パンニャディカさん 老婆心 2004,6,1,

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曽我様

私がまだ今ほどには、仏教について十分な理解と信頼を確立していなかったころ、師(タイの森林派僧侶)にどうしたらいいか尋ねましたら「納得のいったところから実践しなさい。そのうち、全部分かるよ」と言われました。
それで当時は、「仏教が主張する輪廻(生まれ変わり)が迷信だったら、仏教を学ぶ価値があるのだろうか?」という疑問を抱えたまま、師の勧めるままに瞑想(数息観)を始めました。
「生まれ変わりがあってもなくても、 瞑想はやってみよう。息に集中する修行は少なくとも心を落ち着けるし、体にもいいだろう」と 思ったからです・・・。

日本では、いわゆる「右足上がった」のマハーシ方式も何年か、やったことがあります。しかし、その後、私はタイの師にも、日本で学んだマハーシ方式にも飽きたらず、結局パオ・セヤドーに行き着いた訳ですが、パオ・セヤドーが際だって優れているのは、彼が教えているのが「究極法」(Paramatthadhanma)だからです。
マハーシ方式は、あえてジャーナ(禅定・正定)を目指さないで、初心者でも、すぐに「蝕」を観るよう教える訳ですから、定に入れないで苦しんでいる初心者にとっては、福音のように思えるのですが、瞑想の対象はあくまで「概念法」(pannyattidhamma)なのです。ですから、「右足上がった」とやっている内は、概念世界(文節化・施設)から脱出することはできません。

話は変わりますが、もしよかったら、図書館で「刹那滅」関連の本を探して読まれたらどうでしょうか? だいぶ前に、「刹那滅」という本が出版されましたが、あまりに高価であきらめたのです。 今では「買っておけばよかった」と後悔しています。
しかし、この間、図書館で<「無常の哲学」ダルマキールティと刹那滅>(春秋社)という本を借りることができました。 まだ読み終えていませんので内容がいいかどうかは、分かりませんが、理論家の曽我様なら 面白く感じるかと思います。

以上、老婆心にて、お知らせ致します。

(何の老婆心かといいますと、修行の勧めです・・・・(笑))

パンニャディカ


パンニャディカさんへ 曽我の瞑想の現況報告 2004,6,3,

拝啓

 本当にいろいろと気をかけていただき、ありがとうございます。

 いわゆるヴィパッサナー(本来の意味は、止<サマタ>とペアになるべき観なのでしょうが、今の日本では、「南方上座部の瞑想法」というような意味になっていますね。今、私もその意味で使っています。)にも、様々な流派があるということは感じています。マハーシ方式(日本テーラワーダ仏教協会はこれですよね?)、ゴエンカ氏の指導法、ブッダダーサ比丘の方法、パオ・セヤドーの「究極法」、、、他にもあるのでしょうが、、。私は、日本テーラワーダ仏教協会の指導しかうけたことはありませんが、それぞれの流派の解説文によると、とっかかりの呼吸の観察のところから、どこで呼吸を観察するか、鼻の下か、腹か、両方か、様々に分かれるようです。ゴエンカ流の指導では、皮膚感覚を重視しているようですし、パオ・セヤドーは「智慧の光」によれば、最初にしっかりと定を育むように指導しておられるように感じます。

 私自身の日本テーラワーダ仏教協会瞑想会での経験を書いてみます。文章にすると、大げさというか、怪しい過剰なイメージを惹起させてしまうようで、控えておりましたが、あまりにしつこく(笑い)修行を勧めて下さるので、現状報告します。

 昨年8月の、私としては2度目の瞑想会参加の時です(指導はウィセッタ長老)。歩く瞑想(マハーシ式独特?)の時も、坐っての瞑想でも、形を整えてその体勢に入るとすぐに、後頭部周辺や額、顎の左右あたりに虫が這っているような感覚が生じるようになりました。皮膚の上というよりも、下、骨の中か頭蓋骨の内側をなにかの幼虫がもぞもぞと動いて行くような感じです。こう書くとなにか異様な経験のように聞こえてしまうでしょうが、微妙な感じを文章化しようとした結果であって、実際はそれほど異常なものではありません。ただ、とても輪郭のくっきりした感覚だったし、それが瞑想を始める度に現れるので、「楽しんではいけない」と思いつつも、瞑想が楽しく、集中して瞑想に取り組むことができました。
 瞑想会の終わり間際になって、数人の人達が歩く瞑想をしている広間の前方のスペースで皆に背を向けて座っていると、あ、あ、何か起こるなという感覚の後、ぎゅうんという感じで周囲の感じが変わりました。瞬間的にぱっと変わったのでもなく、徐々に変わったのでもありません。周囲の透明度が増して、大変明るくなりました。(目は閉じています。)あるいは、全体がやや乳白色をおびた空間でそれ自体が光っているような感じです。喩えて言うと、浅瀬の明るいさんご礁の海の中に坐っているような、周囲2メートル程の囲まれ感があり、同時にそのむこうまでずっと空間が広がっているという感覚もありました。勿論魚などはおりませんし、全体がただ白っぽい明るい透明な少し密度の高いような空間ですが、同じ色の岩のような不規則な形をしたなにかがあるという感じはありました。あまりにもはっきりした感覚だったので、「これは一体なんだ、どうしたんだ」と周囲や上方を見まわしていました(勿論、身体は動かさずに)。
 また、瞑想センターの広間の隅で坐っているという意識もあって、自分の背中から強い光が出ているに違いないと感じました(自分の姿が見えたのではなく、背中の感覚)。後を歩いていた筈の人達が、「何が起こったのだ」と驚き恐れながら、2、3メートル離れて私を心配そうに見下ろしているとも感じました。
 この状態をできるだけ持続させたいと思い、実際主観では割と長い間続いたと思いますが(20〜30分?)、残念ながら昼食の合図が鳴ってしまい、ゆっくりと目をあけて振りかえると、当然のことながら他の人達は何事もなく食堂に向かい始めており、それをすごく不思議に感じました(みんな何も感じなかったの !? という気持ち)。
 この時の感覚を再度確認したいと思い、家に帰ってからは、ほぼ毎朝5時半から坐り、週に一度は禅寺で坐っていますが、次第に頭の虫も這い出す頻度が下がってきて、坐っている時間も、初めは一時間近かったのが、最近は30分位に短くなってきているという情けない現状です。
 パンニャディカさん訳の「智慧の光」を読んで、あれは取相か似相だったのか、とも思いましたが、どうなのでしょう。

 瞑想の集中度を高めるにはどうすればよいか悩んでいますが、「概念法」と「究極法」についてもう少し詳しく教えていただければと思います。

 「<無常>の哲学 ダルマキールティと刹那滅」(谷 貞志・春秋社)は読んでいます。本棚から取り出すと、結構書き込みやページ隅の折り返しが多いので、刺激を受けた筈ですが、内容を思い出せません(ボケが始まっている?)。パンニャディカさんとのやりとりを踏まえて、再読してみようと思います。

                            敬具
パンニャディカ様
        2004、6、3、
                          曽我逸郎

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