清水結子さん 「仏教が好き!」キリスト教徒の立場からの返事 2004,4,23,

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 お返事を感謝しています。また、お返事が遅くなって申し訳ありません。

 こうしてWeb上の人とのかかわりだけでなく、公にもたくさんのかたがたとかかわられている方であることを伺って、少し、ほっとしています。Webの会話は、どこか独り言に近くなりやすい。そういうことを一番恐れていました。

 わが身は宗教の関連では人とのかかわりの少ないため、独り言に陥りやすくて、文章の校正に時間がかかってしまいました。

 「仏教が好き!」感想は「やはり、そうでしたか。」と感じました。
あの本は、河合隼雄氏の「明恵 夢を生きる」からたどっていて手にとったものでした。同じ対談者(発行もいっしょですね)の「ブッダの夢」のときは、他の仏教書よりは、読み通しやすく感じて、インターネットで購入し、理解ができない部分をのこしていましたので、今回の「仏教が好き!」を求めました。

 チベット仏教自体、胡散臭いと感じてしまう面と、お葬式でしか出会えない仏教への近づきがたさの反発から、広く世界に魅力とメッセージを伝えようとするスタンスに好ましさを感じる面と両方を今も感じています。たとえば、映画『セブンイヤーズ・イン・チベット』『リトルブッダ』などにみられるように、また、ダライラマ14世の本などにみられるようにです。
チベット仏教は、仏教の世界ではある種異端のように扱われているのにもかかわらず、仏教徒でないものにとっては、魅力的に見える…と言えばわかっていただけるでしょうか。大変失礼な申し上げようだとは思いますが、
 「仏教の真髄を理解するための梯子にしたかった。」
 というのが今の気持ちに一番近いと思います。
 いろいろ本も手にとってみましたが、まだ、わからなくて行き詰まってしまうことが多くて、読み進むことができません。ですから、はっきりと、批判のお気持ちと根拠を伺えて会議の約束をとりつけられたような安堵感を感じています。

 まず、メタ宗教という考え方(私の理解では、どの宗教でも突き詰めてゆけば同じ救い、あるいは悟りに到るという考え方)には、私もまだ賛同できない部分をもっています。
 キリスト教にも、マイスター・エックハルトなどの考え方に代表される神秘主義というものがかなり昔からあったようです。
 伝えられる言葉には魅力的なものがあり、他の宗教の方にもわかりやすいということからか、かなり古い宗教哲学であるにもかかわらず、現在も新刊で原著の翻訳を読むことができます。それでも、どこか「違う」と感じてしまっている部分があり、神秘主義の勉強は後回しにしています。学問の神学も、私の宗教という肌合いから少し遠い世界のものと感じて遠ざけています。
 なぜ違うと感じるのか、違うと気づきながら近づくのを避けてしまうのかがわからない部分を残していました。

 ところが、メールで書いてくださったことでまた、今まで気づかなかったこの点、光を当てていただきました。
「凡夫のあり方は、あらゆる生命に共通の生きんとする盲目的意志に根ざすものです。…アニミズムは、生命の自然な「生きんとする盲目的意志」の発展です。豊漁を、力を、子孫を・・・。端的にいうと動物的欲望・執着の発露です。」との部分です。
 いかに魅力的に思えても、誘惑に陥りやすい罪びとである私には、独善主義の言い訳にしてしまう危険性がある。と感じます。
 それゆえ、まだまだ、神秘主義神学を輸入する時期が来ていない考え方であろうと思うのです。Herr.マイスター・エックハルトや、井筒俊彦氏がご自分の思想を深めていって得られた考え方はひょいっと輸入して自分のものであるかのように理解し語ることは努力すればできるるのかもしれません。しかし、自分の悟りとして自分のものにするには理解に要する努力の範囲を超えていますね。そういうことから、「老後の楽しみにとっておこう!」と考えたように思うのです。
 これが、私のこの本と曽我さんとの会話からの収穫です。

 細かい点になりますが、キリスト教の場合、従うべき道は聖書と教会の教えです。本来の教えは、『主なるわたしたちの神はただひとりの主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ(マルコによる福音書12章29節)』といわれているように、厳然たる教理の裏にあるものがただひとりの神だから信頼せよとの教えです。
 神の存在については、メールで提示していただいたたとえ*に協調はできかねますが、これについてはご容赦いただけると思います。これに協調すれば、自分の地盤がなくなってしまいます。このことはご理解はいただけることと信じるしかありません。
 自分としては、『山がまだ生れず、あなたがまだ、地と世界とを作られなかったとき、とこしえからとこしえまであなたは神でいらせられる。…われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。(詩篇90篇2節…9節)』といわれているように、神は人間以前に存在した方。という考え方でおります。そうでなければ、自分の信仰自体が揺らぐと感じます。まだ、この杖を手放せるほど人間ができていません(^_^;)。

 メールを読ませていただいて興味深く感じたのは、仏教の本質は無神論だと自分が考えていたと気づいた点です。
キリスト教の神は人が存在する理由から創造主まで言葉で明確に提示するのに対して、仏教ではその存在は、漠然としていて、明確な答えがない。そのことが重要と考えられているように見えます。(無常にして無我なる縁起の現象と言われる部分になるかと思います。)
 キリスト教徒からみると、この点で「仏教はつきつめると宗教ではない、仏教は哲学だ」と考えてしまうのではないかと思います。「救いのフック」はまさに私が浄土真宗に対して思ったことです。軽すぎる言い方ですが、「キリストに対抗して阿弥陀さんを作ったんかいな??(不幸にして、すでにキリスト教がアジアに伝えられていたという説をとなえる学者がいるものですから。)」「南無阿弥陀仏と主よあわれみたまえは音声学上似ているなぁ、似せてつくってのかなぁ」とか。うがった見方になりますが、明治大正期のキリスト教は、一般的には、江戸時代に日本中を席巻した浄土真宗に反抗した人々が阿弥陀さん?をキリストに取り替えただけのような気すらしていました。
 よくあることではありますが、仏教のお坊さんがキリスト教の神父あるいは牧師になったその経緯をかかれただけで、その本は有名になってしまうのですから。もっとも、キリスト教の人数が日本の人口の一パーセントである時代が長いですから、流行も早く伝わるわけで…。仏教専門の出版社にくらべて、キリスト教の出版社の数は格段に少ないでしょう。そういった事情によるものだと思います。

 とにかく、私自身は、仏教に対する魅力をさまざまな誤解でかためて、キリスト教だけを信じようとしてきたように思います。それで、信仰をまっとうされる信者も多いだろうと思います。

 しかし、私にとってはこういう自分が持っていた誤解に気づかされること、それが、今、必要になってきているのだと考えています。

 さて、話が脱線してしまいましたので、本論に戻りましょう。
 キリスト教では、信じるべきは、”神の啓示を受け入れて知性と意思をささげ、自由に神の言葉を受け入れて、自分のすべてを神にゆだねること=神を信仰すること”という教理と教えられています。それを私も受け入れている。と確認することで入信をします。
 ここに書いてくださったアニミズムを考えると、罪とは、アニミズムとして、排除されようとしているものに近いもののように感じています。豊漁・豊作・力・繁栄のみを求める心は、聖書の貪欲に近くあると感じているからです。貪欲とは高慢・物欲・色欲・ねたみ・貪食・憤怒・怠惰の7つの罪源(大罪)です。ある意味では人間が生きるためのエネルギー源ともいえる「欲」ですが、度を過ぎると罪となる…と言った考え方です。
 もちろん、同じとは思いません。しかし、human being 地球上でこの2-3000年の間生きてきて文化を伝え続けている人間であることからくる本能の欲というのは宗教の違いを越えて共通であろうと思うからです。
 無責任に貪欲にこれらの欲を追求すると、人の本来のありようを妨げてしまうものであることを、「罪」と同格と考えています。ですから、この本で中沢さんが述べている仏教のあり方には、門外漢にはわかりやすいですが仏教徒として純粋に信仰をされている方にとってはあまりに無責任で危険な意見と考えられる曽我さんのお気持ちがわかるような気がします。

 中沢新一氏の弁護をするわけではありませんが、たぶんこの本で述べられている以上に中沢氏は仏教に対して深い理解をもっているのだろうと考えています。(以下257〜258ページより引用)
 「仏教と出会うことによって、私たちの祖先は、もともとたましいに漠然とした形で知っていた思想に、みごとな表現が与えられているのを知って驚き、喜んで受け入れたのだろう。たしかにその思想は、常識を粉砕し、権力をものともしない批判力を内蔵している。世間の常識(ドクサ)を乗り越えていく批判力を持った思想の萌芽さえ、私達の知っていた「たましいの自然」には元から含まれていたらしいので仏教の持つそうした側面に出会ってもびっくりしたりはしなかった。仏教が好き!なんとなく好き!「癒し」の向こう側にまで突き抜けることで、私達のたましいを根源的に癒す力を持った仏教はそんなふうにして支持されてきたのだと思う」
 ここで中沢氏が述べておられるのは、私としても同感できる部分です。キリスト教の家に育ったという背景が似ているからかもしれません。
釈迦が生きて語られていた本来の仏教から約1000年たって日本に伝えられ、それから1500年たったアニミズムにまみれてしまった現代の仏教でさえ力があるなら、その奥にある本当の仏教はもっと力があると私は感じています。釈迦が菩提樹の元で座禅を続けて発見された思想はすべての人の魂に内在していたと考えている点、その釈迦が語った言葉が仏教となった点が、キリスト教とまったく違う、人から生み出された宗教である点を明らかにしてくれている仏教に対して強い魅力を感じている部分です。

 キリスト教はそれとは違う歴史と構造をもっています。ユダヤ人というたった一つの民族に与えられえた超越者からの示唆(神の啓示といいます。)という点から発展し、その民族の歴史に働かれた神の働きを知ることによって、創造主の存在と意思が明らかにされてゆきます。そこには人の悟りや発見の介在は無いとされています。ただ、人に伝わりやすくするために預言者という形で人の介在はありますが、その存在は、ただの「通りのよい管」でしかありません。神の言葉をよく聞いてまちがえずに人に取り次ぐことそれだけを要求された宗教家としては特殊な存在です。ですから、預言者には、7−8歳の子どもや、10代の青年がいるかとおもえば、学者、力自慢の男、羊飼いなどのさまざまな年齢、立場、職業の人がいたことが聖書に記録されています。
 しかし、その啓示が歴史上に表出する過程は、いつも人(民族や集団)の貪欲さに対して人の外からきたもの。時に応じた欲望の他者からの抑圧による禁止であったり、欲望の促進であったり、偶然のように見えるそれらの出来事を、超越者からの働きかけとしてみなし、そういう超越者からの働きかけの歴史を、現在の自分の生活を通して学び続けることによって、まず、神を信じ神にしたがうこと、自分と同じように人を大切にすること、神から自然を治めるようにと託されてきたことに試行錯誤のなかで発見します。整えられてから伝道をするのでなく、未熟なままで伝道や、信仰生活をすることでその人に与えられた時に従って試行錯誤の中での学びといえましょう。
 仏教のように、宗教者となるために、始めに自分の欲望を抑制し、体と行動を整え、人として社会へのかかわり方を整えてから、宗教家として行動に発展するものとおのずから異なっています。特に宗教改革以来、万人司祭(だれもが宗教家である)といった考え方が一般的になってくる過程で、キリスト教世界の秩序は崩壊と不安定さを増してきた歴史が続いているように思えます。特に世界大戦後の日本も含めた世界の秩序の崩壊の過程はまさしくその影響とおもってまいりました。

 憶測でしかありませんが、中沢氏も釈迦本来の仏教を大切にしてしまうからこそ、
「幾たびも対談を重ねながら、けっして仏教の核心部に触れるような重要なことをしゃべらずに逃げ切ってきたのだった。(259ページより引用)」
と語っているのではないか。と。それがため、空、無常、無我、縁起といった大切な言葉と思想を省いた本になっている所以でないかと思っていました。

 さて、そうしてみると、やはり、「仏教が好き!」のスピーディな対話は、読んでいておもしろいけれど、いざ宗教として自分の物にしようとすると、仏教そのもののありようからは遠ざかっていると感じます。いってみれば、中沢氏や河合氏が学び、実践し、その体験にのこった感触だけを言葉で伝えたものだと思います。
 ただ、仏教本来の考え方は釈迦の座禅から始まっていますね。人が語る体験を言葉で聞いて感覚を疑似体験したり、語る方の経験を自分もそんなことがあったと追体験しただけでは、輸入版の思想、一時の麻薬に変質するもののような気がします。やはり、自分でもただ座って、自分がであう現象を見つめることが必ず必要だと感じています。
 キリスト教でも、人から聞いて取り入れただけの宗教哲学は、酔っているときはとても心地よいけれど、醒めてしまえば自分のものにはならない。イエスの言葉にも、「一粒の麦は、死ななければただ一粒のままである。死んで多くの実を結ぶ。」と語られている通りであろうと思います。説教だけにささえられた多くの新興のキリスト教は説教を聴き続けることを要求しますが、説教を聴いても自分のものにしなければ、本来の目覚めとは違うものに変質してしまう恐れがある。そんなものであるとと思っています。(もちろん、人は生きていますから、変質してしまうことがその人の目覚めにつながることもあるとは認められています。)
 しかし、いずれにせよ、多くの人が自由な状態で共感する宗教哲学を生み出すほどの力があってこそ、真に宗教として信奉するに足るものであろうと思っています。今までは、その輸入版の思想に手を出したい誘惑を払いのけ切れなかったのですが、(とても魅力的に見えますから)やっと、それに踊らされずにまた、それを眺めることができたような気がします。そして、曽我さんとメールのやり取りをしなければ、こうした気づきが(頭の中だけでも)与えられなかったと思っています。こうして気付きを与えてくださった曽我さんに感謝をしたいと思いました。

 釈迦の思想は、人が考え出し、発見して、人々につたえられた宗教の中で、もっとも革新的で時代によって古びないものだと考えています。私にとってはとても魅力的なものの一つで、許された時間をかけ続ける価値もあると思っています。また、その期間をかけてこそ、私にとっては意味のあるもののようですので、最初に決めたように気長に考えて学びたいと思います。どこかで、釈迦の言葉を「輸入版の思想」の一つにしてしまいたかった誘惑があったことは否めませんが、心してその誘惑を払いのけつつ、まずは曽我さんのかかれたものとお薦めの中村元氏のまとめられた釈迦の言葉を読み進めてまいりたいと思います。曽我さんのかかれたものについては読み進ませていただいています。

 読むことは進んでも、座禅のほうがなかなかうまく続けられません。5分間黙して座ることがまず難しいですね。試みることだけは絶やさずにいますが、最初は15秒と座っていられない自分に気づいて愕然といたしました。まだまだ道は遠いような気がします。当面の目標はせめて30分の座禅をするということです。

 一連のやりとりをありがとうございました。

2004.04.23.

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