パンニャディカさん 加筆のこと 2004,6,1,

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曽我様

曽我様は、仏典の「加筆」(加上)のことが、大変気になるようですね。
私も長い間、大乗経典は、ブッダの金口ではないと思い、原始仏教(上座部)が好きで、20代後半のとき、富永仲基の「出定後語」を読んで、感動のあまり、二、三日、泣き暮らしたものです。
でも、ことはそれほど単純では、ないようですよ。
今、台湾では、阿弥陀経についての新しい解釈が生まれています。
阿弥陀経とは、阿弥陀如来に対する信仰を勧めるものではなく、釈尊の教えた正念・正定の修行の過程を、比喩を借りて述べたものだ、というのです。
そのため、台湾では <私は阿弥陀の家族をやめました> などという本が出ています。

このことを日本で紹介すると袋だたきに遭うかと思っておりました。
ところが、最近読んだ本「禅とは何か」(大田健次郎)(近代文芸社)に、阿弥陀経に対する新解釈が書いてあり、それが台湾のものと、全く同じなので、感動いたしました。
また、大田さんは 法華経も、「受持すれば悟るとか、写経すれば悟るとかいうのは受持しても悟れない、写経しても悟れないことに気がついたら、つぎは 修行するしかないではないか という修行へ導くための壮大なる方便である」と書いています。私は、これにも賛成です。お経に書かれていることが、異常だから、非合理的だから加筆である、と即断するのは、危険なのです。私も、釈尊が阿弥陀経において、信仰を勧めるのは異常だと思っていたし、法華経で、写経すれば悟るというのは、なんと非合理なのかと思っていたのですが、だからといって「加筆である」と、簡単に捨て去ることはできない、重大な比喩が隠されているのです。

もし、曽我様が私に住所とお名前をあかしても良ければ、この本を贈って差し上げます。

先般、私のHPに感動した人から、いささかお布施(図書券)をいただきましたので、それを曽我さまに回向しさせていただきます。費用の点はご心配なく(笑)

パンニャディカ


 このメールへのお返事は、6/4付けのパンニャディカさんからのメールへの返事にまとめて書きました。(曽我)

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