Pannyadhikaさん 曽我への返事 一刹那に何億個と湧く心、他 2004,4,26,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

曽我様

曽我様の文章には、いつも誠実さを感じます。
ですから、お互いに意見が正反対でも、no problem です(笑)。
(仏教について)一生懸命考えていると、人間、どうしてもしつこくなりますよね。
それで私もよく(HPの中で)嫌われるんです(笑)。。

>◎ まず(2)のサンカーラから。
> 瞬間瞬間のサンカーラと生まれ変わりとは別である、との御意見、全く同感です。
☆認めて頂いてありがとう。ブッダダーサも、ほっとしているでしょう(笑)

>◎ (3)、(4) 時間論については、、、
>・・・過去と現在と未来の時間は、<現在の一点>にたたみ込まれている・・・あるのは「今」という「点」。時間も空間もない・・・
☆これは量子力学の本を読んでいて、出会った言葉です。
これだけでは、私もピンとこなかったのですが、「神との対話(3)」を読んだ時 に、同じようなことが書いてあり、私が長い間抱いていた「涅槃とは何か」という疑問への、自分自身への回答となったのです。
ちょっと理論立てて言えないですね。いままでの修行体験とか、諸々の体験が一体となった、直感みたいなものかな。
私の師であるタイの僧侶が10年ほど前、「定に入っていると、まずしい親子の姿が見えた。そのときは、どういう意味があるのか知りもしなかったが、翌日二人が定で見たままのよごれた服装で、お布施を持ってお寺にやってきたときは、仰天した」と言ったことがあります。
その時に、なぜ未来を「見ること」ができたのか、時間とは直線ではなく、曲線かも知れない、というようなことが、話題になりました。
また、私は、航空機事故の「預言」を「聞いた」ことがあるのです。
某年のある日、台湾から東京へ帰国しようとして、3(5?)月20日〜30日の内の、空いている日の座席を予約しようとしたとき「25日のホンコン行きに乗るな」という声が虚空で聞こえたのです。
恐ろしくなって23日の飛行機にして、東京に帰ってくると、25日にホンコン行きが落ちたのです。
私は物理学者ではないので、時間論を筋道を立てて説明することはできないのですが、こういういろいろな体験から、「時間は今という一点にたたき込まれている」という物理学者の言説がすとんと胸に落ちたのですね。
すみません。学問的には説明できません・・・^^;
ただ、前のmailでは、説明不足だったので、以下、補足しておきます。
「過去と未来が今の一点にたたき込まれている」としたら、「今」に止まれば、過去も未来も分かる訳で(そのため、預言などができる)、その意味での「過去と未来と」と、妄想して「昨日の夕食を思い出しているとき」「明日の弁当の心配をしているとき」とは、「時間の次元(質?)」が違うと思います。
妄想して昨日(過去)と明日(未来)の「事柄に思いを馳せ」ている意識と、「今」に止まっているから「過去も未来も同時に分かってしまう」という意識とは、まったく別個のものです。ただ、同じ「過去」と「未来」という言葉を使うので、ちょっと、こんがらがってしまっています。
私の言いたいこと、理解できますか?

> でも、これは凡夫の時間感覚なのかもしれませんが、厳密には「今」は点ではなく、短くてもいくらかの長さ、巾があるのではないでしょうか?
☆これは、自分が「涅槃体験」したら、分かると思います。
その内、物理学者が、緻密に計算して、答えを出してくれるかもしれませんが、疑り深い曽我様(笑)ならば、自分で涅槃体験するのが一番です。
体験すれば「問答無用」「一発回答」です(笑)。

> 前のメールで触れた「マハーシ瞑想センター ウ・ジャティラ長老法話集」にこんな比喩がありました。・・・・・・
☆パオ・セヤドーの「智慧の光」または「如実知見」の中にあると思いますが(セヤドーの、未訳の別の本なら、ごめんなさい)
「心は、心臓(の中の血のかたまり)の中から、一刹那に何億個と湧いてくるのだ」
「それが見えて、ようやくヴィパサナが始まる」
と言っています。
「怒った」「笑った」「右足上がった」「左足上がった」というのは、認知心理学、認知行動学のレベルです。ヴィパサナでは、ありません。
心は、一刹那に一億個湧いてきているなら、「一刹那/一億個の時間」というのは、点ですか?幅ですか?

> 次に成道後の釈尊を考えても、今の「点」だけで生きておられたのではないと思います。未来を慮ることもされました。例えば、大パリニッバーナ経で、自分の死後を・・・・
☆釈尊には、人間(肉体と心の合体物)が、刹那に生じては消え、生じては消えしている、「点滅しているネオンサインのように」見えていたはずです。
ですから、釈尊には、男もなく女もなく、衆生もなかったのです。
エネルギーの流れに名前は付けられないからです。
けれども、三次元世界で生きている間は、たとえ聖人でも、ご飯も食べねばなりません。用事があれば、誰かを呼びつけねばなりません。
そのときに「万人平等のエネルギーの流れ」さん、と呼んだのでは、誰が呼ばれたのか、わかりません。
ですから、「アーナンダよ」とか「ウッパラパンナーよ」とか呼びました。
釈尊は頂点まで上り詰め、我々のために、戻ってきてくれたのです。
花は紅、柳は緑、ですね。

>◎ (1) 段生段死への疑問
> 私が生まれ変わりという考えをどうしても受け入れられないでいることは、おそらく御存知かと思います。
☆ 私も、子供のときから仏教が好きだったのに、出家して仏教界に飛び込むことができなかったのは、輪廻(生まれ変わり)への「大疑団」があったからです。
「もし輪廻があると言われて出家して、嘘だったら、一生が台無しだ」(笑)。
ですから、曽我様の気持ちは、痛いほど分かります。

> では、馬に生まれ変わった後は、「時間が直線的経過であると勘違いしている」でしょうか? 馬だった時の事は覚えていないのですが(興にのった皮肉です)、馬は、直線的に延びた時間観念を持たず、「今」を生きているような気がします。
☆ この馬が、凡夫だった人の生まれ変わりだったら、この馬は凡馬(笑)で、その場合、この馬は、「今を生きていない」と思います。
「今を生きる」とは、「心が一刹那に一億個も生じては滅していること」を知っていて、それ故に、覚醒的に生きていること、だからです。
覚醒的に生きていた聖者が、自ら好んで馬になったなら、それは覚醒的な「馬生」を生きている、のだと言えます。

>そうなら、馬は段生段死しないのでしょうか? 馬には時間観念があったとしても、カエルにはおそらくないでしょう。もしそうであるなら、段生段死のサイクルから抜け出すには、修行をして阿羅漢か仏になるか、一旦下等な動物に段生段死するか、ふたつ方法があるのでしょうか?
☆「下等な動物」という外観が重要なのではありません。
その動物に宿った意識が「無常・無我」に覚醒しているか、どうかです。
覚醒しているカエルが、「もう涅槃にいくべぇ」と思い、実行すれば、以後、段生段死は、しません。

> 私の母は、痴呆が進んで、未来を心配したり、過去を悔やんだりすることはありません。その時々の機嫌で、歌を唄ったり、怒ったりしています。いうなれば、今を生きているのですが、段生段死するのでしょうか?
☆曽我様のお母様が、「悟ったけれども息子には言っていない真の聖者」なら自分の意志で涅槃へのと赴くかも知れませんが、「心が一刹那に一億個生まれては滅していることを知らない凡夫」なら、次の生へと続いていく、と思います。

>それに、もしなんらかの仕方で無常>=無我=縁起と矛盾せず、実際に段生段死するのだとしても、常にこの今の瞬間で頑張るしかないのではないかと思います。段生段死など、うっちゃっておけばいいと思い・・・

☆その通りです(笑)。だから、議論は横に置いておいて、今すぐ、自分のできる修行を、始めるのです(笑)。
私の瞑想体験からいうと、「心(のエネルギー)」は、ものすごい勢いで噴出していて、死んだくらいでは、死にません。
私は、それを観たとき、恐ろしくて吐き気がし、腰が抜けました。
先生に報告するため、面談室に入るとき、這って入ったくらいです。

【一部略】

私は、悟っていたら、投稿しませんよ(笑)。
投稿するということは、悟っていないので、皆様の意見を聞きたい、ということです。
ですから、時々、変なことを言うかもしれませんが、法友同士、ゆっくり摺り合わせすれば、いいと思います。
どうぞ、よろしく。
Pannyadhika


Pannyadhikaさんへの返事  2004,5,5,

拝啓

 返事遅くなってしまいました。

 「パオ僧院における修習過程表」もお送り頂き、ありがとうございます。眺めていると、先は遥かに長いことを思い知らされます。さらにまた、取っ掛かりの「戒清浄」からして、たとえば不飲酒戒も守れていないことを思うと、なかば絶望的な気持ちにもなります。
 【ホームページ掲載にあたって加筆】「パオ僧院における修習過程表」は、近々Pannyadhikaさんのホームページ(リンクのページ参照)に掲載されます。

・・・・・・・・・・・・・・・
 さて、では、その前に頂いているメールについて思ったことを書いてみます。

 >釈尊は頂点まで上り詰め、我々のために、戻ってきてくれたのです。
 釈尊は、自己観察を極め、徹底的に細密に瞬間瞬間の「今」の現象に迫り、パターン化されたものの見方をひとつひとつ剥ぎ取って、無常=無我=縁起を如実にご覧になった。そして、「今」に立脚して、けして「今」をないがしろにしないあり方のまま、我々の世俗のレベルにもどり、我々のために過去を振りかえり、未来を慮って、なすべきことを教えてくださった。そういうことだと理解しました。
 つまり、@凡夫は、過去を懐かしみ、悔やみ、未来を不安がり、期待するばかりで、「今」を生きていない。「今」については、よく考えもせず執着の自動的反応ですませている。A無常=無我=縁起をちゃんと知って、苦を生む執着の自動的反応を止めるためには、「今」のこの一瞬に徹底的に集中してありのままに見ることが必要である。Bそれが達成できて、無常=無我=縁起を知ることができれば、「今」において正しく反応しながら、有情のために過去に学び未来に準備することも可能になる。
 このような三段階の時間的あり方で、@凡夫、A修行中、B成道後を考えました。

 このような私の理解に、Pannyadhikaさんはおそらく、「チョット違うなー」とお感じなのではないでしょうか。以下、その「チョットした違い」について、考えてみたいと思います。

>☆釈尊には、人間(肉体と心の合体物)が、刹那に生じては消え、生じては消えしている、「点滅しているネオンサインのように」見えていたはずです。
 なるほど、そのつどの現象であることを、文字どおりに、突き詰めた形でご覧になっていた訳ですね。
 私の思っていた「そのつどの現象」は、おだてられてはしゃいだり、足を踏まれて知らん顔されて怒ったり、そういう「粗雑な」レベルでした。
 瞑想を重ねて細かなところまで観察できるようになると、そこまで見えるようになるのでしょうか?

 修行が足りず、疑り深い私としましては、半信半疑の気持ちも起こってしまうのです。「半信」の部分は、おっしゃるとおり自ら時間をかけて「修習過程表」に則って確かめる他はないでしょうから、今回は「半疑」の部分についてだけ集中して、まとめて見ます。「意見が正反対でも、no problem 」というお言葉に甘えて、かなり挑戦的な物言いをしますが、ディベートと受け取って頂き、うまくいなして頂ければと存じます。

・・・・・・・・・・・・・・
 神経細胞の軸索を走る電気信号の早さは、せいぜい秒速120m(音速の約3分の1)なのだそうです。また、たいていのシナプスでは、神経細胞の末端から伝達物質が放出され、それが次の神経細胞の受容体に受け取られて、次の神経細胞が興奮したり、抑制されたりするのだそうです。どう考えても、脳における信号伝達速度は、量子的時間に比べれば桁違いに遅い。量子的な現象が、意識になんらかの仕方で影響を与えると考える人もいるようですが、もし意識が、神経細胞やシナプスといったもっと大きなマスのレベルの現象だとすると、反対に、意識の側から量子レベルの現象へ遡ってそれを関知するのは、不可能ではないかという気がします。初めて光の速さを測ろうとした人は、自分の脈拍をストップウォッチがわりにしたそうですが、同じような「観察対象と観察方法の不適合」があるのではないかという気がします。
 自然のままのあり方では、我々は、粗雑で拙速な執着のパターンでものごとを見て、反応していますが、きちんと練習することによって、次第に精緻に正しくものごとを見ることができるようになっていく。それは確かにそのとおりだと思います。ただ、それが量子レベルまで届くかというと、疑問を感じます。

 「人間(肉体と心の合体物)」と書いておられます。「肉体と心」は、おそらく名色のことを言っておられるのではないかと思います。すなわち、色・受・想・行・識の色と他の四つ(受・想・行・識)です。「刹那に生じては消え、生じては消えしている」と書いておられるとおり、名も色も、無常なる縁起の現象です。ここまでは、見解が一致していると思うのですが、おそらく見解の分岐点であろうと思うのは、私が、名は色に依存する、と考える点です。

 非公開として送っていただいた別の短いメールで、
 <脳(意門)が機能せず休んでいて、概念という粗雑な働きが停止している状態の時、心による直接知覚がおこる。心が、脳にひきずられて概念に落ち込んでいると、素粒子レベルの微細な観察であるヴィパサナはできない。>
といった主旨を書いていただきました。つまり、「脳とは別の機能として心があり、脳が停止していても心は働く。かえって脳の邪魔がない方が心は精妙に働く。」とお考えのように推察します。

 私としては、名は色に依存しており、脳が本当に停止していれば、精妙な観察も行なわれないと考えます。ヴィパッサナーも脳に依存して脳で行なわれる観察だと思います。

 脳は、激変する外界の状況にともかくなんとか対応するため、拙速でもなんでも最大公約数的に反応することを旨としてきました。状況への対応が遅れることは、間違った反応をすることよりも、まずい結果を生む公算がずっと大きい。脳は、そもそも正しさよりも早さを優先するところから進化してきたのです。そして、拙速な自動的反応を導く仕組みが執着だと思います。自然なありのままのあり方では、脳は、執着による自動的反応で、象徴的に掲げた「自分」を守り育てようとしている。プリミティブな脳の反応です。
 しかし、脳は、そういうプリミティブな機能だけではなく、より状況に適合し有利な反応を可能にするため、状況と自分の反応とその結果をより細かく観察し分析する能力も獲得してきました。脳のプリミティブな自動的反応を制し、進化した細妙な観察能力を徹底的に磨きあげて自己観察するのがヴィパッサナーではないかと思っています。つまり、ヴィパッサナーも脳で起こる現象・働きだと思います。量子レベルまで届くかどうかは分かりませんが、日常レベルの想像を遥かに超えたところまで見えてくるのだろうと期待しています。

 心は脳において起こる働きだと思います。ですから、そのエネルギーがどれだけものすごくても、脳が壊れたらほとばしることはできないと思います。例えるなら、重大な損傷を受けた宇宙戦艦ヤマトが、波動砲を撃てなくなるように。そして、そのような不幸な事例は、医療の領域でたくさん報告されていると思います。脳の死を超えて心がつながっていくこと、すなわち段生段死は、やっぱりあり得ないと思います。

 もうひとつ気になる点は、脳(色身)に依存することなく独立自存で機能する心を想定しておられるように感じる点です。そのような心を想定することは、呼び名を変えてアートマンを復活させることにつながらないかと危惧します。
 「心は、心臓(の中の血のかたまり)の中から、一刹那に何億個と湧いてくる」という文章もありましたが、ウパニシャッドなどインドの伝統的な思想では、心臓をアートマンの居場所と考えていたそうです。(松本史朗「禅思想の批判的研究」大蔵出版「第三章 臨済の基本思想について」)
 釈尊が否定されたインド古来のアートマンの名残が、Pannyadhikaさんのお考えのどこかに潜んでいるような気配を感じるのですが、、。

・・・・・・・・・・・・・・・
 挑戦的というより挑発的になってしまったかもしれないと心配しております。共感する部分の方が多いのですが、共感しあっても新しい気づきは得られないと考えるので、敢えて相違点ばかりを取り上げました。

 今後とも発展的な議論にお付き合いいただければ幸甚です。

                              敬具
Pannyadhika様
          2004年こどもの日              曽我逸郎


Pannyadhikaさんから 「生滅智」 2004,5,5,

曽我様

>・・・このような私の理解に、Pannyadhikaさんはおそらく、「チョット違うなー」と・・・

>私の思っていた「そのつどの現象」は、おだてられてはしゃいだり、足を踏まれて知らん顔されて怒ったり、そういう「粗雑な」レベルでした。
 瞑想を重ねて細かなところまで観察できるようになると、そこまで見えるようになるのでしょうか?

☆見えるようになりますよ。実は、私も結構いい線いってるのですよ(笑)。

たぶん、ブッダは、刹那に有、次の刹那に無、次の刹那に有、次の刹那に無・・・・という形で物質を観ていたと思います。
私は、まだそこまでは行っていないのですが、すべての物質が、刹那にその明暗の度合いを変化させて、光を放っているのが、みえますね。
このことは、錯覚であってはいけないので、ビルマの僧侶に確認してます。
彼が言うには、「生滅智」だそうです。(私自身は、自分がそんな高い境地にいるわけないと、確信していますが・・・、凡夫なんだけど、なぜか、そこだけ突出してる?(笑))。

分かり易く、実例でいうと、目の前に机があるとして、私には「この机は百年後には腐って無くなるだろう」という荒いレベルの「無常」ではなくて、刹那刹那に光(エネルギー)を放ちながら、崩壊へ向かっている「素粒子レベルの机」が、見えているわけです。

> 非公開として送っていただいた別の短いメールで、
 <脳(意門)が機能せず休んでいて、概念という粗雑な働きが停止している状態の時、心による直接知覚がおこる。心が、脳にひきずられて概念に落ち込んでいると、素粒子レベルの微細な観察であるヴィパサナはできない。>
といった主旨を書いていただきました。つまり、「脳とは別の機能として心があり、 脳が停止していても心は働く。かえって脳の邪魔がない方が心は精妙に働く。」とお考えのように推察します。

> 私としては、名は色に依存しており、脳が本当に停止していれば、精妙な観察も行なわれないと考えます。ヴィパッサナーも脳に依存して脳で行なわれる観察だと思います。

☆私が身の回りの物質について、その素粒子的変化(といっても明度を変えながら、光を放っているのが見えるだけで、それ以上の、因果などは分からない)をみれるようになったのは、台湾での10日間の摂心の後でした。
この摂心のとき、深い禅定に入り、ある体験をしました。その定から出てきたときにこの能力が身についたのですね。
では「どんな体験か?」、
文字で細かく書いて説明すると、おどろおどろしくて、曽我さん、すぐ疑いますね(笑)。(言葉の限界を感じます)。

さわりだけ書けば、「心が脳に依存していては、脳の機能範囲でしか作動できなくて、もったいないなぁ」と禅定の体験をもとに、実感したのですね。
その直後から、あらゆる物質が光(エネルギー)を放出しているのが見えるようになりました。
今後も、もっともっと、何度も禅定に入って、脳と心の関係を探りたいと思っています。

ヴィパサナは、自分の肉体における、地・水・火・風・味・色彩・香・栄養素の8法聚を観て、それを一つ一つバラかして、観察し、分析し、その作用と相続と密集の原理を洞察していくものです。ヴィパサナは、「(私)怒ってる」「右足上げた」「左足上げた」などというものではなく、禅定の力なくしてはできません。(8法聚に音が加わると、9法聚となるように、法聚は、順次増えていきます。詳しくは「智慧の光」「如実知見」を読んでください)。

> もうひとつ気になる点は、脳(色身)に依存することなく独立自存で機能する心を想定しておられるように感じる点です。・・・・・・・ 釈尊が否定されたインド古来のアートマンの名残が、Pannyadhikaさんのお考えのどこかに潜んでいるような気配を感じるのですが、、。
☆まず、誤解を一つ解きますが、仏教で言う「心」は、ヒンディ教でいう「アートマン」でないことは、私も知っています。
心は心臓からでてきて、眼耳鼻舌身意と共同して、いろいろな働きをしますが、その「心」は、ヒンディ教のいうところの「永遠の実体有るアートマン」ではありません。
心は必ず「依り代」を必要としているので、今(の私の心)は人体に依っていますが、刹那に生じ、刹那に滅している、「無常」であり、実体のない、無我なるものです。
仏教では「永遠の魂」も「永遠に不変の心」も、想定しません。
ヒンディ教では、「心を浄化していけば、やがて輝く永遠の魂に出会え、それが父なるブラフマンと合体すれば、永遠の生を得られる」といいましたが、仏教では、「心もまた無常であり、永遠ではあり得ないし、実体がないから、浄化したら、タマネギを剥くみたいに、最後には何もなくなってしまう」、と言ったのではないでしょうか。
「心が心自身をよく観察して、永遠に固有なる、実体あるものでないことに気がつき、そのことを受容するのが涅槃だ」と私は思っています。
(しかし、目玉が目玉をみることができないように、心が心自身を観察できないという理屈から、もう一つ、心以外の何かを想定する宗派が密教系にあるようです)
タイの僧侶から聞いたのは「身体も心も自分のものではないから、執着するな」という説法です。「貪欲に満ちた、汚い心は本来の自分ではない」というのはよく分かるのですが、浄化された心も自分のものではないらしいので、この辺は、私も、勉強中です。


自分の体験を書いているので、あまり、理論的には、まとまっていないかもしれません。でも、空疎な、「受け売り」よりは、いいでしょう?(笑)。

人によっては自慢話と思うでしょうから、このmailは非公開でお願いします。
 <続きのメールにあるとおり、無理にお願いして掲載の御了解を頂きました。曽我>

Pannyadhika


Pannyadhikaさんへ 公開許可のお願い 2004,5,5,

前略

 勿体ない。是非公開させてください。

 自慢話と思う人も中にはいるかもしれませんが、Pannyadhikaさんのお話から何かに気がつく人もいる筈です。是非公開を御許可下さい。(まるで梵天になったような気分です。)

 宜しく再検討の程お願い申し上げます。
                          草々
Pannyadhika様
          2004、5、5、
                          曽我逸郎


Pannyadhikaさんから  2004,5,6,

曽我様
私の(生滅智に関する)体験が、誰か法を求めている人の参考になるとお考えでしたら、mailを公開されても結構です。
以下、要望と補足。
(1)
mailでお返事を出すときに、曽我様の意見をだいぶ削ってしまいました(mailを軽くするため)。
そのため、第三者には、私と曽我さまが何を討論しているか、ちょっと掴みにくいかも知れません。できれば、曽我様の発言を復活させる形で、公開してください。
(2)
私は仏教の勉強のために、一年間台湾にいました。
そのとき、台湾に瞑想指導に来ていたビルマの僧侶に「お前は生滅智を得たのだ」と言われましたが、私は「物体が明暗を変えながら、光を放っているのが見えるのが、そんな高度な境地なのか?」と今だに、半信半疑です。
凡夫でもちょっとしたきっかけで、会得できる能力かもしれません。
本当は、もっと多くの僧侶に、意見を聞いてみたいのですが「私は生滅智を得たので、認証してくれ」と言いふらしているようで恥ずかしく、現在のところ、前記のビルマ僧に、聞いただけです。
(いずれ、私の正師である、パオ・セヤドーに、聞いてみる予定です)
(3)
私は、台湾の花蓮の近くにあるお寺で摂心したときに(ビルマ僧がいうところの)「生滅智」を得た訳ですが、その摂心のとき、禅定に入って 「心>脳」 ということが分かったのですね。
タンパク質でできた脳は、6門を通して信号を受け取っているのだけれども、「タンパク質」の持つ「鈍重さ」によって制約を受けるから、処理できる波動・(電気)信号・情報が非常に少ない。
それに引き替え、心が脳に引きずられなければ、もっと多くの波動・信号を受け取れる、ということです。
私はそれを実感し、脳を休めるコツも同時に掴んだ、という訳です。
(4)
私の体験は、禅宗でいう、直接知覚、または第一義(を悟る)ということだと思います(まだまだレベルは低く、深い悟りを得た訳ではありませんが)。
心が対象を直接キャッチする。そのとき、脳による概念形成を受けないから、宇宙の本当の姿が分かるのではないでしょうか?
心は依り代を必要としているので、完全な独立は無理でも、脳に依存する度合いを「減らせる」のだと思います。
それが「禅定」でしょう。ブッダは八正道の最後に正定(正しい禅定)をおいていますよね。その重要性に気がつくべきですね。
Pannyadhika


Pannyadhikaさんへ  2004,5,6,

拝啓

 我侭なお願いをして申し訳ありません。先のメールをお送りした後、「智慧の光」の最終章の最後に、<戒を受けていない者に経験したことをむやみに語ってはならない>とあるのを見つけました。無理やり禁を破らせてしまったようで、後ろめたい気持ちです。

 チベットのことは知りませんが、少なくとも日本の大乗には実効性のある修行がもはや(or もともと?)ない現状において、上座部系の修行体系は、新鮮な驚きです。
 日本語で得られる情報としては、指導的立場の方々からのものと、体験者の報告が少しありますが、後者は、仏教とは関係のない神秘体験に舞い上がっているのがほとんどです。その中で Pannyadhikaさんのお話は、仏教すなわち、自分の無常・無我・縁起を知るという目的がはっきりと定められている上でのお話で、貴重だと感じます。

 私が Pannyadhikaさんのお話で驚く点は、そこまで文字どおりストレートに無常=無我=縁起を見ることができるのか、という点です。驚きと期待を感じるが故に「半信半疑」にもなってしまうのです。

 またまた変な比喩を思いつきました。そんなものといっしょにするな!と怒られそうですが、お許し下さい。
 ワインとかの利き酒ってありますよね。私などは、目を閉じるとひょっとすると赤か白かさえ間違うかもしれませんが、道を究めた人は、どこの農場のどういう種類のぶどうから何年に採れたのか、分かってしまう。鍛え上げれば、人間の感覚も脳もそれだけのポテンシャルは持っている。
 しかし、私達の脳には、拙速に安直に間に合わせ仕事で終わらせてしまう根強いサボり癖が沁み込んでいます。あるいは、脳の立場で言えば、瞬間瞬間次々とおそってくる新しい事態になんとか対処できるように必死で単純化しているのだ、と言うかもしれません。脳が自動的に行なっている単純化の下ごしらえは、錯覚の実験によって垣間見ることができます。例えば、盲点の実験で、盲点で見えない筈の部分に、回りの模様と整合してそこに無い図柄が画き込まれるのを確認するのは、大変興味深い体験です。同じように、本当は瞬間瞬間現象している机を、自存する変わらぬ存在と見せているのも、脳による懸命の( or 手抜きの)単純化なのかもしれません。懸命なのか、手抜きなのか、ともかく脳はそういった自動的単純化を行なっています。
 しかしながら、同時に、脳は未開発の余地もたくさん持っていると思います。開発すれば、想像し難いことも達成できる。私は、Pannyadhikaさんの仰る微細な心も、脳の未開発の働きのひとつではないかと思います。頑固で済みません。色身から独立した心は、やっぱりまだ考えたくないのです。

 御要望の(1)については、先の私のメールに続けて掲載するように致します。読んでくださる方も、浮ついた興味本意ではなく、無常=無我=縁起を知るとはどういうことか、それを考える材料として読んでいただけるよう期待します。

 我侭を聞いていただき、感謝致します。

 今後も、御迷惑のかからない範囲でお教え頂ければ幸甚です。

                                敬具
Pannyadhika様
          2004、5、6、               曽我逸郎


Pannyadhikaさんから 一生勉強ですね 2004,5,6,

曽我様

> 我侭なお願いをして申し訳ありません。先のメールをお送りした後、「智慧の光」 の最終章の最後に、・・・・無理やり禁を破らせてしまったようで、後ろめたい気 持ちです。
☆ブッダが教えを説いていた頃のインドの人々は、仏教と言わず、何かの修行をするのが当たり前だったようです。ですから、自分の体験を述べるのは、「他者と競い合う」という意味合いが強く、そのため、ブッダは体験を(自慢げに)話すのを、禁止したのかも知れません。
しかし、今の日本で「仏教とは何か?」をリアリティのある、自分の言葉で語れる人が、ほとんどいない。ですから、現在の日本なら、禁を破ってでも「修行すればこんなことが明らかになるよ〜〜」と説明した方がいいのかな、なんて思っています。
> 私が Pannyadhikaさんのお話で驚く点は、そこまで文字どおりストレートに無常=無我=縁起を見ることができるのか、という点です。驚きと期待を感じるが故に「半信半疑」にもなってしまうのです。
☆疑うことは、いいことです。大疑団が解けたときのその瞬間、人生の最大の喜びとなるでしょう。大いに疑ってください。
もし、曽我さんが、パオ僧院の面談会(毎朝、前日の瞑想体験を報告する集まり)に居合わせたら、仰天するでしょう。
「心臓から心が出てくるのを観た」とか「命根が八法聚を囲んでいるとき、八法聚は原形を長く保つ(命根が八法聚を守っている意)のを知った」とか、「八法聚の中の「味」はバターの味がした(意味不明)」など、皆さん喜々として報告しているからです。
>私は、Pannyadhikaさんの仰る微細な心も、脳の未開発の働きのひとつではないかと思います。頑固で済みません。色身から独立した心は、やっぱりまだ考えたくないのです。
☆頑固ですねぇ(笑)。でも、納得できないのは、仕方のないことです。
私も自分の体験をもとに、自分なりの説明をしているだけで、「自分が絶対正しい」と思っているわけではありません。
それよりも、なんで在家の者が、こんな手探り状態で仏教の勉強をしないといけないのか、そのことが悲しくなってしまいます(日本のお坊さん、本当にしっかりして欲しいです)。
これから脳科学、生命科学が発達するでしょうから、お互い、ゆっくり勉強していきましょう。

一生勉強ですね。

Pannyadhika

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ