Pannyadhikaさん 輪廻、段生段死、サンカーラ、行、 2004,4,20,

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曽我さま

「あたりまえのことを方便とする般若経」 をザット(←HP画面は老眼には読みにくくて~~;)読みました。

ヘルメットを持った男性が出てくるので、これは現代人が書いた寓話ですね。

「ご意見を」ということですから、以下、私見を書いてみます。

(1)

まず「輪廻」について。インドの哲学者クリシュナムルティは「輪廻はあるか?」と尋ねられて、
「(聖者に)あると言われて、あると信じるのも、ないと言われて、ないと信じるのも愚かである」と言っています。

「当たり前の・・・」の中には、「輪廻を覚えているものはいるか?」「いないであろう」「故に輪廻にこだわるのは愚かである」と結論しています。

しかし、その場に輪廻を覚えている人がいて「私は覚えているます」と手を挙げたら、話はどのように展開していくのでしょうか?ちなみに、私は10日摂心の7日目に、自分が「南伝の僧侶であった前世」を、まるで映画を見るように「見る」ことができました。

子供の時から「日本の大乗は変だなぁ、世界のどこかに本当の仏教があるはず」と思っていた私には、自分の前世を見て、えらく「納得」したものです(笑)。

(「前世イメージをみた?お前はその時、寝ぼけていたに違いない」「いや、明晰な意識の下で見たのだ」という議論は止めておきましょう。水掛け論ですから)

(2)

「輪廻」の定義

輪廻を語るとき、「段生段死」の概念と混同してはなりません。

段生段死とは、色身が消滅した(死亡)ものの、まだまだ欲望が強くて、涅槃に行けない、行きたくない「なにものか」が、「もっともっと生きて、何事かをなしたい」という欲望を成就させるために、次の身体(拠り所)を作り出して、もう一度生き直すことです。

俗っぽくいえば、また人になったり、馬になったりする、いわゆる「生まれ変わり」のことです。

「輪廻」は、心が一刹那も止まることなく、6塵に応じて6根と共同で、刹那毎に作用していることです。たとえば、この刹那に目が物体をとらえ、心と脳が共同して、それが何であるかを判断し、それが好ましい品であれば喜び、次の刹那には「欲しい」と思い、次に、手を伸ばして自分のものにしようとし、実際に手を伸ばし、つかみ取り、という風に、心が刹那に変化していくのを「輪廻」(サンカーラ)というのです。

般若心経にある色受想行識の「行」は、中国語に訳す前のサンスクリットでは、同じく「サンカーラ」であることに注意してください。

心が一刹那毎に経巡り、変化していく「現象」が「サンカーラ」であり、それが中国語の経典には、「行」とも「輪廻」とも訳されているのです。我々の心は、毎刹那、毎秒、毎分、「輪廻」しています。

(3)

来世のことを思わず、「今」を大切に・・。これは禅宗でもいうセリフですね。

段生段死と輪廻は、そもそもの概念定義が異なることことは、前に言いました。

段生段死は、人や馬として再生するという意味で、「三次元世界」での話ですね。

しかし、最近の量子論を読めば、「過去と現在と未来の時間は、<現在の一点>にたたみ込まれているのだ」、と書かれています。

「時間が直線で流れていると感じる」のは三次元世界に生きる、人間の脳内の概念操作だ、という訳です。もともと、時間というのは、ない。あるのは「今」という「点」。故に空間もない。
それが現代量子物理の到達した見解であり、仏教が2500年前から主張してきたことです。

(4)

ヴィパサナーの修習で、もっとも大事なことは、妄想と連想から離れることです。

妄想や連想は、心が脳と結託して、心を「過去か未来の時間軸へ」とばしてしまっている状態ですから、「今」を知ることはできません。

心が、「過去も未来も脳内の夢」「本当は今の一点しかない」ということが分かれば、涅槃は、すぐそこですね。「今しかない」ということは、「輪廻していない」状態で、「心が輪廻していない状態」を「涅槃」というからです。

(「今しかない」というのは、「人生は一回きりだ」、という意味ではありません。時間を、過去→現在→未来、ととらえるのは、脳内の幻想に過ぎない、という意味です)

(4)

私が、現在まで学習して得た、現時点での結論は、上のようであり、まとめると、以下の通りです。

三次元世界にどっぷり浸かっている凡夫は、時間が直線的経過であると勘違いしているから、輪廻もあるし、段生段死もある。

しかし、心が一切の妄想と連想(心が過去や未来に飛ぶこと)を止めたら、「今」しかなくなる。そうすれば、輪廻や段生段死は、「自分の心が脳と結託して見た夢」であったことが分かる。醒めてみれば、輪廻も段生段死も「夢」、大乗でいう「空」「唯識」という訳です。

興に乗って、文章が長くなりました。お許しください。

Pannyadhika


Pannyadhikaさんから再び 台湾の仏教 2004,4,26,

曽我様

貴HPの小論文集を、少しずつ読ませていただいています。

私はタイとビルマ以外に、台湾の寺院にもいたことがあるのですが、台湾はとても仏教が盛んで、日本に帰ると、法を説く僧侶も、慈善事業をする僧侶もなく、「なんだかなぁ」という気持ちになってしまいます。
台湾の仏教がどんな風であるか、ちょっと例を挙げてみましょう。
(1)厳証尼僧さんの慈済功徳会
仏教界の「すぐやる課」(笑)。世界中のどこにでも、困っている人がいたら、出かけていって、ボランティア活動をやる。
台湾の地震の時は、「貧困度証明書」を出さなくても、ただ一言「困っている」と言えば、お金を貸与したそうで、台湾では、人気度抜群。世界的にも有名。
ここのお寺(花蓮にある)に「仏教とは何か知りたいので、暫く滞在したい」と申し込んだら、「ここの尼僧は、ただただ人に尽くすだけ。仏法なんぞ、知りません」と言われてしまった ^^; 。
(2)ブッダ教育基金
ある信者さんが、ある僧侶にお布施を差し出したら「私は寺などいらん」「そのお金で仏教書を出版して、無料で配れ」ということになり、基金が設立されて、毎月おびただしい仏教書が出版されている。
私はこれまで100冊以上もらっている。
(台北杭州路の「基金ビル」に行って、欲しい本を指さすと、段ボールに入れて、日本の自宅まで送ってくれた。勿論、送料は向こう持ちである)。
それらの本は、「自宗派の勧誘のため」などというケチくさいものではなく、「ゆが師地論」5冊組、「菩提道次第略論」3冊組、「華厳経」3冊組など、それぞれ、一冊600〜800ページはあり、「ゆが師地論」を量ったら、一冊1.3kgありました(笑)。
チベット語のもあって、もらってきたけど、読めないので、これは、本棚の飾りになってる・・・・^^;。
私はこの「基金ビル」に何度も行ったが、僧侶の名前を未だに知らない。
匿名なのである。
(3)高雄の仏光寺と、前記の厳証尼僧さんのお寺と、もう一つのお寺(名前忘れた)は、TV局をもっていて、一日中、TVで法話を流している。
(4)高雄の仏光山では、日本語で仏教の勉強ができる「国際学部」がある。
(5)許という名のおばさんが、「パーリ語、英語、日本語で経典を読む会」を開いていて、一人で全部、教えている(語学の天才か?)。
生徒は、(貧乏な)僧侶と哲学科の大学生と市井のおじさん、おばさん達・・・。
在家のおばさんが、若い僧侶に経典の読み方を教えているのを見ていると、こっちまで幸せになってくるのです・・・(笑)
いやもう、台湾にいると、南伝から北伝、チベット密教まで、勉強したければ、なんでもあり、ですよ(笑)。
Pannyadhika


Pannyadhikaさんへの返事 サンカーラ VS 段生段死 2004,4,26,

拝啓

 輪廻と段生段死についての御意見に返事を書きかけておりましたが、筆がのろい(集中力がない)ために、またメールを頂戴してしまいました。とりあえず、輪廻と段生段死に関して、感じたところをお送りします。

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 刺激的な御意見をいただきました。ありがとうございます。

 触発されて思ったことを書き連ねます。一部アゲアシ取りのように聞こえる部分があるかもしれませんが、けしてそうではありません。・・・いや、やっぱりアゲアシ取りかも、、。でも、ともかく、悪意ではなく、いわば飲み屋で議論が盛り上がっているような、そういう感覚ですので、怒らないで下さい。テニスのゲームのように、鋭いパッシングや意表を突いたロブ、ドロップショットを打ち返していただければ、私も楽しめます。
 (メールでの議論は、なんども要らぬ誤解を生んでしまい、ホントにむずかしいと痛感しています。)

◎ まず(2)のサンカーラから。

 瞬間瞬間のサンカーラと生まれ変わりとは別である、との御意見、全く同感です。
『心が一刹那毎に経巡り、変化していく「現象」が「サンカーラ」である。』―そのとおりだと思います。
 自分のことを振り返れば、自己観察に集中しようとしながら、ふとしたきっかけで妄想が生まれ、妄想が妄想を生み、知らぬ間にめまぐるしく輪廻をころがり、気がついてみると延々とつまらない物語を紡ぎ出していた、という経験は、毎朝うんざりするほど繰り返しております。(残念ながら、私は、そういうレベルです。) 輪廻とは、コントロールし難いそのつどの自動的反応(つまり「私」)の連鎖だと思います。
 ブッダダーサ比丘も、輪廻とは、生まれ変わりではなく、欲と業と果のサイクルであり、行為の度に輪廻すると言っておられました。

 業と果については、こんなことも考えています。私達がなにか反応(業)する度に、反応のパターンは強化されたり修正されたりして変化する(果)、と。つまり、果は、業の後直ちに実現されるのです。ずるいことをして味を占めれば、どんどんそちらへサイクルが進む。こんなことではダメだと痛感すれば、反応のパターンは修正される。努力して自分の反応パターンを整えてよい癖をつけていくことが「戒」だと思います。今の自分の反応をできるだけコントロールすることで、以後の反応パターンを変えて行くことができる。意図的であれ無意識であれ、良きにつけ悪しきにつけ、自分というそのつどの反応は、以降の自分の反応パターンに縁を与え、それを変えていくと思います。(小論集「自分という現象について」参照頂ければ幸いです。)

◎ (3)、(4) 時間論については、、、

・・・過去と現在と未来の時間は、<現在の一点>にたたみ込まれている・・・あるのは「今」という「点」。時間も空間もない・・・

 ウーン、正直に申し上げますと、私には、深遠すぎてイメージ化できません。

 確かに、今をお留守にして、過去や未来のことばかり気をかけているのは、よくない反応だと思います。我々は、今をこそ生きるべきです。あるいは、逆の言い方をすれば、「いつかその内死ぬ」ではなく、「髪の毛が燃えているように、今現に死につつある」と知るべきだと思います。
 でも、これは凡夫の時間感覚なのかもしれませんが、厳密には「今」は点ではなく、短くてもいくらかの長さ、巾があるのではないでしょうか?
 アゲアシ取りになっているかもしれません。Pannyadhikaさんが点という表現で言わんとされることは、「だらりと飴のように伸びた時間を生きるのではなく、今に集中せよ」というご主旨であって、「今」に長さがあるかないかまでは意図しておられないのかもしれません。もしそうであれば、これはただの確認の意味だとお考え下さい。

 前のメールで触れた「マハーシ瞑想センター ウ・ジャティラ長老法話集」にこんな比喩がありました。

 〜初めは、黒い線が見えている。修行者が修行に取り組んで行けば、それが線ではなく点の連なりであったことが分かる。さらに瞑想を続ければ、点が動いていること、そして蟻の行列であったことが見えてくる。もっと集中して見れば、一匹一匹の足や触覚の動く様も見える。〜

 なるほどヴィパッサナーとはそういうことかと思いました。過去から未来へ線のようにノンベンダラリと自分が続いているという感覚が普通の時間感覚、自己感覚であるのだけれど、近づいてよくよく細密に観察すれば、私とは、点点点・・・と続いて起こっているそのつどの無常にして無我なる縁起の現象であった。そういう自己観察の訓練がヴィパッサナーだと思っています。
 (蟻の比喩は、蟻が歩きつづけますから、持続的なものを残すことになり、無我に照らすとやや問題があるかもしれません。無我の比喩としては、ロウソクの炎の瞬間瞬間発せられている熱や光が私だ、という喩えの方が適切かも。でも、修行の進行の比喩としては、蟻の行列は秀逸です。・・・余談ながら、今の私の瞑想のレベルは、うまくいった場合でさえ、黒い線が暴れのたうちまわっているのを見ているような状況です。)
 修行が進んで細密に見えてくれば見えてくるほど、時間の巾は狭くなっていくのですが、その結果修行者が気づくことは、無常や縁起です。無常、縁起は、変化、すなわち時間を含意した言葉ではないでしょうか。自己観察の顕微鏡の倍率を上げても、なにがしかの時間の巾は残ると思うのです。本当に点であるなら、いくら拡大しても点ですから。
 あるいは、瞬間の点にも、例えば微分して求めるグラフの傾きのように、変化はあるのでしょうか? (ここまで来ると、本当に酔っ払いの議論ですね。<ただし、この文章はお酒を飲みながら書いているわけではありません。為念>)

 以上は、修行者のヴィパッサナーの話でした。
 次に成道後の釈尊を考えても、今の「点」だけで生きておられたのではないと思います。未来を慮ることもされました。例えば、大パリニッバーナ経で、自分の死後を考えて弟子達に教えを残しておられます。宿住随念智(自分の過去生を仔細に思い出す)や死生智(衆生の生まれ変わっていく様を如実に見る)は、まったくのでっちあげだと思っていますが、それにしても、過去から学び、未来を予想して、今において手を打つのでなければ、釈尊といえども、一人の弟子さえも導けなかったでしょう。釈尊は、弟子から質問を受けた時、答えが弟子にどう影響するかを頭の中でシミュレーションした上で、答え方を選んでおられます。時間の観念なしには、現実の場において何事もなし得ないと思います。

 以上、修行中においても、成道後においても、「今」は点ではなく、長さがあるのではないか、というアゲアシ取りでした。
 そんなことあたりまえ、今をないがしろにして過去や未来にばかり気を取られることを、問題にしているだけだ、ということであれば、要らぬ議論です。

◎ (1) 段生段死への疑問

 「今の点の巾」については、議論のための議論のようなものですが、段生段死にはもう少しこだわりがあります。
 私が生まれ変わりという考えをどうしても受け入れられないでいることは、おそらく御存知かと思います。これまでもいろいろな方から様々な説明を頂きましたが、納得できませんでした。残念ながら今回もいくつか疑問が湧いてきました。
 これこそ本当のアゲアシ取りかもしれません。でも、興にのった議論とお許し下さい。括弧で囲んだ文章は、Pannyadhikaさんの文章そのままではありませんが、ご主旨は捕らえていると思います。

> 「段生段死はあるけれど、夢だ」
 すみません。ご主旨は、すとんと腹に落とせません。競馬場を走っている馬は、かつて人間だったことがあるのでしょうか? つまり、昔ある人間が夢を見たために馬になっているのでしょうか? あるいは、人間だったことがあると、その馬が、あるいは私達人間が、夢を見ているのでしょうか?

> 「時間が直線的経過であると勘違いしているから、段生段死があり、人は馬などに生まれ変わる。」
 では、馬に生まれ変わった後は、「時間が直線的経過であると勘違いしている」でしょうか? 馬だった時の事は覚えていないのですが(興にのった皮肉です)、馬は、直線的に延びた時間観念を持たず、「今」を生きているような気がします。もしそうなら、馬は段生段死しないのでしょうか? 馬には時間観念があったとしても、カエルにはおそらくないでしょう。もしそうであるなら、段生段死のサイクルから抜け出すには、修行をして阿羅漢か仏になるか、一旦下等な動物に段生段死するか、ふたつ方法があるのでしょうか?
 私の母は、痴呆が進んで、未来を心配したり、過去を悔やんだりすることはありません。その時々の機嫌で、歌を唄ったり、怒ったりしています。いうなれば、今を生きているのですが、段生段死するのでしょうか? 生まれてまもなく亡くなった赤ちゃんは? 私は、交通事故の後の手術の際、全身麻酔を受けたことがありますが、その間、私という反応は完全に停止していました。その時何かのトラブルで死んでいたら、段生段死しないですんだのでしょうか?
 あるいは、死の瞬間の状態で決まるのではなく、それまでの生で直線的時間を妄想していた割合が高い人は、過去の業の積み重ねに応じて段生段死するのでしょうか? でも、もしそうなら「本当は今の一点しかない」に矛盾しませんか?

 次々と疑問が湧いてきます。そのつどのサンカーラは、常識から遠くても筋が通っており、常識を超えて正しいと思います。しかし、段生段死は、どう考えても無理があると感じます。

 要は、無常=無我=縁起に反すると思うのです。それに、もしなんらかの仕方で無常=無我=縁起と矛盾せず、実際に段生段死するのだとしても、常にこの今の瞬間で頑張るしかないのではないかと思います。段生段死など、うっちゃっておけばいいと思います。

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 こちらこそ興に(図に)乗りすぎたかもしれません。特に段生段死については、いちゃもんではなくて思考実験みたいなものですので、もし御機嫌を損ねてしまっていたら、あやまります。

 今後とも良い刺激をお与え下さい。
                               敬具
Pannyadhika様

         2004、4、26、                曽我逸郎

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