パンニャディカさん ブッダダーサ比丘の輪廻・涅槃観(続) 2004,5,31,

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曽我様

>◎How the concept of rebirth after death crept into Buddhism ・・
☆「来世はあるか?」という問いに、釈尊は「無記」としたから、その意味は「返事するに値しない」ということでしょう。私は、「あるか・ないかは、修行すれば明白になってくるから、人(釈尊)に問うな」と言ったのだと理解しています。曽我さんのいう「無記とは、生まれ変わりは<ない>ということであり、故に、仏教徒ならそれを問うてはならない」という考えは、頭の中で微妙に、(自分の好みの方へ)ずらしていないでしょうか?

釈尊はそのとき、「ない」と思っていたなら、なぜ「ない」と一言、言ってくれなかったのか?

なぜ、シュードラたちに、「人生は一回きりだから好きなように生きろ」と教えてあげなかったのでしょうか?

>◎ "Essential points of Buddhist teachings"から。
>>釈尊は、苦の滅尽につながらないことにかかわり合うことを拒絶されました。転生rebirth があるかないかという問を取り上げましょう。何が転生するのか? どのように転生するのか? 相続する業はなにか?( 業とは身、口、意による意識的行為です。)このような問は、苦の滅尽を目指していません。
☆瞑想していると、刹那生・滅が観えてきます。そのとき、一旦は滅した私の肉体と心は、一刹那後には再生しているのが知れます。心と体は、消えたら消えっぱなしにならないで、次の刹那には一刹那前の心と一刹那前の体の属性を引きずりつつ再生しています。そして、そのように刹那生・滅を繰り返したにも関わらず、10分後の私、3年後の私は、他人には「あ、パンニャさんだ。借金かえせ(笑)」と明確に私だと分かる。これを「なぜか?」と問うのは、十分、仏教的だと思いますが?
>◎ これも"Essential points of Buddhist teachings"から。
>>ですから、生まれる者はおらず、死ぬ者も転生する者もおりません。よって転生の問の全体はまったく馬鹿げており、仏教とはなんの関係もないのです。
>>So, the whole question of rebirth is utterly foolish and nothing to do with Buddhism at all.
☆これは、般若心経にもある、不生不滅のことですね。

悟ってしまえば、生まれる者はおらず、死ぬ者も転生する者もいません。

しかし、宇宙のからくりが分からないうちは?・・・という提議なのです(このことは、論争の始めから言っていると思いますが・・・)。不生不滅を知るためには、観音菩薩のように、深く深く、修行しなければなりません。

> 死を見届けるのは、つらく切なく苦しいことです。そして、私自身もいつか必ず死ぬ。現に今、死につつある。それは、我々が、無常にして無我なる縁起の現象であり、時間の中の有限な現象である限り、避けられないこと、向き合わねばならないことだと思います。段生段死(生まれ変わり)があると考えることは、我々に突きつけられている有限性という刃をごまかすことにならないかと危惧します。
☆えーとね、なんと言っていいか・・・(笑)。曽我様は、(一刹那毎の)サンカーラを、理論的には認めるのでしょう?では、修行して、一刹那毎に生・滅している現象の「果て」を、自分で確認してください。只単に、「有限性をごまかすことになるから、ない」というのでは、曽我さんの「願望」が先に立ってしまっていますよね。仏教には「断見」という言葉があるので、その定義をおさらいしてもらえるといいのですが・・・。
> ブッダダーサ比丘も言っておられましたが、私も、経典は必ずしも釈尊の教えを正確に伝えていないと考えています。
☆私も、多くの部分に加筆があるだろうとは思いますが、どこを加筆とするかは、慎重であってください。「自分が理解できないから、これは加筆だろう」という考え方は非常に危険です。曽我さんは、もう修行で解決するしかないところへ来ていると思いますよ。修行して、「この現象はあり得ない。この定義は成立しない。故に加筆である」と実証していかねば、ならないと思います。
>◎ Throughout the Pali scriptures, the word "Nibbana" is never used in the sense of death.
> パーリ経典のどこを見ても、涅槃という言葉は、死という意味ではけして使われていない。
☆私も涅槃=死とは、言っていませんよ。曽我様と私が言葉の行き違いで論争になってしまうのは、世間智と出世間智の区別を、二人ともよく理解していないからです。

輪廻(生まれ変わり)については、そろそろ、休戦した方がよさそうですね(笑)。

> 名と色が止滅した状況を考えてみると、その時、私という現象は起こっていません。そのような状況での涅槃には、どうあがいても私は関わりを持てません。個人的実存的な言い方を許していただけるなら、意味のない生を、意味なく、軽安に、慈悲を以って、そういうあり方で、死ぬまでの与えられた時間を現象すること、それが涅槃ではないかと思います。
☆曽我様が頭で考えて、名と色の止滅はという内実の涅槃なら無意味である、と言い切るのではなくて、修行によって、名・色が止滅するということはどういうことか、よく理解(体験)してからもう一度、リアリティーをもって、我々に実相を教えて頂けるとありがたいですね。

<総括>

曽我様と私の考え方の共通点、相違点、だいぶはっきりしてきましたね。

ただ、失礼ながら曽我様は、理論は相当詰めているけれど、修行はこれから、という方。私は修行は、休み休みに10年、集中して5年やってきて、多少の心的体験をしているけれど、悟っている訳ではないから、曽我様とは五十歩百歩という感じですね。

ここまでくると、理論派兄さんと修行好きおばさんとの「コップの中の嵐」的対話になっているので、第三者はあんまり読みたくないのでは?

そんな訳で、このmailは、公開しない方がいいと思いまして、表題に(非公開?)をつけました。

曽我様、いよいよ、本当に、修行しなさい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(笑)

パンニャディカ


 このメールへのお返事は、6/4付けのパンニャディカさんからのメールへの返事にまとめて書きました。(曽我)

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