Pannyadhikaさん しばしのお別れ 2004,6,4,

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曽我様へ

2004年4月、<上座部>のキーワードでネット・サーフィンしていましたら、曽我様のHPが目にとまりました。タイトルの「ブッダダーサ比丘」の名は、私がタイに滞在していたときに、たびたび耳にしていたし、台湾の香光尼僧院では、ブッダダーサ比丘の本を出版していて、私も2冊ほど(一冊は「無我」という題名)もっていたので、何の躊躇もなく、HPに入って読ませて頂きました。

それで、曽我様が迷っていらっしゃった「Ven.」の上座部サンガでの取り扱い方について、mailを差し上げた訳ですが、それから2ヶ月弱、曽我様と私の間で、まるでテニスのラリーのように、mailが行き来しました。曽我様には、私宛に返事を書けば、すぐに、またその返事が届くという具合で、2ヶ月間、mail責めのようになって、大変ご迷惑をかけたのではないか、と思います。

ちょっと弁解させていただきますと、私は子供の時から仏教が好きだったのですが、日本の大乗に縁がなく、20年間は、ずっと一人で考え続けて来て、結局39歳のときに、タイの僧侶に師になっていただき、現在はビルマのパオ・セヤドーを師と仰いでいるのですが、そのため、日本にいながら、これまで、日本の仏教者と話をしたことがなかったのです。

曽我様のHPを読むと、上座部がお好きなようであり、また異なった意見を述べても、やんわりと受け止めてくれそうで、それで、これまでの自分の瞑想体験や、考えてきたことなどを一気に述べてみました。(本当に<一気>すぎて、曽我様には申し訳ないことをしました・・・・・すみません・・・^^;)

仏教は、その人のおかれている立場や、いろいろな要素によって、信仰タイプ、修行タイプ、あるがままタイプ、感謝タイプ、癒しタイプ、ボランティア・タイプなど、本当に百人百色です。頑張って勉強していると、どうしても「私が掴んだ仏教こそ正しい」と思いがちです。私の今後の課題は、釈尊の教えは「筏」であり、「いつかは手放すものだ」と思って、教えを、相対化できるようになることでしょうか・・・。なかなか難しいと思いますが、釈尊自身が論争を嫌いましたから、「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」、今後、意見を述べるときは、もう少し大人らしく?(笑)と思っています。今後しばらくは、皆様の寄稿文を読ませて頂き、少し成長しましたら、また寄せて頂きます。

本当に、ありがとうございました。

パンニャディカ


パンニャディカさんへ 生まれ変わり、経典への加上、また御批判を 2004,6,7,

拝啓

 さよならのメールを頂いてしまいました。残念です。私としては、他からは得難い刺激を頂くことができて、大変あり難かったのですが、、。だんだんと相違点が明らかになり、これからいよいよ佳境にはいって、埋もれていた問題点が洗い出されてきそうだと感じておりました。
 頑な過ぎたでしょうか。でも、ポケモン・バトルのように、仮説と仮説を戦わせて、切磋琢磨、互いに鍛えあって、よいところは取り込んで、悪いところは修正し、仮説を釈尊の高みへ少しでも近づけたいと思っているのです。
 是非また、そう遠くない時に、お気づきの点をご指摘頂けたら幸甚です。

 刺激を頂いてあれこれ考えたことがありますので。まだお伝えできていない点を一応まとめておきたいと思います。

◎ Re:ブッダダーサ比丘の輪廻・涅槃観(続)

 来世についての無記については、釈尊はこう考えておられたのだろうと推察します。

 「来世への生まれ変わりがあるかないかは、修行して無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて知ることができれば、<ない>ということが明白になる。だけれども、修行して無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて知ることができないうちに、<ない>と結論だけを聞けば、生まれ変わりを信じているこの人達は早まった結論(例えば、「業報による生まれ変わりを恐れる必要がないのなら執着のままやりたい放題すればよい」とか)をだしてしまい、かえって苦をつくることになる。無常=無我=縁起を知るための修行に、来世についての問いは資することがない。この問いは無記として封印し、ただ無常=無我=縁起を知るべく修行に集中するのが一番である。」

 この仮説が、経典の記述から逸脱したものであることは、自覚しております。釈尊は無記として答えられなかったのに、私は、釈尊は生まれ変わりの来世はないと考えておられたはずだと主張している。この「逸脱」が許されるものであり、さらには「逸脱」せねばならないと考える理由は、このようなことです。
 釈尊は、当時の一般的考えが生まれ変わりの輪廻を前提としていたので、無常=無我=縁起を腑に落ちて納得する前に、それを否定することは、害があるので控えられた。一方、今の日本では、生まれ変わりは常識ではなく、生まれ変わりを信じていない人に生まれ変わりを説くことは、かえって害があると考えます。それは、例えば「前世の悪縁を断つために布施をせよ」というような恐喝ばかりではなく、肝心の無常=無我=縁起を分かりにくくしてしまうというもっとも重大な問題点があると思うからです。死後の生まれ変わりは、無常=無我=縁起とは相容れないとやっぱり思います。

>釈尊はそのとき、「ない」と思っていたなら、なぜ「ない」と一言、言ってくれなかったのか?
 来世への生まれ変わりを前提としている人達に、単にそれを否定すれば、かえって間違った判断をさせてしまうことになるからだと思います。
>なぜ、シュードラたちに、「人生は一回きりだから好きなように生きろ」と教えてあげなかったのでしょうか?
 執着の反応のまま好きなように生きれば、一度しかないこの生を、かえって苦にまみれたものにしてしまうからだと思います。
>一旦は滅した私の肉体と心は、一刹那後には再生しているのが知れます。心と体は、消えたら消えっぱなしにならないで、次の刹那には一刹那前の心と一刹那前の体の属性を引きずりつつ再生しています。そして、そのように刹那生・滅を繰り返したにも関わらず、10分後の私、3年後の私は、他人には「あ、パンニャさんだ。借金かえせ(笑)」と明確に私だと分かる。これを「なぜか?」と問うのは、十分、仏教的だと思いますが?
 心と呼ばれているそのつどの反応(名)は、そのつど起こっており、ある瞬間の反応は、しばしばその直前の反応とほとんど脈絡なく発生します。しかし、その反応の起こる場であり、その反応の土台である肉体(色)は、変化の速度がもっと遅い反応だと思います。肉体も変化しつづける現象ではあるけれど、通常その変化は、心的現象に比べればはるかに遅い。遅いけれども着実に変化し、いつか死んで、現象は終息します。生きている間、心的現象は、そのつど終わってそのつど起こっているけれど、肉体の現象は、死んでしまえば二度と再生しない。死とは、ホメオスタシスの停止であり、一旦停止すれば、自転車操業的ホメオスタシスは、もはや回復不能で、生命は壊滅する。そうなれば、そこに依存する心的反応も、もはや起こり得ない。
 ロウソクの比喩でいえば、燃えている間、光と熱を放ち、酸化反応がつづき、融けた蝋を吸い上げつづけ、その反応や蝋を吸い上げる力がいかに強力に持続していたとしても、蝋が尽きて炎の消えた時、その力がどこか違う場所にワープして、再び火を起こすことは考えられないと思います。
>曽我様は、(一刹那毎の)サンカーラを、理論的には認めるのでしょう?
 名(心的反応)は、そのつど、刹那毎の反応であり、サンカーラであると思います。しかし、色(肉体)は、やはり無常にして無我なる縁起の現象ではありますが、ホメオスタシスの反応が細密に繰り返されて、全体的恒常性は、概ね維持されており、老いさらばえ、一歩一歩着実に死につつあるけれど、その変化は、通常は名より緩慢で、物質として刹那ごとに滅、生、滅、生、、、、、しているとは、思いにくいと感じます。
 仮に、物質として刹那ごとに生滅を繰り返しているとしても、死が完了した瞬間の前と後の色は、まったく違うあり方をしており、そこには越え難い断絶がある。死とはそういうことだと思います。

◎ Re:仏典の「加筆」(加上)

 加筆・加上であれば、ことごとく否定されるべきだ、と考えているわけではありません。なにしろ私は、偽経を創るという罰当たりをした人間ですし、釈尊が無記で封印された死後の問いを、勝手に暴こうとしています。
 加筆・加上にも、釈尊のお考えに沿ったものと、それを捩じ曲げるものとがあると思います。それを区別するためには、まず加筆・加上のない、釈尊のお考えを把握せねばなりません。その上で、それぞれの加筆・加上が、釈尊のお考えに適うものか、反するものか、考えねばなりません。
 そんなことができるのか!? 私とて同感、そんなことができたら何も苦労はない。ほとんど不可能だと思います。(「加筆・加上」という言い方をすると、オリジナルの経典には問題がないように聞こえますが、文字で書かれた最初の経典さえ釈尊から数百年の隔たりがあり、はたしてどれほど釈尊に忠実か、そのままあてにはできません。)

 では、どうするか? まず、文献学など学問的成果によって、明確に加筆・加上と判別されたものをひとまず剥ぎ取る。そして、残されたものを考察し、おそらく釈尊のお考えはこうだったであろうという体系的仮説を構築する。さらに、それを様々な経典や別の解釈の体系にぶつける。そのようなやり方で、間違いを正し、理解を深め、少しずつ釈尊のお考えににじり寄って行くしかないのではないかと思います。

 勿論、上記の作業が戯論、理屈のレベルだけで事足りる、とは思っていません。仮説の構築に、いかにして「修行」を取り込み、仮説を深めていけるか、それが私の課題だと考えています。

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 以上のように考えておりますので、私の仮説の問題点・欠陥を、鋭く指摘して頂ける日を待ち望んでおります。宜しくお願い申し上げます。

                                 敬具
パンニャディカ様
          2004、6、7、
                               曽我逸郎


 このメールの後すぐに返事を頂きました。非公開なので、概略だけ要約すると、<パンニャディカさんは本来は修行派であり、(曽我の屁理屈に引き込まれて)これ以上議論を重ねると、セヤドー(師)やアビダルマの受け売りになりそう。研究したいテーマもあるので、一旦ゆっくり思索して、また寄稿する>ということでした。
 <「タイ・ビルマ僧院滞在記」とか「修行上の小さな発見」とか、修行体験に基づいたことなら>とも書いておられますので、パンニャディカさんのHP(www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/)を参照の上、そのような内容で御質問があれば、送って差し上げてください。「智慧の光」の目次ページの下からメールを直接送れますが、私も参考にさせて頂きたいので、差し支えなければ私経由にしていただければ嬉しいです。(曽我)

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