奥村典彰さん あたりまえ、、、般若経 2004,6,8,

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曽我様   ながらくご無沙汰しております
 時々は曽我さんのホームページには来るのですが
 意見交換のコーナーを見させていただく程度でおりました
 今日 久しぶりに本文を読ませていただいたのですが
 またもや 仏教のすばらしさに感動しています
 曽我さんのホームページからリンクされている多くの先生方の
 文章に出会い 自分なりに実行し 以前の私に比べて
 「あたりまえ」をあたりまえに感じれるようになってきました
  ありがとうございます

  本文の般若教の解釈なのですが これは曽我さん自身が
 つくられたものなのですか?また この本文を進化させるおつもり
 はございますか? 読んでみてまだ何かが足りないような気がします
  私の感性ではその何かはわからないのですが これほどまでに
 わかりやすく 少ない文字でまとめられた文章は少ないので
 ぜひ本文を進化させていただきたいと思うしだいです
  たまにおじゃまして 言いたいこと言ってすみません
                           奥村典彰


奥村典彰さんへの返事 2004,6,10,

拝啓

 お褒めを頂き、ありがとうございます。

 「あたりまえ、、般若経」は、霊鷲山から遠からざる岩山の、崩壊した崖の下で発掘された城の遺跡から、甕に入って発見されたもので、同時に出土した文物から紀元前4世紀の物と推定され、現存する仏教経典の中ではもっとも古、、、、嘘です。

 「あたりまえ、、般若経」は、1997年かその前の年くらいに書きました。それを読んで頂くためにHPを立ち上げたのですが、その後、皆さんから様々な御意見・刺激を頂いたお陰で、私の考えも随分変わってきました。今の視点からすると、「あたりまえ、、、」には、いろいろと問題点があると感じています。
 1、空を超越的かつ内在的本源と捉え、絶対的に肯定すべきものと考えている点。梵我一如型の仏教理解です。
 2、それゆえ、「自分を世界に展開・解放する」という発想であり、「自分の無常=無我=縁起を観る」という視点がない。
 3、私とは、反応の仕組みによるところのそのつどの自動的反応である、という分析がない。、、、などなど。

 このところ「あたりまえ、、般若経」とは矛盾する考えをサイトで表明することが多く、いつまでも「あたりまえ、、」を核にし看板にしていたら誤解・混乱を招くと思い、HPのタイトルも先日変更した次第です。

 足りない部分を補うのではなく、もしやるとするなら、一から新しい「偽経」を書くことになるのでしょうが、自分の仮説をそういう形で提起するだけの自信を持っていません。「偽経」を書くには、「この理解をみんなにぶつけるんだ!」といった熱い思いが必要で、「あたりまえ、、」を書いた時は、恥ずかしながら、若気の至りで、そういう気持がありました。今は、皆さんとの意見交換や小論で、自分の仮説を検証・検討するのが関の山です。(その割には、エラソーな書き方をしてしまうことがありますが、、。)

 いつかまた次の偽経を書いて自分の仮説を高だかと掲げられるようになりたい、とも思いますが、その時は独り善がりの思い込みに陥っているだけかも知れず、マユツバで批判的に読んで頂き、厳しい批判を頂きますようお願い致します。(そんな日は来るのだろうか、、、。)

 今後とも宜しくお願い致します。
                               敬具
奥村典彰様
       2004、6、10、                曽我逸郎


奥村典彰さんから再び あたりまえ の実行? 2004,6,11,

曽我様
 お返事ありがとうございました。たくさんの色んな方々からのメールにもひとつひとつ丁寧に答えられておられ、頭がさがります。
 私は般若経はわからないので曽我さんの「あたりまえ・・・」が参考書です。仏教学を学ぶ余裕もありませんし、学問としては魅力は感じません。
 実生活での色んな問題を前にして、自身の物の見方感じ方が問題をそのまま観ておらず、自身のみならずまわりの人たちもまきこんでいる現実に気付いてはいるのですが、どうやれば色づけなく事実を観れるか試行錯誤しています。これはとても大切なことだと思ってます。
 自然の摂理である自己保存の「我」が優劣、正悪、比較、つまり相対世界を生んでいるのですが、これは自然の意図である進化適応に必要なもので、種は競うことにより高められる。
 その自然な「我」を超越する方法をお釈迦さんは発見したわけですが、我々相対世界では見えない「あたりまえ」を絶対観であたりまえに観ているお釈迦さんを神格化して拝む宗教は生まれても、絶対観を教える場所は少ないですね。少数の禅宗の先生方が頑張っておられるぐらいです。
 曽我さんの「あたりまえ・・・」に最初に出会った時より二年ほどその方法を実行した今回の出会いのほうが感激は大きかった。共感が多くなったからだと思います。曽我さんは「あたりまえ・・・」を偽経と言われたり、仮設としてのご自身の意見を述べられておられますが、偽も仮も何か違和感を感じます。 私が何かが足りないと言ったのは知的完成でなく、ここのところなのです。
 しかし絶対界におられる人のお話はわからない。お経もわからない。同じ相対界におられる「あたりまえ・・・」はわかりやすいです。
ぜひこの純粋な「あたりまえ・・・」に曽我さんご自身をこめていただいて、相対界で苦悩する人々の力になっていただきたいと願います。
                           奥村典彰


奥村典彰さんへ 2004,6,11,

前略

 参考にしていただけるのは、光栄ですし、大変嬉しいです。ですが、是非批判的に読んで頂いて、同時に他のアプローチもなさって下さい。 私のサイトだけでは、ミスリードしてしまい、大変な罪を犯すことになるのではないかと心配です。

 それから、「知的完成でなく、何かが足りないここのところ」、「純粋な「あたりまえ・・・」に自分自身をこめる」とおっしゃっている事が、ちょっとよくイメージできません。もう少し具体的にアドバイスを頂ければと思います。
 修行をせよ、ということでしょうか? それとも現実世界で苦しむ人達への菩薩行に励め、という事でしょうか? 確かに両方とも、特に後者は、全然できていませんね。

                                草々
奥村典彰様
      2004、6、11,                   曽我逸郎


奥村典彰さんからの返事 2004,6,11,

曽我様

 答えは私にはわからないのですが、知性では絶対観はもてないように感じます。しかし知性で 地図というかヒントは得ることはできますので、やみくもに努力する過ちは防げます。いや、知性なしではスタートはきれないですね。子供のあるがままと禅者のあるがままとは根本がちがいますね。
 私が現在心がけているのはイメージとして「頭で考えず身体で感じる」 具体的には生活のなかでの小さな実践と小さな気づきを大切にしています。自分の観念まみれの視点を事実の発見により「あたりまえ」にしています。例えば仕事で自己のプライドを立てようと競って上手くいっていないことに気づき、自己を立てないように意識して「我」が沸々とわきでてもそのままに事実本位にいると上手くいった体験をもつ・・・
 そんな体験を積み重ねて、心のやりくり、思考のやりくり、観念から事実にアプローチしています。事実がわかった部分については葛藤しませんからあるがままです。
 憧れはお釈迦さんのような絶対観ですが、少しずつ身体をはこぶしか私には手がありません。「只 侭 自己を立てず 只 淡々と なすべきをなす」しかありません。当然、先輩方の方法をヒントにした我流の瞑想は続けています。
 意見交換の内容は正直言って私からみれば仏教学で、わからないし、実生活で使えない内容が多いです。ときどきすごいヒントになる方からの参加があるので、楽しみに訪問させていただいています。
 勉強のしかたはそれぞれですので、 ただ言えることは曽我さんの「あたりまえ・・・」本文に多く共感し感動したということです。
                               奥村典彰

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