パンニャディカさん <倒れし者>に関する雑談 2004,5,25,

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曽我様

(1)

「更新情報」読みました。どちらにお住まいか存じませんが、田植えとは、またまた優雅なことで・・(笑)。

実は私は農本主義者でして、この世で「自給自足のお百姓さんが一番偉い」と思っているので、とてもうらやましいです。でも、私自身は、過去において都落ちに失敗、無念の思いで、現在は、東京近郊の某衛星都市にいる、というわけです ^^;。(閑話休題)。

(2)

さて、今日は「不可蝕民と現代インド」(山際素男)を読んで、ちょっと心を打たれましたのでお知らせします(もちろん、勉強家の曽我様なら、これから私が書くことは、もうとっくにご存じかもしれませんが)。

インドの歴史に関心のある人なら、アーリア人によって征服された先住民をシュードラと呼ぶとはご存じだと思いますが、それに不可蝕民を加えて、「ダリット」と呼ぶ、ということがこの本に書かれています。その「ダリット」の内実は、「倒れし者」「虐げられた人々」という意味なのだそうですが、この「倒れし者」の呼称に、私は「ハッ」としたのです。仏典には「ゴータマは、倒れし者を助け起こす最高の教師である」という表現がたくさん出てくるからです。釈尊は「誰でも<行い>によって悟るのであって、生まれで悟るのではない」と言いました。その当時、バラモンは自分たちの出自を誇り、「宗教的知識を独占している自分たち司祭階級と、出自のよい王侯貴族、それに司祭階級にお布施のできる商人階級だけが、悟りを得てブラフマンと合体でき、永遠の命を得ることができる」「シュードラと不可蝕民は、何度生まれ変わってもシュードラであり、不可蝕民である」としたのです(当時はまだ不可蝕民は、明確に形成されていなかったかもしれないけれど)。これは非常に恐ろしい思想ですが、それに敢然と異を唱えたのが釈尊でした。

シュードラでも、不可蝕民でも、行いによって悟り、涅槃に赴くことができる。

釈尊の教えを実践するなら、世俗の一部である天界−ブラフマンの元に帰るのではなく、最高の聖なる境地、涅槃に赴くのである。涅槃は、何人も行くことができる。なぜなら、身体も心も無常であり、無我であるから・・・。これを聞いたダリット(倒れし者)は、文字通り「ゴータマは倒れし者を助け起こし・・・」と、熱い涙を流したことでしょう・・・。

(たくさん、たくさん本を読んでも、「あ、そういうことだったのか」と腹落ちするのは、一冊の本の中の、1ページどころか、たった一行だけだったりする。それでも、読まずにいられない・・。蟻の歩みのような、小さな小さな努力です)。

パンニャディカ


パンニャディカさんへ 不可触民、アンベードカル博士、佐々井秀嶺氏 2004,5,30,

前略

 田植えは、けして優雅ではありませんよ。ぴちぴちの地下足袋のようなゴム長を履いて(泥の中でも脱げない。そのかわり蒸れる。)、猪に掘り削られた畔にシャベルで土を寄せ戻したり、ビーバー(草刈り機)の油っぽい2サイクルエンジンの排気ガスを吸いながら、斜面をずっと変な姿勢で歩きつづけたり、水の抜ける田の穴ふさぎに畔際をずっと踏んで歩いたり、、、。多分、想像するにパンニャディカさんのほうが、うんと優雅な暮らしをされている筈です。

 「自給自足のお百姓さん」も、現代ではほとんど難しいでしょうね。機械を使うし、そのためにはガソリンや、それにあわせて使う様々な薬品・肥料を買わなくてはならず、結構な現金収入が必要です。換金可能な作物を作るためには、ますます資材と手間をかけねばならず、少品種の作物に特化して、どんどん貨幣経済に取り込まれていくことになります。
 「自給自足のお百姓さん」のイメージに一番近いのは、定年後のI or Uターン夫婦で年金があり、趣味と実益を兼ねて農業を楽しんでいる人でしょう。そういう「優雅な」方は、ちらっほらっとおられます。

 私はというと、「仕事は捨てるが家族は捨てない半分出家」などと粋がって1年半前会社を辞めたものの、失業保険もとうに終わり、細々と長々と暮らす筈が、思ったよりより出費は太く、計算よりずっと短い暮らしになりそうで、お尻がだんだん熱くなり、もうすぐボッと火がつくのではないか、還俗の日は近いかと、そんな下世話なことに気を取られ内心あせりながら、瞑想したり、パソコンに向かったりしている、執着を滅するには程遠い毎日であります^^;。(閑話休題)。

 お薦めの「不可蝕民と現代インド」(山際素男)、実は、ある方からも勧められています。その方からは、アンベードカル博士の「ブッダとそのダンマ」(三一書房)と、アンベードカル博士の遺志を継いで、今インドで大乗仏教運動の先頭に立っている佐々井秀嶺氏の破天荒な人生をえがいた「破天」(山際素男・南風社)も読むといいと言われていますが、どれもまだ読めていません。
 言い訳ではありませんが、今住んでいる所は、長野県の南部で、猪鹿蝶ならぬ猪鹿猿が出没する自然が豊かなところで、本屋さんはありますが、コミック・雑誌・実用書がほとんど。仏教書の立ち読みはとても考えられません。勿論買うつもりなら、ネットで買うことはできますが、上に書いたような懐具合なので、気になる本を内容も見ず全部注文するという訳にもいきません。東京にも名古屋にも滅多に行かないし、、。近くの少し大きな市の図書館にも置いてないようで、本については、やや不便を感じております。

 ワタクシ事の雑談でした。
                             草々
パンニャディカ様
         2004、5、30、               曽我逸郎


パンニャディカさんから  2004,5,31,

曽我様

> 田植えは、けして優雅ではありませんよ、、、。多分、想像するにパンニャディカさんのほうが、うんと優雅な暮らしをされている筈です。
☆私も若いとき、<三日農民>やったことあるのですが、田んぼに入るの、結構つらかったですね。
タイやビルマでの<三日坊主>の方が、はるかに、楽ですね(笑)。
実際、農業で優雅に暮らせるなら、これほど農業人口が減る訳がないですものね。
(でも、お百姓さんというのは、本来、全人格的な、人間にとって、当たり前の生き方だ、と思うんですよね)。。

<一部略>

> 私はというと、「仕事は捨てるが家族は捨てない半分出家」などと粋がって1年半前会社を辞めたものの、失業保険もとうに終わり、細々と長々と暮らす筈が、思ったよりより出費は太く、計算よりずっと短い暮らしになりそうで、お尻がだんだん熱くなり、もうすぐボッと火がつくのではないか、還俗の日は近いかと、そんな下世話なことに気を取られ内心あせりながら、瞑想したり、パソコンに向かったりしている、執着を滅するには程遠い毎日であります^^;。(閑話休題)。
☆そうですか。やっぱりお金は空からは降ってこないですか・・・・・・(残念・笑)。
> お薦めの「不可蝕民と現代インド」(山際素男)、実は、ある方からも勧められています。その方からは、アンベードカル博士の「ブッダとそのダンマ」(三一書房)と、アンベードカル博士の遺志を継いで、今インドで大乗仏教運動の先頭に立っている佐々井秀嶺氏の破天荒な人生をえがいた「破天」(山際素男・南風社)も読むといいと言われていますが、どれもまだ読めていません・・・・・
☆私は「破天」は読んでいませんが、他の二冊は図書館で借りて読みました。
どれも、それほど急いで読むこともないと思います。
「不可蝕民・・」には、それほど釈尊の教えが出てくる訳ではないです。この本には、「現在、インドの不可蝕民は、仏教の平等、平和、自由を旗印に仏教に改宗しているが、<仏教的悟り>については、特に、旗印にはしていない」とありました。
「それ(悟りを旗印にしていないこと)を批判されても困る。自分たちは、悟りとか優雅なことを言っている場合ではない。権利と尊厳の回復が先だ」というのが、この本に取り上げられた不可蝕民たちの主張でした。

アンベードカル博士の本も釈尊の教えを「政治的」に解釈し、利用している部分があります。
それを、いいとか悪いとか言えるのは、彼らと同じ立場の人たち、彼らと手をつないで闘ってきた人たちだけでしょうね。やっぱり、日本にいては、あのすざましい差別構造は、実感できないでしょうからね。
実感なくして発言権なし、です。

☆「ブッダダーサ比丘の・・」は、すでに返送しましたが、mailに書きましたように、討論が煮詰まってしまい、「コップの中の嵐」になっているように思います。

非公開でお願いしたいのですが、どうでしょうか?

パンニャデカ

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