曽我逸郎

《慈悲は仏教によって生み出されるのではない?》

2004年11月4日


 慈悲は仏教によって生み出されるのではないのかもしれない。

 こんな表明は顰蹙を買ってしまうかもしれないが、敢えて提示して、皆さんのご意見を伺いたいと思う。

 勿論私にとっても、慈悲は大切な教えだ。おろそかにしていいとは思えない。慈悲を説かなければ、仏教は仏教でなくなると思う。

 しかし、にもかかわらず、無常・苦・無我・縁起といった仏教の他の教えと、慈悲がどう繋がるのか? 無常・苦・無我・縁起は、相互に必然性のある一体の教えだと感じることができるが、その一塊に対して、慈悲だけが浮いているように感じる。仏教の体系の中に、どうすれば慈悲をぴったりと収めることができるのか?

 慈悲について考える前に、無常・苦・無我・縁起がどのように一体か、私の考えを簡単に書いておこう。

 世の中のあらゆる事物、そしてなにより「私」は、無常であり、無我であり、縁起によるところの現象である。壊法である。にもかかわらず、我々は、それらがそれとして存在し続け、自分にとって変わらぬ価値(プラスであったりマイナスであったり)を持ち続けると思い込む。その結果、自分に執着し、自分にとってプラスと思うものに執着し、マイナスと思うものを嫌悪する。「自分」を守り拡大しようとし、「価値あるもの」を奪い取り、「敵」を破壊しようとする。そのようにして、私達は自分を苦しめ、互いに苦しめ合っている。
 あらゆる事物も、自分自身も、縁起による無常にして無我なる現象であると正しく見よ。それが自分のこととして腹に落ちて納得できた時、事物への執着も、事物への嫌悪も、自分への執着も起こらなくなる。その結果、執着による自動的反応は停止し、人と自分を苦しめることはなくなる。そのためには、無常・苦・無我・縁起を正しく学び、よく考え、自分という現象の現象の仕方を整え、静かに落ち着いて、じっくりと深く観察せよ。
 これが私の仏教=「無常・苦・無我・縁起」の理解だ。四聖諦も同じ意味だと考えるし、戒定慧の三学や八聖道はこれを実現するための方法だと思う。

 そして、慈悲については、これまでは「無常=無我=縁起を自分のこととして腹に落ちて納得できた時、それまでの執着に代わって慈悲が働き出す」と書いて来た。しかし、この説明は、自分でも唐突だと感じていた。無常=無我=縁起が納得できて、執着の反応が停止した時、何故、どのように慈悲の反応が生まれるのか?

 こう考える時、頭に浮かぶのは、釈尊成道直後の、説法躊躇と梵天勧請のエピソードである。
 釈尊が無常=無我=縁起を見極められて、その喜びを味わわれた後、このようにお考えになる。

 「この真理は深淵で、見がたく、難解であり、思考の域を超え、微妙であり、世の流れに逆らう。執着のこだわりに耽り、嬉しがっている世の人々には、縁起という道理は見がたい。ニルバーナという道理も見がたい。わたくしが理法を説いたとしても、理解してくれなければ、疲労が残るだけだ。」
 なにもしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった。
 (中村元選集決定版第11巻『ゴータマ・ブッダT』春秋社、P444あたりを要約)
 これはどういうことだろうか?
 成道後、釈尊はその喜びを十分に味わわれた。その間、ただ喜びに浸られただけではなく、発見された事柄を様々に多方面から検討され、確かに間違いないと確信された筈である。その上でなお、教えを説いて人々を救うことに否定的であられた。
 このことは、つまり、釈尊の見出されたことがらは、ダイレクトに慈悲を生み出すものではない、ということを意味するのではないだろうか?
 成道の時、釈尊は無常=無我=縁起を見極められた、と私は考えるが、これは学問的には根拠がないと言われるのかもしれない。学問的な見方は、たとえば、中村元・前掲書P417にこのようにある。
 「このようにさとりの内容に関して経典自体の伝えているところが非常に相違している。いったいどれが本当なのであろうか? 経典作者によって誤り伝えられるほどに、ゴータマの得たさとりは、不安定、曖昧模糊たるものであったのであろうか? 仏教の教えは確立していなかったのであろうか。
 まさにそのとおりである。……
 まず第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。……」
 しかし、私としては、様々な経典の記述にどういう不一致があっても(自分の過去生を思いだし衆生の輪廻転生する様を見ることがさとりの内容であったとする経典もある)、正しい仏教とは、「執着の対象が変わらぬ価値を持って存在しつづけると思い込み、それに執着することが苦を生んでいる。無常=無我=縁起を正しく見て、執着を滅ぼせ」という教えだと考えるから、釈尊が成道の際に見出されたことも、当然「無常=無我=縁起」だったと信ずる。
 梵天勧請は、もし本当にあったとすれば、梵天と釈尊御自身しか語り得ない出来事だ。そんなことが実際にあったとは思えないし、比喩的にであれ、釈尊がそんな話をされたとも思えない。おそらく後世にできあがった物語であろう。
 では、説法躊躇はどうか? もし後世の創作だったとしたら、何が言いたかったのか? 「釈尊の見出されたことは、世の人には理解し難い。」そう強調したかったのか? しかし、それだけにしては、生々しすぎる話だし、タイミングもあまりに重要な場面過ぎる。

 説法躊躇は、釈尊の内面の葛藤としておそらく本当にあったことで、釈尊御自身がなにかの機会に弟子達に語られたのだと思う。それを脚色し、釈尊を神格化するために、梵天勧請の物語が付加されたのだろう。
 無常=無我=縁起を発見し、様々に検討してそれが正しいと確信された上で、釈尊は、この真理は誰にも理解できないと一旦は説法を諦め、衆生を見捨てようとなされた。しかし、すぐに思いなおして、教えを説くことを決断された。これが真相だと思う。

 説法を決断された釈尊は、それ以後入滅されるまで、多くの弟子に囲まれ煩わしい調整事や世俗との付き合いなどもこなしながら、倦むことなく熱心に人々に教えを説かれた。これは、まさに慈悲の行いである。成道後の釈尊は、慈悲のみに生きられたと言って過言ではない。
 では、慈悲を、教えの中にどう位置付けるべきか?

 検討の材料として、手元にあるパーリ経典の邦訳にもう一度目を通してみた。

 私が今持っているのは、中村元訳・岩波文庫の『スッタニパータ』、『ダンマパダ・ウダーナヴァルガ』、『大パリニッバーナ経』、そして片山一良訳・大蔵出版の『パーリ仏典中部』の根本五十経篇T・U、中分五十経篇Tに限られる。今後も読み広げていくつもりだが、慈悲について特に重要なものがこの外にあれば、御教授頂けるとあり難い。

 釈尊のお考えを考えたいので、後になって創作され慈悲や菩薩道を宣揚する大乗経典はここでは取り上げないことにした。
 とはいえ、現存するパーリ経典が、釈尊の言葉そのままでないことは勿論承知している。経典は、そもそもが、釈尊の言葉ではなく、「如是我聞」で始まる弟子達の理解の記録であり、そこにさらに後の時代の解釈による書換え・加筆がおびただしく加わっている。そのことは十分認識した上で、考察の手掛かりにしたい。

 では、感じたことを列挙してみる。
 この小論の終りに、上記諸経典で部分的であれ慈悲に言及している箇所を気付いたかぎり列挙した。私の感想が正当か、そこで御確認頂きたい。個々の経の全体の主旨までは触れられなかったので、それについては、上記の本などを参照して欲しい。
  1.  パーリ経典において、慈悲への言及が全体に占める割合は、多くない。少なくとも私が仏教において慈悲が重要であると思っているほどには、多くない。
  2.  修行者に向けて説かれる慈悲と、釈尊の特質としての慈悲とでは、微妙にニュアンスが異なる。
  3.  修行者に対しては、怒りや殺生の制止を説く文脈の中で、その対比として慈悲が言及されるケースが多い。
  4.  慈悲が主題として説かれる場合でも、実践的・直接的な他者救済の行動ではなく、主観的・内面的である。
     例えば、中部7、布経などに繰り返し現れる定型化した四無量心の説法、「慈しみのある心をもって、一の方向に…満たし、住みます」は、主観的・抽象的であり、実践的とは言い難い。
  5.  慈悲を修行者の目的として、「有情のために修行せよ」と説く経典は、ほとんどない。この点は大乗との著しい相違点である。
     今回見た中で唯一の例外は、大パリニッバーナ経第三章の終わりの部分。
     一方で、大乗的な視点からすれば、内容の上から、達成すべき目標として当然慈悲に言及してもおかしくないと思われる経典が、慈悲に触れていないケースもある。例えば、中部29大心材喩経、30小心材喩経。
  6.  「他のため」ではなく、自分を守る方法として、慈悲が説かれている経もある。本来の意味は、「慈悲があれば危害を避けられる」ではなく、「慈悲があれば、どのような状況に陥っても悪しき反応によって苦をつくることなく、平安を保つことができる」という意味であろう。慈悲に期待されていることの重要な一面が、主観的・内面的効果であることを物語っていると思う。
     スッタニパータ第一 蛇の章 八 慈しみ(慈経)、中部50降魔経を参照。
  7.  つまり、修行者に説かれる慈悲のほとんどは、他者救済という目的としてというよりも、怒りなど自分の悪しき反応を制止するための方法・手段として説かれている。
  8.  それに対して、釈尊においては、当然のことながら手段ではなく、純粋に他者への慈しみの気持ちが動いている。
     例えば、釈尊入滅の直接の原因となった最後の食事を供したチュンダへの配慮などがそうだし(スッタニパータ第四章42)、なによりも倦まず弛まず、多くの煩わしい事も厭わず、最期まで教え導かれた生涯が、慈悲の現れそのものだと思う。

 以上が、手元の経典を通読しての印象だ。

 そして、これらのことからこんな思いつきを得た。

 慈悲は仏教によって生み出されるのではなく、執着と同様に、凡夫がもともと持っている反応のパターンではないかだろうか。

 馬鹿なことを言うな、と立腹の方もおられよう。逆に、あたりまえだ、つまらん、とお感じの方もおられよう。
 私自身は、これまで、慈悲が仏教からどのようにして生まれてくるのか、解決できないでいたのだが、こう考えると、今までのもやもやがすっきりシンプルに説明できるように思う。

 慈悲という言葉を使うから、仏教独自のものと思ってしまう。例えば、マザー・テレサは、お目にかかれなかったが、おそらく慈悲の固まりのような方であっただろう。保育園の子供でも、誰かが転んだら、手を差し出す。仏教のブの字も聞いたことがなくても、慈悲は、普通の凡夫の反応パターンとして備わっており、ふさわしい縁・状況に出会えば自然に働き出すのだと思う。
 しかし、慈悲は、基本的には執着と対立する反応だ。そして、凡夫においては、執着の方が圧倒的に強い。慈悲は、執着に逆らわない範囲でしか働かない。卑近な例を挙げれば、例えば募金をする時、その額は執着心が許す範囲で決められる。

 冒頭で述べたように、仏教は執着をなくす教えだ。そして、執着は、自分という反応を維持し拡大するために、生命が40憶年をかけて、磨き上げ、培ってきた反応である。執着は、生命であること自体に根ざしており、簡単に無くせるものではない。考えられるかぎりのあらゆる方策を総動員しなければ、執着の反応を絶やすことはできない。八正道、戒・定・慧。釈尊の教えを正しく聞いて、正しく考え、正しく理解する。自分を整え、浮つきのない落ち着いた状態にして、深く自分を観察する。そのようなあらゆる努力を集めて、ようやく無常=無我=縁起を納得できる。その過程において、慈悲もまた欠くことが出来ない。慈悲によって執着の火を鎮めなければ、無常=無我=縁起を見ることは出来ない。これが修行者における慈悲の意味だと思う。

 では、釈尊、あるいは修行完成者においてはどうか? 無常=無我=縁起を腹の底まで納得して、執着の反応が止んだらどうなるのか? 執着が消え、その制約がなくなった分、慈悲が本来の100%の勢いで働くのだと想像する。
 釈尊の仏教は、執着をなくす教えであって、慈悲を高めることを一義的目的とする教えではなかった。執着が消えた時、その結果としてその分だけ、慈悲は自然に拡大する。釈尊の説法躊躇は、執着の消滅と慈悲の拡大との間の、僅かなタイムラグ(下図、灰色部分)における出来事ではなかったか。


 無常=無我=縁起を腹に落ちて納得し、執着の反応が完全に停止して、慈悲喜捨が充満すると、慈悲喜捨だけが行動の規範となる。そのことは、説法を決意された後、入滅に至る釈尊ご自身の生涯がなによりもよく物語っている。

 仏教は、慈悲喜捨の他に、なにか超越的な価値を持つわけではない。そして、慈悲喜捨も、自然な感情であって、「価値」と呼ばれるようなものではないと考える。仏教は、超越的価値も究極的目的も説かない。
 しかし、ここでひとつの疑念が生じる。大乗が部派仏教にぶつけた問題提起だ。無常=無我=縁起を腑に落ちて分かるまでは、慈悲は内面だけでいいのか? 修行者は、有情の苦しみを座視していていいのか?
 そんな筈はない。できることはしなければならない。というより、慈悲心があれば、なんとかしたい思いは、自然に湧きあがる筈だ。
 しかし、そう思う一方で、そこに潜む危険も感じざるを得ない。

 苦の大半は、人が作りだすものだ。そして、それを自分に与え、互いに与え合っている。であるなら、或るひとつの苦には、その原因となり、それをその人に与えている人がいる場合もしばしばあるだろう。その場合、苦しんでいる人への慈悲は、苦しめている人への怒りとなりやすい。
 そのような「正義」に裏打ちされた怒りは、単純なその場の怒りよりも、はるかに大きな苦をもたらす。「正義」に執着した「慈悲」が、巨大な苦を撒き散らす。本来は執着に対抗すべき慈悲は、時として執着と一体となる。我々の執着は、それほどに根深い。
 義憤が悪いといっているのではない。理不尽な苦をなくすため、義憤は必要だ。しかし、感情的であってはならない。冷静に、じっくりと、とらわれずに、観察し、判断すること。すなわち、執着のない観察が必要だ。それが「捨」ではないか。「捨」がなければ、正しい対応は出来ない。苦に対処しているつもりで、より大きな苦を作ってしまうことになる。

 義憤に満ちて自爆テロを決行する人もいる。「イラク人のために」イラク人を10万人死に至らしめて、それが「神の意志に適う」とどうやら本気で考えているらしい人もいる。(この人には、「神」に対する尊敬や愛はあっても、人々への敬意や愛はあるのだろうか? …おっと、私も捨を忘れてはならない。)今、世界を苦しめているのは、悪よりも、「正義」であり、「善」ではないだろうか。「正義か、否か」、「善か、悪か」ではなく、「苦を増やすか、減らすか」。それが規範でなければならないと思う。

 釈尊の言葉を引いておこう。(アンバラッティカ・ラーフラ教誡経 片山一良訳『パーリ仏典中部』大蔵出版より)

 ラーフラよ、ちょうどそのように、観察し、観察して、身による行為がなされるべきです。観察し、観察して、語による行為がなされるべきです。観察し、観察して、意による行為がなされるべきです。
 ラーフラよ、もしそなたが身による行為をなしたいと思うならば、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになりはしないか、他者をも害することになりはしないか、両者ともに害するものになりはしないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになる、他者をも害することになる、両者ともに害することになる、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、けっしてなすべきではありません。しかし、ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することにならない、他者をも害することにならない、両者ともに害することにならない、この身の行為は善のもの、楽を生むもの、楽の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為をなすべきです。
 ラーフラよ、また、そなたが身による行為をなしている時も、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしているこの身による行為は、自己を害しているのではないか、他者をも害しているのではないか、両者ともに害しているのではないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしているこの身による行為は、自已を害している、他者をも害している、両者ともに害している、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を捨てるべきです。しかし、ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしているこの身による行為は、自己を害していない、他者をも害していない、両者ともに害していない、この身の行為は善のもの、楽を生むもの、楽の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を続けてなすべきです。
 ラーフラよ、また、そなたが身による行為をなした後も、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしたこの身による行為は、自己を害したのではないか、他者をも害したのではないか、両者ともに害したのではないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたこの身による行為は、自己を害した、他者をも害した、両者ともに害した、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、師に対し、あるいはもろもろの賢者に対し、あるいはもろもろの同梵行者に対し、告げ、知らせ、明かすべきです。告げ、知らせ、明かし、将来にむけて防護しなければなりません。しかし、ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたこの身による行為は、自己を害さなかった、他者をも害さなかった、両者ともに害さなかった、この身の行為は善のもの、楽を生むもの、楽の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはその喜びと満足により、もろもろの善法について昼夜に学び続け、住むべきです。
 <以下、「語による行為」「意による行為」について、同様の文が続く。>
 四無量心のうち、慈・悲・喜は、まがりなりにも凡夫にもともと備わっている。自然な感情だ。しかし、捨は、厳密には執着を滅し尽くした時にやっと獲得される反応だと思う。
 修行者は、ありのままでは執着の下で押さえ込まれている慈・悲・喜を支え、育て、拡大し、執着に対抗させていかねばならない。それと同時に、自然には自分の中にない捨を意図的人工的に導入し、冷静に客観的に事態を見極める努力をしなければならない。
 そして、その努力に、八正道や戒定慧も加え、すべての努力を総動員して、ようやく無常=無我=縁起を納得し執着の自動的反応をなくし、苦の生産を停止することが可能になるのだと思う。


 以下、手元にあるパーリ経典の邦訳から、慈悲に関連している部分を抜き出す。(「殺すな」「害するな」という教えだけが説かれ、慈悲に言及しないものは原則として除いた。)
 上記の私の解釈が妥当かどうか、別の解釈はできないか、是非ご検討頂いて、ご意見・ご批判をお聞かせ下さい。
 < >は曽我による補い。

 ◆スッタニパータ

 (岩波文庫『ブッダのことば』中村元訳より)

第一 蛇の章 三、犀の角
35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
73 慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

<73では、慈悲喜捨が後に定型化される前の形で述べられている。>

第一 蛇の章 七、賤しい人
117 <賤しい人を賤しい人とさせる条件を問われた答えのひとつとして> 一度生まれるもの(胎生)でも、二度生まれるもの(卵生)でも、この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、―かれを賤しい人であると知れ。

第一 蛇の章 八、慈しみ
145 ……一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
146,7 いかなる生物生類であっても、……一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
149 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし。

 <スッタニパータ143〜152は、独立して「慈経」とも呼ばれる。また、ウ・ウェーブッラ著『南方仏教基本聖典』(中山書房仏書林)では、護経というタイトルもつけられており、冒頭に中村訳にはない一文がある。
 「皆さん、この護経の威力によって(地上の)神々は恐ろしいものを見せず、昼夜怠ることなくこれをたびたび誦える人が安らかに眠り、また睡眠中どのような悪夢を見ることもない、このような徳のある護経を誦えよう。」
 慈経のそもそもの意図はともかくとして、実際には、有情の幸せ以上に、修行者(自分自身)が危害に逢わず修行を妨げられないように、という護呪として誦えられてきたようである。中村訳の注にもそのことは触れられている。
 しかし、この経の本当の意味は、そのような神秘的威力のある護呪ではなく、「慈しみの気持ちがあれば、どのような状況に陥っても、怒りや恨みなどの悪い反応を起こすことなく、平穏でおれる」という意味だと思う。中部50降魔経も参照。>

第一 蛇の章 九、雪山に住む者
155 七岳という神霊は答えた、「このような立派なかれ(ブッダ)のこころは、一切の生きとし生けるものに対してよく安立している。また望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、かれの意欲はよく制せられている。」

第一 蛇の章 十二、聖者
220 両者は住所も生活も隔たっていて、等しくない。在家者は妻を養うが、善く誓戒を守る者(出家者)は何ものをもわがものとみなす執着がない。在家者は、他のものの生命を害って節制することがないが、聖者は自制していて、常に生命ある者を守る。

第二 小なる章 一、宝
222 ここに集まった諸々の生きもの<精霊たちのこと>は、地上のものでも、空中のものでも、すべて歓喜せよ。そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。
223 それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ。昼夜に供物をささげる人類に、慈しみを垂れよ。それ故に、なおざりにせずに、かれらを守れ。
224〜235 ……この真理によって幸せであれ。
236〜238 ……幸せであれ。

 <スッタニパータ222〜238は、独立して宝経とも呼ばれる。アルボムッレ・スマナサーラ長老『「宝経」法話』(日本テーラワーダ仏教協会)によると、旱魃・飢饉・疫病に苦しんだヴェーサーリーの町が釈尊を招いた際に、同行したアーナンダが唱えたお払いの護呪だという。精霊達を祝福しつつ、人間に慈しみを垂れ災いをもたらさぬように命じている。ある意味現世利益の祈祷だ。慈悲のバリエーションとして参考のため挙げておく。>

第二 小なる章 十四、ダンミカ
378 あなたはすっかり証りおわって、生けるものどもをあわれんで、智識と理法を説かれます。あまねく見る人よ。あなたは世の覆いを開き、汚れなくして、ひろく全世界に輝きたもう。

 <ダンミカが釈尊に呼びかける言葉のひとつ>

第三 大いなる章 五、マーガ
507 かれ<祀り実行者>は貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起こして、日夜つねに怠らず、無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。

 <施与をささげるにふさわしい人とはどういう人か、問われて、さまざまな条件を答えられた中のひとつ。>

第四 八つの詩句の章 十六、サーリプッタ
967 <修行者は>盗みを行ってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以って接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。

・・・・・・・・・・・

 ◆ダンマパダ

 (岩波文庫 中村元訳を参照したが、慈悲に関する経文は見あたらなかった。「殺すな、害するな」というものは二、三あったが、、。)

・・・・・・・・・・・

 ◆ウダーナヴァルガ

 (岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳より)

第一章 無常
2 すべてを知りきわめた人・救い主・慈悲ぶかい人・最後の身体をたもつ人である仙人・尊師は次のように説かれた。

第十二章 道
13 生まれと老いとの終りを見るこの人は、ひとびとのためをはかり、慈しんで、唯だ一つにおもむく道を語る。この道によってひとは迷いの激流をすでに渡り終り、また未来に渡るであろうし、また現在に渡る。
16 昔にはまだ聞いたことのない法輪を転じたもうた人、生きとし生けるものを慈しみたもう人、迷いの生存の彼岸に達したもうた人、神々と人間とのうちで最上である人、―そのようなかたにつねに敬礼すべし。

第二十一章 如来
17 その聖者は完全な自在を得、一切のものにまさり、すべての恐怖から解脱し、愛執を捨て、汚れ無く、望むこと無く、生きとし生ける者どもを観じて、世のためを念うている。

第二十四章 広く説く
20A (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端につけて(極く僅かの)食物を摂るようなことをしても、慈しみの心(の功徳)の十六分の一にも及ばない。
20B (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端につけて(極く僅かの)食物を摂るようなことをしても、生きとし生けるものどもを憐れむ(功徳)の十六分の一にも及ばない。
25 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀を営む人がいても、その功徳は、慈しみの心(の功徳)の十六分の一にも及ばない。
26 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀を営む人がいても、その功徳は、生きとし生けるものどもを憐れむ(功徳)の十六分の一にも及ばない。

第三十一章 心
40 牛が虫を払って自分の尾をまもるように、自分の心をまもりながら、生ける者どもを愍んでいる人は、幸せから退くことがない。
42 害する心がなくて、生けるものどもを愍み、生きとし生ける者どもに対して慈しみの心があれば、かれは何人からも怨まれない。
43 汚れの無い心で、一つの生きものをさえも慈しむならば、それによって善が生ずるであろう。生きとし生けるものをすべて心で慈しむならば、聖者は多くの功徳を積むことになる。

第三十二章 修行僧
20 仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、見るも快い、静けさの境地に到達するであろう。
21 仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽なる、静けさの境地に到達するであろう。
22 慈しみに住し、仏の教えを喜ぶ修行僧は、堕落するおそれがなく、ニルヴァーナの近くにいる。

第三十三章 バラモン
39 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあってやすらいでいて、生ける者どものために同情する人、―かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

・・・・・・・・・・・

 ◆大パリニッバーナ経

 (岩波文庫『釈尊最後の旅』中村元訳より)

第一章 11
 「修行僧たちよ。また修行僧たちが慈しみのある〈身体での行動〉を、共に修行する人々に対して、公にも秘密のうちにも確かに実行しているならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
 修行僧たちよ。また修行僧たちが慈しみのある〈ことばでの行動〉を、共に修行する人々に対して、公にも秘密のうちにも確かに実行しているならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
 修行僧たちよ。また修行僧たちが慈しみのある〈心での行動〉を、共に修行する人々に対して、公にも秘密のうちにも確かに実行しているならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。

 <僧団内部に相互の慈しみがあれば、僧団は存続すると説いている。>

第三章 50
 「修行僧たちよ。それでは、ここでわたしは法を知って説示したが、お前たちは、それを良くたもって、実践し、実修し、盛んにしなさい。それは、清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすのであって、そのことが、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐れむために、神々と人々との利益・幸福になるためである。そうして、修行僧たちよ。わたしが、それを知って、お前たちのために説示したが、お前たちがそれを良くたもって、実践し、実修し、盛んにすべきであり、そうしてそれは、清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすのであって、そのことが、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐れむために、神々と人々との利益・幸福になるためであるところの、その〈法〉とは何であるか? それはすなわち、四つの念ずることがら(四念処)と四つの努力(四正勤)と四つの不思議な霊力(四神足)と五つの勢力(五根)と五つの力(五力)と七つのさとりのことがら(七覚支)と八種よりなるすぐれた道(八聖道)とである。修行僧たちよ。これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良くたもって、実践し、実修し、盛んにしなさい。それは、清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすのであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐れむために、神々と人々との利益・幸福になるためである。」と。

 <この経は、「人々を憐れみ幸せにするために修行せよ」と、慈悲を目的として説く稀な例である。>

第四章 42
 そこで尊師は若き人アーナンダに告げられた。
 「誰かが、鍛冶工のチュンダに後悔の念を起こさせるかもしれない、―〈友、チュンダよ。修行完成者はお前の差し上げた最後のお供養の食物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益がなく、お前には功徳が無い〉と言って。
 アーナンダよ。鍛冶工のチュンダの後悔の念は、このように言ってとり除かれねばならぬ。〈友よ。修行完成者は最後のお供養の食物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益があり、大いに功徳がある。友、チュンダよ。このことを、わたしは尊師からまのあたり聞き、うけたまわった、―

 <釈尊の慈悲をものがたる具体的な例。自分の死を目前にして、鍛冶工チュンダに示された配慮。>

・・・・・・・・・・・

 ◆マッジマ ニカーヤ

 (片山一良訳『パーリ仏典中部』大蔵出版より)

 但し私は、根本五十経篇T、U、中分五十経篇Tの3冊しか持っていないので、それに限る。

第3 法相続経
1 「比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。財の相続者になってはいけません。私には、そなたたちに対し、〈どのようにして、わが弟子たちは財の相続者にならず、法の相続者になるであろうか〉という憐れみの思いがあります。

第4 恐怖経
17 バラモンよ、もし語る人がいて、『多くの人びとの利益のために、多くの人びとの安楽のために、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安楽のために、迷妄のない生けるものが世に現れている』と語ろうとするならば、それは私について、『多くの人びとの利益のために、多くの人びとの安楽のために、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安楽のために、迷妄のない生けるものが世に現れている』と語る場合のみ、正しく語ることになります。
22 ところで、バラモンよ、そなたにこのような思いがあるかも知れません。〈沙門ゴータマは今でも貪りを離れていないのではないか。怒りを離れていないのではないか。愚痴を離れていないのではないか。だから、森や山林の遠く離れた臥座所に親しんでいるのだ〉と。しかし、バラモンよ、これはそのように見られるべきではありません。バラモンよ、私は、二の意味をよく見て、森や山林の遠く離れた臥座所に親しんでいるのです。すなわち、自己の現世の楽住をよく見ること、そして、後につづく人びとを憐れむこと、からなのです」と。
23 「確かにこの後につづく人びとは、阿羅漢である正自覚者によるとおりに、ゴータマ尊から憐れみを受ける性質のものです。ゴータマ尊よ、すばらしいことです。ゴータマ尊よ、すばらしいことです。たとえば、ゴータマ尊よ、倒れたものを起こすかのように、覆われたものを取り除くかのように、迷った者に道を教えるかのように、『眼の見える者たちは、もろもろのものを見るであろう』と、暗闇で燈火を掲げるかのように、まさにそのように、ゴータマ尊は多くの方法で法を説いてくださいました。

 <23の「倒れたものを起こすかのように、・・・」は、他の経典でもよく登場する定型的表現。釈尊の説法が、まさに慈悲の行いであることを賞賛している。
 パーリ中部の1から75までの中で、このパターンが登場する経典を挙げておく。
 7布経 30小心材経 41サーレッヤカ経 42ヴェーランジャカ経 54ポータリヤ経 55ジーヴァカ経 56ウパ−リ経 60無碍経 72火ヴァッチャ経 73大ヴァッチャ経 74ディーガナカ経 75マーガンディヤ経>

第6 希望経
2 比丘たちよ、もし比丘が、〈私はかれらの衣・托鉢食・臥座所・医薬品を受用するが、そのかれらの行為は大きな果報、大きな功徳のものであってほしい〉と希望するならば、もろもろの戒を充分に満たし、自己の心の寂止に努め、禅を疎かにせず、観をそなえ、もろもろの空屋の増益者になることです。

 <この経は、修行者に対して「比丘が〜を願うなら、きちんと修行せよ」と繰り返し説いている。願いのひとつとして「自分に布施してくれた人の果報」が目的にされているが、「衆生一般の苦を抜く」といった広い慈悲は、説かれていない。修行者に、目的として広い慈悲が説かれることは、めったにないようだ。>

第7 布経
8 かれ<貪欲などの心の汚れを断った比丘>は、慈しみのある心をもって、一の方向に、同じく第二の方向に、同じく第三の方向に、同じく第四の方向に満たし、住みます。このようにして上に、下に、横に、一切処に、一切を自己のこととして、すべてをふくむ世界に、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、苦悶のない心をもって満たし、住みます。
 憐れみのある心をもって、一の方向に、同じく第二の方向に、同じく第三の方向に、同じく第四の方向に満たし、住みます。このようにして上に、下に、横に、一切処に、一切を自己のこととして、すべてをふくむ世界に、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、苦悶のない心をもって満たし、住みます。
 喜びのある心をもって、一の方向に、同じく第二の方向に、同じく第三の方向に、同じく第四の方向に満たし、住みます。このようにして上に、下に、横に、一切処に、一切を自己のこととして、すべてをふくむ世界に、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、苦悶のない心をもって満たし、住みます。
 平静のある心をもって、一の方向に、同じく第二の方向に、同じく第三の方向に、同じく第四の方向に満たし、住みます。このようにして上に、下に、横に、一切処に、一切を自己のこととして、すべてをふくむ世界に、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、苦悶のない心をもって満たし、住みます。

 <これは、四無量心(慈悲喜捨)を説くパターンとして、いくつもの経典でほとんど同じ文章で繰り返される。
 この経のこの部分の主旨は、貪欲などの良くない反応が断たれるとその結果として、四無量心(慈悲喜捨)が働き出すと言っている。>

10 ・・・・・・
 あるいはバーフマティー河に
 いつも愚者は飛び込めど
 黒い業は浄まらず

 アンダリカーが、バヤーガが
 バーフカー河が何をするのか
 恨みをいだき罪なす人を
 悪事にふける者を浄めず

 浄き者にはつねに春あり
 浄き者にはつねに布薩あり
 浄業そなえた浄き者には
 つねに務めが成就する

 ここでのみ洗え、バラモンよ
 生き物すべてに安穏を作れ

 もしも嘘をつかないならば
 もしも殺生をしないならば
 もしも盗みをしないならば
 信をそなえ吝嗇がなければ
 ガヤーへ行って何になろうか
 そなたにガヤーが井戸であっても

 <上の8と同じ布経であるが、この詩では、「聖なる河に入っても浄めるはできない。正しい行いによって浄められる。」と説き、慈悲は、悪い反応を断った結果ではなく、悪い反応を断つ(洗い去る)ための方法・手段のように読める。
 いずれにせよ、慈悲は、悪い反応の対蹠的位置にあるものとして捉えられている。>

第8 削減経
8 チュンダよ、師が弟子たちのために利益を願い、憐れみによってすべきことを、私はそなたたちのために、憐れみの心をもってしました。

 <削減経で釈尊は、様々な良くない傾向を削り落とすために、その反対をなすべきことを説いておられる。しかし、その中には、慈悲のない人に対して慈悲を説く言葉はない。>

第12 大獅子吼経
16 サーリプッタよ、もし正しく語る人がいて、『迷妄のない生けるものが、多くの人びとの利益のため、多くの人びとの安らぎのために、世界に現れている』と語るならば、それは、私についてのみ正しく語っているのです。『迷妄のない生けるものが、多くの人びとの利益のため、多くの人びとの安らぎのために、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安らぎのために、世界に現れている』と」

 <大獅子吼経の内容は、釈尊に向けて「人法を超えた最勝智見がない。法を説いているが、それは推論に溺れ、思索に追従し、自己を顕示するものである」という非難があり、それに対する釈尊の反論である。上記はその最後の部分。第4 恐怖経にあった文とほとんど同じ。>

第19 二種考経
10 たとえば、比丘たちよ、森林に大きな低い沼があり、その近くに鹿の大群が棲んでいるとします。
 誰であれ、その大群の意義を願わない、利益を願わない、無事安全を願わない人が現われるなら、その大群が平穏に喜んで行くことのできる道を閉じ、悪い道を開き、牡の囮を置き、牝の囮を止めて置くはずです。なぜなら、比丘たちよ、このようにすれば、後刻、鹿の大群が不幸、損失、衰弱に到るからです。
 しかし、比丘たちよ、誰であれ、その鹿の大群の意義を願い、利益を願い、無事安全を願う人が現われるなら、その大群が安全に平穏に喜んで行くことのできる道を開き、悪い道を閉じ、牡の囮を排除し、牝の囮を除去するはずです。なぜなら、比丘たちよ、このようにすれば、後刻、鹿の大群が増大・増長・広大に到るからです。
 比丘たちよ、私は意味を知らせるために、この比喩を作りました。ここでの意味はつぎのとおりです。すなわち、比丘たちよ、<大きな低い沼>とは、もろもろの欲の同義語です。比丘たちよ、<鹿の大群>とは、もろもろの生けるものの同義語です。比丘たちよ、<意義を願わない、利益を願わない、無事安全を願わない人>とは、悪魔の同義語です。比丘たちよ、<悪い道>とは、八支の邪道、すなわち、邪見・邪思・邪語・邪業・邪命・邪精進・邪念・邪定の同義語です。比丘たちよ、<牡の囮>とは、歓楽の同義語です。比丘たちよ、<牝の囮>とは、無明の同義語です。比丘たちよ、<意義を願い、利益を願い、無事安全を願う人>とは、阿羅漢であり正自覚者である如来の同義語です。比丘たちよ、<安全に平穏に喜んで行くことのできる道>とは、八支の聖道、すなわち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の同義語です。
 以上のように、比丘たちよ、私によって、安全に平穏に喜んで行くことができる道は開かれ、悪い道は閉じられ、牡の囮は排除され、牝の囮は除去されています。
 比丘たちよ、私は、師として弟子たちの利益を求め、憐れみにより、憐れみをもって行うべきことを、そなたたちのために行いました。

 <ここにおいても、慈悲は、悪意と対比されている。>

第21 鋸喩経
3 それゆえ、バッグナよ、たとえ誰かがそなたの面前でその比丘尼たちの非難をしても、バッグナよ。それについて、そなたは在家的なもろもろの欲や在家的なもろもろの考えを捨てるべきです。バッグナよ、それについてまた、そなたはこのように学ぶべきです。<私はけっして心が変わらないようにしよう。また悪しき言葉を発しないようにしよう。また怒りをもたず、憐れみをもって、慈心をそなえて住むことにしよう>と。バッグナよ、そなたはこのように学ぶべきです。

 <比丘尼たちと過度に交際していたバッグナを教え諭す言葉。やはり、悪しき反応に対するものとして慈心が説かれている。
 わたしには、このような事柄にまで丁寧に関与しておられた釈尊の態度こそ、慈悲に溢れたものだと思う。弟子たちには「雑事から遠ざかれ」と教えておられたのに…。私のような短気なナマケモノには、とてもできない。>

6 比丘たちよ、他の者たちが語るとき、時によって、あるいは非時によって語る場合があります。比丘たちよ、他の者たちが語るとき、真実によって、あるいは非真実によって語る場合があります。比丘たちよ、他の者たちが語るとき、柔和によって、あるいは粗暴によって語る場合があります。比丘たちよ、他の者たちが語るとき、利益を伴うものによって、あるいは不利益を伴うものによって語る場合があります。比丘たちよ、他の者たちが語る場合、慈心者として、あるいは怒りのあるものとして語る場合があります。
 比丘たちよ、それについてまた、つぎのように学ぶべきです。<われわれはけっして心が変わらないようにしよう。また、悪しき言葉を発しないようにしよう。また、怒りをもたず、憐れみをもって、慈心をそなえて住むことにしよう。その人を、慈しみとともなる心で満たして住むことにしよう。また、一切の世界をその対象として、慈しみともなる、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たして住むことにしよう。

 <この6の前にこんな物語がある。
 「善い人と世評の高い女主人が、働き者の女奴隷を使っていた。女奴隷は、主人は本当に善い人か、ただ自分がよく働くので怒らないだけではないか、と疑い、主人をテストする。わざと怠惰にふるまうと、女主人はすぐに怒りだし、暴力を振るい、評判を下げた。…思いのままでない時にも善き人であれ。」>

11 比丘たちよ、もしも卑しい盗賊たちが両側に柄のある鋸で手足を切断しようとするとき、それについて心を怒らすならば、かれはそのことにより、わが教えの実践者になりません。比丘たちよ、それについてまた、つぎのように学ぶべきです。<われわれはけっして心が変わらないようにしよう。また、悪しき言葉を発しないようにしよう。また、怒りをもたず、憐れみをもって、慈心をそなえて住むことにしよう。その人を、慈しみとともなる心で満たして住むことにしよう。また、一切の世界をその対象として、慈しみとともなる、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たして住むことにしよう>と。

 <この経でも、慈しみは、怒りなどの悪い反応に対抗するものとして説かれている。自分の手足を切断する者にも悪しき反応をせず、慈しみを持て、と。>

第26 聖求経
10 比丘たちよ、その<無碍安穏の涅槃に到達した>私はこう思いました。
 <私が証得したこの法は実に深遠で、見難く、理解し難く、寂静で、勝れ、推論の範囲を超え、微妙で、賢者によって感受されるものである。しかし、この人人は執着によって楽しみ、執着において楽しみ、執着においてよく喜んでいる。執着によって楽しみ、執着において楽しみ、執着においてよく喜んでいる人人に、この道理は、すなわち、この縁となるもの、縁起というものは見難い。またこの道理も、すなわち、あらゆる行の寂止、あらゆる生存素因の捨棄、渇愛の滅尽、離貪、滅、涅槃も見難い。しかもまた、私が法を説いても、他の者たちが私をよく知ることができないならば、それは私に疲れとなるであろうし、それは私に悩みとなるであろう>と。
 <この後、同じ主旨の釈尊の詩句があり、梵天の説法勧請があって、>
12 比丘たちよ、そこで私は梵天の懇願を知り、生けるものたちへの憐れみから、仏の眼をもって世界を眺めました。比丘たちよ、私は仏の眼をもって世界を眺め、生けるものたちを、すなわち、汚れの少ない者、汚れの多い者、利根の者、鈍根の者、優れた様相の者、劣った様相の者、教導し易い者、教導し難い者を、ある者たちはあの世と罪とに対する恐れを見て住んでいるのを、ある者たちはあの世と罪とに対する恐れを見ないで住んでいるのを、見ました。・・・・・
 比丘たちよ、そこで私は梵天サハンパティに、詩句をもって語りました。
  『かれらに不死の諸門は開いた
    耳ある者らは信を放てよ
    梵天よ、私は殊勝の法を
    害意を抱いて人には説かず』

 <小論で触れた説法躊躇と梵天勧請の物語である。はじめ、釈尊は凡夫をかなりクールに突き放して見ておられる。つまり、成道において釈尊の見出されたことは、ダイレクトに慈悲を発揮させるものではなかった。しかし、にもかかわらず、釈尊は、結局憐れみをもって説法を決意され、倦まず弛まず、亡くなるまで教え続けられた。成道と説法決断の間には、微妙なタイムラグがある。それについての私の考えは、小論に書いたとおりだ。>

第27 小象跡喩経
5 かれは、このようにして出家者となり、比丘たちの学戒と共住戒とをそなえ、殺生を捨て、殺生から離れた者になります。棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住みます。

 <これは不殺生戒である。ここで慈悲は、殺生という悪行の反対として語られている。>

9 かれは、世界に対する貪欲を捨て、貪欲の消え失せた心をもって住み、貪欲から心を浄めます。悪意と怒りを捨て、悪意のない心をもち、すべての生き物を益し、同情して住み、悪意と怒りから心を浄めます。

 <ここでも、慈悲は、悪意や怒りの反対として位置付けられている。>

第29 大心材喩経
第30 小心材喩経

 <これらの二経では、出家したにもかかわらず、世評や、戒や、定や、智見など、様々な中途の段階で慢心を起こしてしまう比丘が批判されている。慈悲について考えながら読んでいると、「最上の段階の比丘は、どの段階でも慢心を起こさず、衆生済度に務めるもの」といった大乗的な言葉を期待してしまうが、慈悲への言及はない。心材(最良のもの)として説かれるのは、大心材喩経では不時の解脱、小心材喩経では、四禅、四無色定による想受滅、煩悩の慧による滅尽である。>

第31 小ゴーシンカ経
2 尊師よ、そのために私には、この尊者たちに対して、陰に陽に慈しみのある身業が確立しております。陰に陽に慈しみのある語業が確立しております。陰に陽に慈しみのある意業が確立しております。

 <ここで言われているのは、共に住んで修行に励む三人の相互の慈心であって、衆生への広い慈悲ではない。>

第33 大牧牛者経
4 比丘たちよ、ここに、比丘は、かの経験が豊かで出家して久しい僧団の父や僧団指導者である比丘長老たちに対し、陰に陽に慈しみのある身による行為をもって仕えています。陰に陽に慈しみのある語による行為をもって仕えています。陰に陽に慈しみのある意による行為をもって仕えています。

 <これも、衆生への広い慈悲ではない。>

第36 大サッチャカ経
1 <アーナンダの言葉>「尊師よ、かの議論を好み、賢者を自称し、多くの人びとに善人と認められているニガンタの子サッチャカがやって来ます。尊師よ、この者は仏を誹謗しよう、法を誹謗しよう、僧を誹謗しようと思っています。尊師よ、どうか世尊は憐れみを垂れて、しばらくお座りくださいますように」と。

 <論争好きで挑戦的なサッチャカへの慈悲。35小サッチャカ経においても、釈尊はこの言うことを聞かない利発な若者(?)に目をかけておられたように感じる。>

第38 大愛尽経
5 かれは、このようにして出家者となり、比丘たちの学戒と共住戒とをそなえ、殺生を捨て、殺生から離れた者になります。棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住みます。

 <27小象跡喩経に現れたのとまったく同じ文章。出家者のあるべき姿の第一としての、不殺生≒慈悲。>

17 かれは世界に対する貪欲を捨て、貪欲の消え失せた心をもって住み、貪欲から心を浄めます。怒りと憎しみを捨て、怒りのない心をもち、すべての生き物を益し、同情して住み、怒りと憎しみから心を浄めます。

 <ここでも、慈悲は、貪欲・怒り・憎しみに対置されている。ただし、あるべき比丘の姿は他にもたくさん述べられており、慈悲だけが突出しているわけではない。
 38大愛尽経は、比丘サーティの邪見「識は流転し、輪廻し、同一不変である」に対する釈尊の説法がその内容である。経典の文面に現れるかぎりでは、サーティに対する釈尊の対応は、大変冷たい突き放したもので、あまり慈悲を感じさせない。>

第39 大アッサブラ経
11 かれは、世界に対する貪欲を捨て、貪欲の消え失せた心をもって住み、貪欲から心を浄めます。怒りと憎しみを捨て、怒りのない心をもち、すべての生き物を益し、同情して住み、怒りと憎しみから心を浄めます。

 <27小象跡喩経、38大愛尽経と同じ文章。>

第40 小アッサブラ経
4 かれ<沙門の正しい実践を行っている者>は、慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく第二の方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてをふくむ世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって満たし、住みます。
 憐れみのある心をもって、一つの方向を、同じく第二の方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてをふくむ世界を、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって満たし、住みます。
 喜びのある心をもって、一つの方向を、同じく第二の方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてをふくむ世界を、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって満たし、住みます。
 平静のある心をもって、一つの方向を、同じく第二の方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてをふくむ世界を、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって満たし、住みます。
 比丘たちよ、たとえば、水は澄み、水は快く、水は冷たく、清らかで、すばらしい浅瀬のある、楽しい蓮池があれば、たとえ東方から人が、炎熱に苦しみ、炎熱に悩み、疲れ、渇望し、飲みたいと思い、やって来ても、かれはその蓮池に来て、水で渇きを癒し、炎熱の苦しみを癒すことができます。
 たとえ西方から人がやって来ても、たとえ北方から人がやって来ても、たとえ南方から人がやって来ても、たとえどこからそこへ人がやって来ても、炎熱に苦しみ、炎熱に悩み、疲れ、渇望し、飲みたいと思う者は、その蓮池に来て、水で渇きを癒し、炎熱の苦しみを癒すことができます。
 比丘たちよ、ちょうどそのように、たとえ王族カーストから家を捨てて出家している者でも、如来の説示した法と律によって、このように慈しみと憐れみと喜びと平静を修習し、内に寂静を獲得するならば、内の寂静により、私はかれを<沙門の正しい実践を行っている者>と言います。
 たとえ婆羅門カーストから家を捨てて出家している者でも、・・・<同文>
 たとえ庶民カーストから家を捨てて出家している者でも、・・・<同文>
 たとえ隷民カーストから家を捨てて出家している者でも、・・・<同文>

 <前半は、7布経などと同じパターンでで、四無量心(慈悲喜捨)を説いている。
 後半の、蓮池の比喩は、一見すると「すべての人を癒す蓮池のような四無量心を持て」と言っているように思えるが、注意して読むと、そうではない。蓮池は、仏法(あるいは僧団)のことであり、旅人は、出自のそれぞれ異なる出家者であり、「出家者が、いかなる出自であれ、四無量心を備えていれば、仏法(あるいは僧団)において癒される、内の寂静がある」、そのような文の構造になっている。ここで、慈悲喜捨は、現実社会における他者への実践上の問題としてよりも、出家者の内面的な問題として捉えられているように思う。>

第41 サーレッヤカ経
2 資産家たちよ、ではどのように身によって法行、正行が三種になるのか。
 資産家たちよ、ここに、ある者は殺生を捨て、殺生から離れる者になります。棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住みます。

第42 ヴェーランジャカ経
3 資産家たちよ、ではどのように身によって法行、正行が三種になるのか。
 資産家たちよ、ここに、ある者は殺生を捨て、殺生から離れる者になります。棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住みます。

 <41サーレッヤカ経と42ヴェーランジャカ経は、全体もほとんど同じ内容。不殺生≒慈悲>

第43 大有明経
11 「友よ、無量の心の解脱、無所有の心の解脱、空性の心の解脱、およびこの無相の心の解脱というこれらの法は、意味も異なり、表現も異なるのでしょうか。それとも、意味は同じで、ただ表現のみが異なるのでしょうか」
 「友よ、無量の心の解脱、無所有の心の解脱、空性の心の解脱、およびこの無相の心の解脱というものがあります。友よ、根拠があって、その根拠によれば、これらの法は意味も異なり、表現も異なります。また、友よ、根拠があって、その根拠によれば、これらの法は意味は同じで、ただ表現のみが異なります。
 それでは、友よ、何が根拠であり、その根拠によれば、これらの法が意味も異なり、表現も異なるのでしょうか。友よ、ここに比丘は、慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく第二の方向を、・・・
 憐れみのある心をもって、一つの方向を・・・
 喜びのある心をもって、一つの方向を、・・・
 平静のある心をもって、一つの方向を、・・・満たし、住みます。<7布経、40小アッサブラ経とほとんど同じ文言で四無量心(慈悲喜捨)を説いている。>
 友よ、これが無量の心の解脱と言われます。
 つぎに、友よ、何が無所有の心の解脱でしょうか。
 友よ、ここに比丘は、完全に識無辺処を超え、『何ものも存在しない』との無所有処に達して住みます。友よ、これが無所有の心の解脱と言われます。
 つぎに、友よ、何が空性の心の解脱でしょうか。
 友よ、ここに比丘は、森に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行き、このように熟慮します。<これは我について空であり、あるいは我に属するものについて空である>と。友よ、これが空性の心の解脱と言われます。
 つぎに、友よ、何が無相の心の解脱でしょうか。
 友よ、ここに比丘は、一切の相を思惟しないことから無相の心の定に達して住みます。友よ、これが無相の心の解脱と言われます。
 友よ、これが根拠であり、その根拠によれば、これらの法は意味も異なり、表現も異なります。
 それではまた、友よ、何が根拠であり、その根拠によれば、これらの法が意味は同じで、ただ表現のみが異なるのでしょうか。
 友よ、貪欲は量を作るものです。瞋恚は量を作るものです。愚痴は量を作るものです。漏尽の比丘には、それらが断たれ、根絶され、根幹を失ったターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものとなっています。友よ、およそ無量の心の解脱としてあるものの中で、不動の心の解脱は最上であると言われます。しかも、その不動の心の解脱は、貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものです。
 友よ、貪欲は障害のあるものです。瞋恚は障害のあるものです。愚痴は障害のあるものです。漏尽の比丘には、それらが断たれ、根絶され、根幹のないターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものとなっています。友よ、およそ無所有の心の解脱としてあるものの中で、不動の心の解脱は最上であると言われます。しかも、その不動の心の解脱は、貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものです。
 友よ、貪欲は相を作るものです。瞋恚は相を作るものです。愚痴は相を作るものです。漏尽の比丘には、それらが断たれ、根絶され、根幹を失ったターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものとなっています。友よ、およそ無相の心の解脱としてあるものの中で、不動の心の解脱は最上であると言われます。しかも、その不動の心の解脱は、貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものです。
 友よ、これが根拠であり、その根拠によれば、これらの法は意味が同じで、ただ表現のみが異なります」と。

 <ここでは、「四無量心は、無所有の心、空性の心、無相の心と、異なるとも言えるし、同じとも言える」と言っている。なぜ同じと言えるのか。無量心の解脱の最上のものである不動の心の解脱は、貪欲・瞋恚・愚痴について空であり、無所有の心の解脱の最上のものである不動の心の解脱は、貪欲・瞋恚・愚痴について空であり、無相の心の解脱の最上のものである不動の心の解脱は、貪欲・瞋恚・愚痴について空であるから。つまり、四無量心も無所有の心も無相の心も、完成されれば、貪欲・瞋恚・愚痴がないという点において等しく、それが空性の心であるから。
 ここにおいても、四無量心は、貪欲・瞋恚・愚痴といった悪い反応の反対として位置付けられている。無所有の心、空性の心、無相の心によって貪欲・瞋恚・愚痴が根絶されれば、四無量心も完成される言っていると解釈してよいと思う。>

第48 コーサンビヤ経
1 <論争する比丘たちに対して>「比丘たちよ、そなたたちは、そのことをどう思いますか、つまり、そなたたちが論争し、不和となり、口論に及び、互いに舌鋒をもって突き合い、住んでいるとき、はたしてそなたたちには、慈しみのある身の行為が同梵行者たちに対して陰に陽に現われているのかということです。慈しみのある語の行為が同梵行者たちに対して陰に陽に現われているのかということです。慈しみのある意の行為が同梵行者たちに対して陰に陽に現われているのかということです。」
 「いいえ、尊師よ」
 「比丘たちよ、そうであれば、そなたたちが論争し、不和となり、口論に及び、互いに舌鋒をもって突き合い、住んでいるとき、そなたたちには、慈しみのある身の行為が同梵行者たちに対して陰に陽に現われていないことになります。慈しみのある語の行為が・・・慈しみのある意の行為が・・・現われていないことになります。
2 「比丘たちよ、これら六の法は、憶念すべきもの、敬愛を生むもの、尊重を生むものであり、愛護のため、口論のないために、和合のために、一致のためになります。六とは何か。
 比丘たちよ、ここに、比丘の慈しみのある身の行為が同梵行者たちに対して陰に陽に現われます。これが憶念すべきもの、敬愛を生むもの、尊重を生む法であり、愛護のために、口論のないために、和合のために、一致のためになります。(1)
 比丘たちよ、ここに、比丘の慈しみのある語の行為が・・・(2)
 比丘たちよ、ここに、比丘の慈しみのある意の行為が・・・一致のためになります。(3)

 <ここで説かれているのは、僧団内の相互の慈しみが、敬愛・尊重・和合・一致を生み、口論をなくすということであって、慈悲を考えるための材料としてはさほど重要とは思えない。「六の法」の残り三つは、得たものを分け隔てなく皆で受用すること(4)、戒を等しくすること(5)、見(見解)を等しくすること(6)であり、それらの中で(6)見が最上であり、六の法すべてを集約するものとしている。すなわち、慈しみよりも見解が重要、ということになる。>

第50 降魔経
4 <魔がバラモン資産家に憑依して悪口を言い、比丘たちを怒らせようとしたのに対して> 『比丘たちよ、バラモン資産家たちがドゥーシー魔に憑依されています。<さあ、お前たちは、善法があり戒をそなえた比丘たちを罵倒し、誹謗し、怒らせ、悩ますのだ。おそらくお前たちに罵倒され、誹謗され、怒らされ、悩まされて、かれらの心に異変が起こるであろう。そうなれば、ドゥーシー魔がその機会を得ることになる>と。
 さあ、比丘たちよ、そなたたちは、慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく第二の方向を、・・・満たし住みなさい。<7布経などと同じ定型の四無量心の説法>
 憐れみのなる心をもって、一つの方向を・・・。
 慶びのある心をもって、一つの方向を・・・。
 平静のある心を持って、一つの方向を・・・。

 <ここでの四無量心は、魔の挑発から自分を守るための手段である。人を救うことよりも自分を守るものとして説かれている。『慈経』が護呪として誦えられてきたこととも通底しそうだ。ただし、ここでの身の守り方は、魔の挑発を封じるのではなく、魔の挑発に乗らないように自分をコントロールすることである。>

第51 カンダラカ経
11 かれは、このようにして出家者となり、比丘たちの学戒と共住戒とをそなえ、殺生を捨て、殺生から離れた者になります。棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住みます。

 <27小象跡喩経と同文の不殺生戒。>

第52 アッタカ市人経
2 「では、アーナンダ尊者よ、かの知るお方、見るお方であり、阿羅漢、正自覚者である世尊が説いておられる、そこにおいて比丘が怠けることなく、熱心に、自ら励んで住み、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無上の無碍安穏に到達するという、一法とは何でしょうか」 3 <答えとして、まず四禅が順に説かれた後(1〜4)、それらと同じ形式で、以下のように四無量心が説かれる。>  つぎにまた、資産家よ、比丘は慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく第二の方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてをふくむ世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって満たし、住みます。かれはこのように観察します。<この慈しみのある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅する性質のものである>と、知ります。かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。たとえもろもろの煩悩の滅尽に至らなくても、その法に対する欲求、その法に対する歓びによって、五つの下位の束縛が滅尽し、化生者となり、そこで完全に滅する者として、その世界から還ることがありません。  資産家よ、これが、かの知るお方、見るお方であり、阿羅漢、正自覚者である世尊が説いておられる、そこにおいて比丘が怠けることなく、熱心に、自ら励んで住み、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無上の無碍安穏に到達するという、一法です。(5)  つぎにまた、資産家よ、比丘は憐れみのある心をもって、・・・一法です。(6)  つぎにまた、資産家よ、比丘は喜びのある心をもって、・・・一法です。(7)  つぎにまた、資産家よ、比丘は平静のある心をもって、・・・一法です。(8)  <この後、さらに空無辺処(9)、識無辺処(10)、無所有処(11)が同様の形式で説かれる。>

 <四無量心のどれかひとつをどれであれ修することが、四禅などと並んで涅槃に至る方法であると説かれている。他の多くの経典が、慈悲をどちらかというと補助的なものとして位置付ける傾向がみられる中で、涅槃への本道として説いているのは、珍しい。>

第55 ジーヴァカ経
3 かれは慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく第二の方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を満たし、住んでいます。このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてをふくむ世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住んでいます。

 <この経は、狭くは肉食について述べている。「自分のために殺されたか、その可能性を疑われる動物の肉を比丘は食べてはならない。如来や如来の弟子のために生き物を殺しては行けない。比丘は、供された食べ物に執着しない。」あるべき比丘の形容として、四無量心が定型化されたパターンで述べられている。>

第58 アバヤ王子経
4 「王子よ、そのことをどう思いますか。つまり、もしこの幼子がそなたの不注意によって、あるいは乳母の不注意によって棒切れとか小石を口に入れたならば、それに対してどう処置をするのかということです」
 「尊師よ、私ならばそれを取り出します。尊師よ、もし直ちに取り出すことができなければ、左手で頭を掴み、右手で指を曲げ、血が出ようとも取り出します。なぜなら、尊師よ、私には幼子に対する憐れみがあるからです」
 「王子よ、まさにそのように、如来がその言葉を事実でない、真実でない、利益を伴わないものと知り、しかもそれが他の者たちに好ましくない、不快なものである場合、如来はその言葉を語ることがありません。
 如来がその言葉を事実であり、真実であり、利益を伴わないものと知り、それが他の者たちに好ましくない、不快なものである場合もまた、如来はその言葉を語ることがありません。
 しかし、如来がその言葉を事実であり、真実であり、利益を伴うものと知り、それが他の者たちに好ましくない、不快なものである場合もまた、如来はその言葉を説き明かすための時を知ります。
 如来がその言葉を事実でない、真実でない、利益を伴わないものと知り、しかもそれが他の者たちに好ましい、快いものである場合、如来はその言葉を語ることがありません。 如来がその言葉を事実であり、真実であり、利益を伴わないと知り、それが他の者たちに好ましい、快いものである場合もまた、如来はその言葉を語ることがありません。
 しかし、如来がその言葉を事実であり、真実であり、利益を伴うものと知り、それが他の者たちに好ましい、快いものである場合、如来はその言葉を説き明かすための時を知ります。それはなぜか。王子よ、如来には生けるものたちに対する憐れみがあるからです」と。

 <ここで述べられているのは、如来の説法における慈悲である。如来は、真実であるだけではなく、利益をももたらすことだけを、聞き入れる状況か否か、相手に応じて、時を選んで説く。>
 <この小論のテーマである慈悲とは直接関係しないが、釈尊が死後の問いに無記で応じられたのは、真実を述べることが、凡夫には利益をもたらさず、不快にさせるだけだったからだと思う。無常=無我=縁起をある程度納得した弟子に対しては、適切な時を待って「薪の尽きた火のように消えるのみ」と真実を語られた。>

第62 大ラーフラ教誡経
8 ラーフラよ、慈しみを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、慈しみを修習するそなたには、怒りというものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、憐れみを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、憐れみを修習するそなたには、害心というものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、喜びを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、喜びを修習するそなたには、不快というものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、平静を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、平静を修習するそなたには、対立というものが捨てられるであろうからです。

 <ここでも慈悲は、怒り・害心といった悪しき反応に対抗するものである。>


 慈悲について、どのようにお考えになりましたか?
 ご意見・ご批判、お聞かせ下されば幸甚です。

2004年11月4日 曽我逸郎

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