koji21さん スッタニパータはアートマンを説く反仏教!を読んで 2004,5,31,

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あなたの見解を読んでびつくりしました。自分と同じようなテーマを追求していて、同意見をもっているのに感動すら覚えました。原始仏教の従来いいふらされてきた定説は非常に疑問にみちているように感じていました。インドの特殊性、歴史性から考えると、原始仏教を再構築して口当たりのいい仏教像に変貌させた現代仏教学者たちは言葉は悪いが狡猾であり、その認知の仕方は信仰に裏打ち(つまり、フィルター)が状態で、真実を物語っていません。
今後の記事も楽しみにしています。どうぞ続けてください。


koji21さんへ 仏教学擁護 2004,6,1,

拝啓

 メール頂戴しありがとうございます。御声援頂き、感謝致します。

 ただ、私のやっていることは、仏教学者の方々の成果のイイトコ取りのツマミ食いにしかすぎません。「スッタニパータは・・・」も、松本史朗という先生のほとんど受け売りですし、、。

 私は、仏教の勉強には、実存的に自分の問題として仏教に向かう姿勢と、学問的な研究成果に敬意を払う姿勢の両方が必要だと思います。仏教学も、自分も、出発点では多くの思い込みに支配されています。思い込みに基づいた理解から始まる。でも、一定の理解を持った途端、それとは矛盾する多くの見解に出会うことになります。それは、他の人の単なる思い込みだったり、あるいはどうも確からしい学問的成果だったりします。誤った思い込みは、誤った思い込みであると判別し、確からしい学問成果に対しては、挌闘してとり込み、自分の理解の体系をそれと整合性あるものに修正しなければなりません。そのようにして、仏教学も、自分の個人的仏教理解も深まっていく。

 こういうアプローチだけで釈尊の教えまで到達できるかどうか分かりませんが(修行によって、「目の当たりに見る」経験も必要であろうと現在は想定しています。)、僅かずつでも着実に釈尊の教えに近づいて行けると考えています。

 仏教学は、確かに、まだ相当の誤った思い込みを宿しているでしょう。しかし、内部で相互批判を繰り返し、思い込みから釈尊の教えの方向へ、少しずつにじり寄っていると思います。仏教学の成果を軽んじるならば、かえって自分の思い込みを肥大化させてしまうことになりかねません。

 仏教学のおこぼれにあずかっている私としては、仏教学を擁護したいと思います。

 今後とも引き続き御意見・御批判を頂きますよう、宜しくお願い致します。

                         敬具
koji21様
        2004、6、1、
                          曽我逸郎

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