曽我逸郎

《無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か》

2003年2月25日


 このような質問を頂いた。

 「我々が、魂を持たず、縁が集まって起こる無我なる現象であるなら、我々は、縁によって定められたまま動くだけではないか? 主体性だ、自由だと自分では思っていても、本当はすべて縁によって決められたままに従っているにすぎないのではないか? 縁起の世界の無我なる現象であるなら、個人の主体的な努力など不可能ではないか?」

 釈尊なら、おそらく無記を以って答えられただろう。
 「現にあなたは努力する事ができるではないか。それで十分だ。無用な問いに拘らっている暇はないぞ。修行に励みなさい。」と。

 釈尊ほどの人格力があれば、私もそのように言いきりたい。しかし、悲しいかな、それほどの力はない。

 ちゃんとした仏教が生きていた時代には、無我=縁起を知るべく努力する人が身の回りにたくさんいたであろうし、このような疑問は生じなかったに違いない。それに、このような問題をいくら考えても戯論にしかならないだろう。しかし、末法の今、私達は、仏教を一から問い直さずにはいられない。疑念を抱いたままでは前に進めない。
 この問題は、小論集の<無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か その1>で、「次回はそのつどの自己を切り出し、図で考えてみたい。」と予告しながら、手に余って放り出したままのテーマとも密接に関連していそうだ。質問を頂いたのを縁として、再度挑戦してみよう。

 釈尊は、すべては無我であり縁起であるとおっしゃった。すなわち、超越的な神はなく、歴史を貫くあらかじめ定まった運命もなく、なにごともそのつどの縁によって起こる。私にもアートマン(自己本体)はない。縁が寄り集まって私は起こる。これが釈尊の教えだ。この小論のテーマは、神にも運命にも下駄を預けず、私に先立ついかなるアートマンも想定することなく、縁によって現象する私に主体性が可能であることの可能性を探る事である。

 本当は経典や論書を手掛かりにしたいが、この問題に関連した文献が思い当たらない。五蘊、六識、十二処、十八界、十二支縁起など、仏教にはさまざまな自己分析があるが、どれもこの疑問に答えてくれそうにない。唯識あたりにヒントがあるのかもしれないが、正直なところ唯識には詳しくない。単に私が浅学なだけかもしれないが、おそらく、先に書いたとおり、このような疑問は過去には問題にならなかったのだろう。
 仏教の外から考えるしかない。読み齧りの科学と思いつきのつぎはぎになってしまうが、ご批判をお願いしたい。

 勿論科学は仏教とルーツを異にするが、仏教を説明する戯論・方便として、科学は仏教の役にたつと考える。この意味で、私は、科学は現代における八部衆のようなものだと思う。詳細は、意見交換のページ、02,12,4, 田村和廣さん とのやり取りを参照。

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 いきなり人間について考えるのは、荷が重い。荷が重いばかりか、それは誤りであるかもしれない。我々人間も、物質に基づいた現象であり、物質から生命が生まれ進化の過程を辿ってきたのだから、そういったすべての縁を継承している。従って、我々がどのように縁が集まって発現しているのか知るためには、物質のレベルから考えていかねばならない。

 ここに新聞紙がある。私はそれを新聞と呼び、新聞として読む。でも、私は、それを、汚れたものを置く敷物にしたり、ストーブの焚き付けにしたりもする。燃えてしまえば、煙と灰になり、薪のそれとまざりあって、どれが新聞だったか分からなくなる。つまり、新聞紙に新聞紙としての自性、本質実体(アートマン)はない。すなわち、アナートマン(無我)である。
 新聞紙が「まったくない」と言っている訳ではない。様々な情報が集められ、まとめられ、紙に印刷され、配布され、読まれる。そうした様々の「縁」によって、新聞紙は新聞紙と呼ばれる形で、この今において現れている。新聞紙は、時間の中の無我なる縁起の現象なのだ。

 こう反論する人が、いるかもしれない。
 「新聞紙は、ある種の集合体であるから、縁起するし無我であるかもしれない。しかし新聞紙を構成する要素、例えば炭素原子まで分ければ、燃えて酸素とくっついて二酸化炭素になっても、私達が追跡できないだけで、炭素原子のまま不変ではないか。炭素原子は、どこまでも独立自存する。したがって、原子は縁起せず、無我ではない。」
 こんな意見もあろう。仏教の歴史の上でも説一切有部は似たような見解だった。しかし、相対論や量子論によれば、物質はエネルギーの現われのひとつの形であり、波であり、小さく分ければ分けるほど、現れては消えるざわめく現象だということが分かった。
 つまり、物質は、徹頭徹尾、無我にして縁によるその時々の現象なのである。
 あたりまえのことだが、生命でない物質は、なんの主体性も持たず、ただ物理法則に従って、縁のままに変化していく。

 我々人間も、様々な縁起の粒子が、人間と呼ばれる配置で集まり散っていく物質の場であり、そこで起こっている縁起の現象である。我々人間をはじめとするすべての生物も、物質の縁の中にあり、物理法則に従う。

 例えば、温度が一定以上に上昇すれば、我々を構成しているタンパク質は凝固し、人間としての現象は停止する。また例えば、我々の赤い血をつくる鉄も、かつてどこかの年老いた重い恒星の内部で作られ、それが超新星爆発によって宇宙空間にばらまかれた残骸に由来する。

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 次に、生命のレベルではどうだろう?

 生命は、物質の特殊な組み合わせの上に発現する現象であり、物質の縁に加えて、生命としての特殊性もあわせ持つ。

 生命と非生命を分かつのは、DNAだという。生物個体は、DNAの乗り物に過ぎず、DNAは生物個体を次々と乗り捨てながら増殖を図っているという説がある。DNAにそのような利己的な「意図」があるとは思わないが、DNAには、その物理的構造に基づいて、条件の許す限り、増加拡大していく性質がある。そして、人間も含むすべての生物に、DNAに由来するこの「永遠に存続し、無限に増殖しようとする傾向」は、共通する。すべての生物個体に、生き延びようとあがく個体存続の強い傾向がある。

 ショーペンハウエルは、「生きんとする盲目的意志」と言った。鋭い着眼だと思うが、これを全生物にあてはめて考える時、「意志」という言葉を使うと、アニミズムというか、「意識ある根源生命」を構想し実体視するような誤解を引き起こしかねない。この小論では「DNAの構造に根ざした生命の個体存続と増殖の強い傾向」と言い換えた。この表現は、文章としての魅力はまったくないが、実態により近いと思う。
 十二支縁起を我々のそのつどのあり方において考えれば、その根本にある無明とは、「無我=縁起についての無知」であろう。一方、十二支縁起を仮に生物進化の歴史にあてはめれば、やや意訳が過ぎるかもしれないが、無明とは「DNAに根ざす個体存続と増殖の強い傾向」であると考える事も可能ではないだろうか。

 ただし、ただ増え広がるだけなら火もそうだ。条件が許す限り拡大しようとするだけなら、火にもそれはあてはまる。結晶だってそうだろう。小さな結晶が生まれれば、それが種になって結晶は成長していく。それらに対して、生命だけがもつ特徴は、進化である。増える時にそのまま同じものが増殖するだけではなく、必ずいくらかの失敗・複製ミスが混ざる。(その原因は、おそらくDNAの構造の物理的不安定さによる。)正しい増殖と「できそこない」の増殖が、等しく競争淘汰にさらされて、できそこないのほうが環境にうまく適合し早く増えれば、できそこないが正統派を駆逐する。すなわち、ミスこそが進化のきっかけであり、そのおかげで生命は進化する。

 従って、進化は、高い枝の葉を食べるためにキリンの首が伸びたと言うような、合目的的なものではない。
 クジラやイルカはどのように生まれたのだろうか? おそらく、ある広い地域で、例えば砂漠化のような大規模な環境変化があって、動物はしだいに海岸に追い詰められ、生存競争が苛烈化していった。餓えを克服しなんとか生き残るため、一部の動物は、やむなく海草や魚や貝を食べ始め、その中に現れた突然変異種のうち、海中に適したものは、そうでないものより多くの子孫を残し、変異が積み重なって、クジラやイルカが生まれたのだと推察する。
 もうひとつ、ウニ・ヒトデ、またホヤのような、海底に暮らす動物から、ナメクジウオさらには魚類のような縦長の体型で海を泳げる動物への進化はどのようにして起こったのだろうか? おそらく始めは、異様に背が高い奇形のヒトデ(?)が生まれた。その生物は、潮の流れに翻弄されてしまい、従来の海底を這う生活には著しく不向きだっただろう。しかし、それまでの生活方法に不適合だからすぐ絶滅するのではなく、その生物は、DNAに根ざす個体存続の強い傾向によって、さまざまにもがき、あがいた。その結果、一部は、身体を倒して水の抵抗を避け、従来どおり管足で海底を這う事に成功した(ナマコ)。一部は、移動を諦めて海底にしっかりと固着した(ホヤ)。別の一部は、潮の流れにもてあそばれながら、文字どおり身を捩ってもがいた。その結果、身体を振ることで海水の反力が得られ、それを利用したまったく新しい移動方法が獲得された(ナメクジウオ)。その後さらにいくつもの変異が繰り返され、完全に海底を離れて水中を泳ぐことに適応したものが、そういう生活をするようになった(魚類)。

 ここで挙げた例は、進化のしくみを説明するためのモデルとして私が想像したものである。どなたかの実地研究に基づくものではない。生物の世界で実際におこっている事は、大抵人知の想像よりはるかに巧みに営まれている。実地研究に裏打ちされた仮説をご存知の方、是非ご教授下さい。

【2004、7、9、加筆】
 愛媛大の宮脇恭史先生が、ネット上でヒトデの発生の観察方法を解説され、子供の質問を受け付けておられるのを見つけて、メールを送ったところ、すぐにお返事を下さった。
 「まだまだ不明の点は多いが、棘皮動物や脊椎動物などの後口動物の祖先動物は、前後(頭尾)に長く背腹軸を持つ左右相称の動物であったと想像される。祖先動物の一部において、頭尾軸が重複して、放射相称性の棘皮動物が生まれた。棘皮動物の先祖生物が背腹軸を持ち左右相称であったであろうことは、棘皮動物の個体発生でそのような幼生の時期があることで推察できる。一方、脊索動物は、頭尾軸の重複を起こさず、祖先動物の左右相称をそのまま維持したものの中から進化したと考えられる。」
 以上は、私の要約なので間違っていれば私の責任であるが、ともあれ、もともと縦長で左右相称の動物がいて、一部が放射相称を試みたがあまり発展せず、縦長左右相称をそのまま維持したものの中から、脊索動物が発展進化したようだ。放射相称の棘皮動物から縦長左右相称の脊索動物が生まれた、とする私の想像はハズレだった。
 やはり貧困な想像は実地研究に勝てない。

 進化は、合目的的ではなく、場当たり的である。進化が合目的的であるなら、縁起ではなく、采配する超越者(神)が必要になる。進化は、遺伝子の複製ミスに淘汰(環境からの選択圧と生物間の競争)が作用して起こる縁起の現象である。そして、苛烈な環境・競争の中でなんとか生き残ろうとする個々の生物個体の「あがき」や「もがき」もまた、進化に絶対に必要な縁である。

 生命全般についての議論を一旦まとめておく。

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 これまでの議論のとおり、進化は縁起の現象である。それは、DNAの複製ミスという偶発的出来事と淘汰を縁にして起こり、生物の側の主体性によるものではない。つまり、キリンが首を伸ばそうと主体的に努力して首を伸ばしたわけではない。生物個体の生き残ろうとする「もがき」「あがき」が進化にとって必要不可欠な要件ではあるが、それは、DNAに定められた反応であって、生物個体の主体的努力と呼べるまでのレベルには至っていない。

 原初期の生命は、未だ脆弱で、外部からの縁によってその命運がほぼ100%決定される現象であった。では、いかにして我々人間における個人の「主体的努力」は可能になってくるのか? 動物進化の結果だと考える。進化の過程で、動物の「内部の縁」のしくみが高度化していき、内部の縁の影響力がしだいに強まっていく。その過程で、「主体的努力」が段階を踏んで可能になっていく。
 では、内部の縁のしくみとは何か? 進化の結果である以上、よりうまく環境に適応し、淘汰を生きぬくのに役立つしくみである筈だ。内部の縁のしくみについて、発現の順を追って考えてみよう。

 以下は素人の推察であり、粗雑であるし細部においては誤っている可能性も高い。順番が間違っていたり、大切なしくみが抜け落ちている事もあろう。しかし、基本的な考え方、すなわち「人間の主体的努力は、動物の進化の過程において、内部の縁のしくみが高度化していった結果可能になった」という考えは、間違っていないと思う。誤りは、是非ご指摘頂きたい。

 生物すべてに共通する〈個体存続と増殖の強い傾向〉に加えて、それぞれの動物種には、種ごとに決まった本能や反射のしくみがある。
 ウミガメの赤ちゃんが海に向かうとか、突つかれたウニはそちらへ刺を向けるといった反応だ。このような本能や反射は、DNAによって種ごとに決まっている。その動物種にとって個体存続と増殖に有利なものを求め、不利なものを避ける反応である。動物は、種ごとに異なる利害を持ち、それが動物個体の行動を規定している。従って、この段階では、動物個体は、まだ個体によって異なる行動パターンを持っておらず、当然ながら個体の「主体的努力」もない。

 動物個体が、個体によって異なる行動パターンを持つようになる(個性を持つ)一番原初的なしくみは、条件反射であろう。一定の刺激の直後に利害にかかわる出来事を繰り返し経験する事によって、はじめの刺激だけで後の利害への準備がなされるようになる。

 条件反射が成立するためには、その動物の利害に強い関連がなければならない。そもそものはじめから、利害に関係するものにしか動物は反応しない。

 条件反射は、本来は無関係な2種類の刺激がタイミングを合わせて繰り返される事によって、それぞれの刺激に反応するニューロン(神経細胞)間の連結強度が上がることによって生じる。手を打つ音の後に餌をもらう経験を繰り返すと、池のコイは、手の音だけで餌を求めて騒ぎ出す。手の音に反応する聴覚ニューロンの興奮と摂食行動のニューロンとの興奮の同期によって、その間のシナプス(ニューロンからニューロンへ信号が伝わる接点)の信号の伝わりやすさが向上した結果である。(シナプスの可塑性)

 反射も条件反射も、そしてこれから言及する様々なしくみ・機能も、すべて神経システムによって発現する。神経システムは、神経細胞(ニューロン)によるネットワークで形成される。ニューロンとニューロンの接点は、シナプスと呼ばれ、前のニューロンの興奮が次のニューロンを興奮させるタイプと、逆に抑制させるタイプがある。ニューロンのしくみやシナプスでの興奮伝達 or 抑制のメカニズム・閾値の変化の条件などは、かなり詳しく解明されており、そこでおこっている事は、驚嘆すべき精妙さであるが、ぶっちゃけて言ってしまえば、生化学反応である。したがって、自己意識や主体的努力や宗教的発心なども、解体していけば、生化学反応ということになろう(物質の縁の一例)。ただし、進化した動物のさまざまな機能を生み出すのは、生化学反応それ自体ではなく、膨大な数が重なり合ったシナプスでの興奮伝達 or 抑制の連鎖やニューロン群のシンクロ反応、多重ループ構造あるいはその構成変化などなどであると考えられる。ニューロンについて、シナプスについて、また脳の部分ごとのおよその役割とその間の連結の概略については、随分と明らかになってきている。しかし、宗教心はおろか、記憶やカテゴリー化といった基本的機能(脳科学的には高次機能)についても、そのしくみの解明にはまだまだずいぶん研究を重ねねばならないようだ。この小論も、その部分についてはあいまいにならざるを得ない。

 条件反射は、人間が仕組んだものだけに限らない。動物は、日々淘汰に曝されながら様々な経験を重ね、自分の利害に関係する限りにおいて、直接の因果関係の有無にかかわらず、事象間の相関関係を蓄積していく。例えば、小鳥が一斉に飛び立つ羽音は、危険な敵が近づいていることのサインになる。紙一重の差で天敵の爪をかわすことができるか、できないか、危険察知感度の差が、生死を分ける。条件反射をすばやく的確に成立した個体が、より生き長らえ、よりうまく獲物を捕らえ、より多くの子孫を残すことができる。

 条件反射を引き起こす刺激について考えてみよう。池のコイの場合でいえば、手の音といっても実は千差万別である。大きい音、小さい音、低い音、子供の手、、。そのつどの音は、それぞれが無数の特徴を持つ。同じ音は二度とない。それをそのまま個別性のままに聞いていれば、条件反射は形成されない。反応を引き起こす刺激には、引きがねとなっている共通の要素があるはずである。それを「手を打つ音」と思っているのは、人間であって、コイはまったく違う聞き方をしているのかもしれない。例えば、一定幅の間隔で二度音がすれば反応するのかもしれない。それが拍子木でも太鼓を打つ音でも。
 もし反応しなくても、誰かが拍子木を打って餌をやる事を繰り返せば、コイは拍子木にも反応するようになるだろう。それは、新しい別な条件反射が作られたと考える事も可能かもしれないが、おそらくその形成は、手の音への反射を既に確立しているコイの方が早く、有効な音の範囲が拡張されたと考える方が正しい。
 また、逆に、テープレコーダーで手の音を聞かせながら餌をやらないようにするパターンを織り交ぜれば、コイはやがて、手の音と人影の両方がなければ、反応しないようになるだろう。条件反射は、成立した後も必要に応じて利害の結果により正確に適合するように修正されていくのである。

 条件反射について、要点を取りまとめておこう。

 これらはこれから登場するより進化した様々なしくみにも共通して当てはまる。

 条件反射は、利害にかかわる兆候をいち早く察知するシステムであった。さらにそこに、利害への対応を早めるしくみが付加した。喜び・恐怖・怒りといった感情である。感情は、利害にふさわしい興奮を全身にもたらし、状況への対応(襲う・逃げる・戦う etc...)を加速する。
 感情は、自分で操れるものではない。その意味で、依然として主体的ではなく、状況によって引き起こされる受動的な反応である。しかしながら、例えば、餌を奪い合って牙をむく犬の反応には、主体性とも表現したくなる強い積極性を感じざるを得ない。この積極性は、感情による加速がもたらす印象であり、進化のこのあたりから、主体性の下準備が始まると考えられる。

 条件反射が精緻化され、蓄積されていくうち、次の進化が起こった。カテゴリーの形成である。池のコイを思い起こそう。はじめ音の刺激だけで条件反射を起こしていたコイが、経験を重ねるうち、人影も条件に組み入れるようになった。条件反射のしくみが高度化すると、同じひとつの利害につながる刺激が、様々に追加され、多面的・立体的に捉えるようになる。様々な刺激が、ひとつの生々しいイメージに撚り合わされて、利害の結果に収斂する。こうして利害をもたらす対象をカテゴリーでとらえるようになる。
 たとえば、カモシカは、チータに襲われる経験を重ねて、小鳥の羽音のみならず、その匂いや、忍び寄る姿、牙をむく顔、迫る足音などを蓄積し、それらがひとつの恐怖のイメージに収斂し、チータというカテゴリーができあがる。勿論、まだ言葉化は行われていない。しかし、例えば、かすかな匂いを察知しただけで、土をける足音や荒い息づかいなどが渾然となった生々しい恐怖のイメージが喚起され、チータに対応するにふさわしいモードのスイッチが入る。

 以前の私であれば、ここでは「いつも化」という言葉を使っていたであろう。しかし、「いつも化」という言葉は、少なくともカテゴリー形成の初期においては、適切でないと気付いた。
 「いつも化」という言葉を思いついた背景には、「めくるめく展開されるそのつどの現象の世界を、<いつも>の退屈な存在の世界に変換する作用」といった見方があった。だが、今回の小論を書いていくうち、カテゴリー形成は、生き抜くための利害にからむ限りにおいて成立しており、従って、退屈どころか、常に恐怖や喜びや怒りなどの強い感情を伴って成立するということに気付いた。
 考えて見れば、現代の我々においても、利害に関連するものは、今でも生々しい。金塊を手にすれば、誰しも目を輝かせるだろう。最近のテレビでやたらグルメ番組が多いのも、食べ物の生々しさで安直に視聴率がとれるからだ。ポルノビデオも、男にとっての生々しい根源的利害であるがゆえに、何本も飽きることなくつくられる。

 しかし、カテゴリー化が強い感情を伴って成立したからといって、動物がめくるめく現象を現象のままありのままに見ているということはあり得ない。そのつどの現象を個別性のままに見ていたのでは、条件反射も学習も成立しない。利害の状況にすばやく対応し生き残るには、現象の個別性・そのつど性に気を留めることはかえって邪魔である。個別性・そのつど性は、最初から捨象されており、動物は利害にかかわるカテゴリーにだけ対応してきた。現象を現象のままありのままに見ることは、進化の歴史上一度もなかった筈である。
 カテゴリーが次第に精緻になり、細分化されていくと、対象はそのつどの現象に漸近線のごとく近づいてはいく。しかし、真にそのつどの個別の現象をありのままに見ることは、カテゴリーをどれほど細密化しても、原理上不可能である。

 「柳は緑、花は紅」という言葉がある。もしこれがそのつどをありのままに見ることをいっているなら、それは、はからいやこだわりを捨てて虚心に素直に見ること、なにか元々のシンプルなあり方に戻ることによって見えてくるのでは、けしてない。現象をありのままに見ることは、これまでになかった根本的に新しい見方であるはずだ。

 我々が、世界を、アートマンを備えた独立自存恒常の「存在」の集まりだ、と考えてしまうのは、人類誕生のずっと以前から続けてきたこのカテゴリー化に由来する。

 「意識とは、なにか対象を指向するということだ」と考えると、カテゴリー形成がなされた時点で、意識というしくみが始まったと考えられる。

 この意識は、次々に注意を引く刺激に反応してそれを指向する無自覚なそのつどの意識である。一貫性のある持続的な自分という自己意識は未だ成立していない。しかし、この無自覚なそのつどの意識こそが、実際に働いている我々の意識(ノエシス)なのである。一貫性のある持続的な自己という自己意識は、進化のもっと後の段階になってノエシスが自己をカテゴリー化して生み出すノエマ自己である。(後述)

 さて、カテゴリーが形成されるのは、それが利害にかかわるからであった。であるなら、動物がその対象をじっと見詰めるということもしばしばあるに違いない。例えば、岩陰からカモシカを狙うチータのように。獲物の動きを目で追いつつ、射程距離に入ってくるのを、息を殺して待つ。こうして、「変化」が利用されるようになる。まだ「時間」と呼べる程の感覚ではない。しかし、時間概念の生まれる萌芽ではあろう。そして、対象カテゴリーの変化のパターンが蓄積されるようになる。その結果可能になるのが、対象の変化の先を予想する事、シミュレーションである。これができるようになると、狩も、天敵を避ける事も、よりうまくできるようになり、淘汰に勝ち残ることができる。

 経験・学習を重ね、様々な対象カテゴリーの様々な変化のパターンを複数蓄積していれば、対処すべき変化としてどちらのパターンを採るか、選択が行われる。カモシカを狙うチータを例にすれば、風下からそっと近づくべきか、あるいは、多少早く発見される可能性はあっても、やや風上よりから襲って、川岸に追いこんだほうが得策か? 一方、カモシカの側では、気づいた時の敵(チータ)の距離とスピードから、迫り来るチータに対してどの程度の角度で水辺からどの程度はなれてコースを採れば最も離脱の可能性が高いかシミュレートし、決断する。ここに、遂に、個体の主体的反応・自由が発現した。

 こんなものは自由ではないとお感じだろうか? チータはともかく、追われるカモシカに主体的などないと?
 私の考える自由・主体性はこうである。置かれた状況に対して反応がひとつでなく、選択肢に幅があるなら、それは既に自由であり、その幅の中で決断する事は主体的だと考える。カモシカも、逃げ方に主体性の幅を持つのだ。
 確かに、獲物を捕らえようとするチータも、生き延びようとするカモシカも、遺伝子によるところの生きんとする根本の強い傾向に支配されているには違いない。しかし、目的は束縛されていても、それを実現しようとする方策には、自由があり、主体性がある。

 「なにものにも束縛されない絶対の自由」は幻想だと思う。若者のバンドがいい例だ。「俺達は自分のやりたい音楽を自由にやるんだ」と彼らは言う。しかし、やっている音楽は、大抵ラップばかり。なるほど、彼等はやりたい音楽を自由にやっているのだろう。しかし、やりたいことが、やりたいと思う時には既に支配されている。
 別に、彼らを非難しているわけではない。モーツアルトにしても、まったくの白紙から自由にメロディを紡ぎ出したわけではない。見聞きした様々な経験が土台・ヒント・縁になっている。モーツアルトも巷のラップバンドも、才能と自由度に差はあっても、歴史・文化・時代のなかでの生活・経験を縁としている点では違いがない。我々は、皆、縁起の現象なのだ。縁によって生まれた以上、自分を生み育ててきた縁から自由になれるはずはない。今もまた縁を受けているのだ。
 時々「絶対の自由、絶対の主体性」を叫ぶ「宗教家」がいる。修行の末そういう境地に達した、と主張する。しかし、彼らの自由は幻想だ。彼らは、アートマンを妄想している。「自分は縁起を超越した独立自存の絶対者である。」そう幻想しなければ絶対の自由など主張できる筈はない。「絶対の自由、絶対の主体性」は、釈尊の無我=縁起の教えに反する。
 もしも、すべての縁・すべての規範から完全に自由であるならば、それは星のかけらもない漆黒の無重力空間に浮かんでいるのに等しく、進もうにも方向が選べない。進んだとしても、相変らずどの方向も等しくただの闇で、移動自体が意味を為さない。絶対の自由は、絶対の不自由である。

 誕生した主体性の芽は、どんどん成長し、行為の選択の幅を広げ、進化のペースは一気に早まり、人類の領域に近づいてくる。
 さまざまなことが、爆発的に同時に進行した。その展開は、多岐にわたり、すべてが密接に関連しあう。順を追って書いていくことは、非常に困難である。

 どこから始めればいいだろうか。たとえば、群れの中で役割分担をして共同作業する事が始まった。一人(ここから、「個体」ではなく、「一人」という表現にかえる)で獲物を追うより、役割分担した方が、狩の効率が上がり、有利である。(例えば、追い立てる者と待ち伏せる者)
 役割分担して共同作業するためには、コミュニケーションが必要であり、そのために群れの中でカテゴリーの共有化がおこった。
 それまでは、事物のカテゴリー化は、経験に基づいて個体毎に行われてきた。勿論、同じエリア、同じ環境に住んで、動物種として同じ利害に導かれ、似た生活をしてきたのであるから、カテゴリー形成もほぼ似たパターンでできあがっていたであろう。しかし、命がけの共同作業のためには、カテゴリーの明確な共有が必要であり、そのために言葉が生まれた。一旦言葉が生まれれば、言葉は、カテゴリーを細部まで突き合わせる力となり、カテゴリーを明確化し固定化することになった。これは、個人の蓄積したカテゴリーを群れのカテゴリーに適合するように調整することでもある(学習)。また、群れのカテゴリーを、新しい一員(大抵は子ども)に共有させることも行われる(教育)。

 かつて私は、切れ目のない現象の世界を言葉が区切り線をいれてカテゴリー化するのだと考えていた。しかし、それは正しくない。言葉以前に、種に基づく利害によって個体毎にカテゴリー化は既に行われていた。言葉は、カテゴリー化の後から、それを引き継いで発生した。

 言語によって群れは社会と呼べるレベルに発展する。群れのレベルでは、人は自然という環境に未だ裸同然の状態で暮していたのであるが、文化を備えた社会という新しい環境が、自然と人の間にいわば衣のように発生した。人は、自然の中に生まれる前に、プリミティブなものであれ、社会・文化の中に生まれ育つようになった。

 文化が発達するにつれ、様々なものが様々な目的で使われるようになると、言語によるカテゴリー化が精緻になっていく。例えば、同じような葉っぱでも、傷薬になるもの、武器につける毒、食べ物を包むのに便利なもの、触るとかぶれるもの、等々が区別され、それぞれに名前がつけられる。もし格別に用途も害もない草があったとしたら、なかなか名前がつかず十把一絡げにただ「草」と呼ばれ続けただろう。現代の我々が、大抵の野の草の名を知ろうとせず、ただ「草」と呼ぶように。言葉は、そもそもの始まりから人間の利害と密接に関係し、好悪の価値を内包して生まれたのである。

 また、言葉以前には、利害のカテゴリーは利害にかかわる現場でのみ意識されたにすぎなかったが、言葉によって、利害の対象がそこにないときでも、そのカテゴリーに意識を向ける事ができるようになった。腹が痛くない時でも「これは腹痛に効く**草だ」と考えることができるようになり、安全な洞穴の住処で恐怖を感じることなく危険な天敵のことを思い浮かべる事ができるようになった。言葉によって、任意の時に任意のカテゴリーを意識できるようになり、様々なカテゴリーを自由に結びつけることができるようになった。

 言葉は、本来は他者とのコミュニケーションの手段であったが、自分の中で自問自答することで思考の道具にもなった。思考とは構造化したシミュレーションである。自分で設定した仮の理解や仮の方策が、うまくいくかどうか、自分で様々に検証を繰り返すことである。

 社会という環境は、発展するにつれ、メンバーにとって自然環境以上に濃密で重要なものとなっていった。それまではDNAに基づいて生存と増殖に直結していた利害が、社会の発展と共に複雑化・高度化し、社会的な価値へと変質する。社会には、社会を維持し強化するために様々なタブーやルールが生まれる。身分の関係も生まれる。メンバーは、社会の中で行き抜くために、社会的価値を犯すことなく、社会的価値をうまく利用するスタイルを身につけねばならない。他に対して支配的に振舞うものもいる。それに媚びへつらうものもいる。一方、目立たぬように生きるものもいる。それぞれが、社会の中で経験を重ね、学習し、生きるスタイルをつくりあげていく。逆にいえば、社会的価値を犯す行動パターンは、淘汰されていく。ふさわしくない個人を排除する事もあるが、大抵はそこに至る以前に、不適切な振る舞いをすれば明示的あるいは暗示的に他のメンバーから指導を受け、人はみずからの行いを社会的価値にかなったものに修正していく。

 社会の中で言葉を学びつつ育つことによって、ひとつの重要なカテゴリーが形成される。「自己」である。
 自己のカテゴリーの誕生は、自分で自分を意識しはじめる事ではなく、自分を見る他人の視点を身につけることから始まる。共同で作業するグループに言葉が生まれていれば、そのメンバーにも当然名前がつけられる。仲間(特に母親)にXXと呼ばれる事で、自分をXXとしてカテゴリー化し対象化することを覚える。

 対象化された自己は、他の意識の対象と同様にひとつのカテゴリーである。本来の働いている自己(ノエシス)は、怯えて逃げたり、必死に追いかけたり、驚いて振りかえったり、喜んで叫んだり、そのつどそのつど、様々に違う。そのような「そのつど性」を捨象して、それらすべてをくくる一貫性と持続性のあるカテゴリーとして自己は対象化される。

 名前をつけられ対象化された「わたし」は、当初は他のメンバーとのコミュニケーションの道具でしかなかったが、自問自答の思考システムの主題にあてはめられる事で、自己意識(ノエマ自己)に変質する。自己意識とは、反省のしくみ、自己改良・適応促進のシステムである。例えるなら、手術道具のついた化粧鏡のようなものだ。鏡を見て、人は自分のあり様を直す。あごを削り、鼻を盛り上げ、目を大きくする。鏡に自分を映して整形するように、ノエシスは自分の欠点を反省し、更にうまい適応の方法をシミュレートし、そのように自分(ノエシス)の行動パターンを改変する。こうして、自己意識(ノエマ自己)によって、ノエシスは自然環境・社会環境への適応を驚異的に加速した。

 自己意識(ノエマ自己)は、非常に強力なシステムであり、うまく作用すれば、見事に適応を促進する。しかし、へたをすると働いている当の自己(ノエシス)を破壊しかねない危険性も併せ持つ。自己意識(ノエマ自己)が形成され作動し始めるのは、個人の成長史では、おそらく思春期であろう。思春期においてはノエマ自己という自己改良システムはまだ不安定であり、使う側(ノエシス)もまだまだスキルが不足している。システムはしばしば暴走し、若者は盗んだバイクで走り出す♪

 自分の姿をチェックするのも、手を入れて直すのも、本当は鏡のこちら側の自分(縁起の現象であり、肉体に根ざしてそのつど働いている自分=ノエシス)であるのに、いつのまにか、鏡の中の像(ノエマ自己)の方が上位にある本当の自分であり、それが「こうしろ、ああしろ」と命じているように錯覚してしまう。こうして「縁起によらない自存恒常の自己(アートマン)」という概念が生まれた。アートマンは、鏡の中の虚像であり、実在しない。

 ノエシスは、ふたつのノエマ自己をつくりだす。ひとつは「理想の自己イメージ」であり、もうひとつは「現実の自己イメージ」である。これらは、真に理想的であるわけでも現実的であるわけでもない。ノエシスが、それまでの経験・学習(すなわち縁)から、自覚的な検討なしに、とりあえず拙速に仮想した漠然たる自己イメージである。(ラップこそ自分たちの音楽と思い込んでいるバンドを思い出してもらいたい。)
 ふたつが近いとノエシスは自信に溢れ、時に慢心する。適切な距離であれば、ノエシスは充実して努力し向上する。隔たりが大きいと、ノエシスはあせったり、場合によっては絶望する。

 さて、そもそものノエマ自己は、ノエシスによる前自覚的な自己シミュレーションのしくみであった。我々は、このしくみそのものを再度シミュレートし、それを自覚的に検討する事ができる。
 我々は、日々実に様々な経験を積み重ねている。そこから学ぶ事が、互いに矛盾する事も多い。(例えば、「正直でいるべきだ」という思いと「正直だと馬鹿を見る」という思い。)雑多な経験・学習から、ノエシスは部分部分を切り取り、継ぎはぎして、辻褄の合う(ある種プリミティブな)世界観と「理想と現実の自己イメージ」をつくりあげ、自分の行動パターンの基準にしている。
 世界観や自己イメージは、新たな経験を重ねるたびに精緻化されてはいるのであるが、それは、条件反射同様に前自覚的におこなわれ、多くの経験は捨象されている。自覚的に全体を再度シミュレーションのサイクルに放り込み、蓄積してきた様々な経験・学習と突き合わせ、検討することで、我々は、あたえられた世界観と自己イメージを描きかえ、自分(ノエシス)の行動パターンも改変する事ができる。勿論たやすくはない。理想の自己にむけて努力を続け、時間をかけてノエシスの行動パターンに新しい「癖」をつけるのである。
 縁からまったく自由に好きなように自己改変できるといっているのではない。広く深く縁から学ぼうとする事で、一部の縁からだけの拙速・浅薄な思いこみを正す事ができるのだ。
 ノエマ自己によって、自覚的な自己改変も可能になったのである。

 先日ある方から頂いたメールに、こんな一文があった。
  "You can't control the length of your life...
   but you can control the width and depth."
 >>人生の長さは変えられないが、広さと深さは変えることができる。
 Anonymous(詠み人知らず)とあったが、味わい深い言葉だと思う。

 絶望している人に。
 絶望は、ノエシスが無意識の内に作り上げている「理想の自己イメージ」と「現実の自己イメージ」の隔たりが大きいために起こる。すなわち向上心が強すぎるか、卑下しすぎるのである。早まった結論を拙速に下す前に、忘れている自分の様々な経験・学習を思い起こし、思いこんでいる自己イメージが本当に理想なのか、現実なのか、是非一度自覚的に再検討してみて頂きたい。
 絶望のただなかにいる時は、一面的な縁に強く捕らえられているだろうから、こんな言葉はなかなか届かないかもしれないが、できれば思い出して欲しい。

 無我は、しばしば「無我の境地」といった意味に間違って捉えられている。「無我の境地」とは、ほぼ無心と同義で、ノエマ自己がなくなって今やっていることにノエシスが100%集中している状態の事を言うのであろう。確かに、真剣での斬り合いや、9回裏2アウト2,3塁一打逆転の状況では、ノエマ自己は邪魔である。これまでに身につけてきた自分の能力をある短い時間に完全に発揮させるには、無心の集中力が必要だ。しかし、例えば、仏教を学ぶような、長期間にわたって縁を積み上げ分析し自分を耕していくような作業には、ノエマ自己をうまく使うことが必要である。

【2003,3,2, 加筆】
 この小論をUPした直後、ノエシスという言葉の危うさに気付いた。そもそもはカテゴリー化に始まる我々の捕らえ方のせいなのだが、我々は、名詞を聞くと、すぐにそれを外に対象化し固定化し実体視してしまう。「私」と聞いた場合でさえ、私達は、肉体でそのつど働いているこの私ではなく、どこかに「私」という概念を作り上げてしまう。
 ノエシスという言葉は、言葉であるが故当然既にカテゴリー化されているのだが、もしそれを無自覚に実体視するなら、アートマンの単なる言い換えに過ぎなくなってしまう。つまりノエシスという言い方では、アートマンの二の舞に陥る危険がある。
 では、どういう言い方があるか。たとえば「私は、そのつどの縁へのそのつどの対応である」というのではどうだろうか。「対応」は確かに名詞ではあるが、いわば動名詞であり、ノエシスよりははるかに実体化の危険は少ないと思う。より厳密には「私は、内部の縁のしくみによる、そのつどの縁へのそのつどの対応である」。
 内部の縁のしくみは、縁によって生まれ、肉体(主に脳におけるニューロンの信号伝達パターン)によって一応保存されている。縁は、そのつど内部の縁のしくみを発動させ、内部の縁のしくみは、或る幅の中でそれに対応している。この対応こそが、そのつどの働いている自分である。
 内部の縁のしくみは、固まっておらず、対応する度になにがしかの縁を受け、変化する。

 ノエマ自己に加えて、もうひとつ重要な適応加速のしくみができあがった。段取りである。
 言葉によって今ここにない利害を認識する事が可能になった人類は、それへの準備をするようになる。鹿をしとめるために槍を作り、槍を作るために、穂先に適した石を探しに行く。
 段取りは、常に自覚的に検討されシミュレートされ、より効率的に改変されてきた。これによって、人は、より効率よく利益をもたらすものを獲得し、害をもたらすものを避ける事ができる。段取りもまた、適応を加速するしくみである。段取りのしくみは、ノエマ自己と同様にノエシスに常駐して、ノエシスの行為を効率化する。

 段取りとは、目的と手段の分化である。ある目的には、いくつか可能な手段があり、シミュレーションの結果、そのうち最適と判断されたものが選び取られる。段取りが高度になると、手段が目的となり、更にそのための手段が検討される。目的と手段は連鎖構造をなし、文明の発展と共に、連鎖はどんどん長くなっていく。

 目的と手段を対比させて考えて見ると、手段については、複数の選択肢を比較検討して選び出すのであり、裁量の幅がある。勿論、可能な選択肢は、これまでの経験・学習で身につけてきたものであり、その意味で縁によって限定されているのであるが、その中でどれを選ぶかについては主体的選択が可能である。一方、目的については、経験や世間の風潮によって自覚なく縁によってあらかじめ与えられている。(ここでもまた、ラップのバンドを思い出してもらいたい。)
 ところで、目的と手段は、連鎖構造をなしていた。従って、下位の目的ほど、手段性が高く、主体性による裁量幅が広い。上位の目的ほど、縁によって与えられた度合いが高く、自覚的検討がされにくい。中間の目的は、両方の性格を併せ持つ。(例えば、受験生は、クラスのみんなも受験するし、それがあたりまえと思って試験勉強をするが、時々「こんな勉強になんの意味があるのか、なんのために受験するのか」といった疑問がよぎる。受験という目的が、時に手段として検討されるのである。)

 さて、ここで気分転換をかねて、皆さんに考えていただきたい。皆さんは、この後パソコンの前を離れて何をなさるのだろうか? 明日の準備をする? 風呂に入る? 買い物に行く? それは一体何のためだろうか? **のため。**は何のためなのか? ##のため。##は何のため? ・・・ 自問自答の連鎖の果てになにが見出せるだろう? それは、あなたを導く究極の目的である筈だ。

 どうだろう? 確固たるものはあっただろうか? いくつも繋げないうちに雲散霧消してしまったのではないだろうか? せいぜいのところ「生きるために生きる」としかいいようのないあいまいなものしか残らない。富や地位や名声を求めるのも、もともとの駆動力は、大腸菌やゾウリムシと共有している「DNAによる存続と増殖の強い傾向」なのである。DNAの根本無明が、進化して種ごとに異なる利害となり、人間は人間の利害に拘束される。結局のところ、究極の目的はない。つまり、我々もまた、一番底の所では「DNAに根ざす根本無明」を縁として導かれているのである。

 縁から与えられた中位の目的を、みずから主体的に選んだものとして受け止められる人は、幸福である。文明が発達し巨大化し分業の進んだ現代社会においては、多くの人が自分の役割を見失いがちだ。自分の仕事の意味が分かりにくくなる。かつては、認識の対象は利害に直結し、興奮を呼び起こすカテゴリーだったのに、今や煩わしいだけで退屈な事柄に関心を向けねばならない。また、社会には無数の集団が入れ子状態で存在し、個人は大抵複数の集団に属するが、集団ごとにメンバーに要求される価値や義務は異なり、人は、しばしばそれらの間で引き裂かれる。

 「いつも」が退屈になるのは、ある程度文明が発達してからかもしれない。

 現代社会において、多くの人は、たくさんの中位の目的を与えられ、それらに駆り立てられながら、なぜそれをしなくてはならないのか、それらの目的の価値、それらの目的の上位目的を問わざるを得ない状況にある。結果、人々は、究極の目的はないということにうすうす感づいている。勿論そのことを直視している人は少ない。大抵の人は、目的の問いをごまかしながら過ごしている。パチンコ、カラオケ、趣味、仕事、出世、富、名声、、、。あらゆる暇つぶしと価値ありげなことがごまかしの手段となる。
 一部には、生の無意味さをごまかしきれずに苦しみもがく人もいる。DNAに定められたままただ意味なく生きるためにもがき足掻かねばならないということに、もがき足掻くのである。この苦しみに正面から向き合えれば、それが宗教的発心だ。
 皮肉な言い方をすれば、人類は、段取りという効率追求の適応加速装置を上位目的の方向へ逆向けに適用する事により、「DNAに基づく個体存続の強い傾向」まで批判的に検討できるまでに、内部の縁のしくみを進化させたのである。

 釈尊は「一切皆苦」とおっしゃった。しかし、文明の進んだ現代で、餓える心配もなく娯楽に囲まれて生きる我々には、「一切皆苦」はなかなかピンと来ない。「一切皆退屈」とでも言った方が共感を得やすいのではないだろうか。そんな軽い言葉で釈尊を語るなとお怒りかもしれない。しかし、私は、「退屈」を結構重い意味で使っているつもりだ。パスカルを勉強した事はないが。

 私は、釈尊が出家された動機は、究極の目的や価値に関する苦悩だったと思う。当初は、釈尊も、独立自存の確固たるアートマンがあるとあたりまえに考えておられた筈だ。それが四門出遊で老病死をご覧になって、それまで一応受け入れておられた中位の目的が価値を失った。
 「人々は、追い立てあい、争いあいながら、価値のない事に一喜一憂している。あらゆる歓楽もあらゆる勝利も、意味があるとは思えない。自分もまた、変わるところはない。」
 中位の目的を価値づける究極の目的を問わざるを得なくなられた。しかし、それは見つけられない。その苦悩の末の出家であったと考える。

 釈尊がなさったことは、まず教えを求めて歩き、次に自分の身を実験台にして様々な試みをなされた。つまり、学習・経験を積んで、縁の幅を広げられた。広げた縁を分析し深く探求された。そして、修行の末に、現象を現象のままに見るという空前のことが達成された。なによりも自分を縁起する無我なる現象として現象のまま如実に捉えられた。

 その結果発見されたのが、<無我=縁起>である。<無我=縁起>は、動物が進化の歴史で営々と積み上げてきた、カテゴリーで物事を捕らえ現象を実体視し独立自存永遠の「存在」として捕らえて対応する事(これは淘汰を生き延びるには有効に機能してきたのではあるが)の間違いを正す教えである。結果、それまでのあらゆる中位の目的が執着として否定され、自分のアートマンも幻想であったと分かった。自分は縁起による現象なのであるから、あらかじめ定められたいかなる目的もない。目的の呪縛から解き放たれた釈尊は、一瞬「完全な自由」に近い状態になられた。「完全な自由」は「完全な不自由」であり、なにひとつなし得ない。釈尊は、そのまま入滅しようと一旦は考えられた。しかし、共に縁起する有情への共感がすぐに生まれ、根本無明でもなく目的でもない、まったく新しい行為の動機として慈悲が誕生した。(小論集「釈尊成道の過程」も参照頂ければうれしい。)

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 書いているうちに新たな問題が次々と浮上し、焦点のボケた論旨になってしまった。無理やり型に押し込んだだけで、まだ消化できていない。

 もう一度簡単に振りかえって、まとめとする。

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曽我逸郎