異抄の一説について、「自分には念仏は見えるが、者がどうしても見えない」といわれたが、同じ心持である。
煩悩でも念仏でも、すべてが自己を離れた対象的存在と見えるのが有無の見でそのときには必ず、それらの対象的存在から離れた自己を見る「有我」の見がともなっている。だから存在に即して直ちに「人」「者」を見ることができず、人に即して直ちに煩悩、念仏を見ることができないのである。
(中略)
例えば、私がある行為をした場合に、それは「私の」行為ではなく、また行為する「私が」あるのではなく、行為そのものがしかるべき縁起によって起こったのだと考える。行為そのもの煩悩そのものがあるので、主体になるような「私」は存在しないと考える。これが人無我法有の考え方の要点で、なんでも主体を取り除いて考えさえすれば、それで無我説だと思っている。(中略)観念的無我説なのであって論者自身の実際的心境は有我なのである。一切現象から、我を抜き差って考えるというだけ、抜き去られた我が残っていくだけである。(稲津紀三 中論と他力信仰より)

これでわからなければ、本願寺へ便りを出すなり、門をを叩くなりしてお尋ねください。返事を拒むことはありますまい。

最後に私見ながら、非礼を顧みず申し上げます。

このように仏教について論じることは善きことだとは私は思います。しかしながら、

>釈尊の教えが得難い時代を末法というなら、まさに末法の今、正法を学ぼうとする時に頼りになるのは、有名なお坊さんの説法でも、禅やヨーガによる「(いきなりの)宗教的体験」でもなく、文献学的研究成果だけではないかと思います。
このような八宗に論師がいないような言葉はいかがなものかと私は思います。
禅宗においても浄土門においても、(正直言って苦手ですが)法華の宗においてもちゃんと法を継がれた優れた師はいます。
彼ら善智識に尋ねることなく独覚の道を歩むのは大変危険かと危惧しておりますが。

合掌

中島 文寛


中島文寛さんへ 2004,6,11,

拝啓

 早速にお返事を頂き、ありがとうございます。

 気のせいか、中島さんは、私にあまり好印象をお持ちでないように感じます。おそらく、中島さんの仏教と私の仏教理解の仮説とが相容れない、とお考えなのだろうと思います。御自分の仏教を大切にしておられる。自分事としてではなく仏教を議論する人も多い中で、それは大変立派なことだと思います。
 私としましては、そういう方とこそ意見交換しあって、今までとは違う角度から問題を捉えたり、気づかなかった点を指摘して頂いたりして、自分の仮説を改め深め育てて行きたいと思っております。ぐさりと来るような意見・批判・質問を頂ければ、それだけ深いところの問題点を認識できるわけで、それを期待しています。これまでも、おそらくメールを下さった方は、軽い素朴な疑問のお積もりだったのでしょうが、いざ答えようとすると行き詰まってしまい、悪戦苦闘した結果、見えていなかった問題点に気づいたことなどもありました。

 で、中島さんとのやりとりですが、正直に申しまして、まだ御批判がピンときていません。ひとつには、私の不勉強もあると思います。「説一切有部の変形」とおっしゃられても、説一切有部をあまり知らないので、具体的にイメージできません。「全て目を通させていただきました。」とありましたので、ひととおりは見て頂いていると思いますが、共通の土俵というか、ひとつのリングにまだ立てていないような感じがします。
 他の方が他の文脈の中で書かれた文章を引用するのではなく、中島さんご自身の文章で中島さんご自身のお考えを書いて頂き、私の仮説との違いを指摘していただければ、と思います。失礼な比喩になるかもしれませんが、これまで何度か使った言い方にそっていうと、中島さんのポケモン(例えば、中島さんの無我についてのお考えとか)を早く見せて頂きたいという気持ちです。

 では、前置きは以上にして、ポケモン・ゲーム、私のターンをいきます。(クラブ活動の練習試合のようなもので、お互いに力をつけるための合同練習のつもりですので、そのようにお考え下さい。ケンカではありません。ただし、馴れ合いでやっていては練習にもなりませんから、できるかぎり鋭い攻撃に努めます。)

 まずは、ひとつ前の中島さんの攻撃に対する守備から。(中島さんのポケモンが見えないので、私は守備しかできませんね。)

 >「盗跖」という固有名詞を「私」もしくは「曽我さま自身」に置き換えてよく考えてください。もし罪の意識にさいなまされたとしたら、これは「我」がいることになる。ということになりますが。
 先に、盗跖が罪の意識に苛まれたかどうかですか、それは分かりません。盗跖の伝説からすると、苛まれなかった方が盗跖らしい気もします。罪を自覚したり、苦を自覚したりはしなかったかも。しかし、自覚せずとも苦しんでいたと思います。怒りや妬みや復讐心が表に立って、苦しんでいてもそのことを正面から自覚できないことはよくあります。世界各地の悲惨な紛争が、外から見れば「なんと愚かな」と見えても、なかなか終えられないのは、そういう仕組みが背景にあると思います。

 それから、こちらが本論ですが、<私が罪の意識に苛まれたら、「私」がいることになり、それでは「無我」ではなくなる>とお考えでしょうか?
 罪の意識と言うほど大袈裟ではありませんが、私とて、「あの言い方はよくなかった」、「こうしてやればよかった」と反省することは多々あります。でも、それによって釈尊の無我は否定されるのでしょうか? まさか釈尊の教えがそんなやわなものである筈はありません。私が罪の意識に苛まれたり、私が反省することと、無我の教えとは矛盾しません。罪の意識に苛まれたり、反省したりすることは、草刈りをして疲れて嫌になったり、家に戻ってテレビのコマーシャルを見てビールを飲みたくなったり、冷蔵庫を開けたけれど無いので腹を立てたりするのと同じように、無我なる縁起の現象であり、反応の仕組みによるそのつどの反応です。あらかじめ確固とした「私」がいて、それが、苛まれたり、反省したり、疲れたり、・・・腹を立てたりするのではなく、苛まれたり、反省したり、、、するその度に、そういう「私」が縁起し現象しています。そういった「そのつどの反応」が「私」だと考えています。
 不充分な説明で、分かりにくいかと思います。より詳しくは、02,12,12,から翌年の秋までに渡る安部さんとの意見交換などを再読いただければと存じます。

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 次に、この度のメールに関して…。

 稲津紀三という方は、不勉強で存じ上げておりませんでした。ご紹介頂いた文章がどのような文脈の中にあるのかも知りませんが、中島さんが特にこの部分を抜き出して送って下さったということからすると、中島さんは、このようにお考えなのだろうと推察します。

  1.  煩悩でも念仏でも、すべてが自己を離れた対象的存在と見えるのが有無の見でそのときには必ず、それらの対象的存在から離れた自己を見る「有我」の見がともなっている。曽我の見方はこれである。
  2.  曽我は、<行為そのもの煩悩そのものがあるので、主体になるような「私」は存在しない>と考えている。
  3.  曽我は、人無我法有の考え方であり、なんでも主体を取り除いて考えさえすれば、それで無我説だと思っている。
  4.  曽我の考えは、観念的無我説なのであって曽我自身の実際的心境は有我なのである。一切現象から、我を抜き差って考えるというだけ、抜き去られた我が残っていくだけである。

     文脈が分からないので、明言するのは恐いのですが、「2」は概ねそのように考えています。アートマン=主体になるような「あらかじめある私」は存在しない(無我)。そのつどの外部からの縁と、過去の縁によってできあがった反応の仕組みとによるところの、そのつどの行為や、そのつどの煩悩、そのつどの慈悲、そのつどの反応こそが私だと考えています。
     その他の御指摘については、申し訳ありませんが、まだピンと(グサリと)きていません。特に「1」については、煩悩を起こしている時、念仏を念じている時は、煩悩を起こしていること、念仏を念じていることが、そのまま「私」だと思っており、そのような反応を離れて、反応とは別に「自己」があるとは考えていないつもりです。私には重大なポイントが見えていないのかもしれません。できますれば、慈悲をもって中島さん自身のお言葉でもう少し詳しく教えていただければと思います。

     >禅宗においても浄土門においても、(正直言って苦手ですが)法華の宗においてもちゃんと法を継がれた優れた師はいます。彼ら善智識に尋ねることなく独覚の道を歩むのは大変危険かと危惧しておりますが。
     「独覚の道」を歩んでいるという気持ちは、私にはありません。こうしてメール等でいろいろな御意見を頂き、気づきを貰っていますし、喩えて言うなら、あっちへふらふらこっちへふらふらしている遊行者の中の一人という感じでしょうか。でも、確かに釈尊のごとき全幅の信頼を寄せてついていける師があれば、どれほどいいでしょうか。もしそういう師がおられるなら、是非ご紹介下さるようお願い致します。
     浄土真宗系の方では、ホームページでも何度か言及しましたが、小川一乗先生は尊敬しています。ただ、小川先生は、(ひょっとするとお寺の方なのかもしれませんが)お寺の方としてではなく、仏教学者・仏教徒として尊敬しています。

     ちょっとした疑問 : 禅宗にも浄土門にも法華の宗にもちゃんと法を継がれた師がおられるということは、禅宗も、浄土門も、法華の宗も、すべて釈尊から正しく法を継いできたとお考えでしょうか? すべて正しい仏教であると? でも、説一切有部には否定的でいらっしゃるのですね?

     >これでわからなければ、本願寺へ便りを出すなり、門をを叩くなりしてお尋ねください。返事を拒むことはありますまい。
     そうしようかとも一瞬思いましたが、先に書きましたとおり、私は、中島さんが提起してくださっている問題点をまだきちんと把握できていません。まさか「私のホームページを見て、なにか問題点があれば指摘してください」という訳にもまいりませんし、どのような尋ね方をすればいいのか、、。
     そんなことを考えながら、とりあえず「本願寺」でGoogle検索してみると、西本願寺のHPが一番に上がりました。浄土真宗本願寺派とありましたので、これでいいだろうと中を見ましたが、メールを送るアドレス表示も無く、質問も受け付けていないようでした。(見落としているだけかもしれませんが、、)
     「ご意見・ご感想(アンケート )」という項目があったのでクリックしてみましたが、あくまで「ホームページ利用に関するアンケート」のようで、「各項目とは関係のない内容は記入しないでください。また、質問、疑問等に個々の対応はいたしませんので予めご了承ください。」とありました。一応アンケートに答えて、「仏教についての質問を受け付けて、答えてもらえるページを作ってください」と書きました。中島さんからも、是非そのような意見を上げていただければ幸いです。

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     では、鋭い「反撃」をお待ちしております。
                                  敬具
    中島文寛様

          2004、6、11、                 曽我逸郎

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