HYさん 輪廻とDNA 自我と免疫系 等 2004,6,4,

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曾我様    HYより

しばらくぶりにメールします。

このページかなり時々読ませていただいています。相変わらずとても素晴らしいページですね。今後も運営に励んで下さい。以前少し書いたかも知れませんが曾我さんのこのページは大乗仏教でいう菩薩行の実践に相当すると思っています。

 さて輪廻のことですが、我々現代人は科学的根拠というもの・科学的裏ずけをどうしても必要としている面がありますね。伝統的輪廻説は教義上また教団的必要性は認めますがどうも私にすんなりとなじみません。

そこで観点を変えて遺伝子DNAのことから輪廻との関係を少し考えました。

まず直接的にDNAは遺伝の主役ですから転生の観点からは極めて重要と思います。

次に我々は二重の我で覆われていると読んだことがあります。ひとつは意識(深層意識も含めて)でもうひとつは免疫系(以下DNAと免疫系とごっちゃに使いますが)です。免疫系は例え最愛の連れ合いであっても適合性がなければ拒絶します。輸血や臓器移植の場合。

骨髄バンクがありますね。骨髄移植は肉親でもDNA不適合・免疫系不適合だと不可能です。しかしバンクに登録して適合のひとが見つかると可能となります。勿論適合の確率は低く、家族と比べ物になりませんが。

しかしすごいですね。赤の他人です。その人は兄弟・親・子供をも他人と認識したのに適合の赤の他人は自己と認識するのです。

私はこの事実にもうひとりの自分を感じます。すくなくとも骨髄のDNAに限れば赤の他人にもうひとりの私が存在していたのです。

それからDNAを考察するとDNAの挙動に仏教的なものを感じます。

無常とはDNAのことを言っているとも取れます。DNAは決して決定論ではありません。決定論であれば地上の様々な環境に適合してこのように種々の生命が存在しません。簡単に癌化もしますね。

それからDNAには無我を感じます。竜樹菩薩の自性の概念は無我の対立概念と考えていいと思いますが、自性とは確か不変であり単一であり他に依らないものです。

(話がそれますがこの自性の概念は以前読んだ聖トマスの神学大全での記述の神の概念ととても似ていると最近ふと思いました。一方は否定し他方はすべての存在を存在たらしめているという違いはありますが。)

DNAはゲノムの単なる組み合わせです。一人の個人のDNAが個性的なのは組み合わせだけです。

そういう意味では我々は積み木細工と一緒です。ひとつひとつの積み木は規格化されています。

曽我さん、どこかで神経細胞の伝達物質のことを書いていましたね。話が突然変わりますが、わたしは記憶・脳の活動とは軽い化学物質の結合−可逆・不可逆の複雑な形態−ではと考えています。神経の伝達も化学物質の伝達であるように。

ですから結論的には人は死んだら輪廻するとか転生するとかは私には素直に受け入れられません。肉体と精神的なものの生起・消滅は同時と考えています。

勿論私も瞑想は大好きで無常・無我にたいして集中瞑想したりしますが、瞑想中もまた瞑想が終わればとたんに我・我・我であきれます。

死の恐怖・消滅の恐怖をどう克服するかは科学知識でひねた現代人にはよけい必要です。

私はこの克服をDNA・免疫系・骨髄バンクの例で考察しさらに思考に関しても同じように考え・感じている他人の存在を、もうひとりの自分を想定し、そこに私の連続性を感じて慰めとしようともがいています。わたしに納得できる輪廻・転生を探しています。

毒をもって制すではありませんが試論を試みました。皆様の真摯なやりとりに触発された次第です。この曽我さんのページの皆さんの発言の中にもうひとりの私を感じることもあるのです。論述が拙く根拠不足もあるかと思います。

ご意見いただければ幸いです。

曽我さん 皆さん が安穏であられますように。


HYさんへ 2004,6,10,

拝啓

 メール頂戴しました。ありがとうございます。

 免疫系とからめて「自分」を考えるというのは、大変おもしろい視点だと思います。オートポイエーシスでも、免疫系の視点はキィになっていたように思います。理解できていませんが、、。
 自己アレルギーなどは、自分で自分を自分でないと判断していることになり、少なくとも言葉尻からは、仏教的な響きを感じます。

 DNAをはじめ、生物学の話は、常識的な自我の観念を揺るがせてくれるので、スリリングです。単細胞生物が、群体をつくり、そのうち分業が始まって、やがて多細胞生物が生まれてくる。では、この過程において、一匹の個体はどうとらえたらいいのか。細胞の中でエネルギー生産という重要な仕事をしているミトコンドリアは、もともとは好気性のバクテリアが細胞の中に住みついたものなのだそうです。こんなことを考えていると、「ひとりの私」というような考えは、溶解していきますね。

 釈尊のお考えは実に深いところまで届いていて、生物学は、それを説明する方便に使えると思います。

 また御意見をお聞かせ下さい。

                          曽我逸郎

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