和バアさん クリシュナムルティ 知識は邪魔 2004,4,24,

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曽我さん、お久しぶりです。

まるで、思いつくままに出してしまったメールに数々、このままではあまりに節操がない。と反省しています。

曽我さんサイドから見ればあまり変わりないかもしれませんが、私なりにまとめてみました。

クリシュナムルティ・・・この言葉はラリー著のブレスbyブレスに出ていた名前です。どこかで目にした言葉が・・・と思っていたところおもわぬところにありました。

なんと、インターネットのお気に入り欄にはいっていました。ここは、ダンマパダの解説を調べているときに見つけ、後でゆっくり閲覧しようと思っていたところです。

オーメン講話とか出ていたので無学な私はてっきりちょっといかがわしい霊なんかを扱っているホームページと勘違いし放っておいたHPです。

早速目を通してみてびっくり、クリシュナムルティとは人の名前で20世紀始めごろの人、ブッダの説にとても共通するところがあります。

オーメン講話4回まで目を通して感じたこと、
現代人がしている選択とは片方から片方への逃避である、ということ。
ある社会とか宗教とか組織とかに誠実である前に素直であるべきだ。
ここの誠実とはその社会内での良い子ちゃん。って意味かな〜
素直とは裸の自分として、人間として、とのことらしい。誠実に自己修練することは生にとっては無駄なこと。

このあたりは、なんとなく感じはつかめるが自分の言葉にはできない。

選択するという事は2元性を持つ
例えば善と悪・苦痛と楽しみ・報いと罰・観察する人(自分)と観察される人(自分)・という対極がある。{選ぶことは逃避することである。片方から片方へ(極端から極端へ)}選ぶときに私が選ぶ・・で「私」ができる。(このあたりは無我と繋がるものがある)でもこの私は幻影でしかない。

クリシュナムルティは物事は簡単だって言っている。考えすぎるな。知識は邪魔をする。何の?物事を正しく判断することに。

一遍上人・・・最後には自分の考えたことは全部捨て去った。

実践では考えることは邪魔なのか。邪魔だよな〜
だって、瞑想できないもの、
でも、いまさら探求はやめられない。(これも間違いなく執着)
仏教の教義とか教えとか真理とか考えていたら瞑想はできないね。
息を吸いながら心はそのあたりをさまよっているからね。
かといって、他にもいろいろなことが頭に浮かんできて、結局は一緒なのかな。

クリシュナムルティの話も、スマナサーラ長老の話も、ラリー・ローゼンバーグもみんな知識は邪魔だと申しております。

わかっているんだよね、執着なんです。心が何かないか、何かないか、とうろうろさまよっているのがとてもよく分かる。

沢木老師・田中さんの話では彼も何も持たない人だったとか、クリシュナムルティも財産・肩書き・権威等々は真に価値あるものであるかどうかを自分で気づきなさい。と言っている。

例えば執着ならその執着していることに対してもっと近ずきなさい。そうすればそれが真に価値あるものかどうかを知ることができると・・・・

仏陀やクリシュナムルティの言わんとすること、

(死に対する態度として)自我のない状態とは、例えば花が咲き萎れて枯れていくのと同じように自分の死を捉えることができるってことでしょうか。私は、無意識にも自分はとても大事で特別なものなのよ、と思っているけど、この世に生まれてきたのには、きっと重大な使命があって、(ん、ちょっと違うか)自分こそは、と思う何かがあって(何があるのか?)

そんな私が、簡単に死ぬわけないとの思い込みがあるけど、それは全て幻影、これは真理だよね。

で、自分ではちゃんとその幻影に気づいてるけど、認めたくないのか〜私は。ここが知識?

瞑想すれば認めたくない私がなんとかなるのか?私がなんと何処にもないことに気がついて自然に今までのツッパリが消えてしまう、のかな?

田中さんと座禅の話をしていて、座るのは気持ちが良くてリラックスできるけど、どうも禅定(集中)までは行かない、と言うと、座禅は空になることではない、そんなことただの人(われわれ)には無理だから気持ちよければそれに浸っていればいいのでは、ただし、その思いにとらわれてはいけないけれど、とのこと。

はい、ちゃんと呼吸に帰ってくるようにしています。とらわれないで、(禅定に)リラックスすることにします。

長々すみません。もう一息です。

まずイラク人質事件から、日本人5人は全員無事に解放されました。よかった。

私は、日本人として彼らの行動にもっと自己責任を持ってほしかった。との感想を持っていました。(大方の日本人がそう思ったのでは)政府までが救出にかかった費用の一部を自己負担させるべきとの意見が出ていました。仕方ないかなあと肯定もしていたのですが、

アメリカの高官が(パウエルさんか)人質になった人たちを責めてはいけない。危険を冒す人がいなければ社会は進歩しないとのコメントを発し、フランスの高官(誰だっけ)は日本人は人道主義に駆り立てられた若者を誇るべきとのコメントを出しています。

この差ってなんだろう。先日、田中さんにも言ったことがあるけど、キリスト教では人道的な活動、例えば孤児院だとか、マザーテレサで有名な貧しい人たちへの援助とかにとても熱心だけれど仏教徒でそういう話しあまり聞かない。

大乗仏教は大衆を救うとかって言ってるけど、そちらの方でもあまり聞かないよね。ヨーロッパ系というか白人て、赤十字軍にも見られるように宗教戦争もすごいけど人道運動もすばらしいものがある。

感情がとても豊かなのかな?

今とても自分の考えたことを人に言いたくて仕方がない。

これは、自惚れ?確認?それとも共感を求めているのか・・・たまに頭に浮かんできたことを人に話したくて仕方なくなる。

曽我さんが意図しているものとは全く離れた内容のものかもしれないのに(ごめんなさい、意図を読み取ることができなくて)送りつけてしまいます。


和バアさんから再び 補記 2004,4,24,

今朝、無記名でメールを送ったのは私、和バアです。全く悪気なく名乗るのを忘れていました。
また文中、田中、と人名が出ていたのは、私を仏教に目覚めさせてくだすった浄土宗の信徒さんです。自分だけの覚書のつもりで書き溜めていたもので、書き直さずそのまま送ってしまいました。重ね重ね申し訳ありません。
これからのホームページも楽しみにしています。やわらかい曽我さんの文章は気持ちをやさしくしてくださいます。
また、くだらないメールをお送りするかもしれません。ちょっと趣旨が違うよ、と思われるときは遠慮なく指摘してください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。


和バアさんへの返事 梵我一如の焼き直し 2004,4,28,

前略

 お返事遅くなりました。

 クリシュナムルティは名前だけしか存じ上げませんので、何も言えませんが、<自然・素直・ありのまま・本来のあり方を主張し、思考や「はからい」を禁止する>のは、一般的に言って、<純にして善なる超越的実在・本源を想定し、我々はそれを分有している>と考える梵我一如の焼き直しであり、釈尊の仏教ではない、という批判があります。駒澤大学の松本史朗という先生が、このような視点でユニークな議論を展開しておられるので、図書館などで見つけられたら一度読んでご覧になると刺激的かと思います。
 私自身、この傾向のメールを最近たくさん頂き、この間違った「仏教」が如何に勢力を持っているか、痛感させられています。そのうち小論でまとめて分析・批判しようともくろんでおりますので、その暁には、また御意見御批判を下さい。

 釈尊の仏教は、無常=無我=縁起であり、インドの伝統的な梵我一如とは対立します。ヴィパッサナーも、自分自身が無常=無我=縁起であることを実直に観察することだと思っています。03年12月04年2月の toyouさん、妹尾義郎さんとの意見交換を御一読頂ければ幸いです。

 それから、最近Pannyadhikaさんという方からメールを頂いていますが、この方もヴィパッサナーには一家言もっておられるようで、なかなかおもしろいです。台湾の仏教の活発な活動ぶりも紹介してくださっています。老眼でサイトを見づらいそうです。和バアさんより年上でしょうか。因みに、私も老眼が出始めており、箸に乗せた食べ物が、口に入れる少し前でピンボケになります。

 散漫なメールで失礼しました。
                               草々
和バア様
       2004、4、28、                   曽我逸郎


和バアさんからの返事 梵我一如 2004,5,8,

お返事ありがとうございました。
和バアです。
最初にクリシュナムルティは仏教徒ではありません。
ややこしい名前を持ってきて誤解させてしまいました。
彼は、宗教、組織、団体といったものを否定しています。

 クリシュナムルティは名前だけしか存じ上げませんので、何も言えませんが、<自然・素直・ありのまま・本来のあり方を主張し、思考や「はからい」を禁止する>のは、一般的に言って、<純にして善なる超越的実在・本源を想定し、我々はそれを分有している>と考える梵我一如の焼き直しであり、釈尊の仏教ではない、という批判があります。駒澤大学の松本史朗という先生が、このような視点でユニークな議論を展開しておられるので、図書館などで見つけられたら一度読んでご覧になると刺激的かと思います。
ここのところで悩んでしまいました。
私の中の梵我一如とはアートマン=ブラフマンです。
アートマンとは自我のことですよね。そして自我とは「私」とか「私のもの」といった心の働きですよね。
「私」が死んだら、私は自然に帰ります。今は火葬されますがそれでも煙となって自然に帰っていきます。
大きく解釈すれば宇宙(ブラフマン)の中に帰っていく?
いや、今現在も(生きている今このときも)宇宙の中にいるわけですね。
ひょっとしたら、浄土宗の阿弥陀仏思想も梵我一如なのでしょうか?

クリシュナムルティは確かに<自然・素直・ありのまま・本来のあり方を主張し、思考や「はからい」を禁止する>とは言っているのですが、(そのためには今の自分に気づきなさい。)と言われています。
・・この気づきはヴィパッサナーと同じものと思います。
ただ、勤めよ、努力・精進せよ。とは言わない。反対に努力はするな。(ここがブッダと大いに異なるところです。)
宇宙は大いなる意思を持っている。(梵我一如の解釈です。間違っていますか?)=大いなる神には私は疑問に感じます。が、クリシュナムルティの真理と呼ぶものにはうなずいてしまうところがあります。
ただし、人の意見にすぐに応じてしまうところのある私ですが、

pannyadhikaさんの意見交換メール読ませていただきました。
仏教に対してとても深く理解しておられて、また瞑想の方もとても進んでいるご様子で、私のように家でちんたらと一時間ばかり座っているのとは雲泥の差があって、なんともはや・・・という感じです。
台湾での仏教会の活動も心たのもしく拝見しました。
曽我さんも以前の意見交換の中で、菩薩道に触れておられましたが、私はやっぱりうれしいです。
HPの方にも行ってきました。これは、読みこなすのに時間がかかりそうで気合を入れなおしてみます。

因みに、私も老眼が出始めており、箸に乗せた食べ物が、口に入れる少し前でピンボケになります。
今年の免許更新で、近眼と言われました。友達にその年で〜と不審がられましたが、原因ははっきりしています。パソコンのやりすぎ・・・・・
最近は頭痛までしてきたので、HPのどうしても気になるページは印刷して後で読んでます。
ながながと書いてしまいました。
またお付き合いいただければ幸いです。


和バアさんから再び 梵我一如 阿弥陀信仰 2004,5,13,

再び和バアです。
とんちんかんなメールばかりですみません。
さっきお風呂に入っていてとんでもない思い違いに気づきました。

曽我さんへのメールで阿弥陀思想が梵我一如にあたるかどうか?いったい何考えているんだか、梵我一如そのものです。

阿弥陀様という衆生を救いたいという願いを持った大きな自然というか宇宙と一体になるんですから。

私が言いたかったのはそうではなくて、阿弥陀思想は全くの方便で、人間が今こうして生きていることも、死んでいくことも宇宙の中に含まれていることで、そのこと自体は、梵我一如には関係ないことで・・・・ってことです。

クリシュナムルティの思想は梵我一如ではってことから話が暴走してしまいました。

仏教にはたくさんの経典があってそれぞれにすばらしい話があって、昔からいろいろな人が自分なりの解釈をしています。(もちろんその中には後から作られた偽経もたくさん含まれているしそれらの教えの方が正しい仏教だということが長い間信じられ現代に至っているのですよね)

でも、それだけでは語りつくせないのが仏教の悟りといわれているものでは?言葉を超えた、言葉で言い尽くせない真理。これはもう自分で体験しないことには分からない世界ではないでしょうか。無常=無我=縁起の世界もひょっとすると言葉だけで捉えている世界と、体験した世界とでは感じ方が全く違うものかもしれない。

先のラリーの「呼吸による癒し・ヴィパッサナー瞑想」を読んだときに強く心に浮かんだことはこのことでした。そして、ラリーの著書の中で、最初の師として紹介されていたクリシュナムルティに関する記述をよそのHPで読んだときにも同じように感じました。

この本以前に、テーラワーダ仏教からの縁でヴィパッサナー瞑想を知り、スマナサーラ長老のビデオで覚えた瞑想法で夜寝る前にほんの気休め程度に座ってはいたのですが、ただスローモーションで、ラベリングしながら対象に注意を向ける、というやり方では先が見えず、瞑想会にもなかなか参加できないもどかしさに挫折しかけていたときにラリーの本に出会い具体的な瞑想のステップやその中から見えてくる現象に数々に再びやる気が湧き上がってきました。(この本の中には曽我さんが心強く動かされたブッダッダーサのこともでてきます。)そこで、一番初めに出したメールの「瞑想に行きたくて仕方がないよ」となったわけです。残念ながらいまだ一日瞑想会にすら参加できていないのですが、いつかは私も悟りの境地にまでたどり着きたい。(今、突然に思い浮かびました。今までは、もうちょっと強い意志を持ちたいなぐらいにしか思っていなかった。)

きっとブッダは誰にでもたどり着けるであろう道筋を示してくれているのだと思います。(ラリーはそう言っています)事実、仏陀の時代には多くの悟った人びとがいたということですから、そこに希望をつなぎたい。と思いつつ、Pannyadhikaさんだっけ、に聞きたい。在家の欲にまみれた生活をしている人間でも、瞑想すれば悟りは開けるのか?と


和バアさんへの返事 梵我一如型「仏教」 2004,5,19,

拝啓

 返事が遅くなり申し訳ございません。たくさんメールを頂きました。

 梵我一如化した「仏教」について小論にまとめる、などと見栄を切りながら、ちっとも捗っておりません。集中力がますます低下しています。猪に掘り崩された畔に土を盛り返したり、普段手を抜いている農作業をしているせいでしょうか。力仕事の後、ついつい多めにお酒を飲んでしまうせいでしょうか。
 言い訳はさておき、ともかく予行演習のつもりで梵我一如的な仏教について書いてみます。

 まず、その「仏教」をなんと呼ぶべきでしょうか。梵我一如化した「仏教」、、、本源を想定する「仏教」、、、。(因みに、「仏教」とは、仏教を自称し、仏教と思われてもいるけれど、本当は仏教ではない「仏教」のことです。) 先のメールで御紹介した松本史朗先生の言い方だと、「ダートゥ-ヴァーダ」(基体説)でしょうが、インドの言葉の知識がないとスター・ウォーズみたいでピンと来にくいですね。

 要は、「あらゆるものの根源に、すべての対立を超越した唯一の絶対的な根本原理を想定し、世界はそれから生まれた、世界の全体はそれである、あらゆるものにそれが内在している、そしてそれは絶対的に肯定されるべきものである、と考える」考え方に影響された「仏教」です。
 梵我一如は、この考え方の一番分かりやすい例です。「世界は梵から生まれ、世界はそのまま梵であり、あらゆる事物は梵の現れである。我々もまたしかり。」

 ただし、単に世界の本源を考えるだけなら、ビッグ・バン宇宙論にもあてはまります。また、我々が死んで焼かれて煙になって世界に拡散していくのは事実であって、そのことをどれだけ重大に捉えても、梵我一如型の思想にはなりません。

 ビッグ・バンは、人も、地球も、宇宙のあらゆる事物も生み出した、と言われています。それは、(ビッグ・バン仮説が正しければ)事実でしょう。でも、だからといって、ビッグ・バン宇宙論は、我々に「ビッグ・バンに従って生きよ」などとは言いません。価値的に絶対肯定しなければならないものでは全くありません。ただ、そうなった、今こうである、それだけのことです。我々の眼から見て、ある時ある部分は美しく、別の部分は殺風景で、また不気味な所もあるでしょう。それは、我々がそう感じるだけで、ただそのようにあるのです。すべては、ただそうなっただけで、価値的にはニュートラルです。

 ビッグ・バン宇宙論と、梵我一如型思想との決定的な違いは、後者が、<本源=世界の全体=すべてに内在するもの>を絶対的に肯定せねばならないとする点です。

 梵我一如型思想では、本源は、「善でも悪でもない。美でも醜でもない。そのどちらでもない。なおかつ、どちらでもある。」などと言われます。そのような人間的価値判断を超越していると主張されます。しかし、ともかく、それは絶対的に肯定されねばならないとされます。
 そして、すべては、つまり我々自身も、その絶対的に肯定されるべき本源が展開したものである、と考えます。つまり、我々自身も、本来的には絶対肯定されるべきものだと主張されます。

 だけれども、現実には、苦があり、不幸があり、欲や憎しみや怒りや妬みなどの明らかに良からぬ感情があり、不正があり、悪があります。絶対肯定される本源から生まれた我々に、なぜ否定されるべきものがあるのか?
 この矛盾をどう整理し、説明するか、それによって梵我一如型思想にもいくつかのタイプが生まれます。

◆A 我々の本質・本体(アートマン)は、本源(梵)と等しく良きものである。しかし、本質ではない悪しきものが、その働きを邪魔している。

 Aには、さらにふたつのタイプがあります。

  ◎A-1 本源(梵)と等しいアートマンは我々の霊魂であり、悪しきものは肉体である。肉体が霊魂の働きを阻害している。だから、肉体の作用を弱めれば、霊魂(アートマン)は本来の梵と等しい働きを回復する。
  ⇒苦行主義

  ◎A-2 我々は、もって生まれた本質のまま素直であれば、本源(梵)そのままに良きものである。にもかかわらず、我々は、要らぬことを考え、要らぬ努力をする。その結果、悪しき欲を生みだし、良からぬものを生み出す。考えることをやめ、賢しらなはからいをやめ、自然のまま、ありのままでおれ。無心となれ。無となれ。そうすれば、本源と等しく、絶対的に良きものに戻れる。
  ⇒無為自然主義、無執着主義

◆B 「良からぬ感情だ」などと評価するのは、はからいである。どんな不正も悪も、本源(梵)から生まれた。それを不正だ、悪だ、欲だ、と賢しらにあげつらってはならない。すべては、本源(梵)の現れだ。「これはいい、これはダメ」などと浅知恵で評価せず、すべてをそのままに肯定せよ。自分を肯定せよ。本源(梵)の現れに、悪のある筈はない。
  ⇒全肯定主義、無批判主義

 それぞれを批判的にコメントします。

 まず、Bの全肯定主義は、一昔前のテレビ時代劇で、大奥に出入りする僧正が、「色即是空、空即是色じゃ、デヘヘヘヘ」と自分の欲望を全肯定するのが、端的な例です。この考えからは、犯罪も戦争も差別も搾取も、あらゆる悪しき感情も、皆一様に「それもまた本源の現れ」と肯定されることになります。
 これは、最も進化した形の梵我一如型思想と言えますが、健全で常識的な感覚からすれば、明らかに変ですので、まともに扱われることはほとんどありません。
 この立場に立つ人は、たいてい恵まれており、犯罪・戦争・差別・搾取、その他様々な悪の犠牲になっていない人です。

 A-1の苦行主義は、釈尊が「無益である」と端的に否定されました。「肉体を痛めつけても、アートマンが健やかに働き出すことなどはない。かえって精神的な働きに異常をきたす。アートマンの働きと考えられてきたものも、肉体の状態に影響されている。つまり縁起の現象だ。独立自存のアートマンなどない。」 これが釈尊による未曾有の発見でした。
 私は、菩提樹下の覚りよりも、苦行放擲の瞬間の方が、釈尊にとっては重大であったのではないか、と想像しています。苦行放擲の時、釈尊は、既に「アートマンなどない、縁起しているだけだ」と気づかれた。しかし、それはあまりに常識はずれのひらめきだったので、釈尊はじっくりと時間をかけて検証なさる必要があった。無我=縁起は、あらゆる「もの」にあてはまり、のみならず、無我=縁起を知ることが執着の反応をとめ、苦の発生もとめることが確認され、確かにこれで間違いないと確信された。それが7日間の瞑想だったと思います。

 A-2の無為自然主義、無執着主義は、現代日本の「仏教」に一番広く見うけられる傾向だと感じます。和バアさんも、何度か耳にされたことがあると思います。おそらくそれは、自信たっぷりの、もったいぶった、意味ありげな雰囲気で語られていたのではないでしょうか。そのもっともらしい響きに騙されて、つい「なるほど」と納得してしまいそうになりますが、では、実際の生活の場にあてはめて、「自然のままでいよう、はからいをやめよう、ありのままでいよう」としたとして、一体どうするのか、具体的指針になり得るのでしょうか?
 <足を踏まれて、ついむっとして睨みつけた。>
 ・・・これは、ありのまま、自然のままで、よいことなのか?
 <テレビでラーメンを特集していて、見ていたら食べたくなって、車を30分飛ばしてお気に入りのラーメン屋に行った。>
 ・・・食べたくなるのは自然で、車を30分運転するのははからいか?
 <何か資格がないと不安なので、夜、専門学校に通う。>
 ・・・賢しらなはからい?
 <日曜早起きして禅寺で足の痛みを我慢して坐る。>
 ・・・不自然な努力?
 <毎週頑張って通っていたら、癖になって、寺で坐らないと気持ちが悪い。>
 ・・・こうなれば自然?
 ひとつの行為が、自然なありのままの行ないなのか、はからいなのか、分けることは不可能だと思います。釈尊は、戒によって「ありのまま」ではいけないことを具体的に教えられましたし、「努め励めよ」と努力を奨励されました。
 また、A-2は、言葉や思考を否定します。それは「賢しらなはからい」だとされるからです。しかし、本人達には自覚がないのですが、無為自然主義・無執着主義は、梵我一如型思想という観念的思い込みの産物であり、言葉・戯論の暴走はとどまるところを知りません。「執着してはいけない。執着してはいけないということに執着してもいけない。執着するのでもない、しないのでもない、それが中道だ。、、、」もったいぶっただけの無内容な言葉遊びに陥っていると思います。
 まるで饅頭のように、人間を「良き餡子部分」と「悪しき皮部分」の単純な二層構造で想定するという間違った観念に基づいているため、A-2は、「無為・ありのまま 対 はからい」という単純な二分思考に陥っています。
 【HP掲出にあたって加筆 04、5、20】
 (主旨をより明確にするため一言補いたい。仏教の立場からすれば、自然なありのままの状態とは、執着に導かれた自動的反応を繰り返して、人と自分に苦を与えている状態である。それを正しい努力によって苦を抜く慈悲の自動的反応へと改変することが仏教である。)

 ついでにもうひとつ、このような梵我一如型思想もあります。

◆C 森も山も海も空も星も、すべてが本源の現れである。人は、大自然と一体となり、その息吹を感取し、そこに溶け込んで生きることに喜びがある。
  ⇒自然礼賛主義

 自然礼賛主義は、原始的なアニミズムであり、現代的なエコロジー思想と結びつく傾向があります。「仏教」における典型的な例は、草木国土悉皆成仏とか無情説法などです。

 私は、森や水や雲を見ることが大好きで、外の自然と縁起しあっていることを感じることが、私の無我=縁起の理解の出発点でした。ですからCには共感を覚えますし、アニミズムやエコロジーを批判する気持ちもありませんが、残念ながら、これを仏教だと考えることは誤りだと思います。初期経典には、自然の礼賛はほとんど見つけることができません。たまにあっても「楽しい」とか「清清しい」といったレベルで、「大自然の荘厳さに感応する」といったトーンは、私の知る限りありません。

 ところで、なぜ、梵我一如型思想は、本源を絶対的に肯定せねばならぬ、と考えるのでしょうか。「ビッグ・バンのままに生きよ」とは誰も言わないのに、なぜ本源(梵)には絶対的価値があるとされるのか?
 正直に申して、私の「あたりまえ、、般若経」の空解釈は、A-2的な傾向もB的傾向もCもあったと反省しています。私自身なぜ本源とそこからの生成を全肯定したか、振りかえって考えてみると、無自覚な自動的思い込みだったとしか言い様がありません。同じ傾向は老荘思想にも見られ、一神教の神秘主義にも見られますし、大乗の中にも夥しく蔓延っていますから、多分、この考えは、人類共通の自然な発想なのでしょう。(しつこいようですが、「自然な」という形容は、「良き」とか「肯定すべき」という意味ではありません。「ぼんやりとしていると陥りやすい」という意味です。)

 では、釈尊ご自身は、本源についてどう考えておられたのでしょうか。無記をもって対応しておられたと思います。世界を生んだ本源があったのか、なかったのか、それは分からない。分かったところで、何がどうなるものでもない。どうでもいいことである。
 はっきりしているのは、今我々がそのつどの縁にそのつど反応し、縁によって生まれているということ。縁によって生まれ、反応することで周囲に縁を振りまき、また自分という反応の起こり方も形成されていく。その過程で、人と自分の苦を抜くこともあるし、逆に苦を作ることもある。良い反応も悪い反応もする。自分の反応の仕方を整え、自分を観察し、自分が無常にして無我なる縁起の現象であると正しく知って、ありもしない<自分>を守り育てようとする執着の自動的反応を停止せよ。
 これが釈尊の教えだったと思います。つまり、梵我一如型思想の否定でした。ところが、梵(ブラフマン)も我(アートマン)も様々に名前を変えてすぐに蘇り、仏教を「仏教」に変質させて行きました。仏教というかつての古城は、今やA-1やA-2やBやCなどといったゾンビ達が徘徊する廃墟になってしまったかのようです。

 清潔で手入れの行き届いた城にもどるように、少しでも役に立てればというのが、私の気持ちです。

・・・・・・・・・・・・・・・・
 最後に、阿弥陀信仰について思うところを書きます。

 私は、阿弥陀信仰は、梵我一如型思想ではないと思います。
 梵我一如型思想では、自己は、絶対肯定されるべき本源と一体であり、自己もまた本来肯定されるべきものとして捉えられています。(自己≒本源)
 しかし、阿弥陀信仰では、自己は、どうしようもない徹底的にダメな救い難いものとして捉えられます。対する阿弥陀は、自分とは一切の共通点がない対極であり、絶対的他者です。(自己≠阿弥陀)
 絶対的他者による一方的救済を説く阿弥陀信仰は、釈尊の仏教とも異なるでしょうし、梵我一如型「仏教」でもありません。「仏教」の中では異質なもののように感じます。清水結子さんという方が、メールで「阿弥陀信仰はキリスト教の真似のように感じる」という主旨を述べておられます。キリスト教かどうか分かりませんが、西域の異教の影響を受けているという学説もあるそうです。確かに、一神教に近い考え方のような感じもします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
 和バアさんを出しにして自分の課題を試みてしまいました。申し訳ありません。

 瞑想会については、試しに参加してご覧になればと思います。いろいろな事に気づかれるでしょうし、納得されることも、幻滅されることもあるかもしれません。どういう展開があるにせよ、なにごとも体験してみると一気に視界が開けるということがよくありますから。

 また御意見・御批判をお聞かせ下さいませ。
                              敬具
和バア様
      2004、5、19,                曽我逸郎


再び和バアさんへ 言葉と体験 2004,5,20,

前略

 昨日お送りしたお返事、重要なテーマが抜けておりました。

無常=無我=縁起の世界もひょっとすると言葉だけで捉えている世界と、体験した世界とでは感じ方が全く違うものかもしれない。
 まったくそのとおりだと思います。言葉で学ぶことと、自分のこととして実感で理解することは、まったく違います。よく使う喩えでいうなら、人は皆死ぬということを知識としては誰でも知っているけれど、実際に死を目前にしなければ、なかなか人は、自分が今現に刻々と死につつあるということを実感できない。
 自分が無常=無我=縁起であること、それは自分が今現に刻々と死につつあるということでもありますが、そのことを目の当たりに見るという体験が、実感として納得するためには必要だと思います。そのための体系的技術がヴィパッサナーではないかと思っています。

 ただし、最初から「言葉を超えた、言葉で言い尽くせない真理」を期待することには危険があります。それは、非常に容易く「梵」に摩り替わります。現象を超えた「何か」を体験したい、それとひとつになりたい、という気持ちになります。そして、人は見たいものを見、体験したい体験をするものです。

 小論集で紹介しているブッダダーサ比丘(の英訳)は、「disenchantment」という言葉を使っています。「enchantment」(魔法・魅惑)の反対語で、つまり、「魔法解除」、「これまで執着してきた対象が執着に値しないものであったと目が覚めること」という意味合いだと思います。仏教は、現象を超越する価値を夢想する教えではなく、執着の対象(なにより自分)が執着すべきではない現象だったと気づくことを教える教えです。

 現象を超越した存在を妄想するという間違いに陥らずに、無常=無我=縁起を目の当たりに見る体験をするためにはどうするべきか。
 そのためには、言葉による学習が必要だと思います。釈尊の教えを様々な角度から学び、検討し、考える。その手続きがなければ、容易に梵我一如型「仏教」に陥ってしまいます。

 言葉による学習、そしてそれを自分のこととして実感をもって体得するための瞑想。その両方が必要だと思っています。

                               草々
和バア様
      2004、5、20、                   曽我逸郎

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