jiji 斎藤さん 涅槃(パンニャディカさんとの遣り取りに) 2004,5,29,

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前略(文字通り)

 パンニヤディカ氏との、殊に「涅槃」の解釈をめぐっての遣り取り、興味深く読ませて頂いています。

 ワタクシゴト、ここ暫くの堂々めぐり。
 十二縁起を止滅させることが「苦」からの脱却であり、悟りそのものであるとすれば、世界そのものが全て止滅することになりますね。
 「止滅」と「死滅」の違いがおそらくそのポイントなのでしょうが。
 容易にペシミズムに流れそうで危険なこの部分。お二方のご意見を突き合わせながら考えていると、少し方向が見えてきたような気がします。

 大森荘蔵の「時間と存在」を読み始めたら(五年もかかってまだ読み終わらない、呵呵)このページにウロウロ迷いこんでしまいました。一年ぐらい前から時々お伺いしています。

 パンニヤディカ氏から貴兄への出家のお奨め、僭越ですが、今のところあまり意味がないような気がします。古くは「道の人」とかいいましたか?つまり生産に携わらずに「食を乞う」ことよりも、その時代の社会構造の真っ只中で苦しみ、引き裂かれ、絶望し、恐れ、畏れ、それを現実社会で「空・無我」のなかに転化してゆく努力、極端にいえば不可能を承知でのそれが、所謂「修業」ではないか、と私は思っています。

 皆さんの思索の余沢にあずかっています。真っ向から衒いなく、しかもしなやかに運営されている貴重なページです。なんの信号も発信しなくても、このページを読み続けている「私一般」が無数にいることを記憶にとどめて下さい。

               ***** jiji 斎藤 *****


jiji 斎藤さんへ 涅槃・出家 2004,6,1,

拝啓

 メール頂戴しありがとうございます。

>なんの信号も発信しなくても、このページを読み続けている「私一般」が無数にいることを記憶にとどめて下さい。
 大変勇気付けられ、また同時に、身の引き締まる言葉を頂戴し、感激です。一人でも多くの方に興味を持っていただけるようなサイトにすべく、細く長く続けていきたいと思いますので、また御意見・御批判をお聞かせ頂き、よい刺激を与えて下さいますようお願い致します。

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 さて、パンニャディカさんとのやりとりにつきましては、しだいに相違点が明確になってきて、私的にはますますおもしろくなってきました。
 パンニャディカさんは、涅槃を「名と色の止滅」と表現されましたが、私としては、名は受想行識、つまり心的・精神的現象の総称であり、色は、肉体である、すなわち、名色とは五蘊であり、私という現象の全体を意味する、と考えました。そうすると「名と色の止滅」とは、私という現象全体の止滅となり、死以外のなにものでもあり得ません。

 もう少し詳しく分けて考えると、
1)色の止滅した時。 肉体の恒常性維持の活動が停止するわけで、肉体は(特殊な冷凍保存技術でも開発しない限り)死んで、すぐさま壊滅を始める。そうすると、肉体に依存してそこで起こる名ももはや起こり得ない。→死。
2)色は活動を維持しているが、名が停止した状態。 →気絶、熟睡、全身麻酔、深すぎる定、など。

 私は、名こそが私というそのつど現象の核心部分だと思っていますので、1)のみならず、2)のケースでも、その時私は起こっておらず、その間のことには、涅槃であろうとも私には関連がもてないと考えます。

 私の思う涅槃は、名が不平不満なく満足し安らいでいる状態で、その時も、名と色は止滅していないと想像しています。名も色も働いている。軽安に慈悲によって苦を抜く活動をする。それでこその涅槃だろうと思います。

 もっとも名色にはいろいろな意味があり、パンニャディカさんの名色は、おそらく私とは違う内容をお考えなのだろうと思います。パンニャディカさんにとっても、涅槃は死ではないでしょうし、昏睡状態でもない筈です。おそらく、涅槃においても覚醒している或る種の意識のようなものがあるとお考えなのではないかと思います。パンニャディカさんに御協力頂いて、もう少し細部まで相違をくっきりと浮き彫りにできればと考えています。その際は、また是非御意見をお聞かせ下さい。

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 出家・修行については、出家までに到るかどうか分かりませんが、何かそろそろもう少し本格的に始めなければ、という気持ちはあります。行き詰まり感というか、踊り場感、凝り固まり感があるのです。一皮剥くというか、ブレイク・スルーしたいのですが、「これならば!」という修行体系がなかなか見あたりません。私の今の仏教理解の体系とどこかしら相容れないのです。ブッダダーサ比丘のおっしゃっていることが一番正しそうに思えるので、そこに行くのが手かもしれません。残念ながら、既に亡くなりましたが、、。

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>つまり生産に携わらずに「食を乞う」ことよりも、その時代の社会構造の真っ只中で苦しみ、引き裂かれ、絶望し、恐れ、畏れ、それを現実社会で「空・無我」のなかに転化してゆく努力、…
 大変お恥ずかしいです。私、世間で言う働き盛りの年代ですが、一昨年仕事も責任も途中で放りだし、社会構造の周縁部に引きこもり、自分勝手にマイペースで細々と生きている、中途半端なナマケモノです。

 確かに、出家生活も、世俗の波にもまれた生活も、それぞれ学べることがあり、成長できるでしょうが、こと仏教の修行に関しては、ちゃんとした指導者がおり、きちんとしたシステムがあり、雑事に邪魔されずに打ち込める環境が、やっぱり適していると思います。釈尊も出家を奨励しておられましたし、、。でも、それはどこなのか、、?

 散漫なメールになりました。

 今後とも宜しくお願い申し上げます。
                             敬具
jiji 斎藤 様
       2004、6、1、               曽我逸郎

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