パンニャディカさん 再び、ブッダダーサ比丘の輪廻観 2004,5,21,

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曽我様

しつこく、再び輪廻について・・。

もう一度、老眼鏡をずり上げながら(笑)、貴HPの、ブッダダーサ比丘の文章を読んでみました。

彼は(1)サンサーラは、色身から色身へ続くもの(段生段死=生まれ変わり) という意味ではない。
(2)再生するのに死を待つ必要はない と言っています(曽我さんの訳による)。

それでは、彼はどこで、「絶対に、生まれ変わりは、ない」と、明言しているのでしょうか?
(していないように思うのですが・・・)。

「サンサーラ」は、ブッダダーサ比丘のいうように、本来は「一刹那毎の心と体の生・滅」を意味したのです。ですから、(2)で述べられている通り、「再生するのに、死を待つ必要はない」のです。我々の肉体と心は、一刹那後に死に、その一刹那後に再生するからです。
ですが、後世になると、サンサーラとは、一刹那後の死、次の刹那の再生、次の刹那の死・・・・を指すよりも、段生段死の「生まれ変わり」を指すようになり、人々の関心が、そちらに向ってしまった。
しかし、自分が一刹那毎に生・滅していることを観照することの出来ない凡夫が、(段生段死の意味のサンサーラとしての)「来世は馬か、牛か」を心配しても、何の意味もありません。
そういう意味で、ブッダダーサ比丘の提言は、人々が、サンサーラを「生まれ変わり」という意味へと、定義をずらしてしまったことへの警鐘だと思います(しかし、ブッダダーサ比丘は、「生まれ変わりは、ない」とは、言っていないのでは?)

さて、一刹那毎に、心と体が生・滅することを認めた場合、最後の「死」の瞬間、あなたは、どうなるか?
もし死にゆく者の欲望が強く、「何者かに」生き変わってでも、なすべき事をなしたいと思い、心(名)が依り代(色)を取れば、次の一刹那には、「何者か」が「生」じるのでは、ないでしょうか?

釈尊が、菩提樹の下で、悟りを開いたときに歌った詩「私は悟ったので、後有を受けない」とは、「悟っていなければ、後有を受ける」ということでは、ないでしょうか?

ここまで書いて、ふと曽我様の「死んだら名(心)も色(肉体)もなくなる」というご意見を思い出して、不思議な思いがしました。というのも、涅槃の定義もまた「名と色が、ともに止滅した状態」であるからです。曽我様は期せずして、「人は死んだら、涅槃へ赴く」といっていることになります。
なんだか、狐につままれたような話ですね。

「輪廻(生まれ変わり)を、あると言われて、あると信じるのは愚か者である」というクリシュナムルティに私も賛成です。ですから、曽我さまを「生まれ変わり派」に転向させようという気は、毛頭ありません。しかし、私が見るところ、曽我様は、そろそろ本気で、修行なさった方がいいのではないか、と思うのです。
機は熟しているとお見受けしました。どうですか?(笑)。

パンニャディカ


パンニャディカさんへ ブッダダーサ比丘の輪廻と涅槃 2004,5,28,

拝啓

 返事が遅くて申し訳ありません。

 「ブッダダーサ比丘は、サンサーラとは行為と欲望の連鎖であると説いておられるが、必ずしも段生段死(死後の生まれ変わり)を否定しておられる訳ではないのではないか」との問題提起を頂きました。

 私もさほどブッダダーサ比丘を読んでいる訳ではありませんが、生まれ変わりを否定しておられると思われる箇所を抜き出してみます。ただし、タイ語もパーリ語もダメですので、英訳だけを手がかりとします。もし、原語ではニュアンスが違うということがあれば、是非御指摘下さいますようお願いします。

◎ "Kamma in Buddhism"から。
死後の再生という考えがどのようにして仏教に忍び込んだのか、説明することはむずかしいし、我々はそんなことに拘らう必要はない。
How the concept of rebirth after death crept into Buddhism ・・・
 「忍び込む」と訳した "creep into" は直訳すれば「這って入る」という意味で、例えば女子寮に男子学生がもぐりこむがごとく、本来そこにあってはならないものが、正しくないやり方でこっそりと入ることを意味しており、すなわち、ブッダダーサ比丘は、死後の再生という考えは、本来の仏教にとっては、あってはならないものと考えておられたと推察します。
◎ "Essential points of Buddhist teachings"から。
釈尊は、苦の滅尽につながらないことにかかわり合うことを拒絶されました。転生 rebirth があるかないかという問を取り上げましょう。何が転生するのか? どのように転生するのか? 相続する業はなにか?( 業とは身、口、意による意識的行為です。)このような問は、苦の滅尽を目指していません。そうであるなら、これらは仏教の教えではないし、仏教に関わりはありません。仏教の世界にはないのです。それにまた、このような事柄を尋ねる人は、与えられた答えを見境なく信じるしかありません。何故なら、答える人はいかなる証明もできず、ただ記憶と感覚を頼りにしゃべっているからです。聞き手は自分自身で確かめることはできないし、相手の言葉を盲目的に信じなければなりません。徐々に問題は法から迷い出て、苦の滅尽とは関係のない何かすっかり別のものになってしまいます。
 転生があるかないか、何が転生するか、どのように転生するか、相続する業はなにか、、、。このような問いは、仏教に関わりがないし、仏教の世界にはない。ブッダダーサ比丘はそのように言い切っています。これは、そういう問いを問わず、転生の考えをそのまま受け入れよ、と言っているのではありません。転生、死後の生まれ変わりといった考え・言葉自体が、そもそも仏教ではない。もしそれらが今の「仏教」に忍びこんでいるなら、すべて除去すべきだ。そう主張しておられると考えます。
◎ これも"Essential points of Buddhist teachings"から。
ですから、生まれる者はおらず、死ぬ者も転生する者もおりません。よって転生の問の全体はまったく馬鹿げており、仏教とはなんの関係もないのです。
So, the whole question of rebirth is utterly foolish and nothing to do with Buddhism at all.
 思いついた3箇所を挙げました。私としては、ブッダダーサ比丘が転生を否定しておられたのは明白だと思えるのですが、如何でしょうか?

 一方、パンニャディカさんは、このように書いておられます。

>もし死にゆく者の欲望が強く、「何者かに」生き変わってでも、なすべき事をなしたいと思い、心(名)が依り代(色)を取れば、次の一刹那には、「何者か」が「生」じるのでは、ないでしょうか?
 確かに、志なかばで、あるいは恨み骨髄で死んでいく人の無念さは、大変なものだと思います。しかし、欲望や願望が強ければ、実現できるものでしょうか? 何が転生するか、どのように転生するのか、相続する業はなにか、何者が生じるのか、、、?
 私は、生命の根本的傾向から考えて、志や恨みよりも、「死にたくない」「生き続けたい」という願望の方が死に際しては強烈なのではないかと想像します。もし願望に願望を実現する力があるのなら、転生よりも生き続けることにそのエネルギーは費やされるのではないでしょうか? あらゆる動物が、死にたくない、生き続けたいともがき苦しむのは、死によって自分が終わることを重々分かっているからではないかと思います。

 名は色という場所に依存して、瞬間瞬間生まれては滅しています(サンサーラ)。色は、生きているうちは新陳代謝で徐々に置き換わりながらも、場所と働きに変化を伴いつつ一定の一貫性を維持しています。死とは、色の一貫性が破綻し、色が世界に解消されることであり、同時にそこに依存していた名という現象も、もはや起こり得なくなります。薪の尽きた炎のように。

 死を見届けるのは、つらく切なく苦しいことです。そして、私自身もいつか必ず死ぬ。現に今、死につつある。それは、我々が、無常にして無我なる縁起の現象であり、時間の中の有限な現象である限り、避けられないこと、向き合わねばならないことだと思います。段生段死(生まれ変わり)があると考えることは、我々に突きつけられている有限性という刃をごまかすことにならないかと危惧します。

>釈尊が、菩提樹の下で、悟りを開いたときに歌った詩「私は悟ったので、後有を受けない」とは、「悟っていなければ、後有を受ける」ということでは、ないでしょうか?
 ブッダダーサ比丘も言っておられましたが、私も、経典は必ずしも釈尊の教えを正確に伝えていないと考えています。当時の世俗的常識、すなわち「生まれ変わりの輪廻はある」、「アートマンはある」、「苦行に励む人は立派だ」などが様々に混入していると考えます。(特に、儀礼において在家信者と共有される機会の多かった韻文経典は、世俗的常識に妥協的にならざるを得なかったでしょう。小論集「スッタニパータはアートマンを説く反仏教!」参照下さい。)
 また、おそらく釈尊ご自身も、輪廻を直截に否定されることはあまりなかったであろうと想像します。なぜなら、生まれ変わりの輪廻を信じる者に「そんなものはない」と言うことは、かえってその人を迷わせることになるから。無常=無我=縁起を知れば、そのことも自ずと明らかになるから。
 (すぐに見つけられないのが情けないのですが、釈尊が質問されて本当の答えを言わず、弟子から「なぜ率直に教えてやらなかったのか」と訊かれて、「かえって彼を迷わせることになるからだ」と説明されたという話がいくつか経典にありますね。ああいうことを想像しています。)

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 段生段死(生まれ変わり)については以上のとおりです。次に、涅槃について考えます。

>涅槃の定義もまた「名と色が、ともに止滅した状態」であるからです。曽我様は期せずして、「人は死んだら、涅槃へ赴く」といっていることになります。
 涅槃の定義については、もう一度ブッダダーサ比丘の言葉を拝借させて下さい。NIBBANA FOR EVERYONE(http://www.suanmokkh.org/archive/nibbevry.htm)より。
◎ Throughout the Pali scriptures, the word "Nibbana" is never used in the sense of death.
 パーリ経典のどこを見ても、涅槃という言葉は、死という意味ではけして使われていない。

◎ Nibbana is the coolness resulting from the quenching of defilements,
 涅槃とは、煩悩の滅尽によってもたらされる安らぎ(coolness=熱のなくなった状態)であり、・・・

◎ The expression that best conveys the meaning of Nibbana is "the end of dukkha."
 涅槃の意味を最もよく表す表現は、「苦の終滅」である。

 つまり、ブッダダーサ比丘は、「涅槃とは死などではなく、生きている間のことで、煩悩がなくなり苦がなくなった安らぎの状態のことである」と言っています。そして、さらに面白いことに、「煩悩ある凡夫にも一時的な涅槃があり、もしそれがなければ、夜眠ることもできず、人は発狂するか死んでしまう。動物にさえ動物なりの涅槃がある。」とも言っています。
Although it may be a temporary quenching, merely a temporary coolness, it still means Nibbana, even if only temporarily. Thus, there's a temporary Nibbana for those who still can't avoid some defilements.

These periodic Nibbanas sustain life for all of us, without excepting even animals, which have their levels of Nibbana, too.

 勿論、完全な涅槃、一時的ではない涅槃のためには、釈尊の教えを学び、修行して、無常=無我=縁起を自分のこととして知り、煩悩・執着が起こらないようにならなければなりません。
 しかし、ともかく、ブッダダーサ比丘においては、涅槃とは、「名と色の止滅」ではなく、「煩悩・執着が起こらない状態であり、苦も発生せず、名も色も(特に名が)完全に安らいでいる状態」であると思います。そして、この考えに、私も100%同意します。

 名と色が止滅した状況を考えてみると、その時、私という現象は起こっていません。そのような状況での涅槃には、どうあがいても私は関わりを持てません。個人的実存的な言い方を許していただけるなら、意味のない生を、意味なく、軽安に、慈悲を以って、そういうあり方で、死ぬまでの与えられた時間を現象すること、それが涅槃ではないかと思います。

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>私が見るところ、曽我様は、そろそろ本気で、修行なさった方がいいのではないか、と思うのです。機は熟しているとお見受けしました。どうですか?(笑)。
 ありがとうございます。実は私もそんな気もして、最近少し坐る時間を増やしてはいるのですが、そんなことでは今までと大差ないですね。どうすれば実効性のある修行ができるのか?
 パンニャディカさんのお薦めの「本気の修行」とは、どういうものでしょうか? ビルマで出家する、、、? 在家のままビルマのお寺に1、2年置いていただく、、、? 私は、無職で、しがらみの少ない身、その気になれば、どちらも不可能ではありません。私のみならず、誰しも思うほどのしがらみはない。ただ言い訳をいろいろと創っているだけ。
 まあ、確かにそうですが、私とて家族もあり、もう少し敷居の低いアプローチがあればサジェスト頂ければ幸いです。

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 コミュニケーションを重ねるにつれて、だんだんと相違点が浮き彫りになってきました。異なった考え方に接することによって深く考えることができ、仏教の理解も深まると考えています。瞑想とは違うアプローチで申し訳ありませんが、引き続きよい刺激を与えてくださいますようお願い申し上げます。

                                 敬具
パンニャディカ様
         2004、5、28、               曽我逸郎

【追伸】 メールのサイトへの公開、ご許可頂きありがとうございます。きっとどこかで誰かのなにかのヒントになることがあると思います。多謝。

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