望月正晴さん 初めまして 2004,5,31,

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始めて、メールを致します。

私は、神奈川県在住、56才です。自分から見ると一本道なのですが、一般的にいえば屈折した人生を歩んできました。法律が嫌いな法学部の学生時代がいわゆる大学紛争の真っ只中で、全共闘世代そのものです。大学紛争にはそれなりに関わりましたが、私は全共闘ではありませんでした。
しばらくいた銀行を辞め、司法試験に取り組みましたが、予定の年数を過ぎても受からず、活字ノイローゼ的な行き詰まりの中でもがいているうちに、予期しない『ある気づき』を体験しました。これを境にそれまでの無宗教から宗教の世界に関わるようになり、以後は自分でも全く想像だにしなかった人生を歩むことになり、今日に至っております。 すなわち、この時以来宗教が私の中心テーマになり、本格的な参禅はしませんでしたが、痔のけが出てやめてしまうまでは、あちこちで思い詰めたように随分座禅をいたしました。30〜35才あたりが私の人生の一番苦しかった時期で、35才のとき自宅でちっぽけな塾を開き、登校拒否の生徒・障害のある子どもなどとも関わりながら、一貫して宗教を追求して参りました。
ここ数年は父が定年後やっていた不動産賃貸業を引き継いでおります。

事情があって、今までは名前だけしか知らなかった中沢新一が、どんなことを言っているのかを調べていましたら、曽我さんのホームページに出会い、たいへん波長が合うという印象を持ちました。また、真摯に宗教を追求しておられる方々が関わっておられ、たいへん好感を抱き、インターネットを通じて未知の方々と交流するのは初めてですが、お仲間に入れていただけたらと思い、筆をとりました。

曽我さんの言われる、

「 あなたは、自分を、あなた自身とあなたのもの(肉体や資産や、、)を所有し、それらを思うがままに取り仕切る存在だと思っている。そして、そういう自分に執着し、自分を価値あるものにし、自分を守り強めようと争い、人を苦しめ、自分も苦しんでいる。しかし、そのような「自分」( self =Atman = 主宰者)はいない(無我)。あなたは、あなたの肉体や様々な出来事を縁としてできあがってきた反応のパターンによるところの、そのつどの反応なのだ。そのことをよく知って、反応の仕方を整え、我執を吹き消し、苦を滅せよ。そうすれば平安に生きることができる(ニルバーナ)。」

ということは、全くその通りと思います。

中沢新一に対する批判も同感です。

輪廻が問題になっているようですが、私も通常いわれるような輪廻の理解はナンセンスだと思います。釈尊がそれを問題にしたかどうかは、よく知りませんが、仏教の理解として輪廻ということをいうとすれば、『現世』において問題になるものと思っています。例えば、修羅が修行して、やがて菩薩になることはあるわけであり、またサスペンスドラマのストーリーのように、普通の人が殺人を犯してしまうようなこともあるわけです。 すなわち、「現世」の内部に、『過去世・現世・来世』があるのであり、先の修羅=>菩薩の例で言えば、Aさんの精神的地平が修羅である時からみれば、菩薩の地平に生まれ変わるのは未来のことですから『来世』のことであり、菩薩の地平に生まれ変わった(変貌した)ときには、『過去世』は修羅であったときもあった、ということになると思います。
ある精神的地平というものは、それ自体完結した閉じた体系であり、他の精神的地平とは非連続であります。従って、ある精神的地平において『死』に、絶後に他の精神的地平に『生まれ変わる(復活する)』という実存的プロセスの中で、変貌(輪廻)が生じます。「現世」の内部に、『過去世・現世・来世』がある、という場合の「現世」の方は、通常の生命を基準とした現世です。他方、『過去世・現世・来世』の方は、精神(的地平)の生死を基準とした概念です。通常の生命を基準として「過去世・現世・来世」という次元で輪廻をいうのはナンセンスだと思っています。

私は、禅問答はずいぶん読みましたが、学問的な宗教文献をほとんど読んでおらず、あるいは、中観思想と唯識思想・如来蔵思想は相容れない、というようなことがいわれていることをある程度知っていても、自分の実感・解釈で矛盾を感じなければ、両方共存させてしまいます。仏教もキリスト教も統一的に理解しようという気持ちが働くタイプで、自分の中での内在的一貫性を自分で作り上げてしまう傾向があります。その意味で、メチャクチャで(自分では、メチャクチャとは思っていないのですが)、通常言われていないような、とんでもないことを言い出すかもしれませんので、御批判を仰ぎたいと思います。

無常=無我=縁=真如=実相という理解は、曽我さんと全く同じですが、これまでの意見交換のページを読ませていただいて、私なりの無我の説明の仕方を発表してみるのも意味があるかもしれませんので、ちょっと長いかもしれませんが、別便でそれをお送りいたします。今後宜しくお願いいたします。

H16.5.31 望月正晴

曽我逸郎様


望月正晴さんから2通目 私なりの無我の説明(その1) 2004,5,31,

無我について、曽我さんと同じ理解であることは、既に述べたとおりですが、私なりの説明の仕方をしてみたいと思います。少し長くなります。筋を鮮明にするため、私なりの理解を断定的かつ大胆に記述致します。

その前に、前置きを二つ致します。

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旧約聖書・創世記第1章3節
「 神は言われた。
『光あれ。』
こうして、光があった。 」

私という仕組み(私という現象)がある。
その仕組み(現象)は、前の机の上に茶飲み茶碗がある、
という認識を伴っている(主客未分)。
こうして、前の机の上に茶飲み茶碗がある。

華厳経の三界唯心です。
『こうして』という時間的・論理的順序は本来ない、同時かつ相関的です。
『こうして』は、単なる表現上のあや。

[注] 『私』『前』『机』などという分別(=表現)を発した瞬間に、
実は三界唯心ではなくなっている。
それがいけないのなら、禅問答をするしか方法はなくなる。

私という仕組み(私という現象)は、前の机の上に茶飲み茶碗がある、
という認識を伴っている、ということは、自分にとって確かだとして、
それでは、厳密に言って、本当に前の机の上に茶飲み茶碗があるのかというと、それはどうかわかりません。
私にとって確かなのは、私という仕組みにそう映っている、ということだけです。

しかし、私は、自分の内部では前の机の上に茶飲み茶碗がある、として以後の処理を致します(実体化と対象化)。

また、私の横にいるあなたという仕組みにも、前の机の上に茶飲み茶碗がある、
という認識が伴っています。

そこで、私とあなたとの間でも、前の机の上に茶飲み茶碗がある、として以後の処理を致します(実体化と対象化)。

三界唯心そのもののレベルでは、通常の対話が成立しません。

以下の話は、そういうところまでは立ち入らず、言語と観念を通して話をするときには伴わざるを得ない実体化・対象化が行われております。

それそのものは言語化できないからといっても、可能な限り言語化しておかないと、問題の方向性・手がかりを伝える事もできないし、わかっているもの同志で話をするのにも不都合です。
実体化・対象化は、とりあえずそれで見当をつけた上で、乗り越えればいいことです。

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もう一つの前置き。
宗教を論ずる枠組みとして、私は次のように整理するとわかりやすいと思っています。

人間は、生まれながらに二つの『根本的本質的欠陥』を持っている。それがなぜ欠陥であるのかは、
後々明らかにされるとして、その『人間存在の根本的本質的欠陥』とは、人間の認識指令中枢である『大脳の根本的本質的欠陥』である。
そして、その二つの『大脳の根本的本質的欠陥』とは、@ 自我 A観念的枠に当てはめる認識能力(分別知)が主要な人間の認識・指令中枢であるということです。

キリスト教では、私のいう『根本的本質的欠陥』のことを、原罪といっております。アダムとイブが『へび(=サタン=悪霊)』にそそのかされて、『認識の木の実』を食べた。キリスト教の説明は、これだけですが、私は勝手に『サタン=悪霊』とは、@『自我』のことであり、『認識の木の実』を食べたとは、Aの観念的認識能力を持ち合わせているということ、すなわち、分別知という不完全な認識能力しか持ち合わせていないことである、と理解しております。

仏教的に、@が煩悩、Aが無明といってもいいでしょうが、これだとちょっと漠然としています。無我の対極の自我の方が明確です。人間は、無数の欲望の束であり、自我は、その欲望の束を統括致します。欲望自体は悪ではありませんが、自我は悪の総元締めといってよいでしょう。こう捉えておく方が、話が明確になります。
いずれにしても、なぜこの二つが『根本的本質的欠陥』なのかは、少しく説明を要します。今回はAの面のみを取り上げ、それとの関連で・その限度でのみ『無我』ということを明らかにしてみたいと思います。Aを先にするのは、その方が体系的に組み立てやすいからです。

とにかく、宗教というものは、人間の大脳の極限のところに成立してくる問題です。それだけに話がたいへんやっかいです。

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欠陥が、私たちの認識・指令中枢自体にあるのだとすると、その欠陥を超越してみないことには、何が欠陥であり、それがどういうことなのかはわかりません。

そこで、われわれが日常のいろいろな問題の解決に際し、当たり前のものとして使っている観念的(分別知的)認識能力というものが、大脳の本質的欠陥である、ということを示すためには、その欠陥を超越した側(悟った側)の立場からそれが明らかにされなければなりません。欠陥を超越した側(超越者の側)で認識され、我々に示される内容であるということになります。大脳には本質的欠陥があるということを理解するためには、超越者の側から語られることに耳を傾けなければなりません。従って、今回の内容の中には直ちに、悟り(キリスト教では啓示)の内容が登場いたします。但し、@自我の問題がまだ残っていますから、究極的な大悟の問題ではありません。

私は、私の前回の自己紹介のメール中で触れました『予期しない気づき』により、自分としては今回の内容を理解致しました。但し、正式の認定権者から、その通りだ、といわれたわけではありません。自分で勝手に納得しているだけですから、その程度のことだと受け取って下さい。

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それでは、内容に入ります。

『人間存在の根本的・本質的欠陥=大脳の根本的・本質的欠陥』の A観念的(分別知的)認識能力の問題とは、一体どういうことなのでしょうか。

 まず、おおまかな問題の構造を示します。

まれではあるけれども、宇宙の真実相というものを悟ってしまう人が存在します。いわゆる仏教でいわれる「悟り」、キリスト教では「啓示」といわれるものです。そういう人からみると、人間はすべて宇宙の真実相を理解しわかってはいないという事実が始めて確認されます。
どんなに頭のよい人でも、人間の大脳というのは、宇宙の真実相をそのままに理解しわかってしまうことはできないということです。なぜかというと、そもそも宇宙の真実相を完全な意味で理解できるような性能を人間の大脳の観念的認識能力(分別知)は具えていないからだということです。それだけの性能がない、不完全なものであるということです。
全く、デタラメとはいえないが、完全ではないということ(その意味で、通常の観念的認識としての映像は偶像)です。

但し、希(まれ)ではあれ、このような認識、すなわち悟りが成立するということは、宇宙の真実相を悟ることができる、大脳の観念的認識能力(分別知)を超えた何らかの『直観的』認識能力が、限界的なところでは人間に与えられているということを意味します。

とにかく、そこでこのような宇宙の真実相を悟った人は、そのありさまを通常人間の大脳に映っている映像(普通我々が当然真実・事実だと思っていること、しかし偶像)と区別するために、特別な名前をつけて呼ぶことになります。とりあえず、我々もそういう宇宙の真実相のことをまずは実相(じっそう)と呼ぶことに致します。

とにかく、このような形で、大脳の観念的(分別知的)認識能力というものは、宇宙の実相・事物の実相を完全な意味で把握するには不完全なものである、ということが確認されます。
それ故、このことが『人間存在の根本的・本質的欠陥=大脳の根本的・本質的欠陥』であるということになってまいります。
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宗教では、この実相を一般の人々になんとかわからせようとして、長い間のうちに同じ事を指し示すおびただしいほどに多くの言葉が存在します。かえって、それが宗教というものの理解を複雑にしている面もあるのですが、わかってしまえば皆同じ一つの事柄です。

しかし、大脳の観念的(分別知的)認識能力を超えた、実相を悟る直観的認識能力というものは、そういう悟りに至った人でさえ、極めて限界的な条件・情況の中で成立するものです。
だから、我々一般の人間がいくらわかりやすく工夫された宗教の話を聞いたとしても、宇宙の事物の真実相を理解することは、通常は困難です。文字や言葉・思想化された観念を通じて、普通我々が他のことを理解するようには宇宙の事物の真実相を理解することはできません。不完全であるところの大脳の観念的(分別知的)認識能力そのものを使って理解すること自体がたいへん困難であります。

そうすると、宇宙の事物の真実相を理解することができなければ、通常の大脳の観念的(分別知的)認識との対比をすること自体ができません。したがって、大脳の観念的(分別知的)認識能力が不完全であるということも、自分ではわからないということになります。

その真の意味がつかめないために日常の世界では、結局大脳の観念的(分別知的)認識能力の不完全性ということに無自覚なまま、無意識のうちにその不完全な認識(偶像)を完全なもの(真実のもの)として、すべての人間的な営みを行っていかざるをえないということになります。

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最終的には、直観しなければ(悟らなければ)ならないのですが、可能な限り問題にせまるため、問題の焦点を実質的な内容に移します。
宇宙の事物の真実相、すなわち実相を悟ると世界がどう見えるかということから、端的に話を始めることに致します。問題の所在を具体的に示します。

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いま、この机の上に茶飲み茶碗があります。事物の実相を悟った地平からは、

この茶飲み茶碗は、この茶飲み茶碗ではない、ということがいえます。

この茶飲み茶碗は、この茶飲み茶碗ではないが故に、この茶飲み茶碗である、
などという人もいます。

[注]鈴木大拙のいう即非の論理。
もっとも、それは金剛般若経にそう書かれております。

[注]西田幾太郎は、同じ事を絶対矛盾的自己同一と表現します。

事物の実相を悟った人は、これだけいえば「ははーん、あのことをいいだしたな。」とすぐ見当がつきます。「あのこと」を悟っていますから、『こんなにおかしなこと』をいっても、「ははーん、あのことをいいだしたな。」とわかります。しかし、「あのこと」を悟っていない立場からすると、『こんなにおかしなこと』と映ることになります。

事物の実相を悟った人は、常に日常において「あのこと」の方を見ております。しかし、そうではない立場においては、「あのこと」は意識されません。『この茶飲み茶碗』は、『この茶飲み茶碗』にすぎません。この茶飲み茶碗は、この茶飲み茶碗ではない、などということは、まさに「釈然としない」絶対矛盾です。

ここが大脳の本質的根本的欠陥なのです。これは、『無明(むみょう)』の一つです。

事物の実相を悟った人は、『この茶飲み茶碗』の中に、宇宙全体(永遠・無限なるもの)を見ております。
しかし、一般に私たちにとっては、『この茶飲み茶碗』は、『この茶飲み茶碗』以外のなにものでもないわけです。

一体、これはどういうことなのでしょうか。『この茶飲み茶碗』だけで話が終わるならとにかく、『自分の正体は何か』という問題になってくれば、そうはいきません。いずれはそこへ向けての話です。

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宇宙の実相=事物の実相を悟った人は、それが『不立文字・教外別伝』に属する事柄であるとしても、なんとかして多くの人にそれを悟ってもらいたいと考えて、手がかりというか見当をつけさせるために実相の構造を指し示す言語的表現を生み出します。こういう表現が宗教の中には山のように存在します。先程の例(この茶飲みちゃわんは、この茶飲み茶碗ではない)も実はその一つです。

わかってしまえば、皆同じ一つの事実に過ぎません。わかった人は、どんな表現をしてもそれが何を意味するかがすぐわかります。
実際にその町を見て知っている人なら、郵便局の右隣といっても、お蕎麦(そば)屋さんの筋向かいといっても、それが同一の本屋さんであることがわかります。それに対して、全くその町を知らない人は何だか見当がつきません。そのようなものです。

しかし、なんらかの表現が与えられていれば、それを手がかりにして悟りやすくなります。あるいは、わかっている同志の間では、お互いに話をしやすくなります。

そこで、私が最もわかりやすいのではないかと思う実相の構造を指し示す宗教的表現をまず一つ取り上げます。御存知の通り、華厳経(けごんきょう)の言葉です。

『一即一切、一切即一』

この茶飲み茶碗が、『一』です。『一切』とは、宇宙全体(一を超えるもの)です。
『即』の意味については、とりあえず、不可分一体ということです。

[注]滝沢克己は、『即』にあたるところを『不可分・不可同・不可逆』とする。


聖書の中からも、同じことを指し示す表現を示しておきましょう。

『神様が私(たち)と共におられます。』

これは、イエス・キリストの御名インマニエルの意味です(マタイの福音書1章23節)。
名は、体を表しますので、これは救い主の正体です。仏教的に言いますと、実相あるいは実相を体現した(受肉した)人・知的なだけではなく、情的意思的にも『一即一切、一切即一』ということを体現した人が救い主です。『一即一切、一切即一』というのは、事柄を知的に捉えたのであって、これを情的意思的に捉えれば、慈悲・神の愛ということになります。

『私』が、『一』にあたります。『神様』が『一切』すなわち、宇宙全体です。
『と共にある(おられます)』が『即』すなわち不可分一体です。
『神との和解』の一内容をなす、と思います。

神様と私とは、不可分一体だ、ということです。

[注]こちらの方は、不可分一体だという言い方が仏教的なので、
キリスト教の教義との関係で多少説明が必要ですが、
御不満ならば、『不可分・不可同・不可逆』と思って下さい。

『 初めに言(ことば=ロゴス)があった。言(ことば=ロゴス)は神と共にあった。
・・・言(ことば=ロゴス)によらずに成ったものは何一つなかった。』(ヨハネの福音書1章1節)

も、同じ意味だと思います。
ロゴスとは、事物の真実相(実相)、『 初めに 』とは、時間的な初めというより、事物の本来的・本質的なあり方としては、というくらいの意味に理解しています。
ちなみに、アウグスチヌスは、『初めに、神は天地を創造された。』(旧約聖書・創世記1章1節)の『初めに』の意味を、時間的な初めではなく、『御子において』すなわち『ロゴス=キリスト=ロゴスは神と共にある』の意味に解している(『懺悔録』)。すなわち、旧約聖書・創世記1章1節とヨハネの福音書1章1節は、同じ事を述べているわけである。

以下は、『一即一切、一切即一』を使って、書き進めます。

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『一即一切、一切即一』という実相構造は、この宇宙・世界のあらゆる事物のあり方というもの、でき方というものの根本的姿を示しています。

もう一つ、手がかりとなる別の言い方をしてみます。

先程の茶飲み茶碗の例をもう一度使います。

私たちは、茶飲み茶碗を普通『個物』であると思っています。しかし、『一即一切、一切即一』という事物の実相構造の下では、茶飲み茶碗は、単なる『個物』ではなく宇宙とブッ続きであるということになります。茶飲み茶碗は、茶飲み茶碗を超えた宇宙的存在(個を超えた存在)だということになります。

この茶飲み茶碗は、実相においては、この茶飲み茶碗を超えた存在だ。

ということになります。この茶飲み茶碗は、実相においては、この茶飲み茶碗を超えた存在だから、先程は「この茶飲み茶碗は、この茶飲み茶碗ではない」といったわけです。

すなわち、この茶飲み茶碗は、この茶飲み茶碗ではない。なぜなら、この茶飲み茶碗は、実相においては、この茶飲み茶碗を超えた存在です。私たちの通常の認識においては「この茶飲み茶碗」は、個物であるとみえます。しかし、実相においては、宇宙とブッ続きであるがゆえに(宇宙と『一即一切、一切即一』の関係にあるが故に)、個物を超えた存在です。

こういうことになります。

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一応、茶飲み茶碗で以上のことにある程度慣れたところで、最後にとっておきの例を出します。私としては、最もわかりやすい例であると考えられるものです。『一即一切、一切即一』という実相構造を悟ってもらうための最後の切り札です。できるだけ、丁寧に解説を加えてみます。

それは何かというと、台風です。名前を付けておきましょう。台風12号です。台風12号の正体は何かを見定めて下さい。そのありのままの実相を捉えてみて下さい。私たちは、台風を茶飲み茶碗と同様『個物』と考えます。しかし、果たしてそうなのか。実相を見て取れるか、挑戦してみて下さい。

着眼点を示しておきます。台風12号の正体、すなわち台風12号の実相というのは、『台風12号を台風12号として成立させている事柄のすべてである』、ということです。『台風12号を寸分違わずそのような台風12号としてあらしめている事柄の総体』、それが台風12号の実相である、ということです。これが、最重要の着眼点@です。
着眼点Aは、着眼点@を補充するものです。台風12号が、個物であるならば、ここから外が台風ではなく、ここから内側が台風だという境界線があるはずです。そういう境界線があるかどうかに注意して下さい。

では、実相を直観できるように、誘導してまいります。

台風とは、簡単にいえば空気の渦(うず)です。竜巻を大きくしたようなものです。海面の温度が上がります。暖められた温度の高い空気が上昇気流になります。そうすると、上昇した空気が元あった場所はカラッポになり、そこに周囲にある空気が流れ込みます。そしてまた上昇気流になります。もっとも温度の高い位置が中心になります。なぜなら、そこが一番上昇気流の流れが速いからです。中心に流れ込む空気は、北半球では地球の自転の力学的影響でやや斜めに流れ込み、左巻きになります。さあ、ここで台風12号の渦巻きができました。

一応この程度のところで考察してみましょう。

まず、頭の中で仮りにでかまいませんから、適当にこの辺が台風と台風でないところの境界線だというところをイメージしてみて下さい。水平方向だけでなく、垂直方向、すなわち上と下にも台風の境界線を作って下さい。そうすると、その境界線の内側が台風で、外側は台風ではないということになります。
そこで、自分の頭の中で、台風の外側にある台風でないものをすべて取り去って完全に無の状態にしてみて下さい。海もありません。地球もありません。太陽もありません。その他一切のものがありません。
どうですか、そこに台風という個物が残りましたか。

台風というものも成立しなくなって、消えてしまうでしょう。

では、今度は、取り去ったものを一つずつ、適当に加えて元の台風に戻してみて下さい。

自分の頭の中で想定した台風の内側と台風ではない外側がいかに『入り組んでいるか』が直観的につかめればいいのです。その『入り組み方』というものは、『無限に複雑な入り組み方』をしていませんか。

この『無限に複雑な入り組み方』のありさまを、『一即一切、一切即一』の実相構造というのです。
そして、その場合に台風12号を台風12号としてあらしめている事柄の総体が、台風12号の実相、すなわち台風12号の正体です。

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そこで以下の文章を読んでみて下さい。先程の茶飲み茶碗の文章を、ただ台風12号に置き換えただけのものです。

私たちは、台風12号を普通『個物』であると思っています。しかし、『一即一切、一切即一』という事物の実相構造の下では、台風12号は、単なる『個物』ではなく宇宙とブッ続きであるということになります。台風12号は、台風12号を超えた宇宙的存在だということになります。

この台風12号は、実相においては、この台風12号を超えた存在だ。

ということになります。この台風12号は、実相においては、この台風12号を超えた存在だから、先程は「この台風12号は、この台風12号ではない」といったわけです。

すなわち、この台風12号は、この台風12号ではない。なぜなら、この台風12号は、実相においては、この台風12号を超えた存在です。私たちの通常の認識においては「この台風12号」は、個物であるとみえます。しかし、実相においては、宇宙とブッ続きであるがゆえに(宇宙と『一即一切、一切即一』の関係にあるが故に)、個物を超えた存在です。

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我々が台風12号という個物と思っているもののほんとうの姿は、無限なるもの(=全宇宙の無限の空間と永遠の時間)の働きが、いまここの一点に集中して現れているということ、それがこの台風12号の実相なのではありませんか。全宇宙と無限に複雑に入り組んだ=『一即一切、一切即一』ともいうべき宇宙とブッ続きのX(エックス)、それが台風12号の実相なのではありませんか。

このようにして、事物の実相を直観できれば、それと通常の大脳的認識の対比において、大脳的認識能力は、事物の実相を完全な意味でそのままに捉えることは出来ない、ということがわかります。通常の大脳的認識は実相を捉えるには極めて不十分なものである、ということがわかります。その意味において、欠陥を具えたものであるということが、同時に理解できます。

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この机の上にある茶飲み茶碗は、台風12号とは異なり、形の上ではっきりした輪郭のあるものですが、同様の意味で全宇宙と無限に複雑に入り組んだ=『一即一切、一切即一』の構造になっているということが、わかればいいわけです。

そして、最終的に、この自分というものも、そのようなでき方あり方をしているという認識が成立しなければなりません。このことが、もっとも重要な核になってまいります。

これは、曽我さんのいわれるように、『私という現象』であり、因縁そのものだと思います。
『かくのごとくある(如)』『(一瞬一瞬の立体的有機的な宇宙的バランスとして)このようなものが、このようにしてやって来た』。如からやって来た(如来)としか言い様のない物だと思います。

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太陽や地球や海=個物としての台風12号ではないものは、台風12号成立の根底です(この表現は、台風12号と太陽・地球等を区別してしまっています)、否、太陽や地球や海は、台風12号そのものです。

ロゴスは神(一切)と共にあった。万物は、ロゴス(『一即一切、一切即一』の実相構造)によってできている。
できているもので、ロゴス(『一即一切、一切即一』の実相構造)によらないものは、何一つない。

実相構造においては、個物はありません。私たちの大脳の認識能力が不完全であるため(欠陥があるために)、個物に見えてしまうのです。これは偶像です。この意味で、すべての宗教は偶像礼拝の禁止です。しかし、私たちの日常の営みは、知らず知らずのうちに、偶像礼拝(個物を真実だと思うこと)の上に成り立っております。

分別知上、個物という認識が生じると、その個物の側が自(我)であり、境界線の向こう側すべてが他になります。『一即一切、一切即一』の実相構造のもとでは、個物というものも、したがって境界線も、自他の区別もありません。自(我)というものがありません。すなわち、実相構造は『無我』です。全宇宙と『一即一切、一切即一』という無限に複雑な入り組み方をした一種の立体的なバランス状態の実在であります(実体化して述べています)。

分別知のうえでは、個物として見える台風12号は、いかなる意味においても「台風12号ではない」太陽や海とは絶対矛盾です。台風12号は、太陽だ、ということにはなりません。
しかし、太陽や地球や海を全部なくしてしまったら、台風12号は消えてなくなってしまうのですから、実相においては、台風12号は太陽や地球や海と「自己同一」です。それ自体、『重々無尽の因縁』です。

「因」は、ある事物が成立し、あるいは存在しているための直接的な原因で、「縁(えん)」は、間接的な原因・条件だ、などと説明されます。大脳の観念的認識から見て、すぐに理解されやすいところが直接的な原因であり、すぐには目に映らないところが間接的原因です。
しかし、宇宙的事実には本来直接も間接もありません。全部が全部有機的に不可分一体であり、一続きです。大脳の性能があまりよくないので、すぐ目につくものと、目につきにくいものと、全然視野に入らないものができるのです。大脳の性能が完璧なら、全部目について、すべてが直接的な原因と映ることでしょう。

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以上のところから、いろいろなことが派生してまいりますが、長くなりますので、真に難関である@自我の問題も含めて、無我を論ずるのは、また機会があったらに致します。

私の方から眺めると曽我さんと同じなのですが、自己流の組立てなので、曽我さんやその他の皆さんから御覧になられると、大違いなのでしょうか。いろいろお聞かせ願えれば幸いです。

H16.5.31 望月正晴

曽我逸郎様


望月正晴さんへ 2004,6,10,

拝啓

 返事、大変遅くなってしまい、申し訳ございません。
 「私なりの無我の説明(その1)」、拝読致しました。

 まず全体的な印象から申し上げると、私の考えと重なり合う部分が多い、特に「あたりまえ、、、般若経」を書いた当時の考え方と大変共通点が多いと感じました。ただ、現在の私の考えからすると、チョットした差異、tone and manner の違いというか、そういう印象も受けました。

 とりあえず、頭から順に、思ったことを、、。

◆1、「言語と観念を通して話をするときには、実体化・対象化が伴わざるを得ない」という御見解、納得です。

◆2、『大脳の根本的本質的欠陥』については、こんなことを考えました。

 1) あらゆる生命に、少しでも長く生きつづけよう、より磐石に生きつづけようとする根本的な傾向がある。

 2) 過酷かつ変化の激しい環境の中で、動物は、自分という生命反応の継続に有利なものをいち早く察知して取り、不利なものをいち早く察知して避ける、そのようなそのつどの反応の仕組みを進化させてきた(ゾウリムシが、餌の方へ、ちょうどいい水温の方へ移動する、とか)。
 進化の基準は、自分という生命反応の維持・発展に有利かどうかがすべてであって、正しいかどうかは問題にならない。拙速であったとしても、正しさよりも状況の変化に即応するスピードの方が重視される。(なにか物音がしたら、敵かどうか確認するより、餌を放り出してともかく逃げる、とか)

 3) 「そのつどの反応」の状況への適合度を上げるために、自分という生命反応の維持・発展に有利なものと不利なものを経験的にリストアップし、それらをいち早く発見し対応するための仕組み(クオリアの体系)ができあがる。経験によって用意された個々のクオリアの条件に適合する対象に出会うと、そのつどそれに応じてふさわしい反応が自動的に引き起こされる。このことが固定的な執着・嫌悪の発生原因である。
 <付記:「クオリア」という言葉のこのような使い方は、一般的ではありません。小論集「クオリアについて」参照下さい。>

 4) クオリアの体系は(より厳密に言うと、クオリアの体系にのっとって起こるそのつどの反応は)、本来一回的である現象をカテゴリー化し(さっきの雷も今度の雷も、雷は雷)、縁によって変化する現象を固定的な「存在」として捉えさせる(やさしい時も怒っている時も、おめかししていてもスッピンでも、お母さんはやっぱりお母さん ^^;)。
 (現象を「存在」として捉えるのも、そのつど起こる反応です。「変わらぬお母さん」がずっといるのではなく、「変わらぬお母さんがずっといる」とそのつど捉えられているのです。お母さんに意識が向かっていない時は、「いつも変わらぬお母さん」はきれいさっぱり消失しています。そこにいるのは、刻々と老い、着々と死につつあり、ゴキブリに脅えたり、ケーキに目を輝かしたりする、そのつどの反応であるお母さんです。)
 (一回的現象のカテゴリー化・存在視を、私のかつての言い方を復活させて、「いつも化」と呼んでもいいと思います。ただし、昔の「いつも化」から、「退屈」という要素を抜きとった概念です。)

 5) 現象の固定視・存在視は、自分というそのつどの反応にも適用されて、一貫したノエマ自己が妄想させる。この自己概念は、「守り育てられるべき自分=アートマン」という概念であり、「独立自存かつ自分を思うままに取り計らっている主宰者である自分=アートマン」という概念である。しかし、実のところは、この「自分」は「主宰者」などではなく、概念にすぎず、お飾りの象徴に過ぎない。実際に寄り集って、その「自分(=アートマン)」という象徴を担ぎあげ、守り育てようとし、結果的に効率よく自分という生命反応を維持・発展させているのは、状況に応じたそのつどの反応(ノエシスとも呼ばれる反応)であり、それは、生命発生の瞬間から一貫して連綿として積み重ねられてきた反応の仕組みによって自動的に起こっているそのつど反応である。

 6) 「守り育てるべき自分」の概念は、生命共通の、生命に根源的な「より長くより磐石に生きつづけようとする傾向」に根ざして発達してきたものであるが、実際にはさらに過剰進化しており、富・名声・地位・メンツ・権力などにまで肥大化している。本来は、自分という生命反応を維持発展させる反応の仕組みであった筈のものが、過剰進化した結果、かえって自分という生命反応に苦をもたらすことになっている。

 7) 過剰進化の結果である苦を解消する方法を説いて下さったのが釈尊である。「固定した価値を有する執着の対象・嫌悪の対象が存在する」という捉え方、「守り育てるべき独立自存の主宰者であるアートマンが存在する」という捉え方が間違いであることを教え(無我)、ものごとはすべて縁によって生まれ、縁によって変化し、縁によって終わる現象であると教え(縁起、無常)、実際は現象である外の対象や、概念に過ぎないアートマンを、「存在」と捉えて執着するから苦しむのだと教えてくださった(苦)。我々は、独立自存の主宰者ではなく、縁起の現象であるが、一方同時に縁を起こしてもおり、今の自分の反応がそれ以後の自分という反応の縁となる。今の自分という反応の反応パターンを整えることで、以降の反応のパターンをよい方向に導くことができる(戒)。よくよく集中して観察すれば(定)、無常=無我=縁起が自分のこととして納得され、「固定した価値を持つものが変わらず存在している」と思い込んで執着し同じ反応を繰り返して自ら苦しみ人を苦しめている自分の愚かさ(無明)が分かり(慧)、執着の自動的反応は繰り返されず、苦は生み出されなくなり(涅槃)、かわって、慈悲が自動的な反応のパターンになる。

・・・すみません。触発されて自問自答が暴走しました。
 我々の苦の根っこは、大脳よりももっと深く、生命であること自体から始まっているような気がします。

◆3、観念的(分別知的)認識能力の問題

 このテーマは、上の私の表現では、4)の<現象をカテゴリー化し、固定して「存在」として捉えること=いつも化>に近いかと思いますが、例えば、ヒトデは貝を餌としてカテゴリー化して、他のものに対するのとは異なった反応をしています。と言うことは、既にそのカテゴリーを分別(フンベツとは言えなくてもブンベツ)しているのではないでしょうか。
 依然飼っていたカメは、(冬眠させそこなって死なせてしまいましたが、生きている時は、)近づいていくと、まだ見えないのに私の足音を聞き分けて、「餌が貰える!」と興奮して手足をバタバタさせていました。世界からなにかを切り出して対象化することは、観念といった高度なレベルだけではなく、もっとプリミティブな段階から始まっていると思います。

 もう一点、念の為に確認させていただくと、望月さんは、分別知を「欠陥」とおっしゃりながらも、「言語と観念を通して話をする」ことを肯定しておられますので、同じ意見だと思いますが、分別知は、仏教を学ぶにあたっても、それなしには済ませられない絶対必要な、(勿論、これだけで済むのでもありませんが、)手段だと思います。

◆4、宇宙の全体と個物

 おっしゃるとおり、我々が個物ととらえるものも、本当は現象であり、独立自存して存在しているのではありません。周囲の現象にシームレスにつながって現象している。釈尊の縁起の教えも、そういうことだと思います。

 ただし、「宇宙の全体とブッ続き」というのは、どうでしょうか? 『一即一切、一切即一』も『重々無尽の因縁』も、釈尊が同意されるようには思えません。

 佐倉哲さんのホームページから、引用させてもらいます。(佐倉さんのサイトはリンクのページを参照下さい。)

 『比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
 誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。』 (サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
 私達は、あくまでも縁起する無我なる現象です。生々流転する宇宙の全体を大河に喩えるなら、私達は、言わば、その中を流れて行くボウフラのごときものです。けして超越的絶対者(=神)ではあり得ません。身の回りの、メダカや水草やゴミや他のボウフラは見えても、大河の全体を鳥瞰することはできません。目に見える範囲の中で、現象が現象に縁起していることを見る、なにより自分自身が、無常にして無我なる縁起の現象であり、そのつどの反応であることを、定においてとことん観察し、目の当たりに見て、腑に落ちて納得せよ。これが釈尊の教えだと思います。

 「私という現象も宇宙の全体とブッ続きだ」とすると、望月さんの本意はどうであれ、梵我一如的誤解をする人がでてくるかもしれないと危惧します。

◆5、悟った人

 望月さんは、「悟った人」と「一般の人間」の二種類に分けて対比しておられますが、現実には、この仕分けは、そう簡単ではないと思います。世間には「私は悟った」と言う人が結構たくさんいます。有名なところでは「最終解脱者」を名乗った人もいましたし、、。なにか目的があって、世間を騙しているのか。あるいは、こちらの方が厄介ですが、本人もそう思い込んでいるのか。見分けることは、容易ではありません。

 これは、仏教観の違いとしか言い様がないのかもしれませんが、私は、覚りとは、「宇宙の真実相を理解する」ことではなく、「自分が無常にして無我なる縁起の現象であると腑に落ちて知り、これまで執着によって苦を作ってきた自分の愚かさを身に沁みて知る」ことだと思います。

◆ 望月さんは、大変大きく体系的に考えておられると思います。ご自身のサイトを立ち上げられたら如何かな、と思います。

                             敬具
望月正晴様
        2004、6、10、
                            曽我逸郎


 メールを下さった直後、望月さんは大きな怪我をなさったそうです。一日も早い御回復をお祈りします。

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