中島文寛さん ぶしつけながら、一つ質問を。 2004,5,30,

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初めてお便りいたします。

全て、曽我さまのHPについて全て目を通させていただきました。すばらしい意見は多々あると思うのですが、
それと同時にいくつもの違和感を感じたのも事実です。

一つ質問をさせてください。

史記・伯夷列伝に書かれていることですが、司馬遷はこの文章の最後においてこのように記しています。
「天道はえこひいきなく、常に善人の味方をする」という。はたしてそうか?そうだとしたら伯夷は善人というべきものなのか?
彼らはあのようにまで仁徳を積み、おこないを清潔にして、しかも餓死したのである。
(中略)
一方、盗せきは日ごとに罪なき人を殺し、人の肝をなますにし、凶暴で道理にもとり、気ままで怒りやすくふるまいながら、ついに天寿をまっとうした。
これは一体、どういう徳をを積んだと言うのか?

さて伺いたいのは、「一体彼らに縁起の法は機能していたのか否か?」

敬具

中島 文寛


中島文寛さんへ 善因善果・悪因悪果と縁起 2004,6,2,

拝啓

 メール頂戴しありがとうございます。

 史記についてはまったく門外漢なので勘違いをしていたらご指摘下さい。中島さんの御質問を私なりに咀嚼してみます。

 「善因善果・悪因悪果は現実の世においてしばしば裏切られるが、それでも縁起なのか?」

 このような理解で宜しいでしょうか?
 もしこれでよいとすると、若干の戸惑いを感じます。というのは、私は、善因善果・悪因悪果という法則があるとは考えておらず、善因善果・悪因悪果を主張した記憶も思い当たらないからです。

 中島さんは、私が善因善果・悪因悪果を主張していると考えておられ、「それはしょっちゅう逆になるではないか、善因善果・悪因悪果などマヤカシである」と違和感を感じておられるのでしょうか?

 あるいは、ひょっとすると反対に、中島さんは、「善因善果・悪因悪果でなければならない」と考えておられて、現実の世での不公平を救済するしくみ、例えば、生まれ変わりの輪廻があるはずだとお考えなのに、私が生まれ変わりを否定していることに違和感を感じておられるのでしょうか?

 中島さんの違和感の所在を的確につかんでいる自信がありませんので、すこし大きく捉えて、善悪の行ないとその結果について、考えるところをまとめてみます。

 私の縁起の理解は、ひとつの結果は、無数の縁が重なり合い、もつれあって引き起こされる、というものです。複雑系というかカオス的というか、ともかくある条件に合致すれば、いつも必ず一定の結果が得られる、などということはない。例えばイラクや世界のいたるところや私達の身の回りでも起こっているように、まったく罪も穢れもない幼子が理不尽な暴力の犠牲になることも、残念ではありますが、しばしば起こってしまう。まったくやるせない、つらい出来事ですが、かといってそれを説明するために、「前世の行ないが悪かったのだ」などという人がいるなら、憤りを感じます(〈捨〉ができていないもので、、)。反対に、不正によって強欲を満たし、発覚を免れたまま天寿をまっとうする人もいます。この人とて、前世に善行を積んだからではない。かなしいけれども、端的に言ってしまえば、はずみ、タイミング、運としかいいようがありません。

 にもかかわらず、七仏通戒偈はこう教えます。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
 これは、「悪いことをすれば、不運に逢うぞ。善いことすればラッキーな見かえりがある」というような、〈取引〉の教えではない筈です。〈取引〉であるならは、「自浄其意」などとは言えません。

 いつなんどき怪我をするかもしれない。病気になるかもしれない。死ぬかもしれない。様々な不運にみまわれるかもしれない。それでも、そんなことにはかかわりなく、できるかぎり悪いことを避け、善いことをせよ。自分と人を引き比べて、「どうして自分ばかりこんな目に会うのか、どうしてあの人はあんなに恵まれているのか」などと考えてはいけない。それが諸仏の教えだと思います。

 どれほど悪を避け、善を為して、意を清く保っていても、不運はやって来る。それは流れ矢のようなもので、誰にいつ当たるか分からない。しかし、それでも悪を避け、善を為し、意を清く保つなら、第二の矢は受けない。恨みや妬みや怒りで、苦を何倍にも燃え広がらせることはない。

 ネットで検索してみたら、盗跖は、荘子では随分魅力的な「悪党」として描かれているようですね。実際の盗跖がどんな人物だったのか知る由もありませんが、手段を選ばず欲望を充足していく人がいるとして、その人は、苦なく安んじて満たされるでしょうか。達成された欲望はすぐに退屈に変わり、新たな欲が生まれる。欲を満たすことがあたりまえになれば、満たされない欲は苦に変わる。どれほどの欲を満たしても、月や太陽を自分のものにできる筈もなし、着実に老いさらばえ、いくら長生きしても100年を越せるかどうか。富みあれば富に縛られ、地位あればそれを失うことを恐れる。昔、どこかの国に、王位に執着するあまり、生まれてくる子供を次々と牢屋に幽閉した王様がいたそうです。「幸運」はしばしば苦を招く。テレビによると日本の次期天皇も、役割に起因する大きな苦しみを苦しんでおられるようですし、日本国首相にも米国大統領にも、その肩書きにともなう苦があるでしょう。どのような状況・立場の人にも、無常=無我=縁起を自分のこととして納得しないうちは、苦があると思います。もっとも、人は、自分の苦にも、人に与えている苦にも、なかなか気づきにくいもののようですが、、。(自戒です。)

 話が散漫になってしまいました。まとめます。

 無数の縁が重なり合い撚り合わさって、果を結ぶ。どのような果になるかは予測できない。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」であったとしても、流れ矢のごとく不運は訪れる。そのことは、どうにもできない。しかし、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」であれば、恨み・妬み・怒りといった第二の矢を受けることはなく、苦を燃え広がらせることはない。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」であるためには、外からやって来る運不運ばかりではなく、自分という現象自体が、そもそも縁によるものであり、無我であることを知り、執着の自動的反応を慈悲の自動的反応に変えよ。このように釈尊は教えてくださったと考えています。

 また御意見・御批判・御質問をお聞かせ下さい。
                                敬具
中島文寛様
      2004、6、2、                   曽我逸郎


中島文寛さんから  2004,6,2,

お返事ありがとうございます。

私がなぜ、この論を出したかというと、中国において、司馬遷が発したこの問いに対し、誰も答えられなかったのに対し、唯一回答を提出したのが、インドから伝来してきた仏教だったからという、故事によります。(詳しくは中国の仏教伝来史の書物をご覧ください)

ただ、曽我様の因果説の理解を読む限りでは、さらに疑問を禁じえません。
その論では、『盗跖の行った行為は、「盗跖自身には」なんの果報ももたらさないままに、その因縁は死によって完全に消滅する』ことになりますが。

>私の縁起の理解は、ひとつの結果は、無数の縁が重なり合い、もつれあって引き起こされる、というものです。複雑系というかカオス的というか、ともかくある条件に合致すれば、いつも必ず一定の結果が得られるなどということはない。
この論はいわば、六師外道の中の

プーラナ・カッサパの
「生きものおよび人間の体を切断し、苦しめ、悲しませ、おののかせ、生命を奪い、与えられざるものを取り、家宅侵入・掠奪・強盗・追剥・姦通・虚言などをしても、少しも悪を為したのではない。悪業に対する報いも存在しない。」

あるいはアジタ・ケーサカンバリンの
「人間そのものは死とともに無となるのであって、身体のほかには死後にも独立に存在する霊魂なるものは有り得ない。人々は火葬場に至るまで嘆辞を説くけれど、屍が焼かれると後には鳩色の骨が残り、供物は灰となる。愚者も賢者も身体が破壊されると消滅し、死後には何も残らない。したがって現世も来世も存せず、善業あるいは悪業をなしたからとて、その果報を受けることもない。」

または、マッカリ・ゴーサーラの
「一切の生きとし生けるものが輪廻の生活をつづけているのは無因無縁である。またかれらが清らかになり解脱するのも無因無縁である。かれらには支配力もなく、意志の力もなく、ただ運命と状況と本性とに支配されて、いずれかの状態において苦楽を享受するのである。意志にもとづく行為は成立し得ない。」

の説と何の変わりがあるでしょう?


中島文寛さんへ 果報とはなにか。果報は業の瞬間に受ける。意志 2004,6,7,

拝啓

 お返事を頂いたお陰で、中島さんの問題意識の所在が少し分かりかけてきました。

 六師外道の主張については、仏教概説書に数行ずつ紹介されているようなレベルのことしか存じませんので、私の考える「善悪の業とその果報」について、中島さんの問題意識にお答えできるであろう書き方で、もう一度まとめてみます。

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 私は、死後の来世があるとは思っていません。従って、来世に報いを受けるとも思いません。そうではなくて、果報は、この生において、行為をなすと同時に実現されていると考えます。悪行は、一度きりのこの生を台無しにしてしまうのです。

 おそらく、果報をどのようなものと捉えるかが、中島さんや司馬遷と、私とでは、少し違っているのだと思います。中島さんや司馬遷は、「悪人盗跖が天寿をまっとうしたのは不公平だ」と考えておられる。すなわち、命の長短を果報と考えておられるのではないでしょうか? 長寿に加えて、富や権力、欲望の充足といったことは、すべていわば外面的な幸運にすぎず、果報にはならないと思います。

 では、なにが果報か? 平安をもたらす反応パターンと苦をもたらす反応パターンが、果報だと思います。「善因善果・悪因悪果」という言い方と並んで、「善因楽果・悪因苦果」という言い方がありますが、その意味では後者の方が適切な表現であろうと思います。

 悪いことをして外面的幸運をずるく手に入れようとする人は、外面的幸運への執着に捕われ、操られています。そして一度味を占めれば、それが癖になってますます深く執着に捕われてしまう。例えば盗跖のように、繰り返し外面的幸運を手に入れられたとしても、気持ちはとげとげしく荒んでいただろうと想像します。まして外面的幸運の得られなかった時には、その怒り、憎しみ、妬みは、どれほど激しいことでしょう。

 つまり、悪によって外面的な幸運を得ようとする人は、外面的幸運を得ようとして、実は苦を手繰り寄せているのです。つまらないものを得るために大切なことを失っている。そのことに気がついていない。人の肝を膾にして食べることが、はたして幸せでしょうか? 盗跖は、そのようなことまでして自分の力を確かめざるを得なかった程不安だったのではないか、と想像します。彼もまた慈悲をかけるべきかわいそうな人であった、と思います。

 もし、悪によって外面的な幸運を得た人を憎むなら、それは、いまだ執着を離れられずに、外面的な幸運に価値を認めている訳で、その点ではその悪人と変わるところがありません。

 以上、<善悪の業の果報は、死後の来世においてではなく、この生で、行為をなすと同時に受ける。果報とは、長寿・富・権力その他の外面的な幸不幸ではなく、平安をもたらす反応パターンと苦をもたらす反応パターンである。>という見解を述べました。

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 次に、縁起と意志について、簡単に思うところを書きます。

 外面的な幸運・不運は、外部の縁による影響が大きい。どれほどの善人でも不運にみまわれることもあるし、罪のない幼児が命を奪われることもあります。嵐の海に浮かぶ木の葉のように、私達は、外部の縁のままに弄ばれているようにも思われます。
 私達は、縁起によるところの無常にして無我なる現象であり、そのつどの反応ではありますが、しかしながら、一条件一反応の無機的反応とは異なり、さまざまに発達した「内部の縁の仕組み」(条件反射・学習・記憶・シミュレーションなど)も持っています。その仕組みのお陰で、(完全なる自由はあり得ませんが、)ひとつの状況に、ある巾のなかでいくつかの異なった反応をすることが可能です。可能な巾の範囲内でどういう行動を選択するか、そこに僅かながらも意志が出現し、努力も可能となります。

 努力によって、正しい(執着を過剰に肥大させない)方法で外面的幸運を得る確率を高めることはできます。しかし、完全にコントロールすることはできません。善なる努力家でも不運に見舞われることはある。
 外面的幸運は、思いのままにはできません。しかし、自分という反応のパターンを、無用な苦を創り出さないように整えていくことは、正しい努力によって可能だと思います。それによって、仮に外面的不運という流れ矢に当たったとしても、怒り・恨み・妬みといった第二の矢は受けることがなくなります。

 仏教に巡り会えたという得難い縁を生かし、僅かな巾の中で努力を重ね、行ないの巾を善い方へ広げて、自分という反応のパターンによい癖をつけ(戒)、修行し(定)、無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて納得する(慧)。それによって、自分と人に苦を作っている執着によるそのつどの自動的反応を、慈悲の自動的反応に変えよ。これが釈尊が教えて下さったことだと考えています。

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 最後に、六師外道と釈尊の違いについて、ひとつだけ申し上げれば、六師外道(の何人か?)は、配慮なく安直に「死後生などない」と表明したのに対し、釈尊は、その答えが死後生を信じる当時の人々に与える悪しき影響まで熟考して、安易に「ない」とは明言せず、死後生の問いを無記によって封印されました。そのような問いは、無常=無我=縁起を納得することに資することはないし、逆に無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて納得できれば、死後生がないということも分かるからです。
 では、曽我はなぜ「死後生はない」と表明するのか? 釈尊の当時とは異なり、現代の日本においては、死後生は常識ではなく、死後生を信じていない人に死後生を説くことは、間違いを教えることであり、無常=無我=縁起をよけいに分かりにくくすると考えるからです。過去生の悪しき因縁を説いて人を恐喝する「宗教家」もたくさんおりますし、、、。

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 お時間が許せば、以下も是非御一読頂き、合わせて御批判頂ければ幸甚です。

                            敬具
中島文寛様
       2004、6、7、
                          曽我逸郎

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