パンニャディカさん 知識は無用か? 2004,5,21,

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曽我様

(1)

和ばあさんと曽我様との、往復mail書簡最新号、読ませて頂きました。
その中に、「知識はじゃまか?」という問答がありましたので、私見を述べさせて頂きます。

仏典に「多聞」をほめる釈尊のことばがあります。仏典では「良く聞き、良く考えろ」と言っています。
釈尊が否定したのは「盲信」であって、「知識」ではありません。
それなのに、なぜ「知識はじゃま」という言葉が、仏教を学ぶ人々の中で流行しているのでしょうか?
それは「概念(施設)は無意味」ということと、混同しているのではないかと思われます。

まず最初に我々は、知識や智慧について、「世間智」と「出世間智」の二つに、分けておかねばなりません。
世間智とは、広く言えば「社会生活を(楽しく・正しく)送るための常識」で、仏教徒なら、「八正道を日常レベルで実践すること」です。
ただ、日本では「八正道を日常レベルで実践している人」は皆無ですから、それよりも、もうちょっと常識的なことで説明してみましょう。
ア、特別な信念や才能がないかぎり、中学・高校(と大学)には行けたら、行った方がいい。
イ、働いて得た、虎の子のお金を預けるのに、勿論、利子のいい銀行にしたいし、その銀行が倒産しては、大変に困る。
ウ、100万円もっていて、煉瓦を買うか、金塊を買うかというのなら、金塊の方がいい。
少なくとも現代社会では、金塊なら、いざというとき換金できて、あなたとあなたの家族の緊急の用に使えることでしょう。
これらは庶民の健全な知識であり、智慧です。どこも間違っていません。
その前に、「この世に仏教があり、それはキリスト教ともヒンディ教とも違うのだ」ということを知っていること自体、「知識」なのではないでしょうか?
凡夫が「知識」を軽視し、「判断の停止」をすることほど、危険なことはありません。
その最悪の例が、オウム真理教です。
凡夫は、よく聞き、よく学び、(世俗のレベルでこそ)ことの善悪を、よく考えなければなりません。

次に、ある人が、よく聞き、よく学び、よく考えて、「仏教とはなるほどいい教えだ」「私も修行しよう」と結論づけたとします。そうしたとき、仏教の修行は、「概念(施設)を止めること」に眼目がおかれます。
ここから、出世間智(の獲得)が始まる、すなわち「出世間のための八正道」を実践するということになります(勿論、修行の初心者が、いきなり出世間智を得る訳ではありませんが・・・)。

では、<概念=妄想=施設>を離れる  とは、どういうことでしょうか?
「この人は男だ(1)」「この人は女だ(2)」「私は美人・美男だ(3)」「名声が得られれば幸せだ(4)」「長生きしたら幸せに違いない(5)」。これらは皆、自分の心が作り出した妄想=概念=施設です。
しかし、通常は、(3)(4)(5)が妄想だとは分かっても、(1)(2)が妄想であることは、容易には分かりません。
それは肉体(あらゆる物質も含む)も心も、エネルギーの流れであって、一刹那毎に生じては滅している「現象」であることを、体験的に観たことが無いからです。
エネルギーは、波動とも言いかえられますが、波動に境目はありません。男性の隆々とした筋肉、女性の嫋々とした肩や腰、それらがすべて、波動として宇宙にとけ込んでいるのを観照したとき、そこにはもう「男の概念」も「女の概念」も成立しません。
「ここに男がいる」「女がいる」と思っていたのが、実はただ「動態視力が劣悪なための思いこみ」に過ぎなかったということが分かるには、瞑想をして、肉体(物質)が単なるエネルギーの流れであり、波動であることを「観なければ」なりません。そこまでの出世間智の修行をしていない人が、「知識はじゃまだ。馬鹿になって生きよう」というのは、とても危険です。

馬鹿になるなら、空(縁起)を観て悟ってからの結果としての「大愚」でなければ、意味がありません。「大愚」を真似した「小愚」は、こざかしく、非常に危険です。

(2)

最近、放送大学でTV放映している「知覚心理学」(毎木曜日10:30〜)という授業を見ました。
そこには、「人間が物を見るとき、実際にはみえないものを、脳で補っている」とありました。
たとえば、10円玉を真上からみたら、正円です。
網膜には正円の像が写っており、脳も正円であると判断します。
ところが、その10円玉を離れたところから見たら、網膜に写る像は楕円形のはずです。ゆえに、脳は「これは楕円形をした10円玉」と判断しなければならないのに、決してそうはならない。
脳は、以前インプットした「10円玉は正円」という(古い)知識を援用して修正してしまい、遠くにある10円玉、網膜には楕円に写っている10円玉像を、しっかり「正円」として認識する、というのです。

似たことが、5月19日の朝日新聞にも載っていました。(「5感(5)」という題です)。
ここでは、耳の場合を取り上げていましたが、2000ヘルツから200ヘルツおきに2600ヘルツまでの音を同時に聴くと、実際にはない200ヘルツの音が「聞こえる」。これは脳が自分で「補正している」ためだ、というのです。肉体(と物質)と心は、一刹那に生じ、次の刹那には滅しているエネルギー体(波動)であるのに、我々がそれらを「変わらずにそこに有るつづけるもの」と思ってしまうのは、我々の動態視力が非常に劣悪なためと、脳が(自動的に、自分の好みに合わせて)補正するから、というのが私の考えです。

そこで、瞑想して禅定力を身につけることで、脳を休ませるテクニックを習得し、脳がむやみに、以前にインプットしておたデータを用いて、ただいま現在、<ing>で脳に届いている情報を補正するのをやめさせ、ついで動態視力をアップさせれば、宇宙の本源が観えてくるのではないか?というのが、私の悟りへのシナリオなのです。いかがでしょうか。ちょっと、出来過ぎでしょうか?(笑)。

パンニャディカ

PS:

(1)例によって、老眼のため、貴HPは、とばし読みしています。読み間違いによる発言がありましたら、謝罪の上、いつでも取り下げます。

(2)最近読んだ本では、(a)「仏教のなかの男女観」(植木雅俊)と(b)「時間は実在するか」(入不二基義)がおもしろかったです。(a)は、パーリ語とサンスクリットをよく研究して、釈尊亡き後、いかに(上座部の)比丘たちが経典に加筆したか、ということを論考したものです。

ブッダダーサ比丘が知ったらお喜びになるかと思います。

(b)難しくて拾い読みしただけですが、P238の右端の絵などは、私の実感と近いものがあります。

ご参考まで。


パンニャディカさんから再び 知識は…?(追加) 2004,5,21,

曽我様

誤解されないよう、追加しておきます。
世間智は、そのまま「世俗の智慧」と訳せますが、その最高のものは、その人を天界へと生まれさせます。しかし、残念がならが涅槃には導きません。世間智とは、あくまで「世俗において利用できる智慧」だからです。
ですから釈尊においては、「天界は世俗の一種である」ということです。

涅槃へ向かうには「出世間智」が必要です(出世間とは、涅槃の別名です)。
いずれは出世間智を得るために、先に世間智を修行するという設定でしたら、その人にとって、世間智は出世間智の基礎、土台になります。

上に述べたとおり、釈尊は、6道の中の「天界」を、世俗の一種としています(6道全体が「世俗」です)。ゆえに、ブラフマンと合体したとしても、世俗からは出ていない、ということです。
ただ、釈尊は「涅槃に行かず、輪廻(生まれ変わり)したい人は、そうするがよい。ただ、三悪道にはいかず、天界、人間、阿修羅の三善道の中にいるのが、幸せである」と言っています。
釈尊は、決してあなたに、生き方を強要しない、のです(笑)。
ご参考まで。


パンニャディカさんから再び 善悪の価値基準 2004,5,21,

曽我様

ついでと言ってはなんですが、前から気になっていた「善悪の価値基準」について書いてみます。

私は子供の頃、日本の僧侶が「何事も、ありのままでいいのじゃ」「良いとか悪いとか言うのは執着じゃ」というのを聞いて、全然理解ができませんでした。

そのため、私の最初の師は、上座部のタイの僧侶ということになりました。

あるとき師である僧侶に「仏教を学ぶと善悪を超えられるのか?(無視していいのか)」と尋ねましたところ、「いや、釈尊は、これは良いこと、これは悪いこと、と明確におっしゃっている」というお返事でした。それで少し安心して、この件について、長い間、自分なりに考えてきました。

以下、一例として、僧侶の食肉のことを挙げてみます。(上座部の僧侶は、自分のために殺した家畜の肉でなければ、食べてもよいことになっているので、今回の例に中には入れません)。

通常、大乗仏教圏の僧侶は、守戒の一つとして、食肉しません。
台湾でも、僧侶は、タンパク質はもっぱら豆腐から取っているようで、そのため僧侶に貧血が多いとのことです(本題と無関係^^;)。
僧侶は、なぜ食肉しないのか?一つは、「殺される家畜がかわいそう」という、慈悲の心から、もう一つは、「肉食すると興奮しやすく、禅定に入りにくいから」と言われています。

ところが、ある種の僧侶、またチベット仏教の僧侶などは、「私は食肉しても、平気。肉が胃腸を通るのと豆腐が胃腸を通るのと、何の違いがある?」と豪語します。
そうですね。大豆は乾燥していても、水につければ芽が出る生き物であり、家畜は、もちろん殺されるのを知れば、悲しげに鳴く、生き物。
どちらにしても、私たちは、さっきまで生きてい命を、殺して食べているわけです。
そして、これらの僧侶はいいます「肉を食べたから興奮して、禅定に入れない?アハハ・・。
甘いなぁ。私は何を食べようが、食べまいが、禅定に入りたいと思ったら、入るよ」と。

仏教でいう「善悪を超える」というのは、修行しないで、頭で考えている段階では、なかなか、分からないのではないでしょうか?
「どうころんでも、エネルギー(私)が、エネルギー(豆・肉)を食っているのには、変わらない」「大豆なら良くて、肉なら悪いというのは、ちゃんちゃらおかしい。どちらも、細胞レベルではさっきまで生きていたのだよ!」というレベルまで、空(縁起)を看破する必要があります。
そして、悟った後に、パフォーマンスとして、他人に肉を食べてみせるか、ベジタリアンで通すかは、その僧侶が、衆生に何を伝えたいか?という、その人の方向性に関わってくるのだと思います。

私が言いたいことは、「ありのままでいいのじゃ」「良いとか悪いとか言うのは執着じゃ」という考えを、縁起を観ること抜きに、「頭だけでこねくった理論」にしてはならない、ということです。

前編のmail 「知識は・・・」 で書きましたが、「大愚」の真似をする「小愚」が、一番危険なのです。

パンニャディカ


パンニャディカさんへ 善悪 動態視力 情報補正 概念 2004,5,26,

拝啓

 和バアさんとの意見交換に応答頂きありがとうございます。

 パンニャディカさんのリターンは、いつもライジング・ボールを叩くというか、ネット際のボレーのように電光石火で返ってくるので、感嘆します。私の方は、タメがありすぎて、三回くらいバウンドした後ようやく打つようなありさまで、テニスならとっくに負けていますね。

 頂いた御意見は、私の考えとほとんど同じです。

 まったくそのとおりだと思います。
 パンニャディカさんのメールに刺激されて思ったこと、それからチョットした相違点など、書いてみます。

< 1、善悪 >

 「してはいけないこと」は、端的かつ具体的に「戒」に示されていると思います。在家者への五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)は、カントの定言命法的な無条件の「ダメ」なのだと思います。

 <ちょっと脱線ですが、法蔵館・仏教学辞典によると、五戒の前四者は「性重戒」で本当に悪い罪の重いものだけれど、最後の不飲酒戒は、それ自体は本来は罪ではないが、世間の非難を避けるため、あるいは他の性罪(本来的罪悪)を引き起こさぬように定められた軽い罪の戒(遮戒)なのだそうです。こんなことに目ざとく反応して、酒飲みの自分をかばおうとするのも、やっぱり罪なのでしょうね。仏教学辞典の編者も酒飲みだったのでしょうか?>

 対して、出家者への戒は、「修行のためには」という条件つきの仮言命法なのでしょう。例えば、正午から翌朝夜明けまで食事を摂らないという非時食戒は、眠くなって修行に集中できなくなるとか、何度も托鉢していると修行の時間がなくなるといった理由からだと想像します。

 ともあれ、釈尊の戒には、すべてきちんとした理由があったと考えます。先ほど「無条件の戒」と言った五戒も、「人と自分に苦を作らぬため」という、言わば「無条件の条件」があるのだと思います。
 (この「人と自分に苦を作らぬため」ということは、仏教のすべてを包む条件だと思います。ということは、逆に言うと、苦を自覚しない人、あるいは苦しんでもかまわないと言う人は、仏教の守備範囲の外におり、釈尊といえども救えなかったのかもしれません。)

 いずれにせよ、私達の自然なあり方は、執着にしばられて、相争い、自分と相手を苦しめています。このような我々に対して、「善悪にこだわるのは執着じゃ」と言うのは、自然な執着を野放しにして、苦をさらに燃え広がらせることになる訳で、まさに悪行の極みだと思います。

 執着を滅することができないうちは、自分の反応に気をつけて、悪をなさないように、苦を作らないように、できるかぎり努めなければならないと思います。戒を守る努力だけでは、執着を滅することはできず、完全に悪を離れ、苦の生産をやめることはできないけれど、努力すれば、次第に少ない努力で多くの悪から離れられるようになる。そのようになれば、無常=無我=縁起を知るための条件が整い、定と慧によって本当にそれを知れたとき、執着は滅せられ、自動的反応が慈悲によるものに変わり、人と自分に苦を作ることが止まり、人の苦を抜くようになる。

 不飲酒戒も守れないくせに、こんなふうに考えています。

< 2、動態視力 >

 無常=無我=縁起をなかなか分からず、「そこにものがある、私がいる」と考えて執着を繰り返す理由を、「動態視力が劣悪なため」とする御意見は大変ユニークで新鮮です。
 無常=無我=縁起は、戯論のレベルでは理解できても、自分のこととして腑に落ちて納得することはなかなかできない。そのためには、如実に目の当たりに見ればいいのだが、動態視力が弱いためにそれができない。ちょうど、テレビのブラウン管を光の点が走っているだけなのに、残像を見て、勝手に意味を盛って、笑ったり感動したりしているようなものである、、、。

 ただ、疑り深い私としては、前のメールに書いておられたように、机などのモノが本当に一刹那毎に生滅を繰り返しているのか、もしそうだとしてもそれが人間に感知できるのか、釈尊のおっしゃる無常=無我=縁起はそこまで極端なものだったのか、という気持ちが未だにくすぶっております。

 パンニャディカさんのホームページの「智慧之光」をプリント・アウトして読んでいますが、その詳細な修行体系・過程には驚くばかりです。ですが、同時に、釈尊の教えはもっとシンプルだったのではないか、という思いも拭い去ることができません。

 これから書くことは、許し難い暴言ととられても仕方のないことで、多くのことを違う視点から御教授頂いているパンニャディカさんとの関係を破壊してしまうかもしれないと恐れつつ、非礼は承知の上、率直な疑念を書きます。大変身勝手ではありますが、素人の頭に浮かんだ素直な疑問として対応して頂ければ嬉しいです。

 「智慧之光」に説かれた上座部の瞑想体系の緻密さは、釈尊の後、時代とともに発展してきたものだと思います。その細密さは、釈尊の教えられた瞑想をより明確化してきたという部分もあるでしょうか、一方で共同幻想的な拡大があった可能性もあるのではないでしょうか?
 こんな失礼なことを申し上げるのは、私自身が「智慧之光」を読んで、その説明の具体さに、瞑想でそれを追体験しようとする気持ちが生まれたからです。また、かつての体験を「あの時のあれは、ここに書いてあるこれだったんだ」と解釈する気持ちも生まれました。つまり、ニュートラルな状態で瞑想するのではなく、指導に基づいて瞑想する結果、体系の追体験が繰り返され、時と人を重ねて指導体系はひとつの方向に過剰に拡大していったということはなかったでしょうか。

 何人もの指導者によって確認されてきた、ということはあるのでしょうが、人は見たいものを見、聞きたいことを聞くという傾向があり、特に瞑想においては体験したいことを体験しがちだと感じます。

 名色の名は、そのつどの反応だと思いますが、量子レベルまで降りて行かなくとも、例えば誉められてはしゃぎ、嫌な人に逢って苦しむ、といった「粗雑」な反応として理解し、一方、色は、さらに緩慢な、新陳代謝でおきかわり、ゆっくりとしかし着実に老い、(時として突然に)死んでいく肉体という現象である。このような理解でも、釈尊の無常=無我=縁起の教えは十分有効なのではないかと思います。
 「机が刹那毎に生滅を繰り返している」ことや、「心が一刹那に何億個と湧いてくる」ことは、正直なところ、私には過剰な拡大のような気がしてなりません。

 しかし、「智慧之光」のこういう言葉にギクリとしたのも事実です。
 <慧が強く、信が弱い場合は、人を邪心に向かわせる場合がある。例えば、自分自らは実際の修行体験が十分でないのに、放縦に他人を批判したり評論したりすることである。彼らは、まるで薬を飲み過ぎて、治癒しがたい病気に陥ったようなものだといえる。>
 こう言われると、私としては「人は体験したいことを体験する。それは共同幻想かもしれない。体験は証拠にはならない」、こう強弁するしかありません。でも、気持ちは不安でいっぱいです。
 私の弱みは、戯論のレベルでしか無常=無我=縁起を知らないこと。目の当たりに如実にそれを見ていません。如実に見るためには、もっと修行せねばならないのでしょうが、その修行の体系にこうも批判的では、まともに修行できないでしょうね。このところ、漠然とした行き詰まり感を感じております。

< 3、情報補正 >

 脳が自動的に情報補正をしており、そのために我々は如実に見ることができないというご意見、まったく同感です。そのつどの情報は、レトルト食品や冷凍食品のように、前意識の段階で周到に下ごしらえされた上で、意識の台所に届けられます。ですから、届いた時にはそれをどう料理するか、どう評価するかは、大方決められていると思います。このことが、我々が何事に対しても、好き嫌いを瞬時に感じ反応する仕組みを作っています。

 自分を守り育て増えようとするのが生命共通の根源的傾向(原執着)であり、その傾向を満足させるために、生物は様々に進化してきました。動物は、自分に有利なものをいち早く発見して獲得し、危険をいち早く察知して逃げることに磨きをかけてきました。たとえばクオリアはそのための仕組みのひとつで、利害に関わる外界の対象をカテゴリー化し、それを代表する理想的イデアをクオリアとして抽出し、免疫システムのようにあらかじめ作り上げておく。クオリアに一定の程度以上合致する刺激を受ければ、そのカテゴリーに対するにふさわしい反応が自動的に発動される。

 情報補正(情報の下ごしらえ)も、同じように進化の過程で同じ目的のもとに築き上げられた仕組みだと思います。事態を性格に把握することよりも、不確実でもいち早く察知して、おそらくそれであろう事態に自動的にすぐさま肉体と情動は反応し、その後でようやく情報は価値評価共々意識のデスクに届けられる。我々は、先に反応してから後で考えるのです。

 利己的遺伝子という考えがあります。遺伝子は、生物個体を使い捨てにして、自己増殖を図っているのだそうです。言われてみれば、人間が苦しみ、苦しめ合いながら、執着に駆けずり回っているのは、利己的遺伝子に踊らされているのかもしれません。だとすると、釈尊の教えは、人間個体の側からの、利己的遺伝子に対する抵抗運動とも言えそうです。

 ちょっと暴走してしまいました。

 情報補正について、前から思っている問題があります。釈尊に錯覚はあったでしょうか?
 例えば、おなじみの >―-< と ←→ の図をご覧になったら、正しく同じ長さだとご覧になったでしょうか?
 私は、仏教とは進化の過程で積み上げてきた反応の仕組み(執着の自動的反応の仕組み)を修正することを教える教えだと思っていますが、では、どの深さまで遡って、何を修正するのか?
 前意識の下ごしらえを根こそぎ破壊してしまえば、おそらく日常生活に大変な不都合が生じると思います。10円玉の例と同じように、誰かが顔の角度を変えただけで、同じ人とは思えなくなってしまう。釈尊は、アーナンダをアーナンダと呼びつづけることはできたのですから、エネルギーの流れとして見る見方があっても、進化の成果である下ごしらえの仕組みを依然として保持なさっていた。おそらく、様々な錯覚もそのまま維持しておられたと想像します。無常=無我=縁起を腹に落ちて分かる、執着の反応を止める、覚るということは、反応の仕組みの大規模な修正ではなく、ホンの些細な、しかし極めて重要な胆の部分の修正ではないかという気がしています。

< 4、概念 >

 概念に対する評価は、パンニャディカさんと私では、随分違っています。パンニャディカさんは、仏教に概念は邪魔とお考えのようですし、私は、仏教に概念は必要と思っています。
 その理由を考えていて、仏教を学ぶステップといったものを考えました。

@ 苦の自覚もない段階 A 苦を自覚し、救い・教えを求める段階 B 仏教に縁を得て、仏教に発心した段階 C 仏教とは何か、戯論・概念で模索する段階 D 確信を得て修行に励む段階

 パンニャディカさんは、Dにおられますが、私はCです。釈尊のおそばにいたのなら、Cはスキップできたかもしれませんが、今の時代、あまた怪しい指が「月はあれ」とてんでの方向を差しており、概念による検討を省くわけにはいきません。そろそろDに行くべきかな、とも思いますが、もうしばらくCでこだわりつづけたいと思っています。また、CとDは重なりあう巾も結構あり、Dにおいても、正しく概念で学ぶことは助けになるし必要でもあると思いますが、如何でしょうか?

                               敬具
パンニャディカ様
         2004、5、26、
                            曽我逸郎

【追伸】 筆が遅くて申し訳ありません。非公開でいただいた(別の)2通のメールへのお返事も、構想を暖めております。(あまり期待されませんように。) それで、その2 通もやはり公開させていただきたいのですが、如何でしょうか? 返事をお送りして からの御返答で結構ですので、宜しく御再考の程お願い申し上げます。

【HP掲出にあたって加筆】上記の2通、掲載の了解を得て、この次と次に掲載。「ブッダダーサ比丘の輪廻・涅槃観」「不可蝕民と現代インド」


パンニャディカさんからの返事 RE:善悪 動態視力 情報補正 概念 2004,5,27,

曽我さま

私の返事が早いのは、最近少々暇なのと、曽我様より長く仏教について考えてきたからです。
年の功ですね、だてに老眼鏡をかけてません(笑)。

< 1、善悪 >

>こんなことに目ざとく反応して、酒飲みの自分をかばおうとするのも、やっぱり罪なのでしょうね。仏教学辞典の 編者も酒飲みだったのでしょうか?
☆聞くところによると、インドなどの暑い国では、椰子の実をその辺に転がしておけば、中の果汁が勝手に発酵してお酒になるが、あまり上等な酒でなく、飲み過ぎると体を壊すということです。
それに、確かに酒飲みは、酩酊して色々失敗することが多いかも知れません。
経験上、お酒を飲むと瞑想出来ないのは確かです(笑)。
> 対して、出家者への戒は、「修行のためには」という条件つきの仮言命法なのでしょう。例えば、正午から翌朝夜明けまで食事を摂らないという非時食戒は、眠くなって修行に集中できなくなるとか、何度も托鉢していると修行の時間がなくなるといった理由からだと想像します。
☆最初、釈尊のサンガでは、日に何度も托鉢に行っていたようです。
在家のほうから「たびたび来られては迷惑だ」と抗議があり、それで「托鉢は一日一回午前中だけ」ということになったとか(他にも物語はありますが、こっちの説の方が無理がない)。
比丘の250もの戒は、共同生活をするための約束事と、修行をしやすくなるための環境作りなどのためでしょう。 「私は、戒によって管理されている」と受け取ると、とてもお寺にはいられないでしょう。
>努力すれば、次第に少ない努力で多くの悪から離れられるようになる。そのようになれば、無常=無我=縁起を知るための条件が整い、定と慧によって本当にそれを知れたとき、執着は滅せられ、自動的反応が慈悲によるものに変わり、人と自分に苦を作ることが止まり、人の苦を抜くようになる。
☆本当にその通りです。

< 2、動態視力 >

> ただ、疑り深い私としては、前のメールに書いておられたように、机などのモノが本当に一刹那毎に生滅を繰り返しているのか、もしそうだとしてもそれが人間に感知できるのか、釈尊のおっしゃる無常=無我=縁起はそこまで極端なものだったのか、という気持ちが未だにくすぶっております。
☆頑固ですなぁ(笑)。パオ僧院に行ったら分かります。彼らが討論していることを聞いたら、仰天しまっせ(笑)。
> パンニャディカさんのホームページの「智慧之光」をプリント・アウトして読んでいますが、その詳細な修行体系・過程には驚くばかりです。ですが、同時に、釈尊の教えはもっとシンプルだったのではないか、という思いも拭い去ることができません。
☆釈尊は悟ったとき、その悟りの内容を、誰かに伝えるのは、無意味だ、私の教えは誰も理解できないから、教えても徒労に終わるだろう、と思いました。シンプルで、誰でも理解できることだったら、なぜ勇躍、すぐにでも、話し出さなかったのでしょうか?
> これから書くことは、許し難い暴言ととられても仕方のないことで、多くのことを違う視点から御教授頂いているパンニャディカさんとの関係を破壊してしまうかもし>れないと恐れつつ、・・・・
☆大丈夫ですよ。質問者が真摯な気持ちで提議しているなら、どのようなことでもOKです。
こちらも何か勘違いして、間違った思いこみをしている場合もありますから、誰かが指摘してくれるのは、とてもありがたいのです。
> 「智慧之光」に説かれた上座部の瞑想体系の緻密さは、釈尊の後、時代とともに発展してきたものだと思います。その細密さは、釈尊の教えられた瞑想をより明確化してきたという部分もあるでしょうか、一方で共同幻想的な拡大があった可能性もあるのではないでしょうか?
> こんな失礼なことを申し上げるのは、私自身が「智慧之光」を読んで、その説明の具体さに、瞑想でそれを追体験しようとする気持ちが生まれたからです。また、かつての体験を「あの時のあれは、ここに書いてあるこれだったんだ」と解釈する気持ちも生まれました。つまり、ニュートラルな状態で瞑想するのではなく、指導に基づいて瞑想する結果、体系の追体験が繰り返され、時と人を重ねて指導体系はひとつの方向に過剰に拡大していったということはなかったでしょうか。
☆まず経典のどの部分が加筆であるか、は慎重に考察されなければなりません。
私は機会があったら、仏典通史を勉強してみたいと思っています。
自分が理解できないからといって、恣意的に「これも加筆だ、あれも加筆だ」ということは危険です。
(原理主義も同じくらい危険ですが・・・)。

釈尊は瞑想を教えなかったのでしょうか?野放しにして「勝手に悟れ」と言ったのでしょうか?
それなら、八正道の正念、正定は何のための、指示だったのでしょうか?

> 何人もの指導者によって確認されてきた、ということはあるのでしょうが、人は見たいものを見、聞きたいことを聞くという傾向があり、特に瞑想においては体験したいことを体験しがちだと感じます。
☆では、釈尊も菩提樹の下で、見たいものを見、体験したいことを体験しただけの、大ほら吹き?
> 名色の名は、そのつどの反応だと思いますが、量子レベルまで降りて行かなくとも、例えば誉められてはしゃぎ、嫌な人に逢って苦しむ、といった「粗雑」な反応として理解し、一方、色は、さらに緩慢な、新陳代謝でおきかわり、ゆっくりとしかし着実に老い、(時として突然に)死んでいく肉体という現象である。このような理解でも、釈尊の無常=無我=縁起の教えは十分有効なのではないかと思います。
> 「机が刹那毎に生滅を繰り返している」ことや、「心が一刹那に何億個と湧いてくる」ことは、正直なところ、私には過剰な拡大のような気がしてなりません。
☆では、釈尊は、なぜ、「一日無常を見る者は、見ないで100年生きるよりよい」と言ったのでしょうか?
「一日だけ無常を見ること」が、具体的に、どういうことか、分かりますか?バラが枯れるのを一日だけ見ているって事?

仏典にこういう話があります。ある日、釈尊のところに他の宗教の人がやってきて釈尊の顔につばを吐きかけます。
アーナンダ達はいきり立ちますが、釈尊は「この人は、自分の怒りを言葉で表せないから、ついつばを吐いたので、本当に言いたいことがあったら、(心を落ち着かせて)ゆっくり言ったらいい」と言います。
その人は釈尊の温情に驚いて、一旦家に帰りますが、翌日戻ってきて、釈尊にお詫びします。すると釈尊は「いや、昨日の私も、昨日のあなたも、もういない」「ここには謝るべき人も謝られる人ももういないのだ」といって、その人が謝罪しようとするのを止めたそうです。この話から分かるように、釈尊のいう無常は、「バラは咲いたら、いつかは枯れる」とか「倒れた木は、いつかは腐る」という無常とは、無常の次元が違うのです。

< 3、情報補正 >

> 利己的遺伝子という考えがあります。遺伝子は、生物個体を使い捨てにして、自己増殖を図っているのだそうです。言われてみれば、人間が苦しみ、苦しめ合いながら、執着に駆けずり回っているのは、利己的遺伝子に踊らされているのかもしれません。だとすると、釈尊の教えは、人間個体の側からの、利己的遺伝子に対する抵抗運動とも言えそうです。
☆この本は私も読みました。とても参考になりましたよ。
>釈尊は、アーナンダをアーナンダと呼びつづけることはできたのですから、エネルギーの流れとして見る見方があっても、進化の成果である下ごしらえの仕組みを依然として保持なさっていた。
☆エネルギーの流れとしてみるのが出世間智で、アーナンダと呼ぶのは、世間智です。世間智なくして日常生活はできません。

< 4、概念 >

> 概念に対する評価は、パンニャディカさんと私では、随分違っています。パンニャディカさんは、仏教に概念は邪魔とお考えのようですし、私は、仏教に概念は必要と思っています。
> その理由を考えていて、仏教を学ぶステップといったものを考えました。

>@ 苦の自覚もない段階 A 苦を自覚し、救い・教えを求める段階 B 仏教に縁を得て、仏教に発心した段階 C 仏教とは何か、戯論・概念で模索する段階 D 確信を得て修行に励む段階

☆私が使った概念という言葉の内実は、仏教用語では、施設(セセツ)と呼ばれているものです。
たとえば「これは黄色だ」と言ったとき、その人は動態視力が悪いのです。色というのは虹を見ても分かるように、限りなくグラデーションされていて、これが「黄色だ」と指定出来る部分はありません。
それをあえて区切り(分節し)、言葉で表そうとするのを概念化、仏教用語では施設(セセツ)というと私は理解しているのですが・・・。私もこの辺は十分理解していないので、上手に説明できなかったかもしれません。
>【追伸】 筆が遅くて申し訳ありません。非公開でいただいた2通のメールへのお返事も、構想を暖めております。(あまり期待されませんように。) それで、その2通もやはり公開させていただきたいのですが、如何でしょうか? 返事をお送りしてからの御返答で結構ですので、宜しく御再考の程お願い申し上げます。
☆私が非公開にして貰っているmailの多くは、「ちょっと言い過ぎかな?」「老眼だから、どこか読み間違っているかも」という危惧のあるものです。曽我様が読まれて、私に悪意のないこと、これらの文章が仏教の勉強をしている人たちに役に立つ、とお考えでしたら、公開されても結構ですよ。

パンニャディカ


パンニャディカさんから追加 本源 2004,5,27,

曽我様

> パンニャディカさんは、ここで「宇宙の本源」を肯定的に捉えておられるように見えますが、この文の主旨は、情報補正を止めることと動態視力を向上させることであって、本源については、筆(キイボード)が滑っただけ、けして本源を主張しておられるのではない、と思いますが、それで宜しいでしょうか? ここでの「本源」という言葉は、「生滅を刹那毎に繰り返す現象としての宇宙の本当のあり方」といった意味だと思いますが、そうですよね。
> 仏教は、現象を超越する本源(例えば「梵」)というような考えを、断固拒絶する思想だと考えています。
☆仏教は、<梵>を世俗の一種とみなして、目標とはしておりません。
仏教の目標は涅槃です。
涅槃とは、「言語の道断するところ」故、体験はできても、言葉で説明はできないということです。
私は宇宙の根源=涅槃という意味で使いました。
パンニャディカ

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