和バアさん 自然崇拝は無自覚かな 2004,6,2,
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曽我さん
お返事ありがとうございました。和バアです。
梵我一如に関するあれこれにしばらく打ちのめされていました。
よく考えてみるとお正月に初日の出を拝んだり古木を神聖なものとして崇めたり、辻にあるお稲荷さんを拝んだりと、自然崇拝的梵我一如に関しては、小さいころから信じる信じないに関係なく無意識に行ってきた行動ですよね。
心のそこでは「ばかみたい」と疑ってはいたけれど、でもそのこと自体を否定はしなかった。間違いと気づいてもそれを私の中から排除するのは難しいかな?
自分でも気づいていなかったのですが、自然崇拝的梵我一如に関しては、身体に沁みこんでいます。それも全く自覚なく・・・・
初期仏教のことを学び始め、いろんな仏教書やら、ブッダに関するいろいろな情報などで曲がりなりにもちょっとは解ってきたかな、なんて思っていたのになかなか厳しいですね。
曽我さんからのメールの後、ちょっと自失呆然となりながらも、仏教関係のサイトをふらふらしていてひとつ賢くなったこともあります。
縁起という言葉が相依性を持っているということ。やはり、問題意識を持っていると見落としがちなものが見えてくるんですね。
きっと今までだったら、ただの因果としてしか理解していなかったと思います。
なんか、何も考えずに出てきたクリシュナムルティという言葉からえらい話に発展して、ひょっとして私の仏教理解は大きく前進したのかな?
私の中の梵我一如はしばらく様子を見ることにして、これからもこのサイトからは目が離せません。どうぞ共に学ばせてください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
追伸
今本文を読み返してみて「あれっ」っと思うところがありました。
私は曽我さんの自然礼讃主義を自然崇拝型梵我一如と表現しましたが、変ですか?
(自分の理解力に自信がありません。)
和バアさんへ 自然が好き! 2004,6,7,
拝啓
メールありがとうございます。
自然については、私も木や風や雲をながめることが好きで、それによって鬱々とした状態から自分を救済してきたという思いがあります。(自然へのそういう気持ちは「あたりまえ、、般若経」に顕著です。)
津田眞一という先生の本に「釈尊の仏教は、大乗とは対照的に、反自然である。」という主張を初めて見つけた時は、自分の自然賛美的仏教理解を否定されて、エーッと思いました。確かに、出家主義や性的禁欲、欲望の制御は反自然ですし、そう思って見てみると、パーリ経典にはほとんど自然の賛美はありません。釈尊は、外の自然に目を向けるよりも、ひたすら自分の観察に集中されたようです。そして、「何かを見たり聞いたりしたときにも、<あぁ、これは素敵だ>とか<これは厭わしい>というような思いを生じさせるな。」と言っておられます。「これは厭わしい」はともかくとして、雲や木々やせせらぎに「あぁ、素敵だ」と感じることを禁じられるのは、私としてはつらい。「けして自分のものにできない移り行く現象は、執着の対象にはならず、素敵だと思ってもいいんじゃないか」などと、甘い解釈をしたくなってしまいます。
独り言のような告白でした。
>自然礼讃主義を自然崇拝型梵我一如と表現しましたが、変ですか?全然変ではありません。まさにそのとおり的確な表現だと思います。
敬具
和バア様
2004、6、7、
曽我逸郎
NORTONV世さんから 和バア様へ横合いから慰めの言葉 2004,6,7,
曽我様、NORTONV世です
和バア様へ横合いから慰めの言葉(になってるでしょうか?)をかけさせていただきたいのですがよろしいでしょうか?
というのは、これ、多分、曽我様の考えとたぶん、相違があると思うからで、お気に沿わねば掲載は結構です
和バア様、始めましてNORTONV世ともうします。
あんのですねー
>梵我一如に関するあれこれにしばらく打ちのめされていました。別段、そう落ち込まんでも(笑)
確かに梵我一如思想は本来の釈尊の教えとは異なるものです。というより釈尊の思想より古い由来を持つ「由緒正しい」神秘主義思想です。
神秘主義思想は、下手にこれに入れ込むと、あーっという間に「とんでも」の世界へ直行しますし、目的論的であるだけに例えば「権力」と親和力があって、チベット密教がナチスのオカルティズムに影響を与えたみたいなことにもなりかねません。(さらに、行きゃオウム真理教)
しかし、個人的に
>よく考えてみるとお正月に初日の出を拝んだり古木を神聖なものとして崇めたり、辻にあるお稲荷さんを拝んだりと、自然崇拝的梵我一如に関しては、小さいころから信じる信じないに関係なく無意識に行ってきた行動ですよね。のどこが悪いんでしょうか?意識の中で、それが、何らかのご利益をもたらしたりするものではないということをキチッと認識している限り、有害ではないと思います。
むしろ(はっきりこうとはいえませんが、小生自身も自分の中で解決できているわけじゃないんで)人間に、何らかの謙虚さと豊かさをもたらすのではないでしょうか。
もちろん、科学とか政治とか公は、神秘主義を避けるべきで
子不語怪力亂神、(論語 述而篇)
樊遲問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之(論語 雍也篇)
と、釈尊と同時代の東洋のもう一人の賢人も言ってらっしゃいますが。
松本先生や袴谷先生だって、その作業の本質は、釈尊没後、幾多の仏弟子が積み重ねた「如是我聞」(私はこう聞いた-曽我様のあたりまえ般若経もこれで始まります)の中から「本来の釈尊の思想とそうでないもの」を分離し、明示することであって、「釈尊の思想でないものを仏教からとっぱらってしまえ!」といっているわけではありますまい。(ま、松本先生の特に若いころの著書は口調がドーキンスか田川健三なみに辛らつなんで、そうとれなくもないですが)
別に、自然に今までとおり拝みはったら(何故か、急に関西弁)ええでんがな。