曽我逸郎

《釈尊と大乗》


2003年8月7日

 最近、南方上座部のヴィパッサナー瞑想を知って、釈尊の考え方・方法について、新しい可能性を思いついた。正直なところ空想とでも言うべき無根拠なレベルではあるけれど、これまでの私の大乗的な仏教観からは大きな軌道修正になるかもしれない。

 違いを明確化するため、非常に大雑把で乱暴な括り方ではあるが、大乗の一般的傾向(?)との対比表をつくってみた。ご批判・助言を頂ければありがたい。

釈尊と大乗の対比
釈尊 大乗
目的 苦を吹き消すこと 絶対の自由の獲得
瞑想のタイプ サマタ+ヴィパッサナー 【注】 サマタのみ?
知のタイプ 主客のある分別知? 主客対消滅(主客未分)の無分別知
修行方法 「私」というそのつどの反応の観察 計らい・分別の停止
考え方 無我=縁起を知って、
執着に引き摺られることのない
新たな反応パターンを築く。
客塵(執着・煩悩)を滅尽して
純粋な本来のあり方を回復する。
自己の捉え方 自動的反応を起こし続ける
多くのサブシステムで構成されている。
自己の内側での反応に関心がある。
内部構造のない単一単位体。
環境の中の点。
環境の中での自己のあり方に関心がある。
外の自然に対して 無関心 肯定・賛美
自然との一体化

*【注】(2003,10,29,加筆) タイのブッダダーサ比丘は、ヴィパッサナーは釈尊の時代にはなく、後世開発された方法だと言っている。小論文「タイ上座部の「異端」ブッダダーサ比丘」参照。

 ご覧のとおり粗雑この上ない対比だ。例えば、唯識は自己の内に煩瑣なほどの細かな仕組みを想定しているし、龍樹の考えをここにあてはめようとしても不可能であろう。一口に大乗といっても実に様々であるが、叩き台として単純にするため多様性はすべて捨象した。
 「大乗の一般的傾向」というより現代日本人の(つまりは、これまでの私の)仏教観としたほうがよかったかも知れない。

 駒沢大批判仏教グループの「原始仏教において、智慧とは、四諦説とか縁起説とかいうように、必ずある明確な主張・命題に対する概念的認識なのであって、それ以外に概念や主客を離れた「無分別知」なるものは、少なくとも、原始仏教においては、全く説かれたことはない」(松本史朗「禅思想の批判的研究」(大蔵出版)P3)といった主張も、もう一度考えてみる必要がありそうだ。
 初期経典に自然の賞賛・描写がほとんどない理由も、おぼろげながら見えてきた気がする。自己観察を忘れて自分を外に開き感動に浸る事は、修行の障害になる、と考えておられたのではないだろうか。
 以前の私の考え「主客対消滅という意識の指向性停止体験によって、ノエシスの無我=縁起を体得する」ではなくて、幽霊が脚下照顧して自分に足がない事を知るかのごとく、釈尊は、つぶさに自己検分をして、自分は無我なる縁起の現象だったのだ、と明晰にご覧になったのかもしれない。

 <2003,9,4,加筆>
 釈尊の仏教についての仮説が固まってくるにつれて、大乗に対して批判的になってきている。8/7の書き方では、その点が明解ではないので、若干の加筆をしたい。
・絶対の自由について
 絶対の自由とは、外因から完全に自由という意味であり、100%内因で動くということになる。この考えは、釈尊の無我=縁起の教えに反する。
・無分別知について
 宮元啓一「仏教誕生」(ちくま新書)のページを繰っていたら、こんな一文が目に留まった。無分別知の実態は、まさにこういうことではないかと思う。
 「人によっては簡単なことが、他の人にとっては至難のわざとなる。至難と思う圧倒的多数の人が、「埒もないあこがれ」(わたくしは、このことを徹底的に強調したい)を抱き、その「至難」の境地を極端に理想化する。これが合理的な智慧抜きの苦行主義、禅定主義(大乗仏教、とりわけ密教に顕著)を生み出す、おそらく最大の原因である。」P155
・客塵
 我々は穢れなきなにかであって、そこに外から汚れが着くという考えは、無我の教えに反する。我々とは、縁へのそのつどの反応であり、その反応のパターンは、そもそもの始めから、他を捕食し自己を守り育てるという、動物として本源的な傾向をもっている。つまり我々は、本来的に我執の反応なのだ。

 ご意見お聞かせ下されば幸甚です。

2003年8月7日 曽我逸郎

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